見出し画像

小説『転生なんかクソくらえ』 第2話 幼馴染の彼

 五十沢幽の朝は早い。簡単には開いてくれない襖を音を殺しながら時間をかけて開け、キッチンで食パンをポリ袋に詰めると玄関へと向かう。そしてボロボロのスニーカーを履き、予め玄関に用意しておいた荷物を持つと、私は外の世界へと逃げ出した。

 昨日この〝体〟の幼馴染と出会った公園に到着すると、私はそこにある四阿に入る。ポリ袋から食パンを取り出し、それをよく噛んで空腹を紛らわせ、それから設置されている椅子と机で課題に取りかかった。

 太陽と山稜の間隔が徐々に広がっていき、それにつれて気温も徐々に上がっていく。雀の玲瓏な鳴き声が短く響き、それをカラスの無遠慮でがさつな鳴き声が台無しにした。

 課題をとっくに終え、惰性で教科書の問題を解いていた私は七時半を回った公園の時計を見て腰を上げる。そして昨夜と同じようにトイレの中でジャージから制服へと着替えると、私は公園をあとにした。

 こうまでして私が家で着替えを済ませてこないのは、あの家では五十沢幽の立てる生活音が全て騒音として扱われてしまうためだった。少しでもあの男の気に障ると、それは常に痛みを伴う結果に繋がった。

 だが最も深刻な理由は他にあった。数ヶ月前、押し入れの中で着替えをしていたときに「うるせえ!」と怒鳴って襖を開けてきたあの男が、一瞬呆気にとられた後、じっとりとなめまわすかのような卑猥な視線をこの体に向けたのだ。

 その時感じた筆舌に尽くしがたい恐怖と吐き気を催すほどの気持ち悪さ。そして、目の端で捉えたあの男の股間の膨張は、五十沢幽の記憶に強く刻まれ、その身に起こり得る最悪の事態を嫌でも想像させた。

 それ以来、男は騒音を口実に襖を開けることが多くなったが、五十沢幽はもう二度とあの男を欲情させる可能性があることは家では絶対にしないと誓っていた。それだけがこれ以上何も奪われないようにするための五十沢幽の最後の抵抗だったのだ。

 この事情を把握したとき、〝私〟はこれまでの中でも飛びぬけて不幸な〝体〟ではないかと思うと同時に、ここまで生き続けてきた五十沢幽の強さに少しばかりの引け目を感じた。というのも、〝私〟はもう既に次の自殺のことを考えてしまっていたのだ。

 〝私〟に起きる転生にはある程度の規則性がある。一つは年齢が一致すること。そしてもうひとつはその〝体〟が不幸であることだ。このうち、後者のルールにはある程度振れ幅というものがあるようで、もう一度死ねば少なくとも今よりはマシな〝体〟にはなれるだろうと〝私〟は考えていた。

 道行く人と距離を取りつつ人の少ない裏門から学校に入り、敷地内をぐるりと回って昇降口にたどりつく。上履きに履き替えて教室に行くと、私の席の近くに女子生徒が数人集まり、私には理解できない単語を交えながら談笑しているのが目に留まった。しかし、それは本来起きてはならないことだった。私は背筋に冷たいものが走るのを感じ、すかさず踵を返してSHRショートホームルームまでの時間をどこかで潰さなければと急いでそこを離れようとする。

「「あ」」

 振り返った直後、廊下の角から姿を現した女子生徒と鉢合わせになり、その声が重なった。出くわしたその女子生徒はすぐににやりとした卑しい笑みを浮かべると、私の手首を捕まえて教室の中にいる仲間を呼ぶ。

「みなみー! いいもの見つけたからちょっとこっちきてー!」

 彼女の呼びかけに応じ、私の席の近くでたむろしていたみなみと呼ばれる女子生徒と、その取り巻きたちがぞろぞろと教室から出てきて私を取り囲んだ。私は今日の時間割が十五分繰り下げになっていることに気づけなかったことを惶惑のなかで激しく後悔する。

「幽ちゃんがこんなに早く来るなんてめっずらしー。そんなに私たちと一緒に遊びたかったのー?」
「ってかコイツいつにも増して臭くなーい? なんか酔って帰ってきた親父みたいな匂いすんだけどー」
「もしかしてお酒飲んでるとかー? 未成年飲酒はだめって知らないのかなー?」
「えー? じゃぁ私たちで躾けてあげないとだめじゃなーい?」

 臭いと思ってるんなら近寄って来ないでよと抗議したいのに、〝体〟が言うことを聞かない。家庭において意図せず育まれてしまったただ耐えるという処世術は、学校では皮肉にもいじめをエスカレートさせる結果に繋がっていた。

