サンドイッチとウィンナー 3
日曜日、後ろ髪を引かれる思いで、私は図書館に行く。お弁当作りはずっと続いている。行って関口君と勉強して、お喋りして、それで一日が終わる。帰ってお母さんと昇だけだと家の空気が重かった。日曜日もお父さんは仕事に出ることがある。なるべく家にいてほしい。そう思っても言えなかった。お母さんも言えないようだった。
今日の日曜日はお父さんがいた。救われるような気持ちで私は家を出た。午前中関口君と勉強して、お弁当食べて、そこで急に思いついて「ごめん、今日用事があって帰る」と言った。関口君に昇のことは言わなかった。よけいな心配かけたくなかった。家族と関口君は私の中で違ってた。
お昼過ぎ、公園に回ってみると、お父さんと昇が野球をやっていた。昇がバットを持ってお父さんが投げる。うまく打てなくて空振りばっかりする。でも二人は楽しそうだった。
「よし」と私は歩み寄り「おとうさーん。キャッチャーやったげる」と言った。
「ねーちゃん」と昇は嬉しそうな声を上げた。
「どーもうまく打てねえな。こーだろ」とかお父さんがコーチするが、適当だった。昇はそれでもお父さんのまねを一生懸命する。時々ぽこっとバットに当たって、ボールがふらふらあがる。
「おー。ヒットヒット」
とお父さんも声を上げる。昇は万歳してぴょんぴょん跳ねる。
そうだ、と思いついた。「ちょっと待ってて」と私は二人を残して、家へ急いだ。
三十分ほどして、また公園に戻る。二人は公園の売店で焼きそばを食べていた。
「昇。まだ野球する?」
「もちろん」とほおばった口で答える。お父さんはすでにバテ気味で、「俺はもうビールが飲みてえな。知子、後を頼むよ」とか言っている。
「わかってるって」と私。「いい。特別コーチを紹介します。じゃーん。柴田頼子ちゃんでーす」
打ち合わせ通り、木陰から頼子が飛び出す。
「おお、頼ちゃんじゃねーの。久しぶり」
「お久しぶりです。昇君に野球教えてくれないかって、知子から電話があって」
「悪いな。俺、どーも大っきいボールは苦手なんだよ」
「野球のボール、大きくないわよ」と私。
「もっとちっちゃいヤツな。パチンコとかなら得意なんだけんどな」
使い古されたオヤジギャグを言う。頼子は昇に近づいていって、「昇君、野球うまくなりたいか」と訊いた。
「うん」とうれしそうな昇。
「お姉ちゃんのコーチはキビシーぞ。ついてこれるか」
「はい。ついていきます。こーち!」
「おいおい。スパルタかよ」とお父さんはにこにこした。
バテバテのお父さんは家に帰して、それから私と頼子で昇の野球の相手をした。さすが餅は餅屋で、昇のバットにボールが当たるようになってきた。
「さすがだね」と私がいうと、「なめんなよ。未来の国体選手を」と頼子が返してきた。
終わってソフトクリームを頼子に奢った。遠慮すると思ったが、断ると私が気を使うと思ったのか、素直に奢らせてくれた。昇は汗びっしょりで発散した顔をしていた。
「昇君、上手になったね」
足をばたばたさせて昇が喜ぶ。
「お姉ちゃん。昇君と同じ学校の出身なんだけど、あるでしょ、野球のクラブ」
「ある。おにいちゃんたちがやってる」
「お前も入れよ」
「でも三ねんせいからだよ」
「んなことねえよ。試合に出れるのは三年生からだけど、一年生からチームには入れるんだよ」
「ホント?」
「ホントさ」
「大丈夫なの。ホントに入れるの」ちょっと心配で私は訊いた。
「大丈夫だって。コーチには話しとくからさ。こう見えてもOGだぜ。それに日曜の午前中手伝ってくれないかって話もあってさ。ママさんチーム終わっちゃったし、それもいいかなって思ってたところ」
「助かる」
「な。持つべきものは友だろ」
「うん。頼子が友達で良かった」
「あんな冷たくしてたくせに、よく言うよ」
ちょっと昇の未来が明るくなったようで、心が軽くなった。
小学校の野球クラブに入って練習するようになってから、昇の不登校もだんだんに治っていった。お母さんの固かった表情もそれにつれ和らいできた。昇以外にも一年生は二人いて、どうやら友達になれたようだった。日曜日の朝早く、昇は弁当持って勇んで出かけていく。そのだぶだぶのユニフォームがおかしかった。
