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【26】恋を知らない小鳥~幼馴染の愛に包まれて~

第26話 宣戦布告

 詩陽は玄関の開く音が聞こえた瞬間、ソファーで姿勢を正した。反射のようなものだったため、自分の行動に首を傾げる。そうこうしているうちに、伶弥がリビングに入ってきた。

「詩陽、ただいま」
「おかえり。ご飯は?」

 時計を見ると、既に二十一時を過ぎている。

「簡単に済ませてきたわ。ごめんね、一緒に食べられなくて」
「ううん、気にしないで。毎日遅くまで大変だね」

 気にしないでなんて、心にもないことを言ってしまったと、内心で嘆息する。

 本当は藍沢と一緒にご飯を食べたんじゃないかとか、ずっと一緒だったんじゃないかとか、聞きたいことはいっぱいある。同時に、怖くて聞きたくないとも思ってしまう。

 こんなうじうじした自分は嫌いになってしまいそうだ。

「じきに落ち着くから、心配しないで」

 そう言って、伶弥は寂し気に微笑んだ。その表情が妙に引っかかり、詩陽は思わず伶弥の服を掴んでいた。

「どうしたの?」
「詩陽こそ、どうしたの?」

 詩陽は不安な表情にならないように気を付けたつもりだったが、伶弥には通じなかったらしい。ただ、不思議そうな顔をしているから、詩陽がこんなにも不安に思っていることは伝わっていないはずだ。

「何でもない。ほら、お風呂入ってきて、疲れを取らないと!」

 詩陽はわざとらしいと自覚しつつも、笑顔を作り、伶弥の背後に回った。え、え、という伶弥の声を聞こえるが、詩陽は強引に押して、脱衣所へと追いやり、顔も確認せずに、勢いよく引き戸を閉める。

 不審に思われようが構わなかった。今の泣きそうな顔を見られるよりは、ずっといい。


 それから、伶弥はいつもの入浴時間よりも早く出てきた。

「詩陽、一体」
「寝よう!」
「ちょっと、何が」

 詩陽は再び伶弥の背中を押して、寝室へ連れ込み、そのままベッドに押し倒した。

 二人分の体重でシーツが皺だらけになる。そんなことはどうでもいいとばかりに、詩陽は伶弥の腰の上に跨った。下敷きにされた伶弥は目を白黒させて、茫然と見上げている。

 髪が乱れる姿は会社では見せない詩陽だけの姿。パジャマ姿だって、隙のある寝顔だって、アンニュイな寝起きの顔だって、全部が詩陽だけのものだ。

「ねぇ、本当にどうしたの?」
「うるさい」

 どうして気付いてくれないの。そんな身勝手な思考が掠め、詩陽は苛立ちを伶弥にぶつけてしまった。

 いつもなら詩陽のことに詩陽以上に敏感で、自覚のない心情の揺れにも気付いてくれるはず。

 それなのに、気付いて欲しい時に気付いてもらえない歯がゆさと、自ら言葉にしない卑怯な自分への幻滅で、頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 それから詩陽は体を屈めて、伶弥の唇を奪った。詩陽の行動に驚いた伶弥は一瞬抵抗を見せたが、やめる気のない様子を感じ取ったのか、すぐにキスに応え始めた。伶弥のごつごつした手首を押さえつけていたが、いつの間にか解かれ、反対に手首が掴まれている。

 乱れ始めて呼吸が二人の間で混ざり合い、熱を交換するように一つになっていく。まるで、詩陽の中にある凶暴な獣が目を覚ましたようだった。

 紺色のパジャマの裾が捲れ、引き締まった脇腹が覗いている。詩陽は伶弥の手から力が抜けた瞬間に引き抜き、その脇腹に触れた。伶弥の体がびくりと震え、詩陽は口角を上げる。

