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【恋愛小説】​冷めたスープと、嘘つきな僕らの2LDK

 午後11時45分。重い玄関のドアを開けると、微かにコンソメの匂いがした。

 

「おかえり」

 

 ソファから顔を上げず、真白(ましろ)が言う。テレビの画面では、聞き覚えのない海外ドラマのエンディングロールが音もなく流れていた。彼女の手元にあるマグカップからは、もう湯気が立っていない。

 

「ただいま。……食べていいの?」

「うん。温め直して」

 

 キッチンに向かい、鍋の蓋を開ける。中には、不揃いに切られた人参と玉ねぎが沈んだスープが残っていた。かつて、同棲を始めたばかりの頃の彼女なら「冷めちゃうから早く帰ってきて」とLINEをくれたはずだ。今は、ただそこにある。義務でも愛情でもなく、ただの習慣として、僕の分の夕食が用意されている。

 

 レンジが回る音を聞きながら、僕はネクタイを緩めた。

 真白と付き合って5年、この2LDKに住み始めて3年。

 僕たちは、腐りかけの果実のような関係だった。見た目はまだ形を保っているけれど、芯の方はもう、甘すぎるか、あるいは無味乾燥になっている。

 

「ねえ、直人」

 

 真白が、画面を消したリモコンをテーブルに置いて言った。

 

「来月の20日、空いてる?」

 

 心臓が少しだけ、嫌な跳ね方をした。

 来月の20日は、真白の30歳の誕生日だ。そこで何を求められているのか、考えたくなかった。

「……会議が入るかもしれない。まだ分からないな」

 

 嘘だ。本当は、有給を取ることだってできる。

 でも、彼女の期待に応える「覚悟」が僕にはまだない。結婚、責任、一生。そんな重たい言葉を飲み込むには、僕の喉は細すぎた。

 

 チン、と乾いた音が鳴る。

 温め直したはずのスープは、なぜか中心だけが冷たいままだった。

​ 翌晩。

 残業を終えて駅の改札を出ると、冬の入り口のような冷たい風が吹いた。

 駅前のロータリー。街灯の下に、場違いなほど白いコートを着た女性が立っていた。彼女は僕と目が合うと、吸い寄せられるように歩み寄ってきた。

 

「あの、佐藤直人さん……ですよね?」

 

 なぜ名前を。警戒して足を止めると、彼女は震える手で一通の封筒を差し出してきた。

 

「これを、あなたに。……10年後のあなたから預かりました」

 

 バカげている。新手の宗教か、あるいは質の悪いドッキリか。

 断ろうとしたが、彼女の瞳があまりに切実で、僕は反射的にそれを受け取ってしまった。

 

 封筒は、少しだけ、あの日真白が欲しがっていたブランドのレターセットと同じ香りがした。

深夜、真白が眠りについたのを確認してから、僕はベランダで封筒を開けた。

 街灯の光に照らされた便箋には、見覚えのある——いや、見覚えがありすぎる、僕自身の筆跡でこう記されていた。

​『2025年11月14日。君は今日、真白が隠していた転職サイトの履歴を見る。そして、自分への相談がなかったことに腹を立て、彼女の自尊心を傷つける。

やめておけ。それが彼女の心を殺す最初の引き金になる』

​「……バカバカしい」

​ 僕は指先で手紙を弾いた。未来の自分からの手紙? 物理法則を無視したオカルトを信じるほど、僕は若くない。

 しかし、翌朝。コーヒーを淹れようとキッチンに立った僕の目に、出しっぱなしになっていた真白のタブレットが飛び込んできた。

​ 普段なら見ない。けれど、手紙の言葉が呪文のように脳裏をかすめる。

 吸い寄せられるように画面をタップすると、そこには手紙に書かれていた通り、大手出版社へのエントリー画面が開かれていた。

​「……相談くらい、してくれてもいいだろ」

​ 喉まで出かかった言葉を、僕は慌てて飲み込んだ。

 真白はライターとしてのキャリアに悩んでいた。それを知っていながら、僕は「フリーは気楽でいいよな」と無神経な言葉をかけ続けてきたのだ。

 もし手紙を見ていなかったら? 僕は間違いなく、彼女に「無理だよ、今の実績じゃ」と冷や水を浴びせていただろう。

​ 僕は震える手で、手紙の続きを読んだ。

​『11月16日。彼女は夕食に肉じゃがを作る。

味付けが濃いと文句を言うな。「美味しい」と言って笑え。

それだけで、彼女の家出を3日遅らせることができる』

​ そこからの数日間、僕は「未来の僕」からの指示に従って、完璧な恋人を演じた。

 嫌いな甘い味付けの肉じゃがを完食し、彼女が欲しがっていた新作の香水をサプライズで買い、週末のデートを自分から提案した。

​ 真白は驚いたような顔をしながらも、少しずつ口数を増やしていった。

 冷めきっていた2LDKに、数年ぶりの「春」が戻ってきたかのような錯覚。

 

「直人、最近なんだか優しいね」

 