 まるで警察に連行される犯人のように、私は取り囲まれたまま廊下を進まされる。行先は女子トイレだ。この〝体〟の記憶がそこで行われるであろう行為を想起させ、私を小さく震わせる。

 もはや万事休すかと思われた時、トイレ手前の階段から飛び出す人影があった。

「あっ、幽! おはよう! 今日は早いんだな。って、俺がのんびりしすぎたのか。でもちょうどよかった! ちょっと来てくれ!」

 彼はそう言うがはやいか周りの女子生徒には目もくれず、私の手をとって廊下を走りだした。

「ちょっ! うちらその子に用があるんだけど!」
「悪い! あとにしてくれ! こっちは急ぎなんだ!」

 彼はそう言い残すと、私の手を引いたまま廊下の角を曲がって彼女たちの視界から外れていった。彼はそのまま自習用の共用スペースに向かうと、そこでやっと足を止める。

「ったく、あいつらまだあんなことやってんのかよ。しょうもねぇことしやがって」

 走って乱れた呼吸を整えつつ、彼はそんな悪態をつく。対する私は掴まれていた手首を振りほどき、抗議の声を発した。

「ほっといてよ!」

 この感情は怒りだ。その矛先を向けるべき相手が彼ではないことは理解している。それでも私にはどうしてもこのジレンマの捌け口が必要だった。

「あんたには関係ないでしょ!」

 声が震える。いつも助けてほしいと思っているはずなのに、いざ助けてもらうと助けてもらわなければいけない弱い自分を突き付けられているようで嫌になる。二年生になり、彼と違うクラスになってから急激にエスカレートしたいじめは、彼に守られていたという事実を否が応にも突き付ける。しかしその事実を、この〝体〟は決して認めたがらなかった。

 プシュッ

 突如小さなスプレー音とともに手に冷たい感覚が走り、私は思わず飛びのいた。見ると、彼が手に霧吹き状の容器を持ってそれをこちらに向けている。

「おいおい、動くなって。均等にかけれねーだろ」

 彼の持つスプレーには爽やかな字体で〈消臭剤〉の文字が躍っていた。

「……なんのつもり?」
「なんのつもりも何も、昨日お前が自分のこと『臭い』って言ったんだろ? だったらとりあえずコレで解決だろ」
「そうじゃなくって……」

 話の噛み合わなさに私は思わず頭に手を当てる。それと同時に先程までの理不尽な怒りもため息となってスプレーのように霧散した。

「ただその代わり――と言ってはあれなんですけどね、幽さん。実はそのー、数学の宿題をちょぉーっとばかしお見せいただけないかなぁーと……」

 やにわに態度を変えた彼が、頭をポリポリとやりながら横目で私の方を窺いはじめた。どうやら先程の「急ぎ」という言葉はただの方便ではなかったらしい。今度は呆れでため息が出る。

「私、二時限目が数学だから早く返してよ?」

 私がカバンから取り出したプリントをぶっきらぼうに差し出すと、彼は大げさに頭を下げながらそれを受け取った。

「ありがとうございます幽様! あ、これもう残り少ないからあげるわ。じゃ、またあとでな!」
「え? ちょっと――」

 声をかける間もなく、彼は走り去っていった。あとに残された私の手には、ほとんど新品に近いくらい中身が残っている消臭剤が押し付けられていた。



 カシュッ

 一月前に貰った消臭剤の容器が掠れた音を出した。極力節約しながら使っていたつもりだが、どんなに努力したところでいつかはなくなってしまうものなので惜しんでも仕方がない。それに、そんな努力も今日で終わりになる。今日は夏休み前の最終登校日だった。

「いかなきゃ」

 まるで時計仕掛けのように、私は公園の時計が刻む時間に従っていつもの公園を出て学校へ向かう。この一ヶ月の間に〝私〟の方にも刷り込まれ始めているお馴染みの通学路を辿る中、私はこの〝体〟の幼馴染である新星のことを考えていた。

 彼はこの一ヶ月間、毎日私と帰路を共にし、ことあるごとにおせっかいをやいた。ときにはそういった言動が鬱陶しく感じられることもあったが、不幸なこの〝体〟で今日まで生きていくためには彼との時間が必要だったのも確かだった。

 いつも通り私はSHRの二分前というギリギリの時間に教室に入る。石本みなみを代表とするいじめ加害者たちも先生の前で堂々といじめをするほど馬鹿ではないので、この方法が有効なのは昔から変わらない。とはいえ、二年生に進級した際のクラス分けで、新星とは違うクラス、石本みなみらとは同じクラス、という最悪の状況に陥ってしまってからはそのギリギリさに拍車がかかったというのも事実だった。

