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中小社長コラム㊳伝説の経営者、大川功に逆らい続けた若き日(上)/モバイルインターネットテクノロジー/白土良一会長


働く奴はバカ

アプリ開発会社、モバイルインターネットテクノロジー会長の白土良一は、日本におけるプログラマーの先駆けだ。
しかし、学生時代の白土はコンピューターに興味がなかった。

というより、働く気が全くなかった。

早稲田大学の理工学部に在籍していたが、留年して5年生の10月になっても、就職活動などしない。
見かねた学校がカシオ計算機を紹介してくれた。
名門・早稲田の理工である。面接にさえ行けば採用するという話だったが、白土は行かなかった。

両親も心配した。父親の友人が三和シヤッター工業で人事部長をしていたこともあり、挨拶に行けと言われた。白土は行かなかった。
「仕事をする奴はバカだ、就職なんてできるかと思ってましたからね。行かなかったんです」。白土は飄々と語る。

「大学まで通わせてもらって、親に申し訳ない」と言う気持ちもあったが、若い白土は意固地になっていた。先生も両親も手を焼いたことだろう。
そんな白土を見かねたのは、行きつけにしていた喫茶店のマスターだ。

二月のある日、白土はマスターと徹夜で麻雀をしていた。
空が白み朝になったころ、マスターは「白土くん。今日面接だよ」と言い出す。
「何のことですか?」
聞き返した白土に、マスターは書類を差し出した。
「俺が申し込んどいたから、行っておいでよ」
白土にとってマスターは、色々と世話になっている大人だった。無下に断る訳にはいかず、渋々と試験会場に向かった。

2月の後半だったが、会場は満員だった。
白土は「就活も終わりのこんな時期に試験受ける奴なんて、パーばっかりだろ」と、自分のことを棚に上げて思った。
試験は受けたが、面接までは少し時間があった。「やっぱり就職するなんて嫌だ。もう帰ろう」と思った白土だが、突然試験官がやってきた。
「皆さんすいません。試験の時間割を変更します。当社の社長が参りましたので、先に社長から会社のご説明をさせていただきます」
白土はこれを聞いて、「しめた」と思ったという。
「これで話がつまんなかったら、帰る理由になるでしょう。マスターに心配してもらって試験会場にきたから、サボって帰るはありえない。社長がつまんない奴だったら帰る理由になる。これはいい」と笑う白土。
全然良くないと思う。

説明に出てきたのは、ずんぐりして目がやたらとギラギラした、いかにも中小企業経営者といったオヤジだった。変な奴が出てきたと思った白土だが、話を聞くうちに心が波打つのを感じた。
「当時の社長は50歳くらい。そのくらいの中年が、『俺はこの会社を必ず大きくして、上場してみせる』と、熱く夢を語っているんだよ。それを聞いていたら、急に自分が恥ずかしくなった。就職から逃げ回っているくせに、親に心配かけたくないとか考えている、未熟な自分がね」
男の話が終わったとき、白土の心に大革命が起きていた。
 
この人となら働ける。この人と働きたい。

白土は、その会社、コンピューターサービス株式会社(後のCSK、現SCSK)に入社する。この面接が、白土と、伝説の起業家・大川功の出会いだった。

大川功

大川功は、1980年代から2000年代にかけて活躍した経営者だ。
1968年に、当時、世に出たばかりのコンピュータの可能性に目を付け、起業。金もコネも技術もない「ないない尽くし」から出発しながらも、時流に乗って事業規模を拡大。1982年には東京証券取引所に上場した。
上場で資金を得ると、これまた当時海の物とも山の物とも分からなかったゲーム会社のセガ・エンタープライゼス(現セガ)を買収。CSKとセガを軸にした企業グループは成長を続け、ピーク時には総売上高8000億円に達した。ソフトバンクグループの孫正義やアスキーの西和彦、セガサミーHDの里見治、カルチュア・コンビニエンス・クラブの増田宗昭など、当時の若いベンチャー経営者を支援したことでも知られており、後に「ベンチャーの父」と呼ばれた。

白土が大川功と出会ったのは、彼が創業して8年目。会社がようやく赤字を脱却し、安定飛行に入ったころだった。
白土は、CSKに入社すると、簡単にプログラミングを習い、日本鋼管向けのプログラム受託の仕事に就いた。
受託の部署で一年働いた後、白土はリコーの事務所に派遣されることが決定する。当時のCSKの仕事の大半は、客先に常駐して大型コンピューターのオペレーションやプログラミングをする派遣方式だった。

「いやです。行きたくありません」

白土は人事に難色を示した。日本鋼管の仕事で使っていたコンピューターは当時の最新型。派遣先であるリコーはそれより古いマシンを使っており、それが気に入らなかったのだ。
白土は、社長の大川功に呼び出された。
「派遣はCSKの本業だ。それが分からないならしょうがない。会社を辞めても良いぞ」
入社二年目の社員が人事に文句を言って、社長が出てくるというのも驚きだが、これには理由がある。
当時のCSKはできたばかりの会社であり、社員のほとんどは高卒。大卒はひと握りしかいなかった。早稲田の理工を出ている白土は目立つ存在であったのだ。また、大川功自身も早稲田大学の工科を卒業している。一社員であると同時に、同門の後輩として、目をかけていたのだ。
当時の白土が、大川功の考えをどこまで理解していたかは分からない。
ただ、社長に「辞めても良い」と言われてしまうと、それ以上は反抗できなかった。

海外留学へ

白土は社会人になった後も、例の喫茶店に通っていた。
店の中にCSKの社内報などを置きっぱなしにしていたが、それを見たマスターが、「白土くん。君の会社、海外留学制度を始めるらしいね」と話しかけてきた。
「そうなんですか」
「行ってきなさい」
「は? いやいや僕は右翼ですから、アメリカとか行きません」
マスターは白土の目をじっと見た。
「白土くん、俺は今でこそ喫茶店のマスターだが、昔はバーを2軒やっていて大分羽振りがよかった。読売巨人軍がなじみにしてくれてね。スーツもシャツも百貨店で仕立ててもらったもんさ」
いきなり何の話だろう。白土は困惑した。
マスターは続ける。
「実は僕は若いころ100カ国くらい回ったことがある。君も世界を見に行った方が良い。アメリカに行って、圧倒的な劣等感に苛まれてこい」
「いや行きませんよ」
「なんだ、試験落ちるのが怖いのか」
「そうじゃないですよ。しょうがないなあ。じゃあ試験だけ受けます」
白土は、マスターの手前、引っ込みが付かず、社内の海外留学生に手を挙げる。そして50倍の倍率をくぐり抜け、見事、留学生に選ばれた。
「テストの英語なんか最下位でしたから、成績じゃないです」と白土。
大川功が白土を推したという。
「あいつは、海外にいってもノイローゼにはならんタイプや」

こうして白土は、1978年に米国に旅立つ。この経験が彼の人生に大きな影響を与えるとは、この時は知るよしも無かった。(敬称略)

【中編に続く】

【企業情報】

社名=株式会社モバイルインターネットテクノロジー、住所=〒102-0094 東京都千代田区紀尾井町3-6 TEL 03-6268-9611、会長=白土良一 社長=藤田喜彦、資本金=3300万円、事業内容=モバイル端末向けの金融商品取引アプリ、観光・ナビゲーションアプリ、ゲームアプリなどの開発

(信用金庫新聞、2026年3月1日号掲載より大幅に修正)

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