 ベッドの中で、真白が僕の腕に頭を乗せて囁く。

 僕は彼女の髪を撫でながら、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。

 僕が愛しているのは真白なのか。それとも、手紙によって「正解」を書き込まれた、平穏な日常なのか。

​ そして、手紙の最後の一行に目を落とす。

​『だが、忘れるな。

運命の修正には、必ず代償が伴うことを』

​ 代償。その言葉の意味を深く考えないまま、僕は彼女を繋ぎ止められた全能感に浸っていた。

 本当は、真白の瞳の奥に「諦め」の火が灯っていることにも気づかずに。

12月20日。手紙が予言した「最後の日」がやってきた。

​ 僕は完璧なシナリオを用意していた。夜景の見えるレストラン、真白が欲しがっていた指輪、そして手紙の指示通りに書き上げた、非の打ち所がないプロポーズの言葉。

 これさえこなせば、僕たちの未来は確定する。失われるはずだった幸せを、僕は自分の手で奪い返したのだ。

​「……遅いな」

​ 予約時間を30分過ぎても、真白は現れない。メッセージは既読にすらならない。

 胸をざわつかせるのは、手紙にあった「運命の修正には代償が伴う」という不吉な言葉だ。焦燥感に突き動かされ、僕はレストランを飛び出し、タクシーを飛ばして家へ向かった。

​ 2LDKの部屋は、真っ暗だった。

 静寂が耳に痛い。クローゼットを開けると、彼女の服だけが消えていた。代わりに、リビングのテーブルの上には一通の封筒と、見覚えのある**「白いレターセット」**が置かれていた。

​ 震える手で封筒を開ける。中に入っていたのは、あの日駅前で女性から渡されたものと同じ、僕の筆跡で書かれた手紙の「原稿」だった。

​『直人へ。

 この手紙をあなたが読んでいるということは、私はもうここにはいません。

 駅前で手紙を渡した女性は、私の大学時代の友人です。あのアドバイスも、全部私が書いたもの。

 ……悲しいね。あなたは私自身を見てくれるんじゃなく、「失敗しないための正解」だけを必死に追いかけてた』

​ 頭を殴られたような衝撃が走る。

 未来の自分からの手紙なんて、最初から存在しなかった。それは、僕の傲慢さと臆病さを試すために真白が仕掛けた、残酷な「試験」だったのだ。

​ 手紙は続いていた。

​『私が転職を考えていたとき、あなたは手紙の指示通りに優しくしてくれた。でも、なぜ私が転職したかったのか、一度も聞いてくれなかった。

 肉じゃがを美味しいと言ってくれたとき、あなたは無理をして笑っていた。私は、あなたの本音の「まずい」が聞きたかった。

 手紙に従って優しくなるあなたを見るたびに、私はどんどん孤独になった。そこにいるのは私の好きな直人じゃなく、私に操作されているだけの人形だったから』

​ 僕はソファに崩れ落ちた。

 運命を変えたと思っていた数週間は、彼女にとっては「やっぱりこの人は、私を見ていない」という確信を深めるだけの期間だったのだ。

​ 手紙の最後に、掠れた文字でこう書かれていた。

​『プロポーズの言葉、用意してたんでしょ?

 でも、それは「手紙」に書いてあったから言おうとしただけだよね。

 さようなら。最後まで嘘つきだった、私。そして、あなた』

​ 窓の外では、予報通りの雪が降り始めていた。

 手紙に頼らなければ何もできなかった自分への嫌悪感が、冷え切った部屋に充満していく。僕は一人、彼女がいないのに、温め直すこともできないスープのような後悔を抱えて立ち尽くしていた。



真白がいなくなってから、半年が過ぎた。

 2LDKの部屋は広すぎたので、僕は駅近くの小さなワンルームに引っ越した。

 

 あの夜、僕が手に入れた「カンニングペーパー」は、シュレッダーにかけて捨てた。正解を選び続けることよりも、間違えながら自分の足で歩くことの方が、ずっと難しいと思い知ったからだ。

 

 今の僕は、仕事帰り、コンビニの弁当ではなくスーパーで食材を買うようになった。

 不揃いの野菜を切って、鍋で煮込む。コンソメを入れすぎたり、塩が足りなかったり。そんな「自分だけの味」に苦笑いしながら、僕は一人でスープを啜る。

 

「……まずいな」

 

 独り言が、静かな部屋に響く。

 でも、その「まずさ」こそが、今の僕の真実だった。誰の指示でもない、僕が選んで、僕が作った人生の味。

 

 初夏の風が吹く日、僕は仕事で訪れた街のカフェで、彼女を見かけた。

 テラス席に座る真白は、見知らぬ男性と楽しそうに笑っていた。

 

 一瞬、胸の奥がキュッと締め付けられる。けれど、不思議と追いかけようとは思わなかった。今の彼女が浮かべている笑顔は、僕が手紙を頼りに無理やり引き出した「貼り付けた笑顔」よりも、ずっと鮮やかで、自由に見えたから。

 

 彼女は僕に気づき、一瞬だけ目を見開いた。

 僕は立ち止まり、少しだけ迷ってから、短く会釈をした。

 

 彼女も、柔らかく微笑み、小さく頷く。

 言葉は交わさなかった。もう、僕たちの間には「嘘」も「予言」も必要ない。

 

 あの恋は、失敗だったのかもしれない。

 僕は最低の嘘つきで、臆病者だった。

 けれど、あの痛烈な「答え合わせ」があったからこそ、僕は今、誰かの機嫌を伺うのではなく、自分の空腹を満たすために火を使えるようになったのだ。

 

 家に帰り、作り置きのスープを温める。

 レンジの音を待ちながら、僕はスマホを取り出した。

 

 真白に送るためではない。

 ただ、今の自分の気持ちを忘れないように、メモ帳に一行だけ書き残した。

 

『スープは、熱いうちに。嘘は、言ってしまう前に。』

 

 チン、と音が鳴る。

 今夜のスープは、少しだけ熱すぎたけれど。

 汗をかきながらそれを啜る僕は、たぶん、あの日よりもずっとマシな人間になれている気がした。

​(完)

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