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小説『転生なんかクソくらえ』 第3話 再来の味

 私たちは学校から徒歩十五分ほどのところにあるスーパーで買い物をし、それから彼の家に向かうことにした。

「メニューはたこ焼きで大丈夫だよな?」

 スーパーの看板が見えてきたところで彼はそう切り出した。

「あんたの誕生日なんだから、好きにすれば?」

 もっともらしい返しはしたものの、それは半分本意ではない。味覚を失ったこの〝体〟にとって、食事に何を選ぶかというのは何の栄養素をとるのかという選択と同義であり、それは文字通り味気ない行為でしかない。そのため、「なんでもいい」というのが私の本音だった。

「じゃぁたこ焼きにしよう」

 この〝体〟の記憶によると、彼は昔から何かしらお祝い事があるたびにたこ焼きを注文していたらしい。どうやら高校生になっても彼の好物は変わらないままのようだ。

「あれ? 新星?」

 スーパーに入る直前、駐輪場の方から彼の名を呼ぶ声が聞こえ、私たちは同時に声がした方を振り向く。そこには手に自転車用のワイヤー錠を持ってこちらに視線を向ける意外な人物の姿があった。

「え? 隆二?」

 新星が驚きの表情を見せつつ、スーパーに入るのを止めて幕原隆二の方へと歩いて行ったので、私もこそこそとその後ろに追随した。

「珍しいね、こんなところで会うなんて」
「隆二の方こそ、女子とカラオケにでも行ってるのかと思った」
「今日はあんまりそういう気分じゃなくてね。新星の方こそ、あんまり女子には興味ないタイプなんだろうなって思ってたのに」
「ばっ! そんなんじゃねーよ! 幽は昔からの幼馴染で、今日はその……俺の誕生日を祝ってくれるっていうからさ」

 なんで私から申し出たみたいな物言いになっているんだと思ったが、指摘するのも面倒なのでスルーする。

「へぇ、そうなんだ。今日って新星の誕生日だったんだね。だったら僕も一緒にお祝いさせてもらってもいいかな?」
「え?」

 思わず口から漏れた一音にハッとし、私は急いで口を噤む。だが、この距離でそれを誤魔化すことはかなわなかった。

「あ、もしかしてお邪魔だったりするのかな?」

 その言葉に茶化すような意図は一切ないらしく、彼はあくまで爽やかな笑みを浮かべている。

「い、いや!? ぜんっぜん邪魔じゃねーよ!? むしろ嬉しいくらい!」

 逆に誤解を生みそうな新星のオーバーリアクションに私は頭を痛めたが、それに対する幕原隆二の対応は実に穏当なものだった。

「そっか。それならよかった。僕は一度家に帰らなきゃなんだけど、どこに集まればいいかな?」
「あぁ、それなら俺んに来てほしいんだけど……」

 二人のやりとりを横目に見ながら、私は幕原隆二が来ることについて複雑な感情を抱いていた。一年生のときからクラスが同じとはいえ特段交流もなかったわけで、どう接していいのかいまいち距離感がつかめない。しかし今日の主役である新星が来てもいいと言っている以上、私がそこに異議を唱えるのも憚られた。

「じゃぁまたあとでね」
「おう」

 私たちがスーパーの中へと足を向けると、その後ろで自転車が駐輪場を出ていく音がした。



「長ネギ、天かす、紅ショウガ、それからタコ……と。卵はあるって言ってたし、あとは青のりとお好みソース……それから削り節かな」

 私はこの〝体〟の昔の記憶を頼りに、材料を一つずつ頭の中で確認しながらスーパーの中を歩き回っていた。すると、手に持っているかごに小さな衝撃が走ったので中を見ると、奇妙なことにそこにはチーズが加えられていた。

