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物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 12

-レン-

 長い間暗闇の中を進んできたレンの目に、突然光が飛び込んできた。
 それはそれ程強い光ではなかったが、久しぶりの光に目が眩んで歩みが止まった。身体が刺激を受け止めきれなかったのか吐き気がこみあげてきて、こらえきれず嘔吐しようとしたが吐き出すものが何も無かった。不快な苦みだけが口に残る。体中に悪寒が走った。
 漸く出口の希望が見えたというのに、レンの身体がそれを無邪気に喜ぶのを拒んでいた。自分が出られる程の穴かどうかまだ判らない。これまでの幾度もの失望がレンを慎重にした。
 ……とりあえずあの光の場所まで進んでみよう。
 もはや感覚の無い右腕。長い時間固い岩の上を四つ這いで進んだためにすり切れた両足にももう痛みを感じない。唯一感覚の遺っている左腕は妙に熱っぽかった。
 ゼイゼイと息が切れ、呼吸をするたびに肺がおかしな音をたてる。
 しかし期待せずに近づいてみたその光は、間違いなく外への出口だった。久しぶりに小さく切り取られた空が見える。風を感じることができたのが何より嬉しかった。暫く額に風を受けていると、漸く少し安堵の気持ちが湧き上がってきた。これは、間違いなくエルビエントの風だ。
 しかし、穴は二本の倒木で塞がれており、そのままではレンは外に出られれそうにない。
 試しに倒木に背を当て、体重をかけて押してみるがびくともしなかった。
 もう、溜息も出ない。呼吸をするのも億劫だった。
 しかし、此処まで来たのだ。できればこの穴から外へ出たい。いやそれよりも、もう、引き返して別の道を探す体力は残っていない。此処から出るしか、レンに生き延びる道は無いだろう。
 どうやったらこの大きな倒木をどかすことができるだろうか。
 うまく働かない頭は、それでもいつもの習慣から弓に向いた。レンはかろうじて動く左手で弓を取ると、二本の倒木の隙間に差し込んだ。
 倒木に挟まった弓に体重をかけると弓がしなる。折れるかもしれない、そう思ったが背に腹は代えられなかった。
 レンが想像していた以上にクマタカの弓は強かった。限界までしなった弓が戻る力で、重なった倒木の一本が弾かれるように動いた。レンは倒木が動いた反動でそのまま床に崩れ落ちた。倒木が崖を転がった音の感じからは、地面からそう高い位置に居ないことが知れる。
 地面に倒れたまま顔だけ上げて穴を見上げると、レンが何とか通れそうな隙間が開いていた。レンはクマタカの弓を背中に戻し、這うようにして穴に左手を掛けた。そのまま穴に身体を引き寄せる。頭が穴の外へ出た。下を見ると、思ったとおり高さはそれ程でもない。
 出られる……。
 穴から覗いた限りではそれがどの辺りなのか分からなかった。周囲は穴を塞いでいる倒木と同じような樹々が生い茂っている。しかし此処が何処であれ、鍾乳洞の中に居るよりは随分ましだ。誰かに見つけてもらえる可能性も高くなるだろう。
 両腕を穴から出し、重心を前に掛けると、レンの身体はそのままずるずると崖を滑り落ちた。途中、岩の窪みで身体が反転して感覚の無い右腕から着地する。しかし着地した先は柔らかい草の上であることが、その後に地に着いた頬の感触で分かった。
 ゆっくりと仰向けになると、深く茂った木の向こう、空が見えた。
 頭の方向を変え、落ちてきた穴の方向を見る。穴のずっと上の方の岩の形に見覚えがあった。
 此処は……双子の峰の麓の雑木林だろうか。
 洞窟から抜け出しても、思った程の歓喜は湧き上がっては来なかった。まだ、洞窟の外へ出ただけだ。マカニへたどり着いたわけではない。果たして自分は飛べるのだろうか。少なくとも今は立ち上がることすらできそうにない。
 レンは目を瞑る。数日ぶりの陽の光は眩し過ぎて、目を閉じて感じるくらいがちょうど良かった。
 暖かい……。
 このまま、眠ってしまいたかった。
 少し、休ませてほしい……。
 決して状況が良くなったわけではないことは分かっていた。生き物の存在しない鍾乳洞から出た分、此処には獣も居る。今は数が少ないとはいえ、魔物が出る可能性もある。弓は……おそらく引けない。