「酔ってる?」
「酔ってない」

 首を横に振る詩陽をじっと見つめる伶弥だったが、ふっと笑いを零した。そんな余裕のある様子にまでイライラしてしまう。詩陽に余裕なんて微塵もないのに。

 詩陽は手を進め、贅肉のない胸部を撫でると、伶弥から熱い吐息が上がった。自分に翻弄されて、余裕を無くしてしまえばいい。詩陽のことだけ考えてくれたらいい。

 強引にパジャマを捲り、鎖骨の下に舌を這わす。いつも伶弥がするように。伶弥の真似をするしか経験も知識もないけれど、自分がいつも乱されるように、伶弥も乱れて欲しい。

 だから、キスマークを付けようとしたのだが、どうにも上手くいかない。伶弥は大人しく待っていてくれたが、遂にクスクスと笑いだしてしまった。

「……どうして、つかないの?」
「もっと強く吸わないと。ほら、見本を見せてあげる」

 そう言うと、伶弥は詩陽を引き寄せ、体勢を入れ替えた。見下ろされると、あっという間に立場が逆転したような気分になる。伶弥の瞳がキラリと妖しく光り、危険を察知した時には遅かった。

 齧り付くようなキスに襲われ、大きな手がパジャマの中に侵入してくる。手を伸ばして、肩を押そうとしたがビクともしない。

 唇が解放されるも、息つく間もなく鎖骨に痛みを感じた。その上から軽く唇を押し当てられ、そこにキスマークがついたことを悟った。

「わかった?」
「わからない」
「わかるまでやってやるよ」

 言葉遣いと声色の変化に、しまった、と思った。詩陽が優位に立っていたつもりだったが、なんて短い時間だったのだろう。

「詩陽が始めたんだ。後悔するなよ?」
「ちがうの」
「違わない」

 今、詩陽に必要なのは会話だった。誤解を解き、自分の気持ちを伝え、関係をはっきりさせるための会話が。間違えてしまったのは、他ならぬ詩陽だ。首を振る詩陽を見下ろし、伶弥は舌なめずりをする。

 結局、この日は意識が落ちるように寝てしまい、気付けば朝。早出をするという伶弥はもうスーツを着ていて、いってきますのキスをして出て行ってしまったのだった。
 
 
 それから数日後のことだった。

 詩陽はソファーに座り、ぼんやりと時計を眺めている。今は夜も更け、いつもならとっくに寝る時間になっている。それなのに、伶弥はまだ帰ってきておらず、夕飯も団欒の時間も、ずっと一人だった。

 仕事で伶弥の方が遅くなることはあるのだから、今日だって、珍しいことではない。ないはずなのに、嫌な予感が頭を過って、どうしても落ち着くことができない。それも、今日、心葉から嫌な話を聞いてしまったせいでもある。

 どうやら、藍沢は社長の関係者のようで、社会勉強のために仕事に来ているらしい。そこまではいいのだが、伶弥を気に入り、結婚相手にという話が持ち上がっているというのだ。

 藍沢が配属されて三週間ほどが経ち、藍沢は伶弥とだけでなく、周囲の人とも打ち解けてきた。そこに詩陽は上手く入れていない。人間関係を円滑にするために行動することは、詩陽にとって難しいことでないはずなのに、藍沢に対しては、どうしても二の足を踏んでしまう。

 これではいけないと思い、詩陽は何度も輪に入ろうとしたし、伶弥の想いや考えを聞こうとした。そう思っていても、二人が話をしている姿を見てしまうと、聞く勇気がなくなってしまう。今日に至っては帰ってきてもいないのだから、聞きようがないのだが。

 今日だって、仕事で遅くなると聞いたが、もしかしたら、そこに藍沢もいるかもしれない。デスクに座らされて、キスされたあの場所で、今度は藍沢にキスしているかもしれない。

 ありえないと思っているのに、想像だけがどんどん膨らんでいって、遂には先程、伶弥と藍沢はホテルに入って行った。このまま帰って来なかったら、それも想像上の話だけではなくなるかもしれない。

