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ひとりぼっちの帰り道 | エッセイ


ある人は、大事な人と一緒に手を繋いで帰路につき、

またある人は、和気藹々と心許せる人の群れに吸い込まれ、

そしてある人は、誰かが待っているわけでもない家路を辿る。




いきなり暗い話になってしまうかもだが、この中に自分の当てはまる人物像は、紛れもなく後者の方である。それもこの先も変わらず、ずっと続いていくのだと、独り勝手にそう思っている。

もしも仮に自分自身が、今でも寂しがり屋さんであるとするならば、自ら大事な人を探して今とは異なった世界線という未来を歩み、心の底から充実していると思えるような人生を謳歌し続けているに違いない。

そして大事と思える家族を育み、自分以外の誰かのために幸せを与え続け、かつ安寧を案じて躍起になって日々を過ごしているはずだろう。


しかし今現在も私はこうして、PCの前で何らかしらの文章を打ち込み続けている。いつかどこかで叶うはずだと思い描いていた理想とは、かけ離れた場所に生きている。そうした眩くも美しく見える背中も、到底追い付けられるはずがない。

いったい自分は、どこで道を間違えてしまったのだろう。どこで踏み出すべき脚の歩幅や足跡を間違えてしまったのだろう。いつか必ず、なりたい自分になりたかった。けれども、なりたい自分になれなかった。

かつて少年の心を抱いていた私は、何時か、何処で、その脚で誤った踏み方をやってしまったたびに、人一倍の後悔を抱いてしまっていた。「後悔先に立たず」とわかっていながらも、それでもなお悔やみきれないままでいたのである。


その感情が薄れていったのは、ここ最近で起きた出来事の数々だ。もしかしたら、30代になったというイベントが起因しているかもしれない。だがそこにたどり着く以前も、やがて到達してからしばらくの間も、数多の不幸が自分の身に降り注いでいた。

それらを一つ一つ指折って数えるのは、精神的な部分を含めても気が遠くなる話でもある。もしも、挫折という二文字を経験していない世界線の自分が、それらの出来事に突然直面したとするなら、果たして無事に生き延びることは出来ただろうか。

そんなふうに、架空の人物を取り上げるように危惧しても仕方がない。過ぎ去った出来事は、もはやただの通過点でしかない。それよりもこの先をどう生きるか、どのように生き抜いていくのかが、これからの自分にとって大事とも云うべき焦点なのだ。



先月「劇映画 孤独のグルメ」をひとりで観にいった際、井之頭五郎演じる松重豊の、エンドロールを背に独り歩き去っていく姿に、その時の映像のみならず音楽までも脳裏に焼き付いていた。

これまで放送されていたドラマ版では、イヤというほど「松重“五郎”豊のテーマ」をバックに流れるエンディングを含めて視聴していた。だが、今回の劇映画では今までのものと類を見ないと思えるほど、常に開きっぱなしの自分の心に残ったのである。

映画を観終わった後も、これまで感じたことのなかった余韻が残ったまま、私は家に帰っていった。振り返れば、想像していた理想とは、はるか遠くかけ離れた場所に立っている。そして今もなお、ひとりぼっちの帰り道を辿っている。


ひとりぼっちの帰り道…だけれど、ひとりぼっちでも、決して悪くはない。


日々の疲れやストレスに苛まれ、俯きながら寂しく帰路に着くことがあっても、 ほんの少しだけ前を向いて歩き出せる。もしかしたら、なんのはなしですかと突如問い質されても…という話さと開き直れるかもしれない、なんて。



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タダノツカサ 最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!