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【5】恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~

第5話 震える体を宥めるのは

「お疲れさまです」

 詩陽は声が聞こえ、資料に落としていた視線を上げた。そこには笑顔で見下ろしている男性が一人。

「西村くんも、お疲れさま。誰かに用事?」

 西村智晴、二十六歳。百八十センチを超える長身と、甘いマスク。その上、営業部の期待のホープともなれば、女性社員の反応は想像に容易い。

「来栖主任に聞きたいことが合って来たんですが、いらっしゃらないみたいで」

 きょろきょろと周囲を見回した西村につられて、詩陽も伶弥を探してみたが、デスクどころか、フロア内にその姿は見つけられなかった。

「主任なら、まだ帰っていないはずだから、何か伝言があれば聞いておくよ」

 西村は頻繁に企画部に顔を出すため、多少慣れているし、一歳年下ということもあって、比較的話しやすい男性だと言える。

「来栖主任のところには、また改めて伺います。ことりさんは、まだ仕事なんですか?」
「もうそろそろ終わろうかなって思っていたところ」

 腕時計を確認すると、十九時を過ぎたところだった。今のところ、締め切りの近い仕事はないから、伶弥がまだかかるようなら、たまには詩陽が料理を作っておいてあげてもいいかもしれない。

「それなら、これから飲みに行きませんか?」
「え?」

 きょとんとした詩陽に、西村は人好きのする笑顔を向ける。こつんと音がして視線を落とすと、西村の大きな手がデスクに乗っていた。何の気構えもなかった詩陽の体温が、一瞬で下がる。

「ことりさんと二人で飲みに行ったことはなかったなと思いまして。よかったら、どうですか?」

 もう仕事を終えるところだと話したのは、つい先程。この後、予定があるわけではないし、断る理由もない。いろいろ考えなくては、と思うのに、目の前にある手の存在が大きすぎて、思考力が行方不明だ。

「ことりさん?」

 視界にふっと影ができて、恐る恐る顔を上げる。ちょうど、西村が詩陽の顔を覗き込もうとしているところだった。

「ひっ」

 詩陽が距離を取ろうと椅子から立ち上がったが、勢いが良すぎたのか、椅子が大きな音を立てて倒れてしまった。

「大丈夫ですか!?」

 西村は慌てて椅子を直し、心配そうな顔で詩陽を見下ろす。西村は誰にでも優しく、若いわりに落ち着きもある。だからこそ、詩陽も接しやすかったのだが、今はこれまでどう接していたのかを忘れてしまったようだ。

 目の前の西村は心から詩陽のことを心配してくれている。突然立ち上がって、返事もしなくなったなんて、詩陽の行動はおかしいはずなのに。

 指先の震えを止めようと、ぎゅっと握り込む。唇が震えて話せなくなりそうな気がして、強く噛んだ。

「だ、大丈夫……あの、ごめんね。ちょっと、体調が……」
「何している」

 詩陽の言葉に重なるように、低くて鋭い声が飛んできた。次いで足音が聞こえ、伶弥の革靴が視界に入った。

「来栖主任……」
「一体、何事だ」

 詩陽がゆっくり顔を上げると、普段以上に険しい表情をした伶弥が、西村を睨みつけていた。

「す、すみません。あの、ただ」
「俺に用があったんだろう? 小鳥は体調が悪いなら、帰るんだ」

 詩陽はその言葉に、こくりと小さく頷き、デスクの上を片付け始めた。データを保存したいのに、指先が震えていて、マウスが上手く動いてくれない。

 どうして、こんなにも何でもないことで、調子を乱してしまうのだろう。西村は何も悪いことはしていない。普通に誘ってくれただけで、嫌な言い方でもなかったし、しつこかったわけでもない。それなのに、伶弥は敵意と言ってもいいほどの感情を見せている。伶弥に対しても、西村に対しても、同じくらい申し訳なく思う。

 横から見慣れた手が出てきて、マウスに触れる。そのスマートな行動で、詩陽を包むように西村を視界から消してくれた。

 背中に感じる慣れた温もりとふわりと香る爽やかな匂いが、詩陽の心臓を宥めようとしてくれる。伶弥は詩陽の代わりにマウスを操作し、広げたままの資料もその手が揃えた。

「ほら」

 伶弥から鞄を渡されると、詩陽は二人に頭を下げて、逃げるようにその場を離れた。


 伶弥のマンションに着くと、詩陽はソファーに丸くなって座った。鞄をどこに放り投げたのかも覚えていない。伶弥のソファーは三人掛けの大きなもので、深い色合いのブラウンの革張りだ。身じろぎすると、きゅっと音が鳴る。

