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僕が、映画『シン・ゴジラ』を観て泣いた理由

【『シン・ゴジラ』/庵野秀明監督】


《現実 対 虚構》


『ゴジラ』(1954)という怪物。

世界唯一の被曝国である日本において、その9年後、水爆実験の恐怖に晒されながら作られたその映画は、ポスト・ヒロシマ時代の不吉な寓話として、僕たちに警鐘を鳴らし続けている。

劇中で、山根博士は次の言葉を残していた。

「あのゴジラが最後の1匹だとは思えない。このまま水爆実験が続けば、ゴジラの同類が世界のどこかに現れてくるかもしれない。」

そして、平成時代に、再びゴジラは現れた。

語弊を恐れずにはっきりと言ってしまおう。今作『シン・ゴジラ』は、「3.11」、および「原子力発電所」の象徴である。

あまりにも残酷すぎる現実と圧倒的な無力感。浮き彫りになる被害者意識と加害者意識、そして原罪。あの日から僕たちは、悲しみ、怒り、切なさ、虚しさが複雑にせめぎ合う感情の渦の中を生きてきた。

それからたった数年後の2016年、薄れたとしても決して消えないあの記憶を呼び覚ますかのように、完全生物としての天災がスクリーンを通して日本を襲った。

この映画の最大の特色は、あらゆる演出において、一切の「私」の感情が排除されていることである。庵野秀明監督は、ゴジラの襲来という有事を徹底的な「公」の視点から描いた。作戦遂行のために、欲を捨て、恐怖を拭い、ロジカルかつ的確に自らの任務に当たる人々を見て、人はここまで「無私」になれるのかと感動した。

しかし、現実を振り返ってみれば、この国を復興へ導いてきたのは、そうした名もなき「誰か」だった。顔も知らない人たちのために働く人がいて、そうした人たちがこの国に少しずつ灯を取り戻してきた。

そしてそれは、この日本に生きる「あなた」だ。

今作が引き戻すのは「3.11」の記憶だけではない。敗戦国、世界唯一の核被爆国としての日本。僕たちは、いくつもの悲しみの歴史の延長線上を生きている。そして、これからも生きていかなければならない。

それでも僕たちは、この国を、日本を生きる私たち自身の可能性を信じることができる。今作が提示した、そのたった一つの肯定性は、フィクションだからこそ伝えられる、いや、フィクションにしか伝えられない光眩いものだ。

僕はこの映画を、この映画の製作に携わった全てのクリエイターたちを、そしてこの映画を観た全ての観客を、希望と呼びたい。たとえ、僕たちが生きる時代が、どれほどに混迷を極めていくとしても、日本に、日本を生きる私たちに、希望はある。

その輝きが「次の時代」へと続いていくことを願う。



※本テキストは、「【永久保存版】 僕たちを「次の時代」に導いた平成の邦画30本」の一部を抜粋したものです。


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