「なんでチーズがいるのよ?」
「え、知らないのか? タコの代わりにチーズ入れるとめっちゃうまいんだぜ?」
「ほんとにぃ?」
「まじだって」

 私は彼の言にやや訝しさを感じつつも、特にかごからチーズを除くわけでもなく、店内を回って足りない材料をその上へ追加していった。

「多分これで大丈夫だと思う」

 たこ焼きを作る材料を一通り揃えた私は、若干気後れしながら買い物かごを新星に手渡した。どのみち私の財布の中にある貧弱な小銭たちにこの規模の支払い能力はないので材料費は彼に持ってもらうしかないのだが、やはり申し訳なさは拭えない。

「オッケー。じゃぁあとは――」

 てっきりそのまま会計に行くとばかり考えていた私は、レジに背を向けて歩き出す彼を見て何を買う気だろうと首を傾げた。しかしその答えは実に単純明快で、彼の向かった先はお菓子の陳列棚だった。

「幽も好きなの選んでいいぜ」

 彼はそう言いながら手当たり次第にお菓子をかごの中へ放り込んでいった。私はそんな彼に昔の面影を見た気がして、安堵とも呆れともつかないような息の付き方をすると、一足先にスーパーの出口へと向かうことにする。

 しかしその途中、目の端に飛び込んできたあるものに私は思わず足を止めた。そしてすぐさま財布を取り出して手持ちの小銭を数え、ギリギリ支払える金額であることを確認すると、私はそれを手に取ってレジへと向かった。



 彼が住んでいるのはワンルームのアパートだった。201と記された扉を開けながら、彼は私を手招きする。

「おじゃまします」

 私は靴が辛うじておける程度の小さな三和土たたきで靴を脱ぎ、部屋の中へと入る。大雑把な彼の性格からして、多分散らかっているんだろうなと思っていたその部屋は、意外にも綺麗に片付いていた。

「ゆっくりしてってよ。狭いとこだけど」

 彼は苦笑しながら壁際に立てかけてあった折り畳み式の机の脚を展開していった。

「へぇ、シャワールームがあるんだ」

 玄関の占める領域と部屋の大きさから考えて、玄関の横に何かしらの空間がありそうだなと思っていた私は、部屋の中にその空間に面した白い扉を見つけていた。

「トイレと一緒だけどな。でもなんだかんだそれがあるのはありがたいよ。まぁ風呂に入りたいなら銭湯に行くしかないんだけどな」

 彼はそう言いながら私の前で恥ずかしげもなく着替えを始めた。もっとも、彼は制服を脱ぐだけでTシャツ短パン姿になったので、隠すべきものは特にないようだった。

「あ、しまった。幽って今日ジャージとか持ってきてたりするか? 流石に制服姿で料理はまずいよな……」

 彼がここにきて持ち前の無計画さを発揮した。しっかり一人暮らしをしているように見えても、やはりそういう抜けたところは変わっていないらしい。

「大丈夫、いつも持ち歩いてるから」

 毎朝の特異なルーティーンのために私は常にジャージやTシャツを持ち歩いているので、彼の懸念は杞憂に終わった。しかし問題はそこではない。

「で? ここで着替えろっていうの?」

 自分で言っておきながら若干の羞恥を感じてしまう。しかしその程度は私よりはるかに彼の方が大きいようで、彼は顔を耳まで真っ赤にしてまくしたてた。

「は、はぁ!? いや、シャワールームとかあるだろ! 変なこと言うんじゃねーよ!」

 彼の狼狽ぶりが面白かったので、私はぷっと噴きだした。そしてからかいと注意の二つの意味を込めてこう念を押す。

「覗かないでよ?」
「覗かねぇよ!」

 一連のやり取りの中、〝私〟はこういう関係っていいなと感じていた。友達でも恋人でもない、幼馴染という独特の距離感。未だかつて感じたことのない独特の安らかさがこの関係にはあった。