 詩陽は音をほとんどさせることなく、ただただジッと小さくなっていた。

「詩陽!」
「……伶弥」

 伶弥が帰って来るまでの間、それほど時間は経っていなかったのだが、詩陽には何時間にも感じた。

「……大丈夫?」

 伶弥は詩陽の前に膝をつき、目線を合わせた。伸びてきた手は詩陽の目元に触れ、優しく滑る。長い指が濡れたことに気付き、初めて自分が泣いているのを知った。

「西村は懲らしめておいたわ」
「ま、待って! 西村くんは悪くないの。私が勝手に怖くなっただけなの」

 慌てて伶弥の袖を掴むと、その手を伶弥の手が覆った。とても温かくて、冷えた詩陽の手に体温を戻してくれる。

「えぇ、わかっているわ。大丈夫。今日は朝から体調が良くなさそうだったことを伝えただけ。心配はしていたけど、怪しんでいたり、怒っていたりはしなかったから安心して」

 伶弥の手に頭を撫でられ、詩陽は目を閉じる。伶弥は同い年なのに、時々兄のように思える時がある。甘やかすのが上手いからだろうか。そっと目を開くと、伶弥の優しい微笑みが迎えてくれた。

 西村に向けたような険しい顔を見たのは、久しぶりだ。伶弥はいつも、詩陽には笑顔や柔らかい表情しか見せない。前に見たのは、ストーカー事件があった時だった。再び思い出しそうになり、詩陽は首を振って、脳裏から追い出した。

「ありがとう」

 きっと自分では上手くフォローできていなかった。事情を知らない他の同僚であっても無理だったはずだ。これは伶弥にしかできなかった。

「何か、怖いことがあったのね?」
「ただ、目の前に手を置かれただけ。飲みに誘われただけ。たったそれだけだよ」
「詩陽にとっては、『たった』とは言えないことでしょう? 私の前では無理しなくてもいいのよ。弱いところを見せて欲しいわ。そうしたら、私は堂々と詩陽を甘やかしてあげられる」
「いつもじゃない」

 甘やかすのに躊躇ったこともないだろうし、隠れていたこともない。その言い方がおかしくて、詩陽は小さく笑った。

「今日はゆっくりしましょう」
「うん」

 そう言って離れようとした伶弥の服を、詩陽は無意識に掴んだ。

「どうしたの?」
「いや、あの」
「離れたくない?」
「……うん」
「じゃあ、今日は出前を頼みましょう! ちょうど、詩陽と食べてみたいところがあったの」
「じゃあ、そこにしよう」

 それから、二人は新しくできたばかりのベトナム料理屋の出前を注文し、ソファーにくっついて座った。

「私、いつになったら、男性が怖くなくなるんだろう」
「焦らなくてもいいのよ。それに、あの手紙のせいで、これまでよりも敏感になっている気がするし。だから、あの問題の解決を急いだほうがいいわね」
「そうだね……伶弥が伶弥でよかった」
「どうしたの、急に」

 ふふっと笑う伶弥の雰囲気に、詩陽も笑顔を見せる。今も伶弥の手は詩陽の手を握ってくれている。

「私、伶弥まで怖くなったら、どうしようかと思ってたの。でも、大丈夫だったことが、本当に嬉しかったんだ」
「私も、詩陽がもう二度と私と話せなくなったらどうしようかと思っていたわ」
「昔から一緒に居たからかな」
「そうね。それもあると思う。でも、一番はこの話し方のお蔭じゃないかって思うわ」

 詩陽はジッと伶弥の顔を見つめてみた。確かに、ストーカーからの電話で男性の声や話し方が怖くなった。それを伶弥に相談した覚えはある。両親にも言えなかったことだ。

「あれ……? でも、いつから伶弥はオネエ言葉になったんだっけ?」
「いつだったかしら」

 伶弥はわざとらしく首を傾げ、口元を緩める。これは本当に忘れたわけではなく、隠そうとしている顔だ。

「……もしかして、私の、ため?」
「さあ? でも、この話し方になって、詩陽の警戒が解けた時は、本当に嬉しかったのを覚えてる」
「でも、それじゃ、伶弥が損ばっかりしてるじゃない!」

 言い換えれば、詩陽を怖がらせないためだけに、伶弥は演じていたということだ。こんな言葉なんて、白い目で見られることもある。嫌な興味を向けられることだってあったはずだ。それなのに、高校生の頃にはこうだった記憶がある。

「私にとって、詩陽が全てだもの。これくらい、どうってことないわ」

 伶弥はそう言って、詩陽の頬を撫でる。まるで壊れ物に触れるかのように。視線が温かいを通り越して、すこしばかり熱い。

「この滑らかな頬に触れたいと思っていたし、この小さな手を握りたいと思っていたわ。そのためなら、何でもできたのよ」

 クスクスと笑う伶弥は、本当に何でもないことのように言った。詩陽は胸が苦しくて、痛くなり、思わず握られていない手で胸元の服を握り締めた。

「詩陽のことを好きって言ってるでしょう?」

 伶弥に抱き寄せられ、詩陽はその胸に頬を寄せる。これまでも冗談のように抱き締めてくることはあった。

 だけど、なんだか今はいつもと違う気がする。でも、まだその違いの理由に、詩陽は思い至らなかった。ただただ、この温もりが嬉しくて、胸が張り裂けそうになる。

「これからも、私は詩陽を守り続けるわ」

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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