社会主義はなぜ貧富差を消せないのか 金の格差より残酷な「許される力」の格差
平等の言葉が安心を生み、同時に盲点も生む
「社会主義は平等を目指すのだから、資本主義より格差が小さいはずだ」。この感覚は、半分だけ正しい。実際、賃金表や所得統計だけを見れば、中央計画経済のほうが市場経済より平等に見える場面はある。だからこの話を始めるとき、最初に雑な断定を捨てる必要がある。社会主義が問題なのは、いつも所得格差が最大化するからではない。むしろ逆だ。見える格差を圧縮しようとする過程で、見えにくい格差が育つ。ここを外すと、議論はすぐに浅くなる。
IMF「中央計画経済では所得分布自体は比較的平等になりやすかった」
問題は、社会の中で本当に効いている差が何なのか、という点だ。資本主義社会では、良くも悪くも差はまず金額として見える。高い家に住み、高い教育を買い、高い旅行に行ける人が強い。腹は立つが、構造は見えやすい。ところが社会主義体制では、国家が住宅、就職、昇進、大学、医療、余暇、移動のかなりの部分に関わる。すると、人々が競う相手は市場だけではなくなる。国家にどう扱われるか、どの組織に属しているか、誰に近いかが、生活の質を左右し始める。
ここで起きるのは、金持ちと貧乏人の単純な分断ではない。表の顔では皆が「労働者」であり、「人民」であり、「平等」である。しかし裏では、配給される住宅の質、手に入る医療、大学への入りやすさ、手に入る品物、保養所の利用、国外に出られる可能性などに、静かな差が生まれる。その差は給与明細には出にくい。だから統計だけ見ると平等に見えるのに、暮らしている側は平等だと思えない、という奇妙な社会ができあがる。
ソ連法の解説では、生活水準を決めたのは現金収入より地位であり、国家が直接割り当てる便益の比重が大きかったと整理されている。これは非常に重要だ。なぜなら、ここで富は「所有」よりも「接近可能性」に変質するからだ。つまり、いくら持っているかより、どこに顔が利くかのほうが効いてしまう。
Britannica「ソ連では wealth より status が生活水準を左右し、国家割当の便益が大きかった」
こうなると、平等の看板はしばしば逆作用を起こす。誰もが同じであるという建前が強ければ強いほど、現実の差は説明されなくなる。説明されない差は、やがて正当化ではなく沈黙の中で固定される。しかもそれは、金持ちがぜいたくをしているという分かりやすい図ではない。規則の運用が少し違う、推薦が通りやすい、品物が裏で回る、休暇先が上質になる、大学の入口が近づく。そういう、小さく見えて実は大きい差が積み重なる。
社会主義の怖さは、格差をなくす思想が、格差の見え方を悪くすることにある。数字のうえで平らにしても、人間は地位、裁量、コネ、裁可の順番で必ず差を作る。そして国家が巨大であればあるほど、その差は市場の外側で増幅される。平等を掲げる体制が、現実には「説明されない不平等」を生みやすいのは、このためだ。
ここで大事なのは、社会主義を批判するときに「だから資本主義は正しい」と短絡しないことだ。資本主義にも、露骨な所得格差、相続格差、教育格差、地域格差がある。ただ、社会主義の病理は別のところに出る。不平等が価格ではなく裁量に沈む。この違いは小さくない。価格の不平等は見える。裁量の不平等は見えにくい。見えにくい不平等は、抗議しづらく、修正しづらく、しかも上にいる人ほど「何が問題なのか分からない」と言いやすい。そこまで含めて、社会主義の格差は厄介なのである。
そして人は、給料の差よりも扱われ方の差に深く傷つく。買えないことより、最初から順番が回ってこないことのほうが、社会への信頼を壊す。社会主義がしばしば「理念は美しいのに、空気が濁る」と言われるのは、ここに理由がある。数字では説明しにくいのに、日常では誰もが感じてしまう。そのねじれが、体制を内側から腐らせる。
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数字の強さと、その数字では測れない態度の重さが、静かにつながって見える一本です。
格差は金額ではなく、許可と配分の形で現れる
この構図がよく出るのが、移動と休暇だ。資本主義社会では、旅行の差は値段差として現れる。高い旅行を選べる人が有利だ。ところが社会主義体制では、旅行はしばしば制度の中に組み込まれた配分物になる。つまり「買えるかどうか」ではなく、行ける立場か、許可される側かが先に来る。
ソ連の移動政策を扱った研究では、私的な国外旅行は実効的に禁じられ、国内移動にも広範な官僚的統制が及んでいたと整理されている。ここでは自由が原則ではない。制限が原則で、例外的に認められる自由があるだけだ。旅行は権利ではなく恩恵に近づく。
Cambridge Core「ソ連は私的国外旅行を実効的に禁じ、国内移動にも広範な官僚的統制を敷いた」
