腸は「第2の脳」? ①5億年前から続く、お腹の独立国家
腸には脳から独立した高度な神経ネットワークがある
「私たち、哺乳類の腸には、イソギンチャクやクラゲの神経系がそのままの形で生き続けている」
これは、私の唯一無二の「師」、大学での指導教官が教えてくれた、「神経と進化にまつわる面白話」の一つである。
生物学科に入る人はみな、多かれ少なかれ「進化」に興味があると思っている。私も「個体発生は系統発生を繰り返す」という考え方が大好きで、自分の体の中に進化の足跡があることがなんだかとてもうれしい。
イソギンチャクやクラゲは、最も原始的な多細胞動物で、「刺胞動物(腔腸動物)」に分類される。
刺胞動物には、私たちのような「脳」という司令塔がない。その代わりに、全身に網目状の神経が張り巡らされており、これを「散在神経系」と呼ぶ。

いま、管理栄養士の卵たちに消化管の講義をする時も、卒業研究指導で腸内環境の改善を提案する時も、私の頭の片隅には「腸の中にあるイソギンチャクの散在神経系」の姿がある。
この太古のシステムが司る「消化吸収の現場の知性」を知ると、便秘や下痢、SIBO(小腸内細菌増殖症)、リーキーガットといった悩みが、全く違う景色で見えてくるのだ。
大規模な研究で証明されているわけではなくとも、SIBOでお腹がパンパンになるのも、リーキーガットが起こるのも、腸の中にあるイソギンチャクの散在神経系の機能異常が関連しているのかもしれない。
これから、そんな「お腹の中の、5億年前の知性」について、数回に分けてまとめてみようと思います。
よろしかったたら、お付き合いください。
お腹の中の「2枚重ねの網タイツ」
解剖生理学の教科書を開くと、「消化管の断面図」が載っていて、管腔側から粘膜、粘膜筋板、粘膜下層、固有筋層、漿膜、と層が示されている。そして、2層の筋肉の間と、粘膜の下には神経組織があると書かれている。
この神経組織=腸管神経系こそが、我が師の言う、「腸の中のイソギンチャクの神経系」である。私には、まるで消化管が「2枚重ねの網タイツ」を履いているように思える。

1. 外側の網タイツ「アウエルバッハ神経叢」
まず、筋肉の層の間に、張り巡らされているのが「アウエルバッハ神経叢(筋層間神経叢)」だ。
役割: 腸の「動き」を支配するリーダー。
イメージ: 腸の筋肉(平滑筋)に、絶妙なタイミングで「縮め!」「緩め!」と合図を送る。私たちが意識しなくても、食べたものがスムーズに運ばれる「蠕動運動」のリズムは、この網タイツが刻んでいる。
2. 内側の網タイツ「マイスナー神経叢」
そのさらに内側、粘膜のすぐ裏側に、しなやかに広がっているのが「マイスナー神経叢(粘膜下神経叢)」。
役割: 腸の「感覚」と「分泌」を司る門番。
イメージ: 腸の中を通る食べ物の成分を敏感に察知し、腸液を出す量を調整したり、腸のバリア(タイトジャンクション)を管理したりしている。
私たちの腸は、全長数メートルに及ぶ長い「管」だから、もし脳から各部位に細かく命令を送っていたら煩雑で処理が大変である。
だから、腸は進化の過程で「散在神経系」という網目状のスタイルを維持し、「現場のことは、現場の網タイツ(神経叢)が判断する」というローカルな自治システムを採用したのだと考えると面白い。
発見の歴史:アウエルバッハとマイスナー
解剖学的な名称にはよくあることだが、神経叢を発見した人の名前がそのまま組織の名称についている。
アウエルバッハ神経叢は、19世紀のドイツの解剖学者・神経病理学者であるレオポルト・アウエルバッハ(1828–1897)によって発見された。
1860年代、アウエルバッハは「神経がどのようにして筋肉を動かすのか」というテーマに没頭していた。彼は「鳥の砂肝」を研究対象に選び、当時最新の「染色法」を駆使して、砂肝の厚い筋肉層を顕微鏡で詳細に観察した。
すると、2つの筋肉の層の間に、網目状に広がる神経細胞の集まりがあることを発見した。
実はその10年前には、同じく19世紀のドイツの解剖学者・生理学者であるゲオルグ・マイスナー(1829–1905)が、わずか23歳のときに、より粘膜に近い層にある「マイスナー神経叢」を発見していた。
この2つの発見により、消化管には「マイスナー(分泌・管理)」と「アウエルバッハ(運動)」という、役割の異なる2つの巨大な神経ネットワークが重層的に存在することが明らかとなった。

これが、後に腸は「第2の脳」である、と言われ、脳とは独立した神経系が自律的に腸を支配するという考えの重要な基礎となったのだ。
【次回予告】 この5億年前から受け継がれた「網タイツ」は、実は脳が完成するよりもずっと早く、お腹の中で自律的に作り上げられます。まさに、脳の指示を待たない「独立国家」です。
次回は、腸という独立国家の「発生の秘密」と、網タイツを動かすための「資源(エネルギー源)」についてまとめます。
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