見出し画像

忘れえぬ友よ

高校生の時、少し変わった同級生がいた。
名前はMという。
Mはがっちりとした筋肉質体型だが、鼻が高くて彫りの深い、ちょっと見ではアーリア人風の好男子。
少し浅黒い肌も野性味を感じさせる。
それでも生粋の日本人である。

ただし、学生服姿はまじめな生徒に見えない。
第一ボタンまで開き、太いズボンを風にはためかせ、板のような薄いカバンを持ち歩く。
カバンの中は空っぽ、頭の中も空っぽ。
令和ではすでに絶滅した人種だが、これが昭和の不良の一般的外観だったのだ。

Mは見た目こそ不良だが、いわゆる普通の不良とはどこか距離を置いていた。
タムロすることはないし、不良たちと会話を交わすこともあまりないようだった。
あえて距離を置いているのはわかっていたが、ただクールな自分を演じているだけなのかと思っていた。

ところで、わたしはおよそ誰とでも仲良くなれる性格で、不良ともそれなりにつきあっていた。
とくに試験前になると出題予想を聞いてきたりしたから、気持ちよく教えてやった。
わたしがかけたヤマはあまり当たらなかったが、あいつらはそれでも満足していた。

不良と仲良くするには、まず相手に警戒させないことだ。
わたしは少しは勉強ができた(笑)。
だからそれだけに、不良と距離を置いたり、まして自分を賢く見せてはダメだ。
不良連中はやたらと自尊心が高いから、勉強のできる生徒に対しては劣等感を持っており、最初から敵視している。

だから彼らの劣等感を刺激しないように、それでいて卑屈にならないように相手をする。
できることは力になる、友だちじゃないか、なんでも言ってくれという融和的な姿勢で接すれば、相手も「こいつは敵ではない」という認定をしてくれる。
そうなればうまくつきあえる。
大切なのは仲間になることではなく、敵ではないと思わせることだ。

あるとき、放課後に職員室で教諭が口頭試問を行うと知らされた。
古文のテストで赤点だった生徒への追試である。
枕草子、徒然草、平家物語、奥の細道などの冒頭部分を暗記して来るように、とのことだった。

追試を受けるのはほとんどが不良生徒で、いつも変わりばえのしないメンバーだった。
「おい、どうすればいいんだ?」
今回もわたしのところに泣きついてきた。

「あの先生は枕草子が好きながら、冒頭部分を各季節ごとに2、3行暗記していけばいい。そうすれば悪くはしないはずだ」
教諭も落第者を出すのは本意ではないから、授業でそれとなくそんなことをにおわせていた。
だから今回はわたしのヤマも当たった。

しかしMだけは違った。
このところ学校を休みがちだったし、今日久しぶりに登校したらいきなり追試である。
「大丈夫かな」と心配しながら放課後まで残っていると、いつもは出来の悪い不良たちが続々と笑顔で戻って来る。

「おい、ズバリ当たったぜ」
「枕草子、春はあけぼの」
そりゃそうだろう。教諭の考えは授業を聞いていればわかる。

Mは最後まで残されたようで、生徒たちがみな帰ったあとに一人で戻ってきた。
わたしはなんとなく気になって教室で待っていたが、やはり追試はうまくいかなかったようだ。
Mは無言だったが、わたしを見ながら寂しそうに笑った。

「ダメだったのかい?」
「赤点だ」
Mはポツリと呟いた。
おいおい、古文ごときで赤点はまずいだろう。

「今日の追試は知らなかったんだろ?」
Mは黙ってうなずいた。
「それを先生に言ったのか?」
今度は黙って首を振った。
「ちょっと来いよ」
わたしはMを職員室に連れて行き、教諭に事情を話し、あらためて追試をしてくれるよう頼んだ。

Mは決して気の小さい男ではなく、むしろ何事にも鷹揚に構えるキモの大きなヤツだった。
だから追試を知らなかったなどと教諭に言い訳するのが嫌だったのだろう。
それはわかっていたし、わたしはそんなMの潔いところがただの不良ではないと思っていた。

自分でいうのも変だが、わたしはことのほか国語の成績が良く、とくに古文は得意だったから、教諭もわたしに一目置いてくれていた。
わたしの話を聞いて、Mには明日また機会をくれることになった。