「あぁ、そうだ。幽」

 着替えを袋から取り出し、シャワールームに入ろうとする私を彼が呼び止めた。

「シャワー、かかっていったらどうだ?」
「え?」
「あー、そのー……ほら、普段あんまそういう機会、ねーんだろ?」

 訥々としつつも、彼は私が予想だにしない提案をしていた。

「タオルはそこに置いてあるやつを使ってくれていいし、着替えはトイレ側に置いといてカーテンで仕切れば濡れねーからさ」

 彼が指さした方を見ると、シャワールームの入口横に配置された三段ボックスの上にタオルが数枚畳んで積んであるのが見て取れた。私は彼の方に視線を戻しながら、今度はおちょくるつもり満々でその言葉を口にする。

「変な期待してないよね?」
「だからしてねーって言ってんだろ!」

 無論、私はそれが彼の純粋な優しさからの提案であることを知っていた。だが、親しき中にも礼儀ありという。これ以上は流石に彼に失礼になってしまいそうなので、私は最後の言葉をこう結んだ。

「じゃぁお言葉に甘えようかな」

 私はそう言うとタオルを一枚とって、シャワールームへと入っていった。



 週に一回銭湯に行ければ良い方というあまりに不潔極まりない生活をしていた私は、彼の生活費の負担にならない程度にシャワーを満喫した。清潔感のある白いタオルで水滴を拭い、下着を身に着け、Tシャツと学校指定の名前の刺繍が施されたハーフパンツを着てシャワールームを出る。

「あ、五十沢さん。お邪魔してます」

 声をかけてきたのは先程スーパーでばったり出会った幕原隆二だった。どうやら私がシャワーを浴びている間に到着したらしい。私はなんと返したものかわからず、軽く会釈して対応すると、それから小さな台所に向かっている新星の横までいって声をかけた。

「使ったタオル、どうしたらいい?」
「あー、それならそこにある洗濯機の中に――」

 ねぎを刻む手を止めて私の方を見た彼の言葉が途切れた。彼の顔はぽかんとしているように見えるが、私はその理由がよくわからず首を傾げて問い直す。

「タオル、洗濯機の中に入れとけばいいの?」
「あ、あぁ、うん」

 なんだか歯切れの悪い返答だったが、とりあえず私は言われた通りに洗濯機の中へタオルを放り込んだ。

「五十沢さんってさ、髪綺麗なんだね」
「え?」

 突如後方から夢にも思わない誉め言葉が投げかけられた。あまりに唐突な事態に私は虚を突かれ、返事に困ってどぎまぎとする。

「あ、その……どうも」

 その時幕原隆二が見せた微笑みを見て、私はなるほどなと納得させられた。彼は天然の女たらしだ。石本みなみはこれにひっかかったに違いない。そう確信させられるくらい、彼のその言動には破壊力があった。

 そしてそれを目の当たりにするという学校では絶対に起きえないシチュエーションに私は動揺していた。とりあえずなんとかしてこの変な空気を紛らわそうと、私は台所に向かっている新星に再び声をかける。

「新星、材料切るの代わるよ。新星は誕生日なんだからゆっくりしてて」
「俺は別に気にしないけど?」
「私が気にするの! 材料費は持ってもらったんだから、これくらいはさせてよ」
「お、おう。そうか?」

 私に気圧され、彼はしぶしぶ台所を譲った。まな板の上には切りかけの長ネギが乗っている。細切りというには少々分厚いような気もしたが、昔に比べれば随分マシになっているようだ。一人暮らしを通して彼の料理スキルも多少は上達したのかもしれない。

「僕も何か手伝った方がいいかな?」

 その言葉に振り向くと、隣には幕原隆二が立っていた。「大丈夫です」という言葉が口元まで出かけたが、少し考えて私はたこ焼き粉を手に取った。

「じゃぁこのたこ焼き粉を混ぜて貰ってもいいですか? 袋の裏に何を混ぜるかは書いてあるので」
「オッケー」

 彼にたこ焼き粉を渡す際、視界の端で新星がなにやら不満そうにしているのが見て取れた。おそらく一人だけ手持無沙汰になったことへの不満なのだろうが、誕生日くらい受け身に甘んじてほしいものだなと私は思った。

