【ピリカ文庫】倫理と無限と君の顔
いつの間にか橘の花が咲いていた。夏を待ち侘びていたはずなのに、もう季節は初夏に移ろっているということに気がつかなかった。そろそろ潮時だろうか。
どうしてそんな職業に就いているのかと尋ねられるのが面倒で、最近は「絵師」を名乗ることにしている。全くの嘘ではないから、良心は少しも咎めない。他人に言われるまでもなく、写屍師は異常な仕事だ。長く続ける仕事ではない。
写真師というのは別に居る。絵師の中でも、対象をそっくりそのまま写しとるというのが彼らの仕事で、その対象は人物から動植物から建物や日用品に至るまで多岐にわたる。この世に実在するもので写真師が唯一描かないものが、屍だ。写屍師は、それを描く。
描く目的は主に二つ。つまり二種類の絵を描く。
ひとつは、記録だ。屍は放っておいたら状態が変化してしまうから、できるだけ見つかった時点の状態を正確に記録するため。
二つ目は、屍に縁のある人が、生を終えたその状態を記憶に残すため。縁のある人が居るか分からない状態でも、それを描く。屍の状態が悪くなるほど難しくなるから、早い方が良いのだ。時間は戻らない。
ひとつ目の目的だけならば正確な素描ができれば十分だが、二つ目はそうはいかない。綺麗な屍なら比較的容易だが、損傷の激しい屍も、綺麗な状態で復元しなければならないからだ。あくまでも、その人の生の延長として。
「その腕なら、写真師でも……いや、普通の絵師でだってやっていけるだろうに、奇特な奴だな」
白衣を着ていなければどう見ても堅気の医師には思えない格好と口調で小鳥遊が言う。屍が発見された現場に張り巡らされた天幕の中に、小鳥遊と二人きりだった。ただしすぐ外には、一般人が近づかないよう見張りの警邏隊が立っているはずだ。
「聞き飽きた」
「まあ、挨拶みたいなものだ」
「退屈なんだろう? 待たせたな。もう『記録』の方は終わったからいいよ」
「おお、さすが神写屍師。仕事が早い。下手な奴に当たるとさ、『記録』も遅いわ『御影』も描き終えないと触れちゃ駄目だとかぬかすんだ」
「お世辞はいい」
「世辞じゃねえよ。実際、お前と会うのは損傷の激しい屍の現場ばかりだ。もう警邏隊の奴らも分かってるんだろう。ここから遺族の納得する御影を描ける奴はそうそう居ないってさ」
小鳥遊の言葉を無視して屍に向き合う。無数の傷が全身を覆っていた。着ていた衣装は脱がされて横に置いてある。身体の部分はその衣装を元に描けば良かった。血に汚れていても大体の形状は分かる。問題は、顔だ。頭部はかろうじて残っていたが最も損傷が激しい。しかし、じっと見詰めていると、何となくその面影が浮かんでくるのだった。
写屍師になったのは偶々だ。幼い頃、両親が殺された。惨殺と言える殺され方だった。警邏隊が駆けつけた時、その屍の真横で、自分は絵を描いていたのだ。両親の屍の絵を、そっくりそのまま。
派遣されてきた写屍師がその絵を見て、自分を引き取ると決めたらしい。訳の分からぬままその男と暮らし始めて、絵の手ほどきと、写屍師としての一切合切を叩き込まれた。勿論両親の顔は知っていたから、あの時自分が写し取った屍と生前の彼らの隔たりを感覚的に理解していた。その圧倒的な距離感が刷り込まれているからか、他の屍を見ても、生前の姿が何となく浮かぶのだ。
原点は両親の死なのに、写屍師としての感覚はどんどん研ぎ澄まされていくのに、両親の生前の顔は記憶から薄れて久しい。
「致命傷はこれだな」
小鳥遊の声で我に返る。
「これだけ傷があるのによく分かるな」
「それが仕事だからな」
それにしたって特定が早い。伊達に多くの現場に立ち会ってきたわけではないからそれくらいは分かった。ただ、言う必要を感じなかったので言葉にはしなかった。視界の端に小鳥遊の長い指が、まるで楽器を奏でるかのように屍の上を這うのが映る。指が、意思を持っているようだった。
「人だ」
続けて小鳥遊が呟くように言った。絵を描く手を止めて顔を上げると、小鳥遊と目が合う。
「獣じゃなくて、人だな」
今度は自分に向けて放った言葉だと分かった。
「何が」
「こいつを殺したのは、獣じゃなくて、人だってことだ」
「……」
自分の仕事に死因は関係ない。だから、再び紙に目を落として手を動かし始める。
「おい。聞いてるのか、烏丸漆」
「何で全名なんだよ」
顔を上げずに尋ねる。