古文の知識なんか社会ではほとんど役に立たないが、このときばかりは、古文という科目がわたしとMとの仲を取り結んでくれたといっていい。
それ以来、どちらからともなくMとわたしは友だちになった。

**********

まじめそのもののわたしと、見た目は不良そのもののMとが教室で談笑している光景は、ほかの生徒から敬遠されているようだった。
目が合っても愛想笑いをして離れていく生徒が多かった。

「今度の日曜日、うちに来ないか?」
Mから誘われたのは、三年生の師走ころだったと記憶している。
わたしは大学を受験するつもりでいたので、勉強も追い込み時期だった。

Mの家は私鉄沿線の古びたアパートの一室だった。
父母は離婚し、今は2DKの部屋で母親と二人暮らし。
Mの部屋には、道路地図と料金表のようなものが貼ってあった。
……と思うのだが、アパートの場所も部屋の様子もほとんど覚えていない。
もう40年以上前の話だ。

Mは尋ねもしないのに、母親はMの学費を稼ぐために昼夜仕事をしていると話した。
その日は日曜日だったが、母親は仕事に行っているという。

「だから俺も卒業したら仕事を始めるんだ」
Mの話を聞いていると、どこかの会社に就職するというわけではなく、自分で会社を起こす、つまり起業するということだった。
トラックを手に入れて運送業を始めたいというので、それで地図が貼ってあるのかと腑に落ちたのを覚えている。

「運転免許はとったが、トラックの免許はまだ取れないんだ。人を雇う。トラックも買う。だから金がいるんだ」
Mはそう言うが、起業なんてそう簡単にできるのだろうか。
まだ社会経験がない高校生のわたしには想像もできなかったが、Mはさらに意外なことを打ち明けた。

「俺さ、実はホストをやっているんだ」
そのとき初めて「ホスト」という職業を知った。
要するに、女性をもてなす接客業の男性のことだ。
容姿はもちろん、客あしらいがうまくないと勤まらないだろう。

昭和50年代にはすでにホストという仕事があったのである。
わたしの高校では生徒にアルバイトを禁じていた。
しかしMは年齢を偽り、風俗営業店でホストとして正規に雇われているという。
学校を休みがちだったのもそのせいだと言った。
令和の時代では考えられないが、昭和のあのころは、万事いい加減だったのだ。
話を聞いたわたしは仰天してしまった。

「誰にも言うなよ」
言われるまでもなく、口外するつもりはない。
それどころか、年齢を偽って風俗営業店で金を稼ぐ、Mの商魂たくましさに驚愕した。

「客にはおふくろみたいな女もいる。妙な気になることもあるよ」
Mの言葉など、ろくに耳に入らなかった。
これがわたしと同じ高校生だろうか。
Mが他の不良たちと距離を置いている理由がわかったような気がした。

Mの真実の顔を知ってから、わたしは以前にも増してMの勉強を手助けした。
なんとしても一緒に卒業しなければならない。
テストが近づき、出題されそうなところを放課後に一緒に勉強した。
その甲斐があったのか、Mは三年生最後の期末試験ですべて及第点を取った。

Mは高校生活でわたしと会えたことを喜んでいた。
わたしもMの高校生離れした社会性に惹かれ、社会に出るにはMのように強くならなければならないのだと思った。

卒業式の日のことを覚えている。
Mは、着物姿の母親をわたしに紹介した。
Mのような彫りの深い顔立ちではなく、どちらかといえば目立たない静かな感じのお母さんだったと記憶している。

「また会えるといいな」
二人は握手したが、山梨県に行くというMとはしばらく会えそうもないと互いにわかっていた。
Mは、母親と一緒に車に乗り込んだ。
高校の卒業式に、自分で運転する車で来ていたのはMだけだったと思う。