 

 ジュワッ

 熱されたたこ焼きプレートが、薄いクリーム色の生地で覆いつくされた。中の具として半分にチーズ、半分にタコを詰め、半球の窪みから飛び出した分の生地は火が通って固まりはじめた部分から半球の中に竹串で押し込める。そして、火が通り切っていない中がまだとろっとした状態を見計らい、それを竹串でくるっと回転させていく。

「新星も五十沢さんも、随分手馴れてるね」
「まぁな。俺の好物だからってのもあって、昔から一緒にたこ焼き焼くことが多かったし」
「そっかー。僕、実は初めてなんだよね、タコパ」
「ビビるぜ? 祭の屋台のやつよりぜってーうめぇから」
「それは楽しみだね」

 二人のそんな会話を聞くともなく聞きながら、私はもくもくとたこ焼きをひっくり返していた。少し経つと竹串で上部をはじけば慣性で回転するくらいになり、色の方も全面きつね色に仕上がってくる。

「新星、お皿だして」
「ほいきた」

 私は彼が差し出した大皿の上に、チーズとタコが交ざらないように気を付けながら、焼きあがったたこ焼きを乗せていく。すべてのたこ焼きをお皿に移し終えると、私はその上にお好みソースとマヨネーズをかけ、最後に青のりと削り節を散らした。

「はい、完成」
「よっしゃ! それじゃ、いただきますっと」

 壁にかけられた時計は既に十五時を回っており、お昼を食べていない私たちの空腹はもうほとんど限界にまで達していた。

「あっふ!」

 考えなしに勢いよくたこ焼きにかぶりついた新星が、金魚のように口をパクパクさせて舌の上に乗せたたこ焼きを冷ましていた。その光景はこの〝体〟の記憶の中の映像と見事にシンクロしている。

「確かにこれは祭の屋台の比じゃないね」

 幕原隆二がたこ焼きを一つ食した後でそんな感想を述べた。

「だろ!? 遠慮しなくていいから、どんどん食ってくれ」
「ありがとう。でも今日は新星が主役でしょ?」
「そういえばそうだった」
「まったく、新星は相変わらずだね」

 談笑する二人を横目に見ながら、私もたこ焼きに手を伸ばした。新星の二の舞にならないよう、息を二、三度吹きかけてから慎重にそれを口に運ぶ。外側のカリッとした殻が破れ、中からホカホカの実が溢れ出す。中にはとろとろに溶けたチーズが入っていた。

「美味しい……」

 私は驚愕していた。具がどうだとか、焼き立てだからとか、そういったことは一切合切捨て置いて、ただ単純に美味しいと感じた。

 美味しいと、感じることができた。

 私は幻覚でないことを祈りつつ、手元に残ったもう半分を急いで口に放り込む。先程と同様に、私の舌は確かにたこ焼きの味を感じていた。数年前に失って以来一度たりとも感じることができずにいた味というものを、この〝体〟は取り戻していた。

「お、おい。幽?」

 名前を呼ばれて視線を上げると、新星がなにやら不安げな面持ちでこちらを見ているのがわかった。私はその表情の意図するところがわからず、どうしたのだろうと思って彼の次の言葉を待つ。

「なんで泣いてんだ?」
「え?」

 その時、私は自分の頬が透明な雫で濡れていることに初めて気がついた。

「あ、あれ? あれ?」

 私は慌ててそれを手で拭った。しかし気づいたが最後とでもいうように、何度拭っても枯れることのない涙にどうしようもなくなった私は、二人の目も憚らずその場で声をあげて泣いてしまった。



