エッセイ : フランス語学習について、あるいはヨーロッパ言語と日本語の比較
斉須政雄さんの『調理場という戦場』を、さいきん読み返していた。
それで読んでいたら、フランス語学習欲がムクムクと頭をもたげてきたので、積み本から(私の部屋の積み本は、単に本棚がないから積まれているだけである)、再びフランス語入門の本を手に取り、また一から勉強し始めた。
以前、私はフランス語の勉強をしており、おそらく生涯かけて学習し続けるのだろうと思っていた。
というのは、フランス語が強迫神経症(不完全恐怖)に効くと考えていたからだ。
実際に効いた。それは、フランス語の構造が理由である。英語やロシア語は文法的に、キッチリ収まってしまっているのだが、フランス語はなんかちょっとはみ出しているのだ。
心理学者のジョージ・ウェインバーグは、「行動が、背後の動機や感情を強化する」と言う。キッチリした英語やロシア語の学習は、強迫観念を強め、はみ出したフランス語のそれは、強迫観念を弱めるのだろう。
村上春樹は自己療養として、長編小説を書き始めたのだが、おそらく村上さんも私と同じ理由で長編を書くことを始めたのではないだろうか? 短編はキッチリ収まってしまうものだけど、長編はどこかはみ出してしまうものだからだ。
ちなみになぜ、フランス語の勉強をやめたのかといえば、森田療法の本を読み、そこに書かれていることを実践したら、強迫神経症が治ってしまったからだ。
フランス語学習は私にとって対処療法だったが、森田療法の実践は原因療法だったのだ。
それで、また最近フランス語学習を始めたのだけど、私は複雑な構造のセンテンスを読解するときは、とりあえず、それを英語に翻訳することにしている。Google翻訳などを使って。
というのは、フランス語と英語の文法はよく似かよっているからだ。フランス語のセンテンスを読んでいると、変な英語を読んでいるような錯覚に陥ってくるくらいである。
ロシア語の学習のときも、ロシア語を英語に翻訳してみることがあったが、いまいちピンと来なかった。文の構造が、ロシア語と英語とでは違い過ぎるからだろう。
私はロシア語の構造は、むしろ日本語に近いのではないか?と思っている。be動詞も使わないし、日本語でいう活用も多いからだ。文の語順も、日本語並みに自由だったりする。
フランス語に限らないけれども、外国語の勉強をしていると、自分の書いている日本語がその外国語っぽくなってくる。
英語なんかもそうである。英文を毎日のように眺めていると、書く日本語が英語っぽくなってくることがある。
たとえば、やたら「私」と主語を多用してしまう。英語というかヨーロッパ言語はそういうものだけれど、日本語でやると不自然極まりない。「我」を強調し過ぎているきらいまである。それに、日本語の構造的に(つまりSOV言語では)、主語は省略してしまったほうが読みやすくもなる。
主語にしても目的語にしても、日本語は省略する言語だと思うのだけど、日本人の「察する能力」というのは、おそらく日本語によって鍛えられたのではないだろうか?
それで、フランス語の勉強をしていると、やはり日本語がフランス語っぽくもなってくる。
どのようにフランス語化するのかといえば、文章が俯瞰的になるのだ。鳥の視点になってくる。
英語もロシア語も、日本語に比べると、俯瞰的な言語なのだけれど、フランス語はさらにその上をいくのだ。
外国語(ヨーロッパ言語)の勉強をしていると、日本語というのは主観的なんだなと思う。虫の視点なんだなぁと。
いちおう言い添えておきますが、それが悪いと言っているわけではなく。主観的なもののほうが、情感はこもる気がするからだ。論文調の文章はヨーロッパ言語が、芸術的な文章は日本語が強みを発揮するのではないだろうか?
