物語の欠片 天鵞絨色の種子篇 17 エリカの話
-エリカ-
気がついたらエンジュのことを考えていた。
上皇とは対極にある男だ。
上皇が光ならば、あの男は闇。本物の闇よりも危険な闇だ。エリカの本能はそう告げていた。しかし、それを論理的に説明する術をエリカは持たない。エンジュのことを考えていると、いつも何処かで躓いてしまうのだった。だからそのことは上皇にも話したことはなかった。
使用人が静かにお茶のポットとカップを置いて去ってゆく。エリカが考え事している時には声を掛けないように申し渡してあった。
雨乞いの女たちが去った雨乞いの宮は静かだ。自分が静かな場所が好きなのだということには、此処がそうなってから気がついた。静寂を愛していたギリアは、今の雨乞いの宮は好きかも知れない、と思う。ギリアが生きていた当初はそんなことを考えたこともなかったけれど。
上皇が太陽の光ならば、ギリアは、宵闇にほのかに光る蛍の光のような男だったな、と思う。ギリアならば、エンジュと気が合ったかも知れない。闇を壊さぬほどの光。エンジュとギリア。そのいずれも、自分とは本当の意味で相入れまい。
ならば放っておけば良いのに、何故か気になった。
自分の考えるべきことは、慕っている上皇のことである筈なのに、エンジュのことが頭を離れない。きっと先日、カリンに会ったせいだ。明確に二人が似ているわけでもないのだが、カリンの姿を見ていると、その向こう側に、いつもエンジュの姿が透けて見えた。
煩わしい。
ひとりなのを良いことに、やや乱暴に、カップに注がれたお茶を喉に流し込んだ。エンジュの存在ごと、呑み込んでしまうかのように。
*****
他の三人は皆、男なのだと聞いている。そして当代の王族代表も王子だ。女はエリカひとりだけ。
ワイの町で女に囲まれて育ったエリカは、空気に呑まれてはいけないと常に気を張った状態でアグィーラへ向かった。
その男は、城の中庭で空を見上げていた。
異国の正装をしているのでおそらく男も化身だろうと思った。何しろ背中の翼が嫌でも目につく。初めて目にするマカニ族だった。相手もエリカに気がつき、顔に柔らかい笑みを浮かべた。
「ワイ族の水の化身殿ですか? 遠いところお疲れさまです」
愛想は悪くなさそうだが油断はできない。エリカは失礼に当たらない程度の微笑みを浮かべて応えた。
「ええ。エリカと申します。貴方は風の化身殿ですね? わたくしが一番乗りかと思いましたけれど、やはり空路は早いのですね。今朝出発されたのでしょう?」
「はい。空路は天候に左右されますので早朝に出て参りましたが、幸い天候には恵まれました」
「そうですわね。天候はよろしいようだわ」
先程まで男がしていたように空を見上げると、確かに青空ではあるが、緑豊かなエルアグアの土地に比べると、都会の空気はどこか乾いて澱んでいる。
「ワイの町は、さぞかし美しいのでしょうね」
「いらしたことはありませんの?」
「マカニ族は空を飛ぶことができますが、あまりエルビエントを離れることはないのです」
そういえば、マカニ族はほぼ自給自足で暮らしており、ワイとも貿易関係にないと聞いていた。「ぜひ一度いらしてください」と言いそうになり、思い留まる。相手の礼儀正しさと知性についつい気を許してしまいそうになっていたが、この男に気を許してはならないと、自分の中の何処からか警鐘が鳴っていた。
次に顔を合わせたアヒ族の火の化身は、拍子抜けする程へらへらしていて手応えのない男だった。これがこの男の策略だろうかと思って暫く警戒していたが、どうやら本性らしい。
王家から指定された約束の時間ぎりぎりに現れた金の化身は、あからさまに周囲に一線を引いていた。この分では先が思いやられるとうんざりしたが、その思いは王子に会って消えた。
本当に洗練されているというのはこういうことを言うのだと思った。マカニのことはよく知らないが、話に聞くポハクやアヒに比べたら、ワイは人も町も洗練された場所だと思っていた。アグィーラの城下町は通過しただけだったが、都会といえど、ワイに比べてそれほど洗練されているようにも見えなかった。しかし、城の中は違う。細部に至るまで計算し尽くされた建物と調度品、人々は皆礼儀正しく身なりは麗しく、所作が美しい。エリカも自然と背筋が伸びた。その最上位に居るのが王族だ。
王子はただの飾りだろうと思っていた自分を恥じた。
王子は誰よりも、語弊を恐れずに言えば時の王よりもずっと賢く感じられた。顔合わせから晩餐会まで、ほんの半日程の時間で、エリカはすっかり王子に魅了されてしまった。エリカにはすでに伴侶がおり、王子にも妃が居ることは知っていたが、しかしエリカのそれは恋愛感情などという浮ついた感情ではなく、敬愛という言葉では表しきれないような特別な感情だった。自分たちの世代が運命の世代であろうがそうでなかろうが、自分はこの先、誠心誠意この、いずれは王になるであろう王子に仕えようと思ったのだった。
夜遅くまで続いた晩餐会を満ち足りた感情で終えたエリカは、いつまでも寝つけず、中庭へ散歩へ出ることにした。女ひとりでも、城の中ならば安心だろうと考えてのことだった。
しかしそこには先客が居た。
またしても風の化身だ。
エリカは、たちまち心の中の熱がすぅっと冷めていくのを感じた。
「おひとりですか?」
驚いた様子も見せずにそう尋ねたエンジュに、エリカは言いようのない不快感を覚え、語気が強くなった。
「見れば分かりますでしょう? それとも何かしら。女がひとり夜中に出歩くのはおかしいとでも仰るの?」
「いや。城の中ならば危険は少ないでしょう。この場所をお望みならば、私が去ります」