「ったく、驚かすなよなー。間違って最初っからワサビたこ焼き作っちまったかと思ったじゃねーか」
「そんなの作んないでよ、バカ」

 私は赤くなった目をこすりながら、どこからともなくチューブワサビを取り出した新星に抗議した。

「僕もびっくりしたなー。五十沢さんがまさか味覚障害だっただなんてね」

 味覚障害であったことこそ打ち明けたものの、今日初めてまともに言葉を交わした相手にその背景まで話すつもりはなかったので、幕原隆二はそれを単なる病気として片付けていた。

「ま、治ったんなら何よりってことで、今日はパーッとやろうぜ!」

 突然の私の啼泣に一時中断されていたタコパが彼のその一言で再開された。四人前強は用意していた生地が次々と丸く成形されてはそれぞれのお腹に収まっていく。

 新星は私の抗議を無視して強引にタコ無し・チーズ無し・ワサビ有りの爆弾を一つこしらえると、お皿に移す段階でそれをごちゃまぜにし、「ロシアンルーレットだ!」と吠えていた。しかし、一巡目の一回目で見事に彼自身がその爆弾を引き当て、華麗なまでの自爆劇を弄したことには幕原隆二はおろか、私も腹を抱えて笑ってしまった。こんなに笑うのはこの〝体〟にとって――そして〝私〟にとって、随分と長い間忘れていた経験だった。

 全員が満足して食べる手を止めたころには、机の上には大皿半分ほどのたこ焼きと、綺麗に四分の一だけ残った五号ケーキが残っていった。ケーキは幕原隆二が宅配サービスで頼んでくれたものだった。

「あれ? 隆二、どこいくんだ?」

 トランプやウノに興じていた中、おもむろに席を立って玄関へ向かう幕原隆二を新星が引き留めた。

「親に遅くなるって言い忘れてたからね。あぁ、それと今日の夕飯が要らないことも伝えないと」

 彼はそう言って苦笑し、右手で電話の形を作って耳元に持っていくジェスチャーをすると、玄関の外へと出ていった。私はこのタイミングしかないと思い、ポケットの中に用意していたそれを新星の方へと差し出す。

「新星、これ」
「ん?」

 なんとなく照れくささを感じ、視線を合わせずに突き出した私の左手には、いつかの夜に彼に貰ったキャラメルの箱が握られていた。

「誕生日プレゼント。こんなのしか用意できなかったけど……」

 もともとお土産として売られているはずのものがスーパーで手に入ったのは幸運だったが、その性質上500円という高めに設定された価格のせいで、私はそれを一つしか購入することができなかった。

 彼は一瞬きょとんとして、それからキャラメルの箱を私の手から受け取ると、満面の笑みでこう言った。

「幽、あんがとうな!」




 時間はここ数年経験したことがない速度で進み、気づけば日は沈んで夜の帳が下りはじめていた。そしてそれと時を同じくして、ささやかな誕生会は幕引きとなる。彼と一緒に外廊下の階段を下りていくと、下では幕原隆二がロードバイクにまたがって私たちを待っていた。

「今日は楽しかったよ、新星。五十沢さんも、いろいろとありがとね」

 私は感謝されるようなことはしていないなと思いつつも「こちらこそ」と応じた。今日一日、クラスで孤立している私に他の生徒と同じように接してくれた幕原隆二を見て、私は彼のことを誤解していたなと思った。少なくとも、単なる女たらしというわけではなさそうだ。

「今度会うのはきっと夏休み明けになるな」
「そうだね。新星は夏休み中の大会、頑張ってね」
「おうよ!」

 幕原隆二は新星に激励の言葉を残すと、ロードバイクを漕いで夜闇の中に消えていった。それを見送りながら、私はようやく帰らなければいけないという事実の重みをじわじわと感じ始め、徐々に陰鬱な気持ちになっていく。