 詩陽ははぁっと息を吐き、ソファーの上に寝転んで小さく丸くなった。

「でも、私が、何か言える立場じゃないか……」

 告白の返事もしていないし、伶弥に女の子らしく甘えるなんて高度な真似もできない。先日は伶弥を襲ってしまったが、すぐに攻守逆転してしまったし、あれで詩陽の気持ちが伝わったとは思えなかった。こんな可愛げのない女だから、呆れられても文句は言えないなと思う。

 詩陽は不意に込み上げてきた涙を、深呼吸して飲み込んだ。

「泣く権利すらないのに」

 今日こそは帰って来るのを待って、話をしよう。どう話をすればいいかはわからないが、このままでいいわけがない。

 もし、最悪な状況になり、伶弥と藍沢に進展があるようなら、詩陽はここを出て行かなければならない。いろいろと考えることが多すぎて、もうパンク寸前だ。

 詩陽は目を閉じ、伶弥の顔を浮かべた。最近、ゆっくり話ができていないし、優しい笑顔を見ながら、美味しいご飯を食べることもできていない。

「恋しい……」

 思わず出てきた言葉に驚き、口を手で塞ぐ。あまりに照れくさくて、足をばたつかせが、ソファーがギシギシと鳴るだけで、そこに「バカねぇ」と言って笑う伶弥の姿がない。

 そうして、詩陽が気付いた時には、窓から朝日が差し込む時間になっていた。
 
 
「ねぇ、来栖主任、昨日と同じ服じゃない?」

 トイレの鏡の前で化粧を直していた一人が、弾んだ声で楽しそうに言い放った。個室にいた詩陽は鍵に伸ばしていた手を引っ込める。

「やっぱり⁉ 私も思ってたんだよ。やばくない? やっぱり藍沢さんかな」
「確かに、美男美女でお似合いだよね。あの鬼と付き合うのは考えられないけど!」
「でも、藍沢さんには優しいよね。特別な人だけは優しいとか?」

 やだ、ウケる、と盛り上がりを見せる二人に対し、詩陽の体温はどんどん下ってきている。

 昨夜、伶弥は帰って来なかった。一緒に暮らし始めて、帰らなかったのは初めてだ。しかも、連絡もなかった。詩陽は心配で一度だけメールを送ったが、それに対する返信もなく、怖くなった詩陽はそれ以上、連絡することができなくなった。

「でもさ、藍沢さんって、お偉いさんの娘なんでしょ? それなら、来栖主任もただ好きで選んだんじゃなくて、出世欲から付き合ってるのかも」
「うわ、主任ならありえる! 本当、何を考えているのか、さっぱりわからないもんね」

 詩陽は唇を噛み締め、ダンッと扉を殴った。二つの悲鳴が聞こえ、慌てて出て行く足音が遠ざかっていく。詩陽はその場で何度も地団太を踏んだ。

 藍沢と伶弥がどうなっているのか、わからない。もし、噂が本当ならショックだが、何よりも腹が立ったのは、伶弥が酷い誤解されていることだった。

「本当の伶弥を知らないくせに!」

 悔しくて、悲しくて、もどかしい。でも、飛び出して、正々堂々と文句を言えなかった自分にも幻滅した。

 仕事に戻ろうと、廊下をトボトボと歩いていると、正面から当の二人が歩いてくるのが見えた。頬を染めて、嬉しそうに何かを話している藍沢と、それにささやかな相槌を打つ伶弥。

 伶弥の態度は他の人と変わらないように見えるが、それでも、藍沢に耳打ちをされる度に、腰を屈める姿に胸が痛む。

 詩陽は一度立ち止まってしまったものの、思い切って前に進む。そして、すれ違う瞬間、伶弥と目が合った。

「あ」

 詩陽は話しかけてみようと勇気を出してみたが、伶弥に目を逸らされて、言葉は続かなかった。気まずそうにも見える伶弥の様子に、詩陽は胸の痛みを堪えきれなくなり、その場を走り去った。

