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国家という名の“親離れできない子ども”【深掘りシリーズ】

割引あり

第1章 国家を“親”と呼ぶ社会

 ニュースを見てもSNSを開いても、「政府が支援」「国が補助」という言葉が並ぶ。みんな少しほっとしたような顔をして、「さすが日本だね」と言う。わかる、その安心感。けれど、どこかで胸の奥がざらつくのも事実だ。ぼくたちはいつから、ここまで“守られること”に慣れてしまったのだろう。

 災害が起きたときも、景気が悪いときも、国が何かしてくれる――そんな信頼は悪いことじゃない。むしろ必要だ。でも、もしもその信頼が「依存」に変わったらどうなる? 国が親で、ぼくたちが子どもなら、ぼくたちはずっと「親の判断」を待つだけの存在になってしまう。自由のかわりに、安心を選んでしまう。
 政治学的にいえば、国家は“暴力を独占する”という強力な存在だ。その力をどう使うかを決めるのが民主主義であり、ぼくたちの責任でもある。だが、近年は“責任を手放す”ことに慣れすぎているように見える。

1-1 依存の比喩と現実

 「国家=親」という比喩は、わかりやすくて、つい口に出してしまう。親が子を守るように、国家が国民を守る――まるで自然なことのように思える。だが、それは本当に“成熟した関係”だろうか。
 社会学者が言う「市民社会」とは、国家と個人の間にある、もうひとつの自律的な領域だ。企業やNPO、地域活動、言論、そして日常のふるまいまでも含む。コトバンク「市民社会」

 そこには、「誰かが守ってくれる」ではなく、「自分たちで守る」という発想がある。ところが日本では、この中間領域がどうも弱い。親(国家)と子(国民)の距離が近すぎて、息苦しいほどだ。

 市民社会が薄い国では、「お上」への信頼と不満が交互にあらわれる。政治が変わらないのではなく、ぼくたちが「変えられない子ども」のままでいるからだ。親に叱られたい、でも束縛されたくない。そんな矛盾を抱えたまま、社会はどんどん“幼児化”していく。

1-2 「守られる安心」のコスト

 守られることには、必ず“コスト”がある。たとえば社会保障。年金、医療、教育――どれも必要だが、財源には限りがある。だがその限界を口にすると「冷たい」と言われる。この国では、「優しさ」と「無限の支援」が同義のように扱われるのだ。
 問題は金額よりも、考え方のほうにある。支援が続くほど、「誰かが何とかしてくれる」という思考が定着する。個人の責任は薄れ、政治は「人気取り」の政策を繰り返す。そうやって社会は“管理”の方向へ滑っていく。

 評論サイトシノドス「日本に『市民社会』は存在しないのか?」

 この記事は、日本では「公共=行政」と考える癖が強いと指摘している。本来、“公共”はぼくたち一人ひとりの意識と行動によって形づくられるものだ。けれど現実には、「公共の問題=国の責任」とみなす傾向が根強い。つまり、ぼくたちは「国に委ねる文化」の中で育ってきたのだ。

 それでも、誰かに守られたいという気持ちは否定できない。ぼくもそうだ。けれど、その感情に寄りかかりすぎると、政治も社会も身動きが取れなくなる。親離れできない子どもが、自立できないように。
 国家は親ではない。ぼくたちはもう、大人だ。国家と個人の関係を「信頼」と「距離」で結び直すこと。それが本章の結論であり、次への入口でもある。

 この先の章では、「守ってもらう安心」がどのように“罠”に変わるのかを見ていく。守るはずの手が、いつの間にか監視の手になる瞬間を。――その境界線を、見失ってはいけない。

第2章 「守ってもらう」安心の罠

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