物語の欠片 朱鷺色の黎明篇 5 ネリネの話
-ネリネ-
明り取りの窓から随分と鋭い陽の光が降り注いでいる。完全に寝坊だ。
とはいえ、火鎮めの巫女であるネリネは、舞の稽古はあるものの、火山が大人しい間は決まった仕事はない。寝坊しても何の問題も無いのだ。
こんな風に火鎮めの巫女が優遇されるのは、巫女になること自体が大変だからでもあるが、いざという時の命の保証がないからだ。フエゴ火山が噴火した際、警報が鳴っても逃げることはできない。ギリギリの瞬間まで火山と闘うのだ。アヒの村では英雄である。
昨夜は、火山が噴火する夢を見て夜中に目が醒めた。幾ら鎮めようとしても鎮まらず、自分の無力さを痛感する夢だ。その後中々眠れなかったので、寝坊しても爽快感はない。
ふと、カリンが見ていた予知夢はこんな感じだったのだろうかと思い、すぐに否定する。緊迫感が違う。自分のは明らかにただの夢だ。原因も解っている。昨日、日中嫌なことがあって、そのことで帰宅してからセリに八つ当たりをした。どちらかと言えば、八つ当たりの方がネリネにとってダメージが大きかった。
ネリネは、嫌なことがあった時にこういう夢を見るのだ。
セリと一緒になってからは、セリと喧嘩をして一緒に寝なかった時に限って見る。いや、喧嘩にはならない。セリはいつでも優しいのだから。
「サイアク。」
呟いてマットレスの上で俯せになる。
セリはネリネを起こしに来ないが、きっといつも通りに食事の準備をしているだろう。起きて行けば、いつもどおりの穏やかな笑顔で「おはよう」と言うに違いない。あっという間に昨日の事は無かったことになる。その優しさに甘えることは簡単だ。しかし昨日の自分は明らかに酷かった。
少し前に、ポハク族の商人がフエゴの鉄鉱石を不正に搾取していた事実が公になった。そのことについて、ポハク族全体を悪し様に言う人たちを見かけて、思わず口を出してしまった。相手はネリネが火鎮めの巫女であることも火の化身であることも知っている。
「これはこれは火鎮めの巫女…いや、火の化身殿か。さすがに言うことがご立派だ。いや、そう言えば、金の化身殿はポハク族だったな。ポハク族でも化身になれるならば、化身も大したものではないかもしれない。口は慎まれた方が良いかもしれませんぞ。」
一緒に居たセリは、更に何か言おうとするネリネを押さえ、個人的な意見を持つのは自由だが、公の場で大きな声で話すことではありませんよ、とだけ言い置いてその場を離れた。
そのセリにすら、彼らは悪態をぶつけた。まだ明るいうちから酒を飲んで、すっかり酔っぱらっていたのだと思う。
家に帰ってからも、ネリネは機嫌が悪かった。
そんなネリネに対して、セリはいつも通りに接する。無理に機嫌を直させようと色々言ったり、必要以上に構ったりもしない。「いつも通り」のセリは、ただただ穏やかで優しい。
それが、つらいこともあるのだ。
だんだん自分だけが悪いことをしているような気持になり、ついに夕食の後、セリに随分久しぶりに盛大な八つ当たりをした。
「どうして止めたのよ。イベリスが悪く言われたのよ?」
先ずこの出だしからしていけなかった。冷静に考えればあの場は酔っ払いの相手をせずに大人しく引くべきだったと解る。あの酔っ払いたちは、ただ気が大きくなって、酒宴の演出としてポハク族を話題にしていたに過ぎない。きっと今朝には、話した内容もさっぱり忘れてしまっているだろう。
「ネリネの気持ちを考えずに止めてしまってすまなかった。」