 逃げるようで情けないが、あのままあそこにいたら、何を言うかわかったものじゃない。下手したら、二人を怒鳴りつけてしまうかもしれない。詩陽は憂鬱な気持ちのまま自席のつき、無理やり仕事に没頭することにした。
 
 
 詩陽がいつも以上の疲労感を感じながら、会社のエントランスを抜けようとした時だった。

「小鳥さん」

 後ろでハイヒールの足音がして、今は聞きたくない声に呼び止められた。しぶしぶ振り向くと、予想通り、藍沢が笑顔で立っていた。可憐な笑顔が眩しいと思うと同時に、憎らしくも思えてくる。隣に伶弥が居ないことだけは喜んでおくべきだろうか。

「藍沢さん、お疲れさま」
「小鳥さん、この後、予定はありますか? よかったら、飲みに行きませんか?」

 大して話したこともなかったはずだったため、この突然の誘いに面食らった。藍沢は裏がありそうには見えない純粋な目で、詩陽を見つめてくる。

 藍沢に関しては悪い話は聞かないし、仕事もしっかりやっているようだ。伶弥とのことがあるせいで、詩陽が敏感になりすぎているのかもしれない。

 そもそも、詩陽はあまり飲みに行くのが好きではない。ストーカー事件が解決したと言っても、簡単に男性恐怖症が治るわけでなく、夜の街に溢れる男性の存在は未だに怖いのだ。

 でも、と藍沢を見つめ返す。やはり逃げてばかりではいけない。伶弥からも藍沢からも、男性からも。

「いいよ」
「嬉しいです! ずっと小鳥さんと話してみたかったので」

 無邪気にはしゃぐ藍沢を見ていると、いろいろと悪く考え過ぎなのではと反省したくなる。詩陽は苦笑し、この機会に藍沢を知る努力をすることを心に誓った。絶対に偏見の目で見ないのだということも。


 それから、詩陽は藍沢と二人で創作居酒屋に行くことにした。あまり店を知らない詩陽は藍沢にお任せしたのだが、年上としてリードしてあげられないことが悔しかった。

 あまり年齢を理由に悔しいと思ったり、優越感に浸ったりする方ではないのに、藍沢に対しては、なぜか年齢が引っかかってしまう。年上としての余裕を見せたいと同時に、若くて羨ましいとも思う。そんな矛盾をたくさん感じるのだ。

「小鳥さん?」
「あ、うん。ごめんね」

 詩陽は向かいに座る藍沢に笑顔を見せ、メニューを開いた。
 
 

 料理を食べ終え、デザートを食べるか否かと考える。ここまで無難に会話できていたため、詩陽はすっかり油断していた。

「小鳥さん、主任のことをどう思います?」

 突然の藍沢の言葉に、思わず烏龍茶を吹き出すところだった。詩陽がセーブせずに酔っていたら、恐らく被害が出たはずだ。動揺を誤魔化そうと、手元にあったおしぼりで口元を拭くふりをして隠す。

「急に、何?」

 体の中の動揺までは落ち着かないらしい。心拍の乱れで胸が苦しくなっている。

「皆に誤解されているのが、悔しくて」

 藍沢はぷくっと頬を膨らませ、頬杖をついた。質問が恋愛感情についてではなかったようだ。詩陽は小さく息を吐き、僅かに姿勢を正した。同感だ。全く同じことを思っていた。

 だから簡単に返事ができるはずだったのに、何故か言葉が出てこなかった。どうして、短い期間に誤解されやすい伶弥のことを理解できたのか。そこに引っかかったからだ。

「……誤解もあるだろうね」

 詩陽の曖昧な返事に、藍沢は身を乗り出し、眉間に皺を寄せた。

「やっぱり、小鳥さんはわかってくれると思っていました。皆さん、主任のことを悪くしか言わないので」
「主任は仕事ができるだけじゃなくて、ああ見えて、部下のフォローをしっかりしているから。優しいところもあるのにね」