「お前、前に俺がおい、って声をかけても、烏丸って呼んでも、振り向かなかっただろう。自分のことだとは思わなかったって言って。近くに烏丸なんて姓の奴がそんなに居るわないだろうが。でもまあ、だから今回全名で呼んでやったってわけだ」
「それはご丁寧にどうも。で?」
「どう思う?」
「何を訊いてる?」
外が騒がしくなって、会話は突然断ち切られた。天幕の入り口から、女がひとり入ってくる。警邏隊の制服を身につけていた。
「仕事は終わりだ」
その言葉に、小鳥遊は片方の眉を上げて立ち上がった。
「は? まだ終わってねえよ」
「終わっているところまでで構わない。謝礼は全額払う。そっちの写屍師も、御影の分も支払うから、帰っていい」
小鳥遊はまだ何か言いたそうだったが、個人的には当初予定の額をもらえるならば異論は無かったので、立ち上がって片付け始める。
「おい」
気にせず片付けを終わらせ、一礼してから天幕を出ると、すぐ後から小鳥遊が出てきた。
「烏丸漆」
足は止めずにちらりと振り返る。
「待てよ」
「待たなくても追いつけるだろう?」
小さな溜息。
速足で隣に並んだ小鳥遊は、声をかけてきたくせに無言だった。しばらく黙ったまま二人で歩く。白衣の医師と、黒衣の写屍師。まるで、光と影だ。
町の外れの森の中だった。獣に襲われたらしき屍があると言われてやって来た。しかし、小鳥遊は殺したのは人だと言った。気にならないのかと問われたら、気にならないとしか答えようがない。そういった感情は、どこかに落として来たのか、そもそも備わっていなかったのか。
それよりも、新緑が眩しい。真夏になると、ようやく自分の芯にまで光や熱が届く。真夏までもう少し。あの濃密な空気の中でならば、少しだけ楽に呼吸ができるように感じる。
「烏丸漆」
「隣に居るんだから、いちいち全名じゃなくていいよ」
「じゃあ漆」
思わず足が止まる。
「どうして名前の方を?」
尋ねると、小鳥遊がにやりと笑ったので、尋ねたことを後悔した。再び歩き始める。
「おい、で駄目で、烏丸でも駄目だったからな。残すなら漆だ」
烏丸は引き取ってくれた写屍師の姓だった。漆は両親からもらった名前。それを見透かされたように思えて居心地が悪い。
「それで?」
「気にならないのかよ」
「ならない」
「そういうもんか」
「僕の仕事は絵を描くことだ。死因や犯人を知ることじゃない」
「そりゃ、違いないな。俺も死因を調べるのは仕事だが、犯人を知ることは仕事じゃない」
「死因は、もう分かったんだろう?」
「うん。でも、癪だから報告してやらなかった」
「いい性格だな」
「お前に褒められるなら本望」
「それほど親しいつもりはない」
「つれないな」
「話は終わりだろう? 気にならないと答えた」
「帰る方向は同じだ」
「一緒に帰る理由は無い」
「一緒に帰らない理由も無い」
「勝手にしろ」
「勝手ついでにもうひとつ」
「贅沢だな」
「堅実だと言ってくれ。機会を無駄にしたくないんだ。お前、これからさっきの奴の御影を描けと言われたら描けるか?」
「描く理由が無い」
「俺からの依頼だ。報酬は改めて払う」
「何のために?」
「依頼に理由が必要か?」
「……必要無いな。次の屍を見るまでは描けるよ」
ああ、そうか。不意に気がついた。
次の屍を見ると、その前の屍の面影は薄れる。上描きされるのだ。両親の面影が薄れてゆくのはそのせいかも知れない。あと何回絵を描いたら、完全に消えて仕舞うのだろう。いっそのこと、両親の存在ごと記憶からそっくりそのまま消えて仕舞えば良いのに。
「なあ。死んだ奴の姿ばかり描くというのはどんな気分だ?」
「別に。検屍と似たようなものだろう?」
「医師は生きた人間も診るんだよ。そっちが主だ」
確かに、そうだ。医師は本来、人を生かすのが仕事だ。自分とは根本的に違う。
「何も……感じないよ。絵が得意で、報酬が良いからやってる。写真師よりも随分割が良い。それだけだ」
「ふうん」
信じた風ではなかったが、小鳥遊はそれ以上尋ねてこなかった。
結局そのまま町の入り口が見えてくるまで無言だった。そろそろお別れだ。
「依頼は、本気なのか?」
訊いてやる義理はないと思いながらも尋ねた。小鳥遊は心なしか驚いたような表情を浮かべたが、それほど間も空けず、鷲の嘴のような形の鼻の頭を掻きながら答えた。
「うーん。やっぱりいいかな。絵を手に入れたところで死者は戻ってこない」