 不幸中の幸いと言うべきだったのは、幕原隆二まくばらりゅうじが同じクラスであることだった。彼は男女ともに認めるイケメンで、勉強も運動もそつなくこなすいわゆる才色兼備のクラスの人気者だ。女子からの人気が高いのは言うまでもないが、その気取らない爽やかな性格のために男子からの好感度も高い。

 そして石本みなみはその幕原隆二にぞっこんだった。彼女はチャンスさえあれば彼にすり寄って猫なで声を発し、傍目には気持ち悪いほどに体をくねらせ、とにかく手練手管を弄して彼に取り入ろうと躍起になっていた。そのため、彼女は彼の前で私をいじめるようなことはしなかったし、私の方もそれを利用してできる限りその機会を摘んでいた。

 数学・物理・倫理と座学が続く今日の日程は、とりあえず教室に居続けさえすれば問題は避けられた。授業の合間の休憩も十分ほどだし、四時限目は終業式なので憂慮すべきことは特にない。

 この学校では伝統として長期休暇前日は午前授業で終わることになっており、部活動もすべて休みとなっていた。曰く、教育においては飴と鞭が重要で、これは飴にあたるのだそうだ。

 一応この学校にも夏期講習はあるのだが、それに出るためにはお金がかかるので私には縁がないものだった。加えて成績に直結するわけでもないので、少なく見積もっても生徒の半数以上は出席しないらしい。そんな事情も相まって、クラス担任である新井先生が「解散」の一言を発した時の教室の爆発ぶりは、小学校のそれとほとんど同レベルだったと言って差し支えないものだった。

 私は帰りにどこへ立ち寄るか相談する生徒たちの合間を縫ってこそこそと廊下へと出る。件の石本みなみは、幕原隆二をカラオケに誘うことに夢中になっており、私には目もくれなかったので、特段障害となるものはなかった。

 一方で昇降口の人ごみは私にとって十分な障害となった。普段は他の教室へ散っていく文化部や、屋内スポーツに興じるため体育館に向かう運動部が、今日だけは全員同じ時間にここに集っているのだから当然の結果ではある。特段急ぐわけでもない私は人混みがはけるまでの間、いつもの場所で時間を潰すことにした。

 目的の部屋の前で二回ノックをして「失礼します」と言いながら入室する。まるで病院のような匂いが漂う白が目立つ空間。その奥に、うちわを片手にTシャツ姿でデスクに向かう水野先生がいた。

「あら、五十沢さん。いらっしゃい」

 彼女はTシャツの襟を左手で軽く引っ張り、そこにできた空間へうちわで空気を送り込んでいた。入口横にかけられた温度計の赤は32までの領域を赫々と塗りつぶしていたので、彼女の行為自体はごく自然ではあるのだが、もし入ってきたのが男子生徒だったらどうするつもりだったのだろうと思ってしまう。

「ちょっと恥ずかしいところ見られちゃったわね」

 彼女は暑さのせいか羞恥のせいか、若干頬を赤らめながらうちわを置いた。

「少しだけいさせてください。人が少なくなったらすぐ帰りますので」
「どうぞどうぞ。むしろ五十沢さんがいてくれた方が助かるわ。エアコンの電源を入れる口実ができるからね」

 節電の一環ということで、生徒がいない間はエアコンの電源を切らなければいけないというぼやきを私は過去に水野先生から聞かされていた。彼女にとって都合がいいのであれば少しくらい長居してあげてもいいのかもしれない。今日まで私に避難場所を提供し続けてくれた水野先生への最後のささやかなお礼として。

「はぁー。生き返るぅー」

 デスクと入口の間に設置されたテーブルに場所を移した水野先生が、その上に備え付けられた空調から出る冷気にため息をもらした。

「ほら、五十沢さんもいらっしゃいよ。とっても涼しいわよ」

 手招きに応じて私は彼女の対面の席に座った。よく冷えた空気の対流の中に身を置くと、知らぬ間に火照っていた体表から熱が奪い取られていくのがよくわかる。もしかすると死んだ後の体というのはこんな感じで冷えていくのかもしれない。私はふとそんな風に考えた。

「五十沢さんは夏休みは何か予定はあるの?」
「え?」

 物理的ではない意味で体が芯から凍る感覚が走る。その質問は私にとってあまりに残酷なものだった。

「友達と遊んだりとか、家族で旅行に行ったりとか、夏休みってそういう気分転換ができるいい機会じゃない? 五十沢さんは成績の方は問題ないみたいだし、息抜きが必要なんじゃないかしら?」

