【14】恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~
第14話 特別な存在の幼馴染は、初恋か否か
イベント当日の朝。冬が迫っていることを思わせる冷えた空気が詩陽の頬を擽り、カーテンの隙間から漏れる穏やかな陽光が目覚めを促した。
詩陽は布団の中で伸びをして、大きく息を吸った。まだ熱っぽさが残っているが、少し眠れたお蔭か、興奮しているからか、体の辛さをあまり感じない。
「よし! 今日はがんばるぞ!」
詩陽は頬を両手で叩き、颯爽と部屋を出た。
「おはよう、詩陽」
リビングで新聞を呼んでいた伶弥は、詩陽の顔をジッと見てから、あからさまにホッとした様子で挨拶をしてきた。
「おはよう。シャワー浴びていい?」
「一緒に?」
「バカなの?」
「詩陽が元気になってる」
そんな確かめ方があるかと叫びたくなったが、相手にしていると遅れてしまいそうだ。詩陽は冷たい視線で睨みつけ、浴室へと向かった。
「まったく。伶弥は冗談なのか、本気なのか、本当にわかりにくいんだから。いやでも、あれが本気となると、いよいよおかしいのかな。それとも、伶弥の中では、私はまだ幼い頃のまま、成長していないのかな」
詩陽はぶつぶつ言いながら、シャワーで泡を流す。
昔は一緒にお風呂に入ったこともあるから、もしかすると、伶弥の中ではその印象が強いのかもしれない。そう思うと、かなり複雑だ。
「私、先に出るからね」
「たまには一緒に」
「行ってきます!」
後ろから詩陽を呼ぶ声が聞こえたが、構っていられない。
今、詩陽と伶弥が一緒に住んでいることは知られていなし、仲がいいことすら、誰も知らないはずだ。何が綻びとなって、伶弥の本性を知られることになるか、わかったものじゃない。警戒に警戒を重ねても足りないくらいだ。
詩陽は女性専用車両の乗り込み、つり革を掴む。背が低い詩陽が掴むには少々辛いが、ないよりはいい。
周りに男性がいないため、変な緊張もしなくていいことはありがたい。詩陽はいつもと違う景色を見ながら、電車に揺られた。
イベントは順調に進んでいった。多くの来場者が楽しそうにしている様子を見て、クライアント側の人間は喜んでいるし、裏方に徹していた詩陽たちも、その手ごたえを確かに感じている。
「順調ですね」
ノベルティの補充をしていた詩陽に、心葉が笑いかけてきた。いつもはひらひらとしたスカートを履いているが、今日は動きやすいようにパンツスタイルである。
些細なことかもしれないが、仕事をする上では大切なことであり、それを心葉が判断できたことを嬉しく思う。
「うん、盛り上がっているね。ノベルティも喜ばれているし」
詩陽はちょうど手にしていたノベルティを見て、口元を緩ませる。
「まさか文具を通して、家族で遊べるなんて思いもしませんもんね」
勉強や仕事で使う文具。昔から、それらを使って遊ぶことはあった。それをヒントに、詩陽は家族のコミュニケーションに繋がる企画を立案した。
ハウスメーカーが開く秋のイベントで使ってもらえるよう、家と家族と文具と遊びの融合をテーマとし、イベントでは実際に遊びながら、文具に触れ、家を体験する。
今回は家ではなく、ホールに家をイメージした空間を作って演出している。そして、ノベルティとして、その一部を渡すようになっているのだ。
「子どもの頃、幼馴染とよくやったの。私は負けず嫌いのくせに、不器用で。すぐに負けちゃうんだけど、そうすると、彼はわざと負けてくれたり、慰めるためにあれこれやってくれたり……悔しいはずなのに、いつの間にか笑ってるんだよね」
詩陽は小学生の頃の伶弥を思い出し、くすりと笑った。美少女に見える伶弥は、男女問わず人気があったが、どろんこになって遊ぶ詩陽とばかり過ごしていた。詩陽は女の子の遊びよりも、男の子の遊びの方が好きだったから、付き合う伶弥は大変だっただろう。
一緒に笑って、走って、競い合って、時に喧嘩して、泣いて、謝り合って、笑い合う。そんな毎日はキラキラとしていて、本当に眩しかった。そんな情景を思い出し、詩陽の胸は熱くなった。
「好きな子だったんですか?」
「え、まさか!」
思いもよらない言葉に、詩陽は目を大きく見開き、首を振った。
「だって、話している時、恋する目をしてましたよ」
「冗談はやめて!」
詩陽は初恋もまだである。恋とはなんぞや、と思いながら、なんとなく女子トークに乗り切れずに二十七歳となってしまったのだ。だから、伶弥に恋していたなんて、とんでもない。
詩陽は熱い頬を押さえて、大きく息を吐き出す。
「私は転校が多かったので、幼馴染がいないんです。だから、どういう存在なのかわからないけど、特別な感じなんでしょうね」