 詩陽は最近、まともに会話をしていない伶弥を思浮かべ、きゅっと唇を噛んだ。

 どうして、原因になっている相手とこんな話をしているのだろう。藍沢は複雑な思いで話をしている詩陽には気付かない様子で、パッと笑顔を弾けさせ、何度も頷く。

「かっこいいし、仕事もできて、こっそり気遣いもできて、それを鼻にかけることなく、平然としている。私の理想の人です!」

 詩陽は残酷な不意打ちに、鈍器で頭部を殴られた気がした。ズキズキと脈打つこめかみを押さえたくなったが、動揺していることを知られたくなくて、グッと堪える。

「そうなんだ」

 そう返すのが精一杯だった。自分から表情が抜け落ちたこともわかったが、どうにもならない。表情筋が瞬殺された。

「詩陽さんは、どうなんですか? どんな人がタイプなんですか?」

 詩陽から漏れ出る冷気を察してくれる気配のない藍沢をジッと見つめ、こっそり溜息を吐いた。

「優しくて、可愛くて、時々いじわるになる人」

 オネエ言葉で甘やかしてくる伶弥も男性の言葉でいじわるに攻めてくる伶弥も、どちらも嫌いじゃない。

 かっこいいけど、伶弥には可愛いという言葉もよく似合う。詩陽は藍沢が少しでも知らない部分を知っているのだと主張したくて、思わず口にしていた。

 例え、藍沢が伶弥のことだと気付かなかったとしても。

「お付き合いされているんですか?」 

 どいつもこいつも、どうしてデリケートな部分にずかずかと踏み込んでくるのだ、と悪態をつきたくなった。一番聞きたいのは、詩陽である。

「さあ。私が聞きたい」

 遂に隠しきれなくなった不機嫌さを乗せて、突き放すように呟いた。詩陽は驚いたように目を大きくした藍沢に気付き、すぐに我に返った。

「何でもない。ごめんね、変なこと言って」
「私は大丈夫ですけど……小鳥さんは、彼のことがすごく好きなんですね」
「はい?」
「だって、なんだか、どんな彼も好きって言っているように聞こえました」
「えっ、そんな意味じゃないよ。全然、好きとかじゃなくて、一般論というか……」

 自分でも全く意味がわからないなと思いつつ、詩陽は早口でまくし立てる。これが一般論なのかも怪しい。

「私は、負けませんけどね。過ごした時間の長さは問題ありません。最終的に落とした者勝ちです」

 突然、藍沢は真っ直ぐな目で詩陽を見据え、強さを感じさせる口調で宣言した。詩陽は無意識に背筋を伸ばして、膝の上で両手を握り締める。これを言うために、詩陽は誘われたのだろう。おかしいとは思っていたから、とても納得した。

 誰のことを言っているのかはハッキリさせなかったが、間違いなく伶弥のことだ。気付かれていないと思っていたが、詩陽が思い浮かべている人間も伶弥だとわかっていたのだ。

 可愛い顔をして、なんて大胆なんだろう。先輩に向かって、いきなり宣戦布告とは恐れ入る。勝手に言っていればいいと思ったが、それよりも明確に思ったことがある。

「これ以上、踏み込ませない」

 そう言って、詩陽が睨みつけると、藍沢はふっと不敵に笑った。そうして、二人の殺伐とした飲み会は解散となった。
 

 
 詩陽が帰宅すると、玄関を開けてすぐのところに伶弥が立っていた。何かを言おうとしているが、上手く言葉にできないと言ったような複雑な表情をしている。

 伶弥の顔を見た瞬間、詩陽も同じ気持ちになったため、似たような顔をしていることだろう。

「ただいま」
「おかえり。詩陽、昨日は」
「うん、待って。ちゃんと聞くから、リビングに行こう」

 詩陽は意図せず、普段の声よりも低い声が出て、内心で動揺した。連絡もなく帰らなかったのだから、怒って当然かもしれない。そう思っていても、伶弥に対し、ここまで苛立ちをぶつけたことはなかったため、自分の反応に戸惑ってしまう。