 彼女に全く悪意はない。それはわかっている。けれど、その言葉はどれも凶器のように私に深く突き刺さる。そんな未来は絶対にありえない。たとえ私が思いとどまったとしても、それは変わらない。

「考えて……みます」

 強引に喉から搾り上げた言葉は、震えと掠れで消えてしまいそうだった。

 その時、保健室のドアがコンコンとノックされる音を響かせた。

「しっつれいしまーす。あ、やっぱここにいた」

 宣言通り失礼な態度で入室してきたのは、こともあろうにあの新星だった。

「え……なんであんたがここに来んのよ」
「だって、お前の靴まだ下駄箱に残ってたからさ」
「理由になってないんだけど。っていうか勝手に他人の下駄箱覗かないでよ、変態」
「っせーな。靴なんか見たところで何も減りゃしねーだろ」
「そういうことじゃないでしょ」

 なんでこうも彼とは話の焦点が合わないんだろうか。これ以上は労力の無駄だと悟った私は、少し乱暴に席を立つ。

「あら、五十沢さんもう帰っちゃうの?」
「すみません、邪魔が入ったので……ありがとうございました」
「おい、邪魔ってなんだよ」

 エアコンの利用券である私を惜しむ水野先生を背に、私は新星を押しのけて廊下へと出た。途端にむわっとした湿度の高い空気が体を包む。私は水野先生には気の毒なことをしたなと思った。

「ちょっと待てよ。かすかー」

 廊下をいく私の後ろを彼が追いかけてくる。

「夏休み直前まで私に何の用よ」
「今日って何の日だと思う?」
「人類が初めて月面に降り立った日」
「そうじゃなくってさー。ほら、もっと身近なのがあるだろ?」
「夏休み前の最終登校日」
「確かに身近だけど! そういうことでもなくってさぁ……」

 彼は何に対する煩悶か、前かがみになって大袈裟に頭を抱えつつ、うんうんと唸っている。そして終いにはがっかりしましたと言わんばかりに脱力して腕を垂れると、猫背でぼやきを始めた。

「俺は悲しいよ……。よもや幼馴染にこんな扱いを受けるなてさ」
「だから一体何の――」

 あまりに迂遠な彼の態度にそろそろ苛立ちを感じ始めていた私は、それについて抗議しようと思った矢先、この〝体〟の記憶のうちにその答えを見出して「あ」と声を漏らした。

「そういえば、今日って新星の誕生日だっけ……」

 その私の小さな呟きを聞いた途端、彼は顔をパッと明るくし、元の声音より少しハイトーンな口調でまくしたてた。

「さすが幽! ちゃんと覚えててくれてたか!」
「言っとくけど、プレゼントとかねだられても――」
「んなの要らねーよ。ただ、ちょっと付き合ってほしいことがあるんだけど――」

 彼はそこで少しだけ迷うかのうように言葉を切り、視線を泳がせたが、すぐに私の方に向き直るとはっきりとした口調で言い切った。

「俺の誕生日、一緒に祝ってくれない?」

 私はその言葉が意味するところがよくわからず、その意図を問い質す。

「どうやって?」
「昔と変わんないって。俺んで一緒にうまいもん食って、適当に遊んで、それだけだよ」

 彼は自分の言っていることの意味を分かっているのだろうか。小学生ならいざ知らず、高校生の男女間でそういうことを恥ずかしげもなく口にするなんて。

「友達に頼めばいいでしょ」

 彼はクラスではムードメーカー的な立ち位置にいる存在なので、当然ながら友達も多い。彼の誕生日を祝ってくれる人は他にもたくさんいるはずだった。

「それは去年やった」

 私は彼の言葉を半ば無視するように上履きを脱ぎ、それをカバンの中に突っ込むと、外履きを履こうとその場にかがみこむ。これ以上彼と関わってはいけない。私はひたすらそれだけを意識していた。しかし――

「だから今年は幽がいい」

 彼のその言葉に、私は目を見開いた。思わず彼の方を振り向くと、そこにはいつもの快活さで物を言う彼ではなく、真剣な表情の彼がいた。数秒間の沈黙に次いで、急に体温が上がっていく感覚が押し寄せる。

「イヤ……か?」

 彼が少し寂しげな表情で問い直した。私は堪らなくなって顔をそむけるように視線を外すと、詰まりそうな言葉で答えを返す。

「別に……いい、けど」

 胸が熱い。もう遠い昔に忘れ去ってしまった必要とされるという感覚の突然の再来に体の反応が追いつかない。急激に何かが満たされ、零れそうになる。私はそれを必死に抑えこむだけで精いっぱいだった。

いいなと思ったら応援しよう!