「日曜なのに弁当三つってどういうことよ。ねえ」
とお母さんは愚痴を言う。それはつまり愚痴が言えるほど気持ちの余裕ができたっていうことだ。
「お兄ちゃんたちにも可愛がられてるようじゃない」
昇は捕るのはまだ下手くそだけど、投げるのと打つのは結構やるらしい。足も一年生にしては速いのだそうだ。そういえば、お父さんを残してトラックを駆けていくのが好きだったっけ。
自分の居場所を見つけた昇は楽しそうだった。上級生に可愛がられているらしいことがなんとなくクラスにも伝わっていって、一目置かれるようになったらしい。
「結局なんだな、長いものには巻かれろってことだな」
お父さんはそんな意味不明のことなんか言って、日曜が休みの時なんか昇の練習を見にいったりしている。
「あんな内緒だけどよ、和希君のお母さんってものすげキレイなんだよ」
和希君は昇と同じ一年生の子だ。
「そんなお母さんに聞かれたらまずいよ」
「だから内緒だって言ってンだろ。あら昇君のお父さん、おはようございます、なんか言われちゃってよ」
「ただの挨拶じゃない。馬鹿じゃないの」
「心配すんなって。お前らを路頭に迷わすことなんてしねえって」
「心配なんかしてないよ。そんな腹出た半ズボンの中年男、誰が相手にしてくれるもんか」
「コノヤロ。親に向かって何ちゅう言いぐさだ!」
お父さんも楽しんでる。家族がいいふうに回っていって、よかったと素直に思う。うちってやっぱこうでなくっちゃね。
でも、昇を見ていると、私にも思うところがある。私はまだ自分の居場所を見つけていない。受験は手段であって目的じゃない。仮に関口君と同じ尾山台高校に入れたとしても、そこから先、何をやっていいのかわからない。私は首を激しくふった。
今は考えるのはやめ! 今は勉強! 絶対見つかる。絶対に。昇にとっての野球や頼子にとってのソフト、後藤さんのバトンみたいなものが。そういえば、関口君には何かあるのかなあ。関口君が尾山台にこだわる理由ってなんだろう。勉強のための勉強じゃなくて、関口君には何かありそうな気がした。今度、訊いてみよう。でも、自分のことあんまり言わないから、またはぐらかされるかな。
「知子。手紙」
お母さんが持ってきてくれる。受け取ってドキンとした。会場テストの結果だった。九月、十月、十一月、十二月と毎月受けるつもりだった。九月の、初めての結果が、来た。早速部屋に戻って封を切る。きまってる、志望校は尾山台高校。評価はーーE。目の前が暗くなった。こんな高いんだ。
日曜なのに、関口君に合わせる顔がないような気がした。気分が鬱々として午前中には図書館に足が向かなかった。十二時近くになって、ああお弁当を届けなきゃと思った。とにかく行かなきゃと思いはしても、結局一時近くに家を出た。図書館について二階に上がっても関口君はいなかった。休憩室にもいなかった。仕方なくお弁当をさげて駐輪場にもどった。と、駐輪場を出る関口君の後ろ姿が見えた。とっさに声が出なかった。お弁当を買い物かごに放り込んで後を追う。でも、なんて言えばいいんだろう、会場テスト。道に出るとずっと向こうに関口君の背中が見える。でも、このまま別れるのはなんとなく嫌で後を追った。まごまごしてるうち線路を渡った。家に帰るんだと思った。当たり前だ、お昼食べてないんだもん。
後を追う形になって、時間がたてばたつほど声がかけにくくなった。帰るにも帰れなかった。そのうち、関口君が自転車を止めて道に寄せる。スナックっていうんだろうかお酒を飲むお店に入っていく。小さな古ぼけた看板があってライムライトって書いてあった。
十メートルくらい手前で私は自転車を止めた。これ以上は行けなかった。あのスナックが関口君の家なんだろうか。それで家のこと隠したんだろうか。帰るにも帰れなかった。棒のように突っ立って、私はスナックの扉を見つめていた。扉が開いて、関口君が出てきた。おばさんを抱えるように支えている。関口君のお母さん? その女の人は青いドレスみたいなのを着ていて、酔ってるみたいだった。昼間から? こういう店って夜やるんじゃないの? いろんな疑問が雨のように降ってくる。関口君と目があった。
