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物語の欠片 翡翠色の昼下がり篇 6

-レン-

 足先にゆらゆらと水の当たるような感触がある。初めての感覚だ。
 レンはゆっくりと目を開けた。
 自分が硬い石の床に寝ていることが分かる。身を起こそうとして右側頭部と右腕に鈍い痛みを感じ、全てを思い出した。
 直径がレンの身長の半分程はあったのではという大きな岩。
 自分はあのまま墜落したのだ。全身が濡れているということは、真下が谷川だったのだろう。しかも増水していた。不幸中の幸いだ。地面だったら即死だった。
 気を失っていたのも幸いしたらしい。流れにあらがってもがいていたら、水が沢山肺に入って窒息していたかもしれない。
 意識がはっきりしてくると、流される間にぶつけたらしく、身体のあちらこちらが痛むのを感じた。そっと身を起こしてみる。
 目の前は岩の壁。後ろを振り返ると、高い天井から滝のように水が流れ落ち、その下に小さな湖のような、大きな池のような水溜りが在った。先程足先に感じていた水の感触はそのせいだ。
 あそこから落ちたのだろうか。
 レンは天井の水の吐き出し口に目をやる。それしか考えられなかった。そのまま勢いで岸へ打ち上げられたのだ。
 谷川はアルカン湖へ流れ込んでいると思っていたが、何処かに岐路があるのだろうか。それとも此処は、イカルの滝の滝壺なのだろうか。それにしては深く、不思議な空間だったが、いずれにせよレンは、谷川の流れに乗って此処へやって来たのだということは間違いない。
 鍾乳洞しょうにゅうどうというのだろうか。岩が侵食されてできたような空間で、水の吐き出し口から僅かな明りが差し込んでいるので、今はまだ明るい。反対にいうと、日が暮れれば真っ暗になるだろうことは容易に想像できた。
 湖の澄んだ水に顔を映してみるが、右側頭部に大きな傷があるようには見えない。手で触れてみると痛みはあったが、出血している様子は無かった。
 濡れた衣類を一度脱いで絞るついでに身体を確かめると、右腕に大きな内出血がある他は目立った傷は無い。
 翼をバサバサと動かして水を払う。やや動きは悪いが完全に壊れてはいないようだ。絞った衣類をもう一度身に着けると、それは酷く冷たく感じた。
「冷えるな……」
 声に出して呟くと、その声が反響する。
 自分の声がこれだけ響くということは、何かが居れば物音がするだろう。近くに迫った危険は無さそうだった。
 長く水に浸かっていたこともあり、傷や身体の痛みよりも全身が冷えていることの方が重大な問題のように思えた。陽が暮れれば更に気温が下がるだろう。その前に少し身体を動かさなければならない。
 しかし……身体が重い。
 どれくらい水に浸かっていたのだろう。てっきり墜落したのと同日の日中であるつもりでいたが、もしかしたら日を跨いでいるのだろうか。
 マカニの村は、きっと騒ぎになっているだろう。
 最後に見たのは、セージを受け取めながらもレンの堕ちる先を見詰めていたスグリの顔だ。意識を失う直前、声を聞いた気もした。
 岩の壁を頼りに何とか身体を起こす。
「つっ……」
 立ち上がると右側頭部を中心に頭全体に痛みが走り、視界がぐらりと揺れた。
「傷は……見えないんだけどな……」
 わざとのんびりと声にしてから大きくひとつ息を整え、壁に寄りかかったままレンは再び水の吐き出し口に目をやった。
 あそこまで飛べたとして、あの水量に逆らって泳ぎ、水面に顔を出せる気がしない。すでに十分傷んだ翼を使ってその危険を冒す選択肢は無いように思えた。いざという時に飛べなくなったら、次の手が打ち難くなる。やはり洞窟の中に道を見つけるしかなさそうだ。
 幸い弓矢と、水車小屋から持ってきた食料や道具は無事だった。少しの冒険ならばなんとかなるだろう。
 水がこの方向に流れ込んでいるということは、あちらが上流だ。洞窟は二箇所に道が延びていたが、レンはまず、上流と思われる方向に進むことにした。壁に寄りかかりながらゆっくりと歩み始めたが、少しすると眩暈が落ち着き、普通に歩けるようになった。頭はまだ時折、うずくように痛む。
 当然ながら、先程の滝の在る空間から離れると洞窟の中は暗くなった。天井も低くなり空間としても狭い。所々から岩が突き出しているのでむやみに突き進むと危険だ。夜光石で造られた懐中灯かいちゅうとうもあるにはあったが、それほど長くはもたないのでいざという時のために取っておきたかった。自然と、片手を壁に、反対の手をやや前方に突き出しながら歩くことになる。
 その手が、暫く歩くと呆気あっけなく大きな壁に触れた。
「嘘……だろう?」
 念のため小さな抜け穴が無いか隈なく壁に触れたレンは、小さく溜息を吐いた。暗闇に目が慣れてきて、肉眼でも其処が行き止まりであることが分かる。
「仕方がないな」
 それでも少し動いたことで、先程よりは寒さを感じなくなっていた。そのことに勇気づけられ、同時に、明りのあるうちに動かねばならないという焦りにも突き動かされて、今来た道を戻り始めた。