「嘘よ。セリが私の気持ちを考えずにあんなことするはずがない。私の気持ちを考えて、それでもああした方がいいって思ってやったんでしょう?なんで嘘をつくの?私だって分ってるわよ。でも、仲間が悪く言われたのが嫌だったの。どうしてセリはそんなにいつも冷静なの?普段はとても助かるけれど、でも、時々自分が聞き分けの無い子供のような気分になる。優しくされることが辛いこともあるのよ。」
支離滅裂だ。
あの男たちに対する不満と、自分の情けなさをセリにぶつけているだけだった。
セリは、少し哀しそうな顔をしたが、何も言い返さなかった。
きっと、今のネリネに何を言っても駄目だと思ったのだろう。
ネリネは堪らない気持ちになり、もう寝る、と宣言して、いつも二人で寝ているのとは違う部屋に閉じ籠った。セリは、追って来なかった。
「サイアク。」
ネリネはもう一度呟く。
のろのろと立ち上がり、床に敷いていたマットレスを畳む。
観念して居間へ行くと、食事の支度は済んでいるのにセリの姿が見えない。ネリネは軽く混乱したが、深呼吸をして呼吸を整える。
仕事をしているのかもしれない。
セリは槍を造る職人だった。ネリネが護身用に持っている槍も、舞で使う槍もセリが造ったものだ。そもそもの出会いが、それだった。
以前は工房で働いていたが、ネリネと一緒になったのを機に自宅に仕事場を造った。
セリの仕事場の扉は開いていた。そっと覗くと、果たしてそこにセリは居た。仕事をしているセリを見るのは久しぶりだ。
斜め後ろから見る表情は、普段ネリネに見せる表情とは違い、厳しかった。セリは仕事中、これまでもこんな表情をしていただろうか。久しぶり過ぎて思い出せない。
今は、柄の部分を切り出しているようだ。鋭い鑿の音が響いている。
ふぅ…と深く息を吐き出す音がして、動きが止まり、それからゆっくりと振り返ったセリと目が合う。先程の厳しい顔はあっという間に消え失せ、いつもの優しい微笑が顔を出す。
「おはよう。朝食の準備はできているよ。起きてくるまで仕事をしていようと思ってね。」
少し遠回りしたが、想定通りの展開だ。
ネリネはつかつかとセリに歩み寄り、正面から抱きしめる。顔は、真顔だったと思う。セリは驚いた様子も見せず、ネリネを受け止めた。
「あのね、私が悪いことくらい解っているの。昨夜のは明らかに八つ当たりだわ。だからそれは謝る。ごめんなさい。」
自分でもびっくりするくらい低い声だった。とても謝っている声ではない。
「ネリネだけが悪いわけではない。お互い様だよ。」
「セリは悪くないじゃない。」
「実際ネリネは、私の振る舞いで不快な思いをしただろう?」
「そんなの…。」
「私は、そうやって自分を保っているんだよ。誰にでも優しいわけではない。自分が正しいと思っていることをやっているだけだ。それでネリネが離れて行ってしまうならば、それはそれで仕方がないと思う。でもそういう私の態度が、本当にいいことなのかどうかは、解らない。」
そういえば最初からそうだった。
まだ一緒になる前、好意を口にしてくれてはいたけれど、他の男がネリネに言い寄ってもセリは特に何もせず、ただ待っているだけだった。ネリネが他の男と一緒になっていたらどうするつもりだったのかと尋ねると、それはそれで仕方がないと、そう言っていた。
「八つ当たりする人間をどう思う?」
「そこだけ見たら八つ当たりは良くない。でも、私は他のネリネも知っている。正義感が強いネリネも、優しいネリネも、面倒見が良いネリネも、一生懸命なネリネも。だから、そんなネリネが八つ当たりをするならば、それなりの理由があるのだと考える。八つ当たりされただけで、すぐにどうこう思わないよ。」
ネリネは大げさに溜息をついてみせた。
「何よそれ、完敗じゃない。」
「勝ち負けがあるのかい?」
「私の気持ちの問題。」