さらに国内の休暇でさえ、自由市場の予約とは違う姿をしていた。ソ連の家族休暇を扱った研究では、休暇券は勤務先に強く結びつき、個人単位で配られた。福利厚生のように見えても、実際には職場、評価、配分順位で休む場所も質も変わる。夫婦で同じ時期の券をそろえることすら難しいなら、それは自由な休暇ではなく、制度の都合に沿った休暇にすぎない。
Cambridge Core「ソ連の休暇券は勤務先に強く結びつき、個人単位の配分だった」
国外旅行になると、話は露骨だ。ソ連の対外観光を扱った研究では、国外旅行は制度条件に依存し、候補者選定には党、労組、治安機関などが関与した。ここでは旅行は娯楽ではなく、政治的に安全だと見なされた者に開かれる窓になる。つまり、金より信用される側かどうかが重要になる。
Higher School of Economics「ソ連の国外旅行は制度条件に強く依存し、選定には党・労組・治安機関が関わった」
だから社会主義の格差は、豪邸の数を比べるだけでは見えてこない。どこに住めるか、どこへ行けるか、どの列を飛ばせるか、誰と休めるか。そうした差が、人間の自由度を削っていく。厄介なのは、その差がぜいたくの差に見えにくいことだ。高級時計を見せびらかす人より、申請がすっと通る人のほうが、制度社会でははるかに強い。
平等の理念が、人間の移動や休息にまで管理の言葉をかぶせる。そして管理が細かくなればなるほど、抜け道と優先順位が力を持つ。みんなが同じように不自由なら平等だという発想は、結局、自由を分け与える側の権力を強くするだけだ。旅行の話ひとつで社会主義が息苦しく見えるのは、その息苦しさが制度の中心にあるからである。
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最後に広がるのは、富の差ではなく「抜け道を持つ者」と「持たない者」の差だ
社会主義の格差をさらに悪くするのは、国家が何でも面倒を見ると言いながら、必要なものを回せないことだ。価格が自由に動かず、生産も配分も中央に寄る社会では、欲しいものが不足する。すると人々は、表の制度だけでは生きられなくなる。ここで登場するのが、コネと第二経済だ。
世界銀行の関連文書では、社会主義経済のもとで公式市場が十分に機能せず、第二経済でより高い価格の取引が存在したことが整理されている。公の制度だけでは生活が回らず、別の回路が育つ。すると強いのは、ルールを守る人ではない。人を知り、情報を早く得て、窓口を飛び越えられる人だ。こうして平等を掲げた社会は、皮肉にも抜け道を持つ者の社会へ変わっていく。
World Bank「社会主義経済では公式市場が十分に機能せず、第二経済で高価格取引が存在した」
この抜け道は偶然に配られない。体制の上にいる者ほど、最初から太い回路を持っている。ノーメンクラトゥーラを扱うブリタニカは、そのことを率直に示している。支配層は住宅、休暇施設、運転手付きの車、秘密診療所、大学優遇、不足品に近かった。これはぜいたくの列挙ではない。制度を管理する人間が、制度の不便から最も遠い場所にいるという意味だ。だから制度は改善されにくい。
Britannica「ノーメンクラトゥーラは住宅、休暇施設、車、秘密診療所、大学優遇、不足品への接近で優遇された」
ここまで来ると、社会主義の格差は単なる分配の失敗ではない。権力の自己防衛に近い。平等を掲げるほど、体制は自分の不平等を見せたくなくなる。見せたくない不平等は、統計ではなく運用に沈む。批判されても「誤解だ」「例外だ」と言い張りやすい。だが生活する側に重要なのは理念ではない。順番が回るか、移動できるか、休めるか、学べるかだ。人は日常で暮らす。
社会主義圏のすべてが同じ息苦しさだったわけではなく、旧ユーゴのような例外もあった。だから批判すべきなのは「社会主義」という語そのものではない。国家が資源配分と移動の許認可を握り、その裁量が生活を決める構造だ。名前ではなく構造を見る。そのほうが強い。
Cambridge Core「旧ユーゴは社会主義圏の中では市民の往来に相対的な例外性を持っていた」
だから結論は意外に単純だ。社会主義が貧富差を大きくするのではない。社会主義は、貧富差という見えやすい問題を、特権差という見えにくい問題へ変えやすい。 見えにくい差ほど、長く残る。金持ちに腹を立てる社会より、誰が決めているのか分からないまま順番を操作される社会のほうが息苦しい。平等を名乗る体制ほど、その息苦しさの自覚が要る。
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正しさの看板が、いつの間にか人を追い詰める空気へ変わる怖さが、静かに重なります。
今日のワンフレーズ
平等を語る社会ほど、誰が鍵を持っているかを見失ってはいけない。
差は数字でなく、通れる扉の数に現れる。