「知ちゃん」
と呟いたように見えた。関口君の顔は驚きからすぐに怖い表情に変わっていって、私から目をそらした。女の人に何か言いながら、私に背を向けて歩き出す。女の人の足はもつれてて、一人では歩けそうにない。関口君もよろめきながら二人は歩いていった。
ごめんね、と言おうとした。でも、声が出なかった。私の足は石のように動かなかった。
「他人なんか優しくもなんともないんだ」
いつか関口君の言った、突き放すような、白々とした言い方が甦った。
次の日曜日、朝から待っても図書館に関口君は来なかった。次の日曜日も。私は歯を食いしばって勉強した。勉強に逃げ込もうとした。そして、また次の日曜日、いつもの二階の席が空席だったとき、もう関口君は来ないと思った。私は悲しかった。それから悔しかった。あの女の人が関口君のお母さんで、スナックで働いてて、昼間っから歩けないほど酔ってて、でもそんなこと関口君と関係ない。関係ないじゃん。
その日はどうしても図書館で勉強する気になれなくて家に帰ることにした。途中でお父さんに会った。
「おう、知子。勉強はどうした」
「友達が来ないから家でする」
「そうか」
「お父さんは、昇の応援?」「おうよ。和希君のお母さんにお会いしに行くんだ」
お父さんはいつもの半ズボンにTシャツだ。もうそろそろ涼しくなってるっていうのに。
「なら、もっとちゃんとしなよ」
それには答えず、お父さんは私の買い物かごのお弁当を見た。
「お前、家に帰るなら弁当いらねえじゃねえか。よこせ」
「いいよ」と渡そうとして「私も行こうかな」と言った。
「おう。こいこい。和希君のお母さん紹介してやる」
「もういいよ」
そんなこと言っててもチキンなお父さんは、和希君のお母さんとちゃんとお話しできるとは思えない。それを見てみるのも面白いかなと思った。もちろん昇も。
昇はベンチで中腰になって大声を上げている。
「ヘイ、ピッチピッチー」
意味も分からないだろうに、必死だった。バッターがヒットを打つと、いそいそとバットを片づけに走る。打球がファウルになると全速力で走る。和希君と競争だ。お父さんは、ただにこにこしてそれを見ている。和希君のお母さんは噂にたがわず超美人だったが、あいにく今日は旦那さんとご一緒だった。普通のポロシャツ綿パンなのにシャーとしてかっこいいこと。お父さんは「どうもどうも」なんて言ってもう何も言えない。カハハと笑いを堪えて、私も挨拶した。
「今日はどうも日が悪いな」
なんて言って、でもお父さんはだんだん和希君のお父さんともうち解けてきて、大人の話なんかしたりしてた。
昇の顔を見て安心した。これなら大丈夫だと思った。私もぐじぐじしちゃダメだ。今度関口君と会えたとき、はっきり言おう。こないだはゴメンって。つける気なんかなかったって。信じてくれる。そう思おう。今度会えるときまで、関口君に恥ずかしくないように勉強するんだ。関口君がいなくても、こんなに頑張ったよっていえるくらい。気持ちを整理した。整理して心がすうーとした。深呼吸して、「のぼるうー」って大声上げた。昇はこっちを見て手を振った。
十月になって、学校は文化祭の季節になった。やっぱり中高合同で行うが、中学三年生はお客さんで、特にすることもない。観客オンリーだ。ただし頼子は別で、高校のソフトボールのデモンストレーションというかなんというか、とにかくそれに駆り出されて忙しい。中庭で、高校のエースが投げるのだ。ひと打席三百円。ヒット性の当たりが打てたらタダになる。なんというか人間バッティングマシーン。これが結構人気で、在校生のお父さんや他学の男子高校生が順番待ちの行列だ。想像以上にソフトボールの球は速い。たいがい打てなくて、結構儲かるらしい。頼子は審判要員で、スットラアーイクとか言って声を張り上げている。判定に文句言うヤツには容赦ない。あんた大の男の癖して細かいコースとか高さとか言うんじゃないよ。ストライクゾーン、がばっと広げて打ってみな! その啖呵が威勢良くって、ますます興行は盛り上がる。