「そうか。では反対に訊こう。優しくされるのが辛いという妻に、自分が優しく在りたいからと、それを貫く夫をどう思う?」
「いいと思うわ。その代わり、妻は時々八つ当たりをするけれど。」
「いいのではないかな。それじゃあ、朝食を食べようか。スープを温め直さなければならないな。」
こんなに甘やかされていいのだろうか。
族長の家へ行く道すがら、ネリネは考える。
自分はセリに、父親の幻想を見ているのかもしれない。
ネリネは父親の顔を知らない。名前も知らない。母親が教えてくれなかったからだ。物心がついた時には母子家庭だった。
火鎮めの巫女を目指したのは、単に一人で生活できる力を身につけたかった為に他ならない。特別な資金は必要なくて、門戸は誰にでも開かれていた。
族長の家の舞殿で行われる舞の稽古に参加するだけ。優れた者が巫女に選ばれる。シンプルな構造だった。
勿論ネリネは必死で舞の稽古をした。それこそ夢の中でまで舞を舞っているくらい、昼夜稽古に明け暮れた。
母はそんなネリネの身体を心配したが、ネリネがやりたいことを見つけたのだと思っており、あまり口出しはしなかった。
そしてネリネは巫女に選ばれた。
選ばれたら選ばれたで、主に人間関係を中心に色々あり、それらを乗り越えてセリと一緒になることが決まった時、母がぽつりと言ったのだ。
少し、貴女の父親に似ているわ。
しかしそれは一度きりで、その後何度尋ねても、そんなこと言ったかしら?と言われるばかりだった。
族長の家の敷地に入ると、大きな一本の樹が目に入る。カリンによると、それがこのフエゴ地方の森の主なのだそうだ。
アルカンの森の主のようにネリネの分かる言葉で語りかけてはくれないが、カリンにそう聞いて以来、族長の家に来る度に挨拶をするようにしていた。なんとなく、樹も挨拶を返してくれているように感じる。
その樹の向こう、族長の屋敷の裏手に人影が見える。近づくとそれは、比較的有望な巫女候補のチコリだった。声を掛けるとびくりと身体を震わせる。
「こんなところで何をしているの?稽古は?」
「それが…。」
「それが?」
「……。」
「責めているんじゃないのよ。何か困ったり悩んだりしていることがあるならば、力になれないかなと思って。」
「…ネリネさんは、どうして巫女になったんですか?」
「どうしてって…安定している職業だから。」
「え?」
「ふふ。もっと崇高な理由があるかと思った?」
「いえ、あの…火山は怖くないのですか?」
「そうねぇ、全く怖く無いわけではないわよ。実際この間噴火したでしょう?幸い人命の犠牲は出なかったけれど、村は壊滅状態だったわよね。ああいうのを見せつけられると、なんて大きなものを相手にしているんだろうって思うわ。ひとりでは何もできない。あの時も、仲間が居たから最終的に火山を鎮められた。」
「仲間が居るから怖くない?」
「うーん。少し違うかな。白状するとね、巫女になった当初はそれ程命は惜しくなかったの。それよりも、うちは母子家庭だったから、万が一母親も居なくなって、路頭に迷う方が怖かった。」
「なるほど…。」
「でも今はそうね…誰かがやらなきゃならないなら、やってやろうじゃないの、っていう感じかしら。大切なものが増えたから、死ぬのは少し怖い。」
「それは…よく分かりません。」
「例えば、私が巫女じゃなかったとするでしょう?火山が暴れ出す。私は避難する。でも誰かは村に残って火山を鎮めなきゃならない。それが自分の大切な人だったら、遠くから無事を祈っているだけでは落ち着かないのよ。私も行って何かしたいって思うの。性格の問題よね。」
話しながら、ネリネは今朝のセリとのやり取りを思い出していた。
