”ゴンクール賞作家”エルヴェ・ル・テリエと”沈黙の思想家”ジャンケレヴィッチ。
エルヴェ・ル・テリエが書いた、ゴンクール賞やベスト・スリラー2021に選出されたベストセラー小説、『異常【アノマリー】』。
この小説は、大型の乱気流に突っ込んだ旅客機に生じた、”異常な出来事”をめぐるミステリー。そこに出てくる主要人物のひとりである小説家、ヴィクトル・ミゼルは、熱に浮かされたように一気に観念的な小説を書き上げた後、バルコニーから身を投げる。その小説のタイトルは、『異常』。

「私は、人生でひとつの行為もなさなかった。私はつねに行為が私をつくり上げてきたことを、私のコントロール下でなされた行為はなにひとつないことを知っている。私の身体は、私が引いたわけではない線の間を動くことに終始してきた・・・」
こんな文章が100ページほど続く。ミゼルは、投身自殺する前に、書き上げた小説のテキスト・ファイルを、担当編集者に送っていた。彼の死後、小説は出版され、話題になる。
そういう内容が書かれているテリエの小説のタイトルも『異常』。つまり「作中作小説」の形をとっている。
テリエは、ミゼルが影響を受けた文学者として、カミュ、カフカ、ゴンチャロフ、ジャンケレヴィッチの名前を出している。
『異常』の中では、通常起こらない”異常”な出来事が、起きてしまう。
それは乱気流に巻き込まれた旅客機と関係している。
バルコニーから飛び降りたミゼルの人生は、そこで終わっているが、「その前に、旅客機に乗った時点の、ミゼル」が、数ヶ月後に出現する。つまり、同じ時空に、数ヶ月時間的なズレがある2人のミゼルが、同時に存在するという”異常事態”が発生する。
「生きている方のミゼル」は、自分が書き上げた『異常』という作品を知らない(『異常』を書く前の段階で、乱気流に巻き込まれ、そのまま時空をジャンプして、数ヶ月後の現在に出現しているから)。だからきわめて客観的な目で、小説を読んで、こんなことを言う。
「まるでドラッグ中毒になったジャンケレヴィッチが書いた小説だな」
テリエが書いた『異常』の中に、2度も出てくるジャンケレヴィッチの名前。ジャンケレヴィッチは、作者テリエにとっても、重要な作家・思想家なのだろう。
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そのジャンケレヴィッチは、著書の中で、こんな文章を書いている。
「われわれが自分の死ぬ時を正確に知っているなら、あるいは逆に、われわれが自分を不死の者と思いこんでいるなら、生は想像だにできないもの、それどころか途方もない化物となろう。われわれがみずからの生存に耐えられるのは他でもない、われわれが、死ぬということは知っているが、死ぬ時を知らないからである。このように、半ば知っていることは、半ば知らないことと絡み合っているのだが、人間にその能力を超えた企てを強いるこの半知こそ、まさに行動の条件なのである」
たしかにミゼルが書いた『異常』と、トーンはよく似ている。
ジャンケレヴィッチは、”死”、”沈黙”、”静寂”について語ることが多いが、音楽に関しても、多くの文章を残している。単独著作として『ドビュッシー』『フォーレ』『リスト』があるし、『夜の音楽』『音楽と筆舌に尽せないもの』といった魅力的なタイトルの本もある。
そこには、こんな文章が書かれている。
「音楽は人間に、人間の神経系に、そして生命機能にさえ働きかける。
この道理に叶わない、告白することも憚られる作用は、心理の埒外で遂行される。この作用は、実証科学よりは魔法の領域だ。
音楽では、提示すること自体がその唯一の真実、真剣な真実だ。
音楽は論述による意味の相互の伝達ではなく、筆舌につくせない直接の交感を認める。
フルート奏者は絶対に何も表現しない。
ドビュッシーは、「音楽は、表現できないもののために作られている」と言った。だが明確にしておこう。音楽が我々に伝達する神秘は、死の枯渇させる”表現されないもの”ではなく、生命、自由、そして愛の実りをもたらす”表現できないもの”だ。
もっと言えば、音楽の神秘は、言語に絶するものではなく、筆舌に尽くせないものだ。死の暗い夜は言語に絶するものだが、それは死の暗い夜が、踏み入ることができない暗闇であり、絶望に導く非存在だからである。そこでは超えることのできない壁が、その神秘を我々から遮っている。
そして筆舌に尽くせないものは、まったく逆に、それについて限りなく、終わることなくいうことがあるため、表現できない。<言葉がない>とヤナーチェクがどこかで書いている。言葉がないところに、音楽が始まる」
ミゼルが書いた観念小説『異常』は100ページほどの作品だったが、ジャンケレヴィッチの『音楽と筆舌に尽くせないもの』は、170ページほど、こういう文章が続く。

