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【レビュー】「ロングウォーク」:感動を呼ぶ唯一無二のデスゲーム映画

デスゲーム映画

デスゲーム映画を見るたびに
ふと思い出す歌詞の一節がある。
それはMr.Childrenの「HERO」の歌詞。

“駄目な映画を盛り上げるために
 簡単に命が捨てられていく”

映画好きにはものすごく
考えさせられる歌詞である。

デスゲーム映画ではとにかく人が死ぬ。
参加者が最後の一人になるまで死が繰り返される。

だからと言って、駄目な映画とまでは思わないが
極めて不道徳ではあると思う。

不道徳な過激さが観客を引き付け、
心の中にある暴力性を曝け出し
人間の性(さが)というものを思い知らせる。

これはデスゲーム作品ならではの価値だと思う。
だが、心の中で
スッキリしないものがあったりする。

そして、「HERO」の歌詞はこう続く。

“違う 僕らが見ていたいのは希望に満ちた光だ”

「HERO」を初めて聞いた学生時代の僕には
グッと刺さる名フレーズだったが、
この歌詞が当てはまらない名作にも出会ってきた。

映画なのだから人は死ぬし
だからこそ感動が生まれるなんてことは
それほど珍しいことではない。

だが、デスゲーム映画においては稀有だと思う。

今回、扱う「ロングウォーク」は
“簡単に命が捨てられていく”デスゲームでありながら
明確な“希望に満ちた光”を描くことで
感動をもたらす素晴らしい作品だ。

そこで、今回はデスゲーム映画の歴史を紐解きながら
本作がなぜ感動を呼ぶのか?
連綿と紡がれてきたこのジャンルにおける
本作の異質さについて語っていきたい。

作品概要

ロングウォーク(2025年製作の映画)
The Long Walk
上映日:2026年06月26日 
製作国・地域:アメリカ
上映時間:108分 ジャンル:ホラースリラー
配給:クロックワークス
監督:フランシス・ローレンス
脚本:J.T・モルナー
原作:スティーヴン・キング
出演者:クーパー・ホフマン、
デヴィッド・ジョンソン
マーク・ハミル、ギャレット・ウェアリング
ジュディ・グリア、チャーリー・プラマー

Filmarks

あらすじ

戦争によって国家が分断された近未来のアメリカ。困窮する社会への光として、そしてかつての栄光を取り戻す為の一歩として、国をあげて開催される競技“ロングウォーク”。ただひたすらに歩き続けるだけで破格の賞金と願いを1つ叶える権利を獲得できるこの祭典に、選ばれし50人の若者が挑戦する。「時速 4.8km をキープすること」「速度を下回り警告を受けないこと」「最後の一人になるまで歩き続けること」この勝者になる為のルールの裏に、休息も睡眠も救いも存在しない。3つ警告を受けると即死の状況下で臨む、地獄の一本道の先に待ち受けるのは希望か、絶望か——

Filmarks

複雑化するデスゲーム

本作はスティーブン・キングが大学1年生だった
1967年に執筆した「死のロングウォーク」が
原作である。
(出版は1979年、リチャードバックマン名義)

今回の映画化によせて
デスゲームの原点と謳われている本作だが
さらに遡ること1932年に劇場公開された
「最も危険なゲーム」という作品では
無人島を舞台とした人間狩りが描かれており
厳密にはこちらがデスゲームの原点となるだろう。

そんな長い歴史を持つデスゲームは
いまでは映画界で一大ジャンルとして確立し
次々とヒット作品が生まれているが
この流れを作ったのは
紛れもなく1997年公開の「CUBE」だろう。

謎の密室に連れてこられた登場人物たちが
多くの犠牲者を出しながら脱出を目指す内容だが
その過程で彼らの過去が明らかになり
信頼と裏切りが織りなす人間ドラマが展開していく。

後悔から現在に至るまでのおよそ30年間で
世界観や設定を変えながらも
この構造は受け継がれ
もはやテッパンのフォーマットと言えるだろう。

かつて「バトル・ロワイヤル」(2000)を絶賛した
タランティーノ監督は
「ハンガー・ゲーム」(2012)を見て
「バトル・ロワイヤル」のパクリだと非難したが
いまとなってはジャンル映画だから
仕方がないとしか言いようがない。

※本作の監督を務めたフランシス・ローレンスは
 「ハンガー・ゲーム2」以降、
 シリーズを監督している

このような批判に晒されがちなデスゲーム映画は
アクションや推理、サスペンス、頭脳戦、
どんでん返し、などと言った、
さまざまな映画的要素を取り入れ
複雑化していく傾向にある。

