【27】恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~
第27話 ぶつかる想い
詩陽は雑音の中から、的確に藍沢の声を拾っている自分に嫌気がさし、デスクに頭をぶつける衝動を堪えることができたのは奇跡だと思った。
詩陽のデスクから少し離れたところにある伶弥の席とその隣に設けられた藍沢の席。大した距離はないはずなのに、それがやけに遠く感じる。伶弥の外泊問題は解決したが、藍沢との問題は未解決のままだった。
「あ」
口から思わず声が漏れ、慌てて口を塞いだ。藍沢の手が伶弥のスーツの裾を掴んだのだ。それを伶弥はそのまま好きなようにさせている。そんな些細なことが、詩陽にはとても耐えがたい光景だった。
「ことりさん?」
突然の声に驚き、詩陽の体が椅子から数センチ浮いた。がたんと大きな音がフロアに響き、何人かの社員が振り向く。その中には伶弥と藍沢も含まれており、詩陽は視線を避けるように声の主へと体ごと向けた。
「心葉ちゃん、何?」
「こっちの台詞ですよ。何かあったんですか? 怖い顔していますよ」
心葉の心配そうな顔を見るに、余程酷い顔をしていたのだろう。詩陽は一度深呼吸をして、無理やり笑顔を作った。
「何でもない。次の企画がまとまらなくて、ちょっと煮詰まっていただけ」
「多分ですけど、仕事の悩みじゃないですよね?」
詩陽は心葉の言葉に目を見開いてしまい、その様子が問いの答えとなった。詩陽の表情が曇り、つられるように心葉も暗い表情へと変わる。
「ことりさん、私では力不足かもしれないですけど、話くらいなら聞けます。もうすぐお昼休憩になりますし、よかったら話しませんか?」
詩陽はこの瞬間、あまりに情けなくて泣きそうになった。後輩に心配をかけてしまうくらい、今の詩陽は様子がおかしいのだろう。それを隠し切れなかったことも、仕事中に私生活の感情を出してしまったことも、社会人として自分が許せない。だけど、一人で悩むのは限界なのかもしれない。
「心葉ちゃん、ありがとう。私の話を聞いてください」
詩陽が頭を下げると、頭上で心葉が狼狽えたことが伝わってきた。
「そ、そんな、頭を下げられるようなことではないです! 私の方がいつもお世話になっているので、こういう時くらいお役に立ちたいんですから」
頭を上げて見えた心葉の顔は赤く、慌てているのか、手振りが大きくなっている。そんな心葉の様子に、詩陽は小さく笑った。
昼休憩に入り、二人は人の少ない近くの公園のベンチに移動した。気温は低いが、陽射しがあるところなら暖かく感じる。
葉の落ちた木々が立ち並ぶ小道をぼんやりと眺め、詩陽は伶弥と公園で遊んだ幼い頃を思い出した。
駆け回ってばかりの詩陽を最後まで追いかけてくれるのは伶弥だけだった。綺麗な落ち葉を集めるのを手伝ってくれたのも、転んだ時に助けてくれたのも伶弥。優しい目で詩陽を見守っていてくれると分かっていたから、詩陽はいつも安心して遊ぶことができたし、遊びに没頭することができた。
中学生の頃、進路で悩んでいた詩陽を公園に誘ってくれ、なかなか答えの出ない時間も隣で待っていてくれた。
二人で学校帰りに食べた肉まんは、格別な美味しさだった。全部、伶弥と一緒だったのだ。楽しかった時はもちろん、辛かった時もすべて。
詩陽は隣に座っている心葉に意識を戻し、口を開いた。これまでのように、他の人のことだと誤魔化すことなく、伶弥と詩陽の話として説明した。
すべてを話し終えると、詩陽は固まってしまった心葉の時間が動き出すのを待った。
不意に我に返った心葉は、突然、膝に頭をぶつける勢いで頭を下げた。
「すみませんでした!」
「えっ、何!?」
「私、何も知らずに、主任と藍沢さんのことをことりさんに話してしまって。しかも、くっつけようだなんて……すごく嫌な思いをさせてしまって、すみません!」