穏やかな表情が、更にエリカの気に障った。音も無く立ち去ろうとするエンジュを呼び止める。
「失礼ではありませんこと? これではまるで、わたくしが貴方の邪魔をしたみたいじゃない」
「ああ、それは失礼いたしました。では、このまま此処に居ても?」
「貴方が……そうしたいならば」
自分でも意地の悪い返答をしたと思ったが、エンジュは口元に穏やかな笑みを浮かべて元居た場所に静かに腰を下ろした。エリカは、そこから少し離れた場所に腰を下ろす。視線はエンジュを目の端に捉えながらも、興味の無い振りをして空を見上げた。ワイでは未婚の女が夜にひとりで出歩くことを禁じていたので、このような場合にどう振る舞えば良いかを教えてくれる者は居なかったが、そのような場面になってしまえばどうにかなるものだなと思った。要は、自分が毅然としていれば良いのだ。
エンジュは、不自然では無い程度の時間が過ぎた頃、先に部屋に戻ると言ってその場を去った。その間、ひと言も声をかけては来なかった。もしエリカが現れなかったら、エンジュはもっと長く此処に止まっていただろうか。色々な意味で胸中を掻き乱されそうになったが、ひとりになったエリカは先程まで感じていた満ち足りた気持ちを取り戻すべく、王子と交わした言葉の数々を反芻し続けたのだった。
「マカニ族の族長が交代するそうだ」
聞いたのは、王になったかつての王子からだった。エリカは前の年に族長になっており、足繁く王の元へ通っていた時のことだ。エンジュはエリカより六つほど年下だった。まだ、少し早いのではないだろうか。
「マカニの族長殿はまだ健在なのではなかったでしょうか」
「お前も、前族長が健在なうちに交代したであろう?」
「それはそうでございますが……」
ワイの前族長はおっとりとしていて気の弱い女だった。武力を持たぬワイは、アグィーラに守ってもらうのが当たり前だと思っていた節がある。その見返りに、ほぼ無償で農作物を提供していた。エリカは常々そのやり方に疑問を呈しては前族長を困らせており、ついには「エリカの方が族長に向いているのではないか」と言わしめたのだ。それでもそれは四十を超えた後のことだった。エンジュはまだ三十代半ばである。化身の仲間の中ではパキラがエリカよりも早く、エンジュと同じ三十代半ばで族長になっているが、それはあくまでも前族長が亡くなったからだ。エリカの中に、しばらく鳴りを潜めていた、エンジュへの、自分でも理解できない感情が燻り始めるのを感じた。
エリカが恐れたとおり、それからというもの、王の元を訪れるたびに、王がエンジュのことを話題に出さない日は無かった。その都度、エリカの腹の辺りはじくじくとおかしな程に痛んだ。
エンジュは、かろうじて族長交代の式典には出席したものの、宴席は断り、その後も城へは寄りつかない。王が気にするので、エリカもマカニに関する情報収集には協力したが、ある時堪らなくなって王に告げた。
「マカニは小さな村。エンジュのことなど、放っておけば良いではないですか」
「そうも行かぬ。小さな綻びが、大きな岩をも穿つことがままあるのだ」
エリカに対する時も王に対する時も、エンジュは自分の意見は述べるものの、いつだって穏やかで礼儀正しかった。直接相対していれば、恐れる対象のようには思われない。寧ろ離れている時にこそ、その存在が……いや、存在感の無さが、不在が、不穏なものに感じられるのだ。あれは、本当に存在していたのだろうか、と。
王とその感覚を共有したことはなかったが、話したならば、共感を得られただろうか。
*****
エリカはカップを置いた自分の指を見つめた。
一度だけ、この手で、自ら意思を持ってエンジュに触れたことがある。上皇のためではなく、自分がそうしたかったからだ。
さぞかし冷たいのではないかと思っていたその顎先は、自分の指よりも温かかった。
早朝、いきなりひとりの部屋を訪れたエリカに驚くこともなく、突然顎先に触れた指に不快な表情を見せることもなく、いつもの穏やかな表情に感情を逆撫でされたのは自分の方だった。
あの時、少しだけ自分が分からなくなっていた。
ずっと、上皇のことを稀有な人だと思って慕っていた。しかしエリカは上皇に心を乱されることは無かった。エリカの心を乱す存在は、エンジュだけだ。妃には嫉妬しなかったのにもかかわらず、上皇が気にかけるエンジュには嫉妬していた。
そう、嫉妬だと思っていた。
けれど、これは本当に嫉妬なのだろうか。
上皇には「エンジュのことなど気にするな」と言っておきながら、一番気にしていたのは自分自身だったのかもしれない。
あの、ちっとも心の奥を映していないような穏やかな表情を、その仮面を剥がしてやりたくて顎先に指をかけたのだ。でも、剥がせなかった。
あの仮面が壊れたら、上皇の心は穏やかになるのだろうか。
エリカ自身の心も?
指先に、エンジュの肌の温かさが、幽かに残っているように感じる。
憧れ、なのかもしれない。揺るがないものに対する憧れ。
壊してしまいたいような、どんなに攻撃されても壊れてほしくないような。壊れないことを確かめたいような。
相手は危険な闇なのに。
エリカは大いなる光と闇に挟まれている自分を感じた。
ああ、だからギリアが居たのだ。
ギリアは自分にとって色々な意味で枷だった。
ギリアと居る時の自分は光の方向しか見てはいけない気がしていた。
今のエリカは、光の元へも闇の元へも行くことができる。
「どちらが、強いのかしらね」
今度は上皇に触れてみよう。
そう考えながらエリカは、自分で注ぎ足したお茶を、今度はゆっくりと時間をかけて飲み干したのだった。
***
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