うっとりとした表情で宙を見ている心葉を、詩陽は擽ったい気持ちで見た。
確かに、伶弥はどんな友達とも違うし、かといって、家族というわけではない。『伶弥』という枠があって、やはり特別な人なのだろう。
「順調か?」
「ひゃあ⁉」
「あ、主任。お疲れさまです」
突然、背後から聞こえた声に、詩陽は飛び上がった。
「小鳥、どうした?」
「いえ、なんでもありません!」
詩陽は首がちぎれそうになるほど、激しく首を振ってみたが、伶弥は訝し気な表情でジッと見つめてくる。どうか何も聞かずに去ってください、と心の中で十字を切る。
「ことりさんの幼馴染さんの話を聞いていたんです」
「のぉぉぉぉ」
「幼馴染か。小鳥、どんな話だ」
無表情に言う伶弥を殴っても、罰は当たらないだろうか。絶対にわかって言っている。
なぜなら、詩陽にとって、幼馴染は伶弥しかいないのだから。
金魚になった詩陽を心の中で笑っているに違いない。無表情だが。
「すごく素敵な子だったみたいで、詩陽さん、すごく幸せそうに」
「心葉ちゃん、そろそろノベルティを補充しないといけないよ!」
「え、さっき」
言いたいことはわかる。皆まで言うな。詩陽は心葉の口を塞ぎ、恐る恐る伶弥を見た。
「興味があるな」
「むぐっ、ですよね⁉ もっと聞きたいですよね?」
伶弥の呟きに、心葉は詩陽の手を強引に引き離し、目をキラキラさせた。頭を抱えて、その場に座り込みそうになったが、辛うじて堪える。
だが、既に瀕死の状態だ。これ以上、本人に何も言わないで欲しい。
「心葉ちゃん、あの」
「私は幼馴染さんが初こ」
「はあい! 主任、向こうで呼んでます!」
詩陽は大きな声で遮り、伶弥の手を引っ張って、無理やり方向を変える。流石に、伶弥も予期していなかったのか、詩陽の勢いに負けて、心葉に背を向ける羽目になった。
「今日は忙しいですね! ああ、忙しい、忙しい」
詩陽は伶弥の広い背中を押そうとしたが、伶弥は一瞬の隙をついて、腰を屈めた。詩陽の周囲をふわりとシャボンの香りが包み込み、伶弥の体温を感じた。
「しーちゃん、どんなことを話したの? 私に聞かれたくないこと? どうして、そんなにも顔が赤いのかしら?」
低くて甘いのに、意地悪な笑いを含んでいる。耳に痺れが走って、燃えるように熱くなった。
「ちょっと、りょ、主任! ここは」
「皆、仕事をがんばっているわね。忙しくて、誰も見ていないわよ」
伶弥の息遣いを間近に感じ、詩陽の頭の中は大荒れである。
「見ているかもしれないでしょう⁉」
「どうかしら。物欲しそうな頬にキスしたら、誰かを驚かせられるかもね」
限界を突破した詩陽は、ふふっと笑う伶弥の背中を思い切り叩いた。ぐふっと聞こえたが、自業自得だ。
「そんな驚き、誰も求めてないから!」
「どうしたんですか?」
後ろから可愛い声が聞こえ、詩陽と伶弥は同時に振り向く。心葉が不思議そうな顔をして、二人を見つめていた。
「驚かないで!」
「え?」
詩陽の叫びと、心葉の疑問と、伶弥の吹き出した音が雑じり合い、三人の間は混沌とした。
詩陽は震える手を握り、伶弥を睨みつける。万が一、バレてしまったらどうするというのだ。いきなり大ピンチではないか。
「ことりさん、顔が真っ赤……まさか」
詩陽は肩を竦めて、続く言葉を警戒する。また、伶弥の本性や二人の関係の他に、伶弥のことを好きだと勘違いされる可能性だってある。
その時は、どうやって言い訳をしたらいいだろうか。だが、パニックになっている頭は思考力を失い、逃亡することしか浮かばない。
「主任に怒られたんですか⁉」
「そうなの! ガツンと!」
詩陽は反射的に返事をしたが、隣にいる伶弥の肩は僅かに震えた。来栖主任は笑うことがない。だから、笑っている姿すら、怪しまれる。
「主任、すみませんでした! 以後、気をつけます」
「なるほど」
敬礼しそうな勢いで謝罪する詩陽を見つめ、伶弥はぼそっと呟く。それだけなら、よかった。再び腰を屈めた伶弥は詩陽の耳元に唇を寄せる。
「私を悪者にしていいのかしら? 帰ったら、覚悟してなさい……詩陽、体調が悪いなら休憩して。香椎さん、早く持ち場に戻りなさい。二人とも最後まで気を抜かないように」
前半は艶を帯びた囁き声が詩陽だけを襲い、体を起こした後は冷たい声色が二人を襲った。
「は、はい! すみません!」
言葉を失った詩陽とは対照的に、心葉の声は明瞭だ。
それからすぐに背を向けて去っていく伶弥を、詩陽はなんとなく目で追った。言いたいことが山のようにあるが、今言えないことばかりでもどかしい。
覚悟をするのは伶弥だ。そう思う一方、伶弥が一体何をするつもりなのかが想像できず、不安を期待の入り混じった感情に飲まれそうだ。
「……期待?」
詩陽は首を傾げた後、大きな溜息を吐いて、仕事の続きへと戻った。