そんな中で、映画化された
「死のロングウォーク」は
冒頭でもお伝えした通り
昨今のデスゲーム映画において
異質の存在感を放つ。

とにかくシンプルなのだ。

ただ歩き続けること。
止まれば、射殺される。
ゴール地点はない。
最後の一人になるまで歩き続ける。

この単純明快なルールは
最後まで揺らぐことはない。

だが、それでいて圧倒的に面白いのだ。

批評家からの評価もかなり高く
スティーブン・キング原作映画の中でも
上位に入る作品と太鼓判を押されている。

なぜ、複雑化したデスゲーム映画が主流の時代に
これほどシンプルな作品が評価されるのか?

その答えは、シンプルだからこそ
厚みを持たせることの出来た
デスゲームならではの人間ドラマが
描かれていたからだろう。

刹那の友情を描く

そもそもデスゲームという題材が
映画に適している理由は何だろう?

それは、登場人物を簡単に
極限状態に追い込むことが出来るからだ。

何も起きない平和な日常の中では
人間ドラマは発生しづらい。
登場人物をどうやって窮地に追い込むのか?
多くの脚本家を悩ませるこの課題を
デスゲームはいとも簡単に乗り越えることができる。

多くのデスゲーム映画では冒頭に
世界観とルールがテロップで紹介される。

つまり、映画が始まってわずか数分で
登場人物を極限状態に追い込むことが出来るのである。
これほど効率的な設定はほかに無いだろう。

マーク・ハミル演じる冷酷な将軍も素晴らしかった!

映画との相性の良さはそれだけではない。

生きるか死ぬか?の窮地に追い込まれることで
人間の本質が露わになっていく。

デスゲームは現代社会の
メタファーだと思っている。

持たざる者へ慈悲を施す者は圧倒的少数派。
人々はポジションを奪い合い
脱落者を生み出していく…。

学校や企業、社会構造、世界情勢、
ありとあらゆる状況と規模で
繰り広げられているデスゲーム。

そんなデスゲームを通して
本作が描いた人間の本質は
の狂暴性や残酷さではなく友情だ。

生き残るのはただ一人とは知れど
みんなで最後まで歩こうとする刹那の友情。

数日間にわたって歩き続け、
体力もメンタルも消耗していくなか、
主人公たちは励まし合い、助け合いながら
歩を進めていく。

デスゲーム映画史上、
これほどまで友情を描き切った作品は
ほかに無いだろう。

映画のラストで彼らがどのような選択をするのか
是非、見届けて欲しい。

スティーブンキングの描く友情

本当に本作はシンプルな物語だと思う。

お決まりの仲間の裏切り的な展開もないし
映画ファンが好きな大どんでん返しもない、
ただ最後の一人になるまで歩き続ける映画である。

と、こんな事を言ってしまうと
退屈な内容を連想させてしまいかねないが
目まぐるしい展開の代わりに
用意されているものがある。

それは張りつめ続ける緊張感の中で
彼らが交わす極上の会話劇である。

特に顔に大きな傷を負うアフリカ系のピーターは
名言マシーンか!とツッコミたくなるほど
次々と名セリフを連発し続ける。

死が迫る中で次第にピーターの過去が
明らかになることで
その言葉の一つ一つの重みが
増していく構造は見事だ。

やがて絆で結ばれていく彼らの様子は
状況や緊張感は全く異なるものの
同じスティーブン・キング原作映画の
「スタンド・バイ・ミー」(1986年)を彷彿させる。

友情を描いた傑作と言えば
「ショーシャンクの空に」(1994年)があるが
これも同じくスティーブン・キング原作映画だ。

ただ歩くだけ、
歩みを止めれば殺される、

という心理的な閉塞感がある設定の中で
彼らの極上の会話劇によって
圧倒的な開放感を生み出す。
奇跡のような物語だと思う。

デスゲーム映画を見て
爽やかな感動を覚えるというのは
初めての経験だった。

ジャンルを念頭に何かを生み出そうとすると
つい、様々なアイディアを足しがちだが、
本作は可能な限り無駄な要素をそぎ落とし
デスゲームの本質に向き合った作品である。

新しい作品とはそれでいいんだよ、
というようなことを教えてもらった気がした。


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放送作家:辻井宏仁 最後まで読んで頂いてありがとうございました! 宜しければ応援お願いします!

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