 どのくらい目を瞑っていただろう。顔のすぐ横に、何かが落ちてきた気配がした。
 目を開けて顔だけ左へ向けると、目の前に赤い塊がある。
 ……林檎……?
 この辺りに林檎の木などあっただろうか。不思議に思って視線を上へ戻すと、上空から鳥が舞い降りるところだった。
 あの……隼だ。
 隼は落ちてきた林檎の少し先に降り立った。
「……これ、君の?」
 落とした林檎を追いかけてきたのだろうかと思い、尋ねてみる。相手は鳥だが、久しぶりに誰かと話をした気分になり、少しだけ気力が戻ってきた。隼はレンをじっと見詰めて首を傾げた。
「……どうしたの?」
 レンから視線を外さないままの隼が脚で林檎を蹴ると、それはレンの左手付近まで転がってきた。
「……もしかして、僕にくれるの?」
 隼の雄は空中から餌を落として、同じく空を飛んでいる雌に渡す習性がある。レンのことを雌だと思っているとは思えないが、上空から落としたのはわざとで、レンに受け取れと言っているのかもしれない。
 手に取って顔の前まで持ってくると、それは樹から取ったばかりであろう綺麗な林檎だった。隼は相変わらずレンの様子をじっと見詰めている。食べろということだろうか。レンは自分が空腹なのかどうかも判からなかった。
 試しにひと口齧ってみる。
 甘みと酸味が程よく口に広がった。
 ゆっくりとそれを噛みしめると、林檎の果汁が少しずつ身体に沁み渡ってゆくのが感じられる。
 それと同時に、レンの両目から涙が溢れた。
「……ありがとう……」
 自分はまだ生きているのだと思った。
 そう、まだ死んではいない。もう少し頑張れば、きっとマカニへ戻れる。
 視界が滲んで隼の表情が良く見えない。ただ、其処にじっとしているのは分かった。
 レンは林檎を一度置き、手探りで自分の翼に触れる。初列風切羽しょれつかぜきりばねの外側から二番目、それは翼の中でも特別な羽根だった。ひとつだけ、マカニの紋であるクマタカの意匠が染め抜かれている。翼の色と紋の色の組み合わせは皆違う。翼の色が同じでも、紋の色は同じ色の翼を持つ他の人と同じにはできない。その組み合わせで、誰の翼なのかがすぐに分かるようになっているのだ。レンの場合は翼の色も唯一無二だったが、念のため白でマカニの紋が染め抜かれているそれを抜き取った。
「これを……マカニの訓練場まで運んでくれないかな。分かるだろう? 君と僕が最初に出会った場所だ」
 不思議だった。人間の言葉が通じる筈がないと思いながら、伝わることを信じていた。そして、理解したのかどうかは判からないが、隼はくちばしでレンの手から羽根を受け取った。
「ありがとう……頼むよ……」
 レンが言うと、隼は大きく羽ばたき、錯綜する雑木林の枝の間を器用にすり抜けて上空へ舞った。自分はあんな風に器用には飛べないな、とレンは思った。
 これは最後の賭けだ。本当は紙とペンでも持っていればこの場所を伝えられたのかもしれないが、生憎持ち合わせてはいないし、その他に良い考えは浮かばなかった。
 おそらくこれまでもマカニの仲間は自分を探してくれていただろう。しかしその時レンは洞窟の中に居た。そのことは誰も知らない。レンが移動しているかもしれないことは想定していても、まさかこのタイミングでこんなに近くに倒れていることはなかなか分からないだろう。もっと遠く、例えばアグィーラを目指していると考えて、捜索の手を広げているかもしれない。
 シヴァなら、あの隼がレンの気にしていた隼だと気がついてくれるのではないだろうか。もちろん鳥なので、遠くまで飛んでいくことはあるだろう。しかしこの辺りを根城にしている隼が、普段の行動範囲であの羽根を見つけた可能性を考えて、もう一度、すでに捜索を終えた付近を探してくれるかもしれない。
 レンはシヴァを信じていた。
 このまま此処で暫く身体を休めていれば体力が回復して飛べるようになるかもしれないが、翼の状態も不安だ。
 レンは再び隼の運んでくれた林檎を手に取り、少しずつ齧る。久しぶりの新鮮な果実だった。また吐き気が襲ってくるのではとも思ったが、どうやら大丈夫らしい。
 隼が運んできてくれたのが仕留めたばかりの鳩でなく林檎で良かったと、冗談のようなことを考える余裕も生まれた。もしかしてそこまで考えてくれたのだろうか。いやまさか。
 林檎を齧りながら、レンは隼と一緒に飛んだ数少ない記憶を辿っていた。
 何処まで高く飛べるかを試した際に翼が動かなくなり、近くを飛んでいた隼の飛び方に倣って助かったこと。
 レンの近くを誘うように飛んだ隼を追い駆けたこと。
 レンが遠方から帰ってくると、時折双子の峰付近で出迎えてくれたこと。
 エルム……。
 レンの中に、突然その名が浮かんだ。レンが生まれた季節に花を咲かせる春楡はるにれの木を表す古代アーヴェ語だ。
 あの隼の名前は、エルムにしよう。
 林檎を食べ終えたレンは再び瞼を閉じる。
 太陽の高さを確認するのを忘れた。また時刻が分からない。しかしもう、瞼を持ち上げる力も残っていないようだった。
 エルム……。
 瞼の裏に暖かさを感じながら、レンの意識は光の中に溶けて行った。


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