「さて……行くか」
「……うん」

 私が発した声はもはや生彩を失い、いつものように暗く沈んでいた。しかしそれは単なる憂鬱から来たものではない。私の中にはとある葛藤が生じていた。

「ところで、ここからだとどれくらいかかるの?」

 私は気を紛らわす意味を込めて、なんとなしに湧いた疑問を口にした。だからこの質問自体に特別な意味はない。しかし対する彼は、なぜかまごつきながら数秒の時間を潰すと、明後日の方向を見ながら嘯くような調子で呟いた。

「四十分くらい、かなぁ……?」
「は?」

 彼の嘘が一つ、露見した。

「こん、ちくらっぺ」

 自然と、田舎にいたころの言葉が甦った。



 いつもと同じように、私たちは言葉を交わすことなく帰路を辿った。徐々に小さくなる私の歩幅に、彼は何も言わずに合わせてくれる。私はそんな彼の隣でこの複雑な胸中を悟られまいと必死になっていた。

「あのさ、幽」

 とうとう脇道の入口に辿り着いたとき、彼が私の名前を呼んだ。私はその声に振り向いて、彼と視線を合わせる。

「夏休みの大会、応援に来てくれないか?」
「え?」

 その瞬間、私の中に強烈な迷いが生じた。いや、正確にはそうではない。これはすでに生じていた迷いが具体的な意味をもって顕現しただけに過ぎなかった。

「今年はまじで全国いけそうな気がしてっからさ」

 彼が昔から努力を積んできたことは知っていた。実際、彼は去年の大会で地区大会を優勝し、全国への切符をかけたトーナメント戦に参加するところまで漕ぎつけている。去年はそのトーナメントの初戦で運悪く全国優勝有力候補の一角とあたったために敗北を喫していたが、今年はそのリベンジに燃えているのだろう。

「……考えとく」

 〝私〟は揺らいでいた。今日という日が、〝私〟のなにかを変えようとしている。

「大会、二週間後だからそれまでには連絡くれよな」

 彼はそう言い残すと踵を返し、全くもって近くはないアパートに向かって走り去っていった。私はそれを見送ってから、残りの帰路をゆっくりと歩きだす。

 おもむろにジャージのポケットに入れた手が小さな塊に触れた。それは新星が私のプレゼントの一部を「味わって食えよ」と分けてくれたものだった。

 この不幸に見合う幸福が訪れる可能性に期待するなんて馬鹿げている。さっさと次へ行ってしまえばいい。そう思っていたはずなのに、今になって今朝の決意が揺らいでしまっている現状に、〝私〟は戸惑いを隠せなかった。

 スマホを取りだし、SNSの彼とのチャット画面を開く。そこにはアプリに記憶された送信前のメッセージが表示されていた。

 今、私はこのメッセージをどう処理すればいいのか分からなくなってしまっている。これを送信するべきか否か。気づけば私はその画面を見つめたまま立ち尽くしていた。森のざわめきと虫の鳴き声だけが流れてゆき、その他の時間が静止した。

 もしこの時迷ってさえいなければ、この先の運命は変わっていたのかもしれない。

 突如、私は背後から口元を抑えられた。一瞬の出来事に驚愕すると同時に私は荷物を放り出し、その手をどけようと必死にもがく。しかし、次の瞬間首筋に走った激痛は体中を駆け巡り、体を強制的に引きつらせた。数秒間続いたその刺激は、途切れた後もなお私の体の自由を奪い、私は抵抗を許されぬまま目隠しと猿轡をされ、両手両足を縛られた。手首にチクリとした痛みが走り、それから車の中と思しきところへ放り込まれる。

 急激に薄れていく意識の中で、私は必死に「助けて」と叫んでいた。しかしその声も猿轡によって口元で潰され、ただの呻き声にしかならない。いよいよ車が走行する揺れすらも意識できなくなってきたとき、私が最後に思い浮かべたのは彼のあの屈託のない笑顔だった。

 そして〝私〟は再び記憶にある知らない天井を見た。

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