私は暫くそれを見学して、高校部に行って焼きそばでも食うかなんて思ってた。模擬店は高校部だけ許可されてて、中学部の校舎発表はなんかマジメなもんばかりだった。校舎に入ったとき、同じ中三の子が友達に話してるのが耳に入る。
「バトン部の発表、何時からだっけ」
「一時半から。演劇部のあと」
「後藤さん出るってホント?」
「出るみたいだよ」
えっ、と二人をつかまえて訊いてみる。
「ね。後藤さんってバトン部の?」
「そう。知子も変だって思うでしょ」
「だって後藤さん、引退してんでしょ。毎年舞台発表には中三出ないじゃない」
「うん。でもなんか事情があるみたい」
「事情?」
「よくわかんないけど、特別みたいだよ」
「事情ねえ。まあ後藤さんは個人でも全国レベルだから、出れば舞台が映えるだろうけど」
もう受験でうちの学校を離れることに決めている私は、後藤さんのバトンをもう一度見たい、と思った。あんまり話したことはないけど、私の進路変更の後押しをしてくれたのは後藤さんの言葉でもあった。時計を見ると、一時二十分。私は体育館に急いだ。
噂が広がっているのか、体育館は八分くらいの入りだった。自由見学なのにこの見学者の数は多い。私はなるべく前に進んで座ることにした。
演技が始まる。舞台の両袖から十数人の部員が出てきて、ダンスを交えてバトンを回す。軽快な音楽に、腰を振ったりなんかして文化祭ならではの振り付けだ。そのうち全員がすうーと舞台の奥に引いて、手元でバトンを回す。真ん中の人垣が割れて、中から後藤さんが現れた。ホントだったんだ。黄色に赤いラインの入ったレオタードで、他の部員達よりひときわ華やかだった。もちろん衣装だけでなく演技は一段も二段も上だった。高くバトンを回転させながら放り上げ、その間に一回二回と床を回って、落下地点にぴたりと合わせる。まるで手元を見ないで右から左から背後からバトンを投げていとも簡単にキャッチして、体がまるでぶれない。一番驚いたのはバトンの回転速度。他の部員達と比べて格段に早い。しかもずうっと回っていて止まらない。時間にしたら三分くらいの演技だったかもしれないけど、体育館の観客全員が後藤さんに魅了された。最後に高く上げたバトンをニ回転して取り、決めのポーズをして後藤さんは舞台を下がる。演技の途中なのに体育館は割れんばかりにの拍手に包まれた。すごい。ほんとにスゴイ。後藤さんのバトンは本物だ。
全ての演技が終わった後、後藤さんがもう一度現れて観客に挨拶した。みんな拍手した。でも変だ。バトン部みんなが泣いている。あれ。なんか演技が成功して感激して泣いてるのと、ちょっと違う気がした。押さえきれずに、でも押さえようとして、でも泣いてしまう。そんな感じに見えた。その中で後藤さんだけが笑顔で、客席に向かって深々と礼をした。礼をして、そのまま起きあがらなくて、それで幕が下りてきた。後藤さんの肩が震えているように見えた。何か変だった。イレギュラーな後藤さんの出演。バトン部の他の部員達の反応。気が付くと、舞台の前の方には三年のバトン部の人たちや高校部の人たちがいて、体育館の端にはバトン部顧問の先生だけじゃなく三年の先生全員が並んで舞台を見つめていた。あれ、なんだろう。大きな疑問を抱えたまま、私は舞台に降りた幕を見つめていた。
堪らずに前に陣取ってたバトン部の三年に訊いてみる。疑問はすぐに解けた。後藤さんは学校を辞めるということだった。
「辞めるの?」
相手が辞めるって言ってるのに、信じられなくてもう一度訊いた。
「そうなの。お父さんの会社がうまくいかなくて。それで会社がつぶれちゃうって」
「でも、後藤さんには関係ないじゃん」
「うち私立だし、お金もかかるでしょ」
「だって後藤さんのバトンのレベルなら特待制度だってあるし。学費ゼロだって後藤さんは学校に残しとくべきだよ。当たり前じゃん」
「後藤さん、自分でそれは嫌だって言ったみたい」
「そんな」
「知子は知らないかもしれないけど、運動部で全国レベルだと遠征費とか合宿費とかけっこうお金がかかるんだ。学校は全部出していいって引き留めたようなんだけど、後藤さん自身、それは嫌だって」
「なんで。OG会