「ちょ、心葉ちゃん、頭を上げて! 何も知らなかったんだから、気にしないで。伶弥はあんな調子だから、いいように押されているのは珍しいと思うし、実際、私も不安になるくらい二人の雰囲気が変だと思うから……」
ゆっくりと頭を上げた心葉は痛みを堪えているような表情をしていた。詩陽は安心させようと笑顔を作ってみたが、頬が引き攣ってぎこちないものになった。
「でも、不安な時だからこそ、あんな話はされたくないですよね。ことりさんは私に怒ってもいいんですから!」
そう言う心葉が泣きそうになっていて、詩陽は思わず苦笑した。
「本当に、もう気にしないで。それよりも、私はどうしたらいいのか、一緒に考えてもらえると嬉しい」
「そうですよね。私も恋愛経験が豊富というわけではないんですが……とりあえず、主任に気持ちを伝えることが第一だと思います」
「伶弥の様子がおかしいのに、今伝えてもいいのかな」
「今だからこそです! 話を聞く限り、既にお付き合いされていると言ってもいい気がしますが、言葉にされないと不安になる気持ちは分かります。だから、気持ちを伝えて、関係をハッキリさせましょう! それで、藍沢さんと距離を置いて欲しいことも伝えるんです」
「うん……これまで素直に気持ちを言葉にしたことがなかったから、自信はないけど、頑張ってみる」
「それと、やきもちを焼いていることも伝えて下さいね」
心葉の言葉に、詩陽は首を傾げた。
「やきもち?」
「え? 藍沢さんと距離が近いことにやきもちを焼いているんですよね? 誰だって、好きな人は独占したいと思うものです」
「これが、やきもち……」
詩陽は不安に思っていることは自覚していたが、この気持ちが嫉妬であることは分かっていなかった。
ましてや、伶弥に対して独占欲があったとは思いもせず、自分の中にそんな気持ちがあるということは、俄かに信じ難い。
「ことりさん、主任を取られたくないんですよね? それだけ、主任が好きってことですよ」
詩陽は急に顔に熱が集まってくるのを感じた。気持ちを伝えるという決意をしたつもりでいたが、それはつまり告白することになるのだと、ようやく気付いたのだ。
ずっと一緒にいたのに、返事をしていない自分も悪いが、改めて告白をするとなると気恥ずかしさが半端ない。
両手で顔を隠して悶え始めた詩陽を、心葉は微笑ましいという表情で見つめる。心葉には伶弥の気持ちは分からない。
正直、伶弥が恋愛をするイメージすら湧かない。
詩陽を見る目は他の社員を見る目と変わらないように思えるし、詩陽を特別扱いしている印象もない。
それほど、伶弥は関係を知られまいと細心の注意を払っていたのだろう。それでも、詩陽の話を聞く限り、詩陽をとても大切にしていることは分かった。
「ことりさん、自信を持ってくださいね」
心葉の小さな笑い声と詩陽の呻き声は、冷たい風にかき消され、攫われていった落ち葉と共に流されていった。
「今夜、絶対に話をしよう」
終業時間を幾らか過ぎた頃、詩陽は廊下を歩きながら呟く。まだ半数ほどの社員が残っているため、あちらこちらから話し声が聞こえてくる。
勤務時間が終わっていることもあって、気楽に仕事をしている人も多いのだろう。笑い声も聞こえて、詩陽の緊張もほんの少し和らいだ。
実は、頭の片隅にしこりの様に存在する考えがある。それは、『手遅れ』だというものだ。伶弥を信じていないわけではないが、人の心は移ろいゆくもの。
いくら長年想い続けていてくれたと言っても、それが永年代わることがないかというと、保証はない。世の中、永遠を誓い合っても別れる人が多くいると知っている。だから、とても怖いと思う。あくまでも、本当に小さなしこりとしてあるだけで、大部分では伶弥を信じている。