知り合いだったのか? 当然の疑問が浮かんだが訊けなかった。しかし、小鳥遊はいつもの皮肉っぽい表情ではなく照れたような笑いを浮かべて自ら白状した。
「医師ってのも因果な商売でな。顔だけじゃなくて身体つきも憶えてしまうものなんだ。あ、個人的な知り合いではなくて患者だよ」
「ただの患者の御影が欲しかったのか?」
「ただの患者というか、ちょっと特別な患者だった。聞きたいか?」
「いや、いい」
「はは。だよな。お前ならそう言うと思った。だから、この話は終わりだ」
自分に言い聞かせるように、小鳥遊は言った。
知り合いならば、普通は犯人を知りたいと思うのだろうか。両親を殺した犯人は捕まっていない。けれど何が何でも捕まってほしいという気持ちは無かった。
「御影を手に入れても死者は戻ってこない。犯人を知っても死者は戻ってこない」
小鳥遊は繰り返した。
「その通りだと思う」
それでも、描かずにはいられない。
「珍しく意見が一致したな」
「珍しいというほど議論を交わしたことはないよ」
「難しい奴」
「一緒に居ると疲れるだろう? 構わない方が健全だ」
「そうでもない」
「変人だな」
「変人じゃなくて、医師だよ」
本当に、変な奴だ。
町の入り口に、橘が植えられている。
右に橘、左に桜。
桜は跡形もなく散っていて、橘の花はまだ残っていた。葉はどちらも鮮やかな緑色をしている。
「小鳥遊菖蒲」
名を呼ぶと、小鳥遊はくしゃりと表情を崩した。それは、どこか情けないような顔に見えた。
「なんだ。名前、知られてたのか」
「何度一緒に仕事をしたと思っている?」
「お前は他人に興味がないのかと思っていた」
「ないよ」
それでも憶えてしまうものは仕方がない。
「名前は好きじゃないんだ。姓で頼む」
小鳥遊顔は顔の前で手を合わせた。形の良い長い指もどことなく情けなく見えて、不覚にも口元が緩んだ。顔を見られないように身体ごと横を向く。
「じゃあ、小鳥遊。またな」
「おお。お前の家は町の外だったな。ていうか、今、笑っただろう」
「馬鹿にしたわけではない」
「そういう意味じゃないんだけどな。まあいいや。次は屍の無いところで会いたいものだな」
「僕が職業を変えない限り無理だ。今のところ、変えるつもりはない」
変えるつもりは、ない。写屍師を辞める時は隠居する時か死ぬ時だ。まだその時ではないのだろうと思った。このまま描き続けたら、両親の面影は完全に消えてしまうかも知れないけれど。
不思議だった。往きに橘の花を見た時には、そろそろ潮時かなと思ったのに。
一陣の風が、橘の白い花を散らしていった。
「夏だな」小鳥遊が眩しそうに目を細めて言う。「夏が、一番好きなんだ」
本日二度目の意見の一致。
何かが起こりそうな夏だった。いや、夏とはそういう予感のする季節なのかも知れない。両親が死んだのも夏だ。あの時、幼い自分は何か感じていたのだろうか。
小鳥遊につられるように空を見上げると、ひとひらの白い花びらがまだ宙を舞っていて、その先を、一羽の鳥が一直線に飛んでいった。

この度光栄なことに、こーたさんにお誘いをいただいて「写真」をテーマに物語を書くことになった。斜め上からの解釈で申し訳ないのだが、間違いなく「写真」という言葉にインスパイアされた、私なりの物語である。
ペアはKaoRu IsjDhaさんだと聞いている。(プロアマの違いはあれど)絵を描く二人に「写真」というテーマ。ぞくっとするセンスである。
お詫びついでにもう一点。それなりの文字数に収めるには「何も起こらない」という選択をするしかなかった。本当はこの出会いの場面が何らかの事件につながって……というのを書きたかったのだが、そうするとおそらくいつものごとく10万字の物語になるだろう。というわけで、「序章」のようなもので終えてしまった。これで本文5000字弱である。
この世界観は、私の中ではすっかり映像化されているので、書こうと思ったら幾らでも書けると思う。そしてこの世界の人々も、すでに私にとってとても大切な存在である。これは「写真」というテーマがなかったら、決して生まれることのなかった世界と人々だ。
このような機会を与えてくださったこーたさんに心から感謝を。
最後に、お読みいただいた皆様へ。
鳥たちが皆様に佳き風を運んでくれますように。
扉絵:『Roots』 Japanese Thrush and Citrus tachibana 黒鶫と橘の花

