【4】恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~
第4話 オネエさんは、飴ばかり
詩陽が玄関のドアを開くと、ふわりといい匂いが漂ってきた。今朝、リクエストした煮込みハンバーグだ。忙しそうにしていた伶弥だったが、今日は詩陽の方が遅くなった。いや、伶弥が料理のために急いで帰ったと言った方がいいかもしれない。
「ただいま」
「詩陽、おかえり! 疲れたでしょう? 手を洗ってきて。ちょうど出来上がったところよ」
ネイビーのシンプルなエプロンをつけている伶弥は、さながら料理番組から出てきた俳優のようである。
「いい匂い」
きゅるると鳴いたおなかに手を当て、詩陽は洗面所で手を洗い、キッチンに入った。深めのフライパンを覗き込むと、デミグラスソースで煮込まれたハンバーグが見える。きのこが多めに入っているお蔭で、秋らしさも感じる。
「手伝うよ」
「いいのよ、詩陽は待っていて。あとは盛り付けるだけだから」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
ふふっと笑う伶弥は心から楽しそうにしている。疲れて帰ってきて、煮込みハンバーグなんて手間のかかるものを作ったのだから、愚痴の一つでも言ってくれたらいいのに、と思う。
だけれど、伶弥の方が作ってもらった詩陽よりも幸せそうにしていることが不思議で仕方がない。
伶弥が準備を終えるのを待って、向かい合って座る。食卓の上で美味しそうな湯気が立ち上り、詩陽の腹具合は限界を迎えた。でも、その前に。
「伶弥、これは?」
「ハンバーグよ」
「どうしてハートなの!?」
「私の気持ちよ」
詩陽の前に置かれたハンバーグはハートの形をしている。伶弥の前にあるハンバーグは普通の楕円形をしているのに。
「また、そうやってふざけるんだから!」
「私の気持ちを、どうぞ召し上がれ?」
もうもう、と文句にもならない文句を言いながら、詩陽はハンバーグを平らげた。結局、詩陽は伶弥が作る料理が大好きなのだ。
詩陽が入浴を終え、髪を拭きながらリビングに入ると、ちょうど伶弥がソファーに座ったところだった。先程まで自室で仕事をしていたようだが、ようやく終わったのかもしれない。
「詩陽、おいで」
伶弥がニコニコしながら、手招きをする。
「仕事、終わったの?」
詩陽が伶弥の元へ行くと、手を引かれたため、大人しく隣に腰を下ろす。
「えぇ。次、香椎さんが悩んでいたら、この資料を渡してあげてね」
「ぜっかく伶弥が作ったんだから、伶弥が渡してあげればいいのに」
「私が渡すより、詩陽が渡した方が生かしてもらえるのよ。私からって、絶対に言っちゃダメよ」
パチリとウィンクをした伶弥を見て、詩陽は大袈裟なほどの溜息を吐いた。
「不器用ね」
「私は、詩陽に関することだけ、器用にできればいいの」
「はいはい」
詩陽の返事を聞き、伶弥はふふっと笑った。
会社での無表情な伶弥は感情が皆無に見えるが、こっちの伶弥はニコニコしていても、負の感情がまったく見えない。そう言った意味で、どちらも伶弥の本心を理解することは難しい。
「ほら、風邪ひくわよ」
伶弥は不意に立ち上がり、戻って来た時には、ドライヤーを手にしていた。
「乾かしてあげる」
伶弥は詩陽の隣に座ったかと思いきや、詩陽の体を引き寄せ、後ろから抱き締められるような姿勢をとらされてしまった。
「伶弥⁉」
「なあに?」
「なあに、なんて可愛く言ってもダメ! どうしてこんな格好なの!?」
「乾かしやすいからよ。もう夜は冷えるようになってきたんだから、濡れた髪を放置しないで。それでなくても、詩陽は昔から熱を出しやすいんだから」
詩陽の抵抗なんてお構いなしに、伶弥は温かい風を髪に当て始めた。
どうして、髪に触れる指がこんなにも心地いいのだろう。いくら幼馴染で、いくら昔から伶弥が世話焼きだったと言っても、大人になってから、こんなことをされたことはなかった。
お互いの合い鍵を持つ関係ではあったが、幼馴染という枠からは出ず、伶弥はある程度、距離を保ってくれていたように思う。だが、あの手紙の一件以来、伶弥の世話焼きが酷くなった気がする。何より、距離が近すぎる。
「気持ちいい?」
指の心地良さと入浴後の気怠さのせいでぼんやりしていた詩陽は、突然、耳元で囁かれ、反射的にギュッと目を閉じた。
低い声が鼓膜を揺らし、体の奥を震えさせる。先程まで少し隙間のあった背中に温もりを感じる。耳が、熱い。
「真っ赤。可愛いわ」
「り、伶弥! 耳元で笑わないで!」
いつもの笑い方なのに、今は落ち着くどころか、胸のどこかがざわざわと騒ぐ。
「ほら、終わったわよ」
そう言われて我に返ると、いつの間にかドライヤーの音は止み、風もなくなっていた。詩陽は勢いよく振り向き、伶弥を睨もうとした。
「あら」
目の前にあった伶弥の顔は、詩陽が想像していたよりもずっと近くにあった。長い睫毛に縁どられた切れ長の目が細められる。少し動いただけで、伶弥の高い鼻梁に触れてしまいそうだ。
嫋やかな笑みを浮かべている伶弥とは異なり、詩陽は大きな目を更に大きくして、息を飲んだ。
小柄で、標準よりも細めの体型をしている詩陽は目がくりくりと丸くて、まさに小鳥のような可愛さを持つ。笑顔は可憐で、人当たりも良く、後輩の面倒見もいい。
恐怖の来栖主任との間を持ってくれる天使のような存在だ。と、会社の面々は認識しているが、実際には冷めた面も持っているのが、本当の詩陽である。
「しーちゃん、キスする?」
その言葉に、ボンッと顔から火が出た。
「しし、しないっ、どど、どうして、そんな」
子どもの頃の呼び名が懐かしいなんて思う暇もなく、詩陽の頭の中は『キス』という単語と、至近距離にある薄い唇でいっぱいだ。
「冗談よ」
伶弥は軽く笑って、詩陽の頭をぽんと撫でると、立ち上がって、どこかへ行ってしまった。詩陽は呆気にとられ、サラサラになった髪が頬を擽るまで、開いた口を塞ぐことも忘れていた。