そうか。性格の問題なのかもしれない。
セリは待てる人間だ。ネリネがどんな危険な任務を遂行していても、ただ待っていてくれる。無事に帰った時、大げさに喜んだりもしない。
おつかれさま、お帰り、と言っていつもの笑顔を見せてくれるだけだ。それを見たネリネは漸く、今回も無事に仕事を終えたのだと安心できるのだった。
その時、例えばセリが大げさに喜んだり、心配していた様子を見せたりしたら、ネリネは落ち着くどころか、セリを慰めにかからなくてはならないではないか。今更ながらにそんなことに気がつく自分は、本当にセリに甘えている。
待てるセリと待てないネリネ。夫婦としては良い組み合わせなのかもしれないが、正反対なのだから、時折すれ違いもあるだろう。
「なんだか、急に怖くなってしまって…。」
チコリの声で我に返る。
「いいんじゃない?怖くて当然よ。」
「あんなに、巫女に憧れていたのに…。」
「どうして憧れたの?」
「だって、とても綺麗だったから。私が舞を見る機会があるのは、お祝い事の時か、何かの儀式の時くらいです。火山の噴火が危ぶまれる時には避難しますから。でも、よく考えたら、本当に必要とされているのは、むしろ火山の噴火に対してなのですよね。」
「そうねぇ。じゃあ、辞めてみれば?」
「え?」
「暫く稽古に行かない。別に、毎日通わなくてはならないわけではないし、入退会があるわけでもない。行かなくなって、それで自然消滅すればそのまま忘れられるし、またやりたくなったら通えばいいじゃない。誰も咎めはしないわ。」
「そう…ですね。別に、私じゃなきゃ駄目なわけではないんだ。」
「厳しいこと言うと、そうかな。勿論チコリはとても有望な舞手だけれど、やっぱり巫女になるにはそれなりの覚悟が必要なのよ。今は巫女が不足しているわけでもないし。少なくとも私は、最後のひとりになっても巫女を続けるし、舞い続けると思う。アヒ族が此処に住み続ける限りね。」
この偉そうな言葉を、今朝、マットレスの上でぐずぐずと一人悩んでいた自分に聞かせてやりたいと思い、思わず笑いそうになったが、なんとか堪えた。そして、もしかしてネリネの前では常に穏やかなセリも、一人で悩むこともあるのかもしれないと思う。そう思ったら、急にセリのことが愛しく感じられた。
今朝見た厳しい表情…。
あれはもしかしたら、仕事をする時の表情ではなく、セリが自分自身に対して向けていた表情なのかもしれない。
そうだ。今日は、少し早めに稽古を切り上げて、夕飯は自分が作ろう。そして、今度はこっそりとではなく、きちんとセリの仕事姿を見せてもらおう。
そう思いつくと、急に身軽になり、舞いたくなった。今日は軽快な駒鳥の舞でも舞ってみようか。今ならば、最も激しい鳳凰の舞すら簡単に舞える気がした。
「さて。私はそろそろ行くわよ。今日は早めに帰るつもりなの。チコリはどうする?」
「行きます。」
「そう。」
「いつでも辞められるって思ったら、もう少し続けてみようと思いました。それでもやっぱり怖くなったら、巫女になる前に逃げてしまうかもしれないけれど。」
「うん。それでいいと思うわ。じゃ、行こう。」
「はい。」
舞殿には特別な先生が居るわけではない。自分で稽古するか、自分が学びたい舞手の舞を見て学ぶ。チコリはネリネの側についていることが多かった。今日は駒鳥と鳳凰どちらが良いかと問うと、チコリは「鳳凰」と即答する。
鳳凰の舞を舞ったら、稽古を早く切り上げたとしても、きっと帰る頃にはクタクタだ。それでも、寝坊した今朝よりもずっと爽快な気分だろう。
ネリネは勢いよく舞殿の扉を開けた。

kaoRu IshjDhaさんに絵を描いていただいた経緯はこちら▼
