見出し画像

【最終考察】 欅坂46の「嘘」と「真実」について

【『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』/高橋栄樹監督】

欅坂46とは、何だったのか。

一つだけ言えるのは、彼女たちは、この日本の音楽シーンにおいて圧倒的に未知な存在であった、ということ。

過激にして過剰、そして、極限まで洗練された「反逆」のポップ・ミュージックによって観る者を圧倒しながら、同時に、異質なほどに内省的な佇まいを見せる。時には、壮絶な諦観のようなものさえ感じさせるから不思議だ。

もはや、「アイドルなのに」「ロック的である」といった安易な言葉では、決して欅坂46の本質を形容することはできない。一つの言葉で表そうとするたびに、一つの感情にのみフォーカスするたびに、そして、一つの物語に当てはめて捉えようとするたびに、彼女たちを取り巻くあらゆるリアリティが失われてしまう。

そうした未知のアーティスト・欅坂46に、僕たち音楽リスナーは熱狂した。そして、シーンからの期待が加速するにつれて、彼女たちは否応もなく崩れていってしまった。



その混迷の中心で、懸命に舞い続けた一人の少女がいた。

欅坂46の表現における核心を担う不動のセンター、平手友梨奈。

欅坂46は、平手の絶対的な才能、および、メンバーが彼女へ寄せる絶対的信頼のもとに成立していた。だからこそ、このグループは果てしなく強靭で、そして、同じだけ脆かった。

たった一人の少女に、グループ全体の物語を背負わせるのはあまりにも酷な話かもしれないが、この残酷な構造こそが、欅坂46の強みであり、そして同時に弱みでもあった。

その必然として、2020年10月をもって、欅坂46は終幕する。



高橋栄樹監督は、今回のドキュメンタリー映画のコンセプトを決めるにあたって、何度も繰り返し検討を重ねていった。そして彼は、一つひとつのライブ映像を観て、ステージ上のパフォーマンスにこそ、彼女たちの「真実」が宿っていると確信したという。

ここで「真実」という言葉を使っているが、そもそも大前提として、「企画も設定もあらすじも、予め大人たちが仕掛けたもので、その意味で、欅坂46にまつわる全てがフィクションなのではないか」という反論もできるかもしれない。事実、彼女たちへ向けられる批判の多くは、運営サイドの大人たちへの批判と重なることが多かった。

しかし僕は、そうした表層的な「嘘」を巡る言説に、もはや本質的な意義はないと思う。なぜなら、彼女たちがステージで見せる汗と涙は、まぎれもなくリアルなものであったからだ。

高橋監督は、この5年間のライブ映像を編み上げることで、欅坂46の本質に迫った。今作では、グループの命運を左右する決定的瞬間の数々を振り返ることができるが、そのほとんどは、やはりステージの上で起きた出来事だった。

特に、平手をはじめとした複数のメンバーが過呼吸で倒れた2017年の紅白歌合戦における"不協和音"、平手の才気が「暴発」し、そのままステージから崩れ落ちるアクシデントが起きた2018年の夏の全国ツアーにおける"ガラスを割れ!"は、言葉を失うほどにショッキングな映像である。

卓越した表現力と、あまりにも豊かな感受性。平手が持ち合わせてしまったその2つの才能は、他でもない彼女自身を苦しめた。そして呼応するように、他のメンバーたちも苦しみ、自らの存在意義について葛藤した。中には、平手との力量の差に深く絶望する者もいた。



それでも、彼女たちが欅坂46としてステージに立ち続けたのはなぜだろう。

その原動力をあえて言葉にすれば、「未だ誰も見たことのない表現を生み出したい」というまっすぐな願いと深淵な覚悟に他ならない。そして、そうした彼女たちの想いこそが、いや、それだけが、欅坂46の「真実」なのだと僕は思う。彼女たちが表現に懸ける想いは揺るぎなく、ステージの上には、何一つの「嘘」がなかったからこそ、欅坂46のパフォーマンスは、強靭で、圧倒的な表現として成立していた。

今作の終盤には、"黒い羊"のミュージックビデオ撮影終了直後のメイキング映像が使用されている。全てのエネルギーを放出し地面に横たわり続ける平手。彼女を囲うようにして膝をつき、共に涙を流すメンバーたち。迷いながら、傷付きながら、それでも未知なる表現を追求して全身全霊でパフォーマンスに挑む欅坂46を象徴するこのシーンに、僕は涙が止まらなかった。結果論にはなるが、平手の脱退前ラストシングルとなった"黒い羊"は、それまで茨の道を切り開き続けてきた欅坂46の歩み、その最も美しい結実であったのだと思う。



ここまで、平手友梨奈という一人の少女にフォーカスしながら欅坂46について論じてきたが、しかし僕たちは、まだ彼女について多くを知らないままだ。

高橋監督は、今回のドキュメンタリー映画の制作にあたり、何度か平手への新規インタビューの打診をしたが、いずれも快諾は得られなかったという。だからこそ彼は、周りのメンバーの証言や客観的な事象を通して、平手の実像に迫るしかなかった。

「不在の中心」とはまさにこのことで、高橋監督は、今作の制作にあたって、『ファイト・クラブ』や『ソーシャル・ネットワーク』をはじめとするデヴィッド・フィンチャー監督の作品を参考にしたという。彼はフィンチャー作品に共通する構造として、「平凡な主人公や友人たちが、ふとしたきっかけで始めたことが大きなムーブメントとなり、当の本人たちにも制御できなくなり、人間関係のバランスが崩れていく物語」と語っているが、たしかに、「天真爛漫な14才の少女」であったデビュー当初の平手の映像を見ると、その後にアンコントローラブルな「現象」と化していく欅坂46の物語と重なる点が多いことに気付く。

いずれにせよ、平手が混迷の中心で何を想っていたのか、今の僕たちには知る由もない。いつになるかは分からないけれど、いつか口を開く時が来たら、彼女から見た、もう一つの欅坂46の物語を聞いてみたい。

そして、グループの表現における核心を一手にして引き受け続けてきた平手が、これから、他でもない自分自身のために、どのような新しい表現を切り開いていくのか。これからも見届けていきたい。



平手の脱退を受けて残されたメンバーたちは、欅坂46の歴史に自ら終止符を打ち、新しいグループとして再スタートを切る。僕は、その果敢な決断に、最大限の敬意を払う。

2020年10月のラストライブを経て、これから彼女たちは、いったいどのような坂道を駆け上がっていくのだろうか。

期待して待ちたい。




【関連記事】


いいなと思ったら応援しよう!

松本 侃士 最後までお読み頂き、誠にありがとうございます。 これからも引き続き、「音楽」と「映画」を「言葉」にして綴っていきます。共感してくださった方は、フォロー/サポートをして頂けたら嬉しいです。 もしサポートを頂けた場合は、新しく「言葉」を綴ることで、全力でご期待に応えていきます。