 いつもの塩対応だって、心底の負の感情を伴ったことはないのだから。リビングに向かいながら、その理由を考えて気付く。二人が過ごしてきた長い時間で、伶弥が詩陽に対し、真剣に怒らせるようなことも、悲しませるようなことも、裏切りを感じさせることもなかったのだと。

 これまで、如何に伶弥が詩陽を大切にし、気遣ってきてくれたかを、今になってようやく実感した。

 なんとなくソファーに並んで座る気分にはなれず、詩陽は無言でラグの上に正座をした。すると、それに合わせるように、伶弥も向かいに正座をする。しゃんと伸びた背筋に、伶弥の緊張を感じた。

「話を聞きます」

 詩陽が言うと、伶弥は分かりやすく、唾を飲み込み、一拍おいて口を開いた。

「昨日、帰り際に副社長に会って、誘われたんだ。断れる雰囲気じゃなくて、仕方なく着いて行って、落ち着いた頃に詩陽に連絡をしようとした。でも、スマホの充電が無くなっていて、連絡できなかった。すぐに帰るつもりだったのに、勧められるお酒を断れないまま飲んで、いつの間にか潰されていた。それで、次に気付いた時は朝で、副社長の自宅で寝かされていた。本当にごめん。心配をかけたと思うし、不安にさせたと思う」

 伶弥は一度も目を逸らすことなく、真剣な表情と声色で話してくれた。ベッドで攻められる時でもないのに、言葉遣いが違ったのも珍しい。それだけ、必死に伝えようとしてくれているのだろう。詩陽にも、その気持ちは伝わってきた。

「伶弥の事情はわかった。確かに、一社員が副社長の誘いもお酒も断れないと思う。連絡をしようとしてくれたことも理解した。でも、やっぱり私は悲しかったよ」

 『悲しかった』という言葉を口にした瞬間、今まで堪えてきた涙が零れそうになる。

 だが、それを押し止めたのは無意識だった。こんな時でも、素直になり切れないことを悔しいと思う。頭では泣いてしまえば、詩陽の気持ちがもっと伝わることはわかっているのに、体は上手く応えてくれなかったのだ。

「本当にごめん。いくら謝っても、詩陽の気持ちが晴れなくて当たり前だと思う。すぐに許せなくてもいい。俺は許してもらえるまで、ひたすら謝り続けるよ」

 そう言って、伶弥は手をついて頭を下げた。まさか土下座されるとは思ってもみなかった。詩陽は慌てて伶弥の体を起こし、顔を覗き込んだ。伶弥は唇を噛み締め、顔を顰めている。詩陽の中の不安が完全に消え去ったわけではない。それでも、怒り続けることが難しくなった。

「もう、いいよ。これからは気を付けて。こんなことは二度としないって約束して」
「わかった。約束する」

 詩陽は大きな溜息を吐き、伶弥の肩に頭を乗せる。すると、伶弥の手がそっと背中に回って、弱い力で撫でられた。その手に遠慮を感じられ、詩陽はこっそり苦笑する。

 伶弥が嘘をつくことはない。それを信じているから、今の約束も本気で守ってくれるはずだ。

 詩陽が許しの意味を込めて、伶弥の首に手を回し、その頭を抱き締めると、ようやく伶弥の腕の力が籠り、強く引き寄せられた。

 この時、詩陽は失念していた。

 伶弥の事情を聴くことと、謝罪を受け入れることに精一杯で、自分の気持ちを伝え忘れていることを。嘘をつかないことと、隠し事をすることは別物だということを。

 この二つを見逃したことが重大なミスであったと気付いたのは、衝撃の場面に遭遇してしまった時だった。


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