詩陽はぎゅっと両手を胸の前で握り締め、床を強く蹴って、前に進んだ。だが、給湯室の前を通りかかった瞬間、足がその場に縫い留められた。
「もう、これ以上は無理だ」
「何を言ってるんですか? まだこれからですよ」
聞こえてきた声は、伶弥と藍沢のものだった。二人の声色に深刻さを感じ、胸が締め付けられ、息が止まった。
伶弥は何かに限界を感じ、藍沢は進もうとしている。
「どうして、こんな」
「だって、愛しているんですよね?」
いつの間にか、頬を伝っていた涙が床に落ちる。『手遅れ』の方だったのか、と。
こうなってしまったのは、詩陽にも原因がある。
もっと早く気持ちを伝えていれば、伶弥は藍沢を選ばなかったかもしれない。
それにしても、藍沢に気持ちが移ったのなら、いつまでも詩陽と一緒に暮らしているのはおかしい。詩陽に別れを告げて、区切りをつけるべきだ。そう考えると、詩陽は悲しさに怒りが加わっていくのを感じた。
「このまま、終わる? こんなに呆気なく? 私の気持ちは宙ぶらりんのまま?」
詩陽の声は震えている。伶弥への想いをぶつけることなく、終わらせてもいいのだろうか。伶弥を想う気持ちは決して負けない。過ごしてきた時間は関係ないと言われたが、二人の時間は濃厚なものだった。
詩陽の中で、ぷつりと音が鳴った。
詩陽はバンッと乱暴に給湯室のドアを押し開け、腕組をして、立ち塞がる。中には、伶弥と藍沢が向かい合って立っており、二人とも口を開けて固まっていた。そして、詩陽は大きく息を吸い込んだ。
「伶弥のバカ! 伶弥なしでは生きていけないようにしておいて、藍沢さんの方に行っちゃうつもり? 昔も今も私には伶弥しかいないし、伶弥にも私しかいないでしょう⁉」
大きな声で叫んだつもりが、声が少し震えていた。目元が熱いのは、また涙が流れてしまいそうになっているからだ。それでも、必死に堪える。藍沢の前では絶対に泣きたくない。
固まったままの二人だったが、先に我に返ったのは藍沢の方だった。伶弥の前に立ち塞がり、詩陽を伶弥に近づかせないようにしている。
鋭い視線で睨みつけられ、詩陽も負けじと睨み返す。いつもニコニコと人当たりのいい顔しか見せていなかった藍沢の迫力に、気を抜くと負けてしまいそうだ。
「今更じゃないですか? 来栖さんの気持ちを知っておいて、その上に胡坐をかいていたのは誰ですか?」
その言葉に、詩陽は唇を噛み締める。確かに、伶弥はいて当たり前で、ずっと想ってくれるものだと思っていた。その気持ちが変わることも、他の人に向いてしまうことも、想像していなかったのは詩陽が悪い。
「それは、悪かったと思ってる。でも、手遅れだと言われても、私は諦めない。だって、私の好きな人は、後にも先にも伶弥しかいないから。伶弥、ごめん。ずっと言葉にしてこなくて。でも、私は伶弥が好き。大好きなの! だから、藍沢さんに伶弥を渡すことはできない!」
藍沢の後ろで立ち尽くす伶弥の表情は険しく、何かを堪えているような苦痛まで感じさせた。そんな伶弥を見ると、詩陽まで苦しくて潰されそうになる。
どうして、何も言ってくれないのだろうか。いつもの伶弥なら、詩陽の言葉に喜んで抱き着いてきそうなものなのに。
「どうして、何も言ってくれないの?」
詩陽の眦に溜まった涙が零れ落ちる。泣きたくなんてない。泣いてやらない。だが、伶弥がいなくなってしまうかと思うと、恐怖すら感じて喉が締め付けられる。
「詩陽……」
ようやく伶弥が口を開いた瞬間、藍沢の笑い声が言葉を遮った。詩陽はギョッとして、藍沢を見つめる。伶弥も驚いたように目を見開いて、藍沢の後ろ姿に視線を落とした。
「ほんと、バカな人たち」
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