オンライン飲みを襲う「虚無」の話
最近オンラインで飲み交っている時、唐突に虚無感に襲われる瞬間がある。
その虚無は飲み会がほどよく盛り上がってきたところで、どこからともなく飛来する。
まず、ビールの三口目あたりから瓶を水でゆすぐことを考え始める。
次いで、チーズやタレのこびりついた皿を湯に浸しておきたくなる。
挙げ句の果てには、オンライン飲み会用スマホ置き場として使っているぬか床を、飲み会前にかき回したかが気になって仕方がなくなる。
そんな現実的で具体的な後片付けが頭をよぎるや否や、さっきまでの楽しさがさざなみのように引いていく。
嘘でしょう? さっきまであんなに楽しかったじゃない。
宴もたけなわだったのに。
そのたけなわ感に、誰よりも浸りきっていたはずなのに。
ビール瓶が、汚皿が、ぬか床が、一気に私を現実へと引き戻す。
そうなるとあの楽しかった宴の雰囲気はもうどうしようもなく虚無に侵されてしまっていて、しょうがなく私はぐびりとビールを空け新しい缶を開けて、そうしてまた楽しい輪へと戻っていく。
しかしふとした瞬間に再び虚無ってしまって、ああいかんとまた半ば無理やり楽しい時間を奪取しようと試みて、無事に楽しくなって、またいきなり虚無る。
終電を気にしている時のような、常に胸に何かがつっかえているようなモヤモヤ感ではない。
それよりもずっと重要度は低く、しかし断続的に訪れる、「これ、あとで全部自分ひとりで片すんだよな…」という鈍くて重たい気持ち。
宅飲みなんかでみんなが家にいる時は、そんなことを気にしたことはなかったのに。
後片付けの圧と、その圧からの逃走するための飲酒と、その空き缶を翌日捨てに行く自分を想像しての面倒臭さがぐるりぐるりと循環する。
そんなら飲み会なんてやらなければいい。
お酒なんて飲まなければいい。
そんな味気ない考えが一瞬浮かんで、すぐに頭の隅へと押しやられた。
そういう問題では、ない!
結局、すべての皿を水洗いで済ませられれば解決する問題なのだろう。
そう思って、冷奴にワカメの酢醤油、ゆで卵のぬか漬け、そして出汁に浸した高野豆腐という、後片付けの面倒臭くなさにおいては最強の布陣で、私はオンライン忘年会に挑むことにした。

↑「スタンバイおっけーだよ〜」と友人に送った写真。大豆率が高い。
その結果は、圧勝だった。
この気楽さこそを求めていたのよ!と哄笑したくなるような、圧倒的な楽ちんさ。
もうお皿をちゃぶ台に出しっぱなしにしようが皿洗いを次の日に持ち越そうが、まったく心は痛まない。
片付けへの懸念がないと、こんなに見境なく酒って飲めるものなんだなぁ。
そんな収穫を得てウハウハだった、忘年会・初回。
味をしめた私は、その後も同様のつまみでオンライン忘年会を重ねた。
が、しかし。
そんな飲み会形態に慣れつつあったある夜、紅茶に浸ったひとさじのマドレーヌのごとく、ビールに落としたひとかけらの豆腐を飲み込んだ私の脳裏に、突如として昔食べただし巻き卵の記憶が蘇った。
今さっき画面越しに乾杯したのと同じメンバーでつっついた、ふわふわでとろとろのだし巻き卵。
あの居酒屋も、もうだいぶ前に潰れてしまった。
まだお酒を嗜み始めたばかりだった頃、「赤玉サワーっておいしかった気がする!」と言った友人の言葉に背を押され、3人揃って赤玉サワーなるお酒を注文したこともあった。大きな梅干しが沈んだチューハイに顔を見合わせたのは、あのお店だっただろうか。それとも同じ駅前の別のお店だったっけ。
そんないくつもの思い出が、少女が擦ったマッチようにぽこぽこと灯っていく。
自分たちでは作れない料理を一緒に食べたり、知らないお酒を一緒に飲んで笑ったり。
私は飲み会に求めていたのは、「共食」だったのだとようやく気づいた。
画面越しの乾杯では、一緒にテーブルを囲むことができない。顔を合わせているのに、同じ料理や、お酒を楽しむことができない。
そんな擬似共食ともいえるような状態を受け入れてはいたものの、心の奥底では寂しさや虚しさがくすぶっていたらしい。
飲み会中に虚無っていたのも、心のどこかに「どうせ食べるのは私ひとりだから」という思いがあったからだろう。
とはいえ今の私たちは、危機が過ぎ去るのをじっと待ち続けるしかない。
共食と孤食の狭間で、時々お互いの顔を見ながら各々の食卓を囲むしかない。
直接会って、同じものを飲み食いするって、なんて贅沢なことだったんだろう。
いつからか、「飲みに行こうよ」が叶わぬ合言葉になった。
「居酒屋行きたい!」と、口に出しにくくなった。
恋しいよう、梅水晶!
戻ってきて、揚げ出し豆腐!!
あぁ、しんど。
なんて悲嘆にくれても仕方がない。
離れていても密になれる方法を、模索し続けよう。
まずは、お皿を面倒がらずに洗うところから始めなくちゃなぁ。