 滝の広場に戻ると、恐れていたとおりすでに薄暗くなっていた。間もなく日が暮れるのだ。レンは一度湖の岸にひざまずき、手で水をすくって飲んだ。それから、水車小屋から持ち出した水筒に水を補充する。とりあえず水があれば大丈夫だろう。
 それに……と、レンは今進んだのと反対側の進路に目をやる。この水量が随時流れ込んでいるにもかかわらず、この湖が溢れないということは、水は下流に流れ続けているのだ。少なくともあちら側には水の通り道はあるに違いない。もしかしたらこのままアルカン湖まで繋がっているのかもしれない。
 マカニへ近い上流側へ出られれば尚更良かったが、今は贅沢は言っていられない。下流に向かって進むしかない。
 レンは再び立ち上がって歩き始めた。
 下流へ向かう道もすぐに真っ暗になった。いずれにせよ、日が暮れれば滝の広場も暗くなるだろう。レンは構わず先程と同様、片手を壁に、手探りで前へ進んだ。先程よりも障害物が多いように感じた。足元も滑りやすい。
 少し進んだ後、レンは一度立ち止まってから懐中灯を取り出して辺りを照らしてみた。天井が低い以外基本的な造りは先程の滝の広場と変わらない。天井からも地面からも棘状とげじょうの大小の岩が突き出している。それらは時折繋がって柱のようになっていた。
 足元に小動物のものと思われる骨を見つけてしまい、嫌な気持ちになる。レンと同じように谷川に落ち、流されてきたのかもしれない。
 ひとまず先がまだまだ続いていそうなことに安堵し、懐中灯を仕舞った。短い間ではあったが一度光を知った目は、再び暗闇に沈む。暫くその場で目が慣れるまで待つ。生き物の気配は全くと言い切れる程しなかった。
 光が届かないので、植物も成長できないのだろう。それを食べる草食動物も暮らせない。当然、肉食動物も。
 此処で生きているのは、自分だけだ。
 こちらの道も行き止まりだったらという不安が、ほんの一瞬だけレンの心を支配したが、それをすぐさま振り払う。行き止まりだったならば、時間をかけて岩を穿ってでも、あるいは先程の広場の滝の流れに逆らってでも、此処から出なくてはならない。なんとしてでもマカニへ戻らなければ。

 途中で道が二つに分かれた。
 少し迷った末に、レンは片方の道を少し進んで身を屈め、地面に耳をつけた。水の音は聞こえない。
 一度分岐点まで戻り、反対の道で同じことを試すと、微かに水の音が聞こえるような気がした。
 こっちだ。
 水の通り道があるならば、そちらの方が可能性が高いように思えた。
 そちらの道をどのくらい進んだだろう。最初の方に感じていた眩暈が再び襲ってきた。
 立ち止まって壁に寄りかかり、呼吸を整える。
 暗闇の中歩き続けているので、時間の感覚が無い。谷川に墜落してからの時間を思うと、どのくらい自分がこうしているのか、まったく分からなかった。食事も随分摂っていない。気ははやるが、そろそろ一度休憩した方が良いかもしれない。
 一度座り込んだら立てなくなりそうだったので、その前にレンは再び懐中灯を取り出して辺りを照らす。相変わらず代わり映えのしない岩ばかりの場所だった。特別な危険は無さそうだったので、レンはそのままずるずると壁伝いに腰を下ろした。身体が鉛のように重かった。手足を動かそうとしても、重い枷を嵌められているかのように自由が利かない。
 レンが水車小屋から持ってきた食料は、乾燥させた魚と野菜、果物だった。何とか取り出したそれらは、防水性の皮袋に入っていたがさすがに少し湿っていて、しかしそれが反対に食べやすかった。少しずつ噛みしめながら口にする。特に果物の糖分が、疲労の溜まっていたらしい身体に沁みて行くのが分かった。
 ああ、自分は疲れているのだ、と自覚する。
 慣れたように思っていた頭と腕の痛みが、再びじわじわと強く浮かび上がってくるのも感じた。
 外へ出られるまでにどのくらい時間がかかるか見当がつかない。休み休み進んだ方が良いだろう。何かに襲われる危険が無いのは有り難かった。
「寒い……」
 しかし痛みの次にやってきたのは、思わず声について出る程の寒さだった。動きを止めたからだろうか。まだ湿っている衣類が、容赦なくレンの体温を奪ってゆく。岩の壁や床には、暖を求める場所は無かった。
「このまま眠ったらまずいかな……」
 気を失いそうな痛みと疲労の中、レンは必死に頭を働かせる。眠ってしまわないよう、声に出して思考を続けた。
 ふと、ポプラが翼を造るのに人工の羽根を使わない理由を切々と述べていたのを思い出す。
 本物の鳥の羽根は軽くて丈夫だ。少々乱れても形状を記憶していて元に戻る。撥水性、空気をはらむむ能力、保湿性、保温性、全てにいて優れている……。
 保温性。
 レンは思い立って翼をはずした。
 片方の翼を岩の上に敷き、その上に横たわってもう片方の翼を掛け布団のように羽織る。水を払っておいた翼はすっかり乾いており、とても温かかった。
「ポプラさん、ありがとう……」
 レンはそのまま、引きずり込まれるように眠りの中へ落ちて行った。

***
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マカニの広域図
谷川はこの後、地図の右下に向かって
うねうねとうねりながら双子の峰をぐるりと回り
アルカン湖まで続く

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