【2】恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~
第2話 駆けつけてくれたのは、おかしな幼馴染
「伶弥、伶弥……」
詩陽は呪文のように名前を呼ぶ。
部屋の中は明るいはずなのに、真っ暗闇の中を一人で彷徨っているような不安感を抱く。
これだから、男は嫌いだ。勝手に気に入って、勝手に写真を撮って、欲しくもないのに、こうして写真を押し付けてくる。このマンションの周辺で怪しい男は見なかった気がするが、それも詩陽が気付かなかっただけで、身近にいるのかもしれない。
想像すればするほど、ストーカーへの恐怖と嫌悪が酷くなってくる。詩陽は自分の体をぎゅっと抱き締め、ソファーの上で小さく丸くなった。
手の感覚がなくなりそうな頃、ようやく玄関から物音がした。
「詩陽!」
「伶弥……」
渡してある合い鍵を使って入ってきた伶弥は息を乱したまま、詩陽の前に膝をついた。いつもはサラサラの髪が跳ねて、ボサボサになっている。
「遅くなってごめん」
「ううん。来てくれて、ありがとう」
伶弥の手が恐る恐る詩陽の頭を撫でた。いつもは気安く触れるくせに、こういう時は慎重に触れてくるのが、もどかしいけど嬉しい。
それに、伶弥が急いで駆けつけてくれたこともわかっている。夜遅くに来てくれたのだから、伶弥が謝ることなんてないのに、伶弥は昔から詩陽の辛さを詩陽以上に汲むせいか、すぐに謝ってしまうところがある。
「これ……」
伶弥が散らかっていた写真を拾い、言葉を詰まらせた。
「気持ち悪い」
「っ、こっち!」
詩陽は吐きそうになり、慌てて口を押さえる。すかさず伶弥が詩陽の体を支え、トイレに駆け込んだ。
ストーカー事件の後、詩陽は男性と接すると、気分が悪くなるようになってしまった。努力のおかげで、少しずつ我慢できるようになり、今では普通に会話する程度なら可能だ。とはいえ、心の中の嫌悪感を出さないようになっただけで、油断はできないのだが。
「伶弥、ごめん」
「詩陽は悪くない。横になる?」
伶弥はそう言うと、詩陽をゆっくりと抱き上げた。
「下ろして」
「ダメ」
ぽろぽろと零れる涙は、恐怖感からなのか不快感からなのか、自分でもわからない。もしかしたら、安堵の涙かもしれないし、単に嘔吐による生理的なものかもしれない。
「ソファーで下ろして?」
「わかった」
詩陽としては、ソファーに座らせてもらえると思っていた。
「どうして!?」
「離したくないから」
眉尻を下げて、心配そうに切れ長の目を揺らす伶弥に言われると、断り切れない。それが、例え伶弥の膝の上に座らされている状態だったとしても。
「ねぇ、詩陽」
「なに?」
「詩陽の体が落ち着いて動けるようになったら、私のマンションに来ない?」
伶弥の言葉に、詩陽は目を閉じた。伶弥の言葉遣いが詩陽のよく知るものになっていて、それが心地いい。
「詩陽を怖がらせる奴がいるところに、一人で置いておけないわ。一緒にいれば、詩陽を守ってあげられる」
「でも、迷惑じゃ」
「私は詩陽といられる方が嬉しいに決まっているじゃない。だいたいね、詩陽はもっと私に甘えればいいのよ」
目を開けると、そこには伶弥の優しい微笑みがあった。無表情の伶弥しか知らない人が見たら、確実に腰を抜かす。慈愛に満ち、男のくせに母性さえ溢れてきそうな微笑を見せられたら、あっという間に恋に落ちるはずだ。その言葉遣いを聞かなかったら。
「私は自立した女性になりたいの。伶弥は私のことを甘やかしすぎだよ」
「全然、足りないわ。私は詩陽を甘やかして、トロトロに蕩けさせてあげるのが夢なの」
ふふっと笑った伶弥が、詩陽の頬に指を走らせる。長くて細い指は色も白くて女性的だ。下手したら、詩陽よりも綺麗かもしれない。
「そうやって、冗談を言うんだから」
詩陽が口を尖らせると、伶弥はまた小さく笑った。
「私が詩陽を好きなことを、知ってるでしょう?」
「はいはい。もうその冗談は聞き飽きたよ」
伶弥は昔から繰り返し、このセリフを言ってきた。それから決まって、こう言うのだ。
「詩陽はただ聞いてくれるだけでいいのよ」
ほら、また。だから、詩陽は真剣に考えたことがないし、返事を返そうとしたこともない。
伶弥は詩陽が恋愛ごとに苦手意識があることを知っている。それは過去の出来事の影響が大きく、伶弥はその事件についてよく知っている。きっと両親以上に。
「今、素直に聞いて欲しいのは、私のアパートに来ることだけ。こんな私なら、詩陽も怖くないでしょう?」
そう言って、伶弥は詩陽の背中をそっと撫でた。
詩陽はふと窓に視線を遣った。今はしっかり閉まっているカーテンだが、ここに隙間ができていた日があることは全く知らなかった。写真を撮られていたことも。これから気を付けるようにしても、これまで気付かなかった事実に気付ける保証はない。
そうして、もっと怖い思いをしたら。もっと過激になっていったら。もし、目の前に現れてしまったら。そう考えて、詩陽の体に力が籠った。
伶弥の大きな手は今も詩陽の背中を撫でている。その手に宥められ、詩陽は少し力を抜いた。
「……わかった」
「よかったわ! 詩陽、ありがとう!」
そう言って、伶弥は詩陽の体を抱き締めた。お礼を言うのは詩陽のはずなのに、本当に嬉しそうにしている伶弥を感じ、詩陽は小さく苦笑した。
マンションに着くと、伶弥は詩陽をソファーに座らせ、頭をひと撫でしてからシャワーを浴びに行った。詩陽はその後ろ姿を見送った後、ソファーに寝転び、真っ白な天井をぼんやり眺める。
伶弥のマンションに来たことがないわけではないが、伶弥が詩陽のマンションに来ることが多かったため、少しだけ緊張する。伶弥の爽やかな匂いが詩陽を受け入れてくれているのも、落ち着くような、落ち着かないような複雑な気分だ。
伶弥の部屋は本人の性格を表しているように、物は少なく、よく片付けられている。全体的にモノトーンで整えられているが、冷たい印象はなく、どちらかというと居心地がいい。
「あら、もう寝る?」
伶弥の声に、詩陽は緩慢な動きで視線を向けた。次の瞬間、詩陽は飛び起き、ソファーの座面に顔をぶつけた。
「なななな、何事なの⁉」
「こっちの台詞よ⁉ ほら、ちょっとおでこ見せなさい」
背中で伶弥が近づいてくるのを感じ、詩陽はぐりぐりとおでこをソファーにこすりつける。この座面に埋まってしまいたい。そんな無駄な抵抗は一瞬で終わった。
詩陽の肩に手がかかり、少し強引さも感じさせる力で後ろに引かれる。そうして目に入ったのは、伶弥のはだけたパジャマの胸元だった。
「待って待って、どうしてそんなに乱れてるの⁉」
「え? あ、これ? 暑かっただけだけど、なに、今更」
確かに、小さな頃は一緒にお風呂に入ったこともある仲だから、今更かもしれない。
だが、今はやたらと色気が振り撒かれていて、詩陽にとっては異常事態である。顔が真っ赤になっている自覚もあるし、心拍も乱れているが、それはすべて不意打ちのせいだと思いたい。
「詩陽」
深呼吸で平静を取り戻そうとしていた詩陽は、急に近くなった声に驚き、目を見開いた。目の前に伶弥の引き締まった胸板がある。石鹸の匂いが濃くなって、周囲の温度が三度は上がった。
「ははは、早くボタンを……!」
詩陽は慌てて目の前にあるボタンを掴む。少し震える手は言うことを聞かず、気付けば、パジャマを強く引っ張っていた。
「大胆ね」
耳元で囁かれ、詩陽は声にならない叫び声を上げた。
「寝る! もう寝よう! 寝かせて欲しい!」
「いいわよ」
「だから、どうしてこうなる……!」
寝たいと主張した途端、伶弥はクスクスと笑い、詩陽を抱き上げてしまった。横抱きはやめてもらいたい。頬に触れた伶弥の肌は熱を持っていて、滑らかだ。足をばたつかせて抵抗しようとしたが、伶弥の無言の微笑みで制されてしまった。
危なげない足取りで伶弥が連れて行ってくれたのは、当然、伶弥の寝室だ。
「まさか、一緒に寝るの!?」
「ベッドは一つだって知っているでしょう?」
「知ってた……! 知ってたけども!」
もう熱くて燃え上がってしまう。たかが伶弥だ。男だと意識するような存在ではない。そう思うのに、見たことのない男の色気を見せつけられて、きっとどこかおかしくなってしまったのだ。
伶弥は楽しそうに笑いながら、詩陽をそっとベッドに下ろした。見下ろす伶弥の黒髪がその目にかかり、薄い唇が淡く開く。
「顔色が良くなったわ」
「ええ、そうでしょうね!」
もう、いろいろとどうでもいい。そう思ったが、次の伶弥の行動にはやはり叫んでしまった。詩陽の隣に横になり、くるりと詩陽の方へ身体を向けたのだ。真上を向いて寝ている詩陽を横から包み込みそうな体勢に、詩陽は固まった。
「もう怖い思いはさせない。夢でさえ、ね。ほら、目を閉じて」
「いやいやいや、寝られない」
こんな体勢で、落ち着いて眠れるはずがない。
「これ以上は近づかないし、絶対に詩陽に触れないから」
「絶対?」
「……今は」
「え?」
「おやすみ、詩陽」
大事なことを聞き逃した気がするのに、伶弥はにっこりと笑い、詩陽の身体に掛布団をかけて会話を終わらせてしまった。
伶弥の匂いに包まれ、隣には守ってくれる絶対の存在がある。恐怖と不安と緊張と混乱で、眠れるはずがないと思っていた詩陽だったが、疲れもピークに達したのか、いつの間にか夢の世界へと旅立っていた。
あんな出来事があったにも関わらず、この日、悪夢を見ることはなかった。