**********

大学に進学したわたしは、最初こそ「Mは今頃どうしているかな」と思い出したが、新しい生活に馴れてくると、次第に思い出すことさえなくなっていった。

高校時代の友人とはときおり会ったりしていたが、その回数も次第に減っていき、大学の新しい友人関係が生まれていった。

あれはたしか大学を卒業し、就職して間もないころのことだった。
当時わたしは親元から職場に通っていたのだが、家の黒電話(昭和!)にMから電話があったのだ。

「久しぶり。元気かい」
しかしMは別人のように元気がなく、言葉少なだった。
「うまくいかなかったよ。関西に行くから、またしばらく会えないな。会いたかったんだが」
「今どこにいる?」
というわたしに対して、Mは何かモゴモゴ言って電話は切れた。

あんなに沈んで話すMを知らなかった。
病気ではないかと考えたりもした。
山梨県で起業するようなことを言っていたが、やはり現実は甘くなかったのかもしれない。
気の毒だったが、Mの連絡先は知らないし、わたしにできることはなかった。

次に電話があったのは、その3年後くらいのことだ。
「わてや、わてや」
それはまぎれもなくわたしが知るMの声だった。
すっかり板に付いた感じの大阪弁で、人が変わったように今の生活を話すのだった。
「大阪の○○っちゅうところで事務所を構えてんねん。一度遊びにきいや」
Mは、あろうことかヤクザになっていた。

Mによれば、組の幹部クラスということだったが、どこまで本当かはわからない。
最後の電話で「関西に行く」と言っていたが、それからどのような経緯でヤクザになったものか。
そもそも3年程度で幹部になれるものなのだろうか。

しきりに「遊びに来い」といわれたが、仕事が忙しいといって体よく断った。
事務所の電話番号を聞いたはずだが、いつの間にか紛失した。

これでMとのつきあいも終わったな、と思った。
いくら高校の同級生でも、ヤクザとはつきあえない。
仕事も忙しかったので、いつしかMのことを忘れてしまった。

そんなころのことである。
たまたま自宅の隣室でつけていたテレビのニュースでMの名を聞いた。
それは次のようなものだった。

大阪府○○に事務所を構える暴力団○○組の組長が襲われ、一緒にいた組員Mが死亡した、というのである。
組長は重傷と伝えていた。

慌ててテレビの前に行き、被害者の名前を確認した。
「新聞を買わないと」
わたしは狼狽したが、すぐに思いなおした。
もう関係ないのだ。
もうMとわたしは別の世界で生きているのだと。

それに、被害者があのMとは限らないではないか。
さほど珍しい名前ではない。
たまたま同姓同名の暴力団員がいたのかもしれない。

しかしおそらくMに違いないとは思っていた。
大阪という土地に、Mという同姓同名の暴力団員が二人もいるとは思えなかった。

それでもわたしは何もしなかった。
むしろMのことを忘れようと努力した。
同窓会でもMのことは話題にならなかったし、ほかにも友だちはいたから、Mのことは早く忘れたかった。

あれから30年以上が経った。
その間、もちろんMを思い出さなかったわけではない。
でも、思い出してはすぐ忘れるという繰り返しだった。

だが、今になって思う。
Mは、わたしと高校の校門で別れ、8年あまりで人生のピリオドをうった。

Mよ、きみはその間、どこでどんな人生を送っていたんだい。

ホストをやっているという秘密を打ち明けられたとき、わたしは嬉しかった。
きみに信頼されているのだと思った。
にもかかわらず、わたしは2回も電話をもらいながら、きみになにもしてやれなかった。

きみが辛かったとき、わたしは自分のことに忙しくて、話もろくに聞いてやることができなかった。
だから、長い歳月が過ぎた今、あらためて思ったのだ。
世間のみんながきみのことを忘れても、せめてわたしだけは忘れないでいてやりたいと。

社会で成功した友だちは何人かいる。
でも、生まれ落ちた場所で不器用に生き、心ならずも生き急いでしまったきみのことが、わたしはどうしても忘れられない。

また電話をしてこないか。
そうしたら、今度こそ心ゆくまで話をしようじゃないか。

でも、もう二度とMからの連絡はない。
高校の校門で握ったきみの手のぬくもりは、とうに忘れてしまったけれど、いつもひとりでいたきみの姿は、今もよく覚えている。

そしてそれは、高校時代という人生の輝かしい時間のひとコマとして、眩しいほどの爽やかさと、いいようのない淋しさをもって、わたしの胸に去来しているのだ。

(おわり)

いいなと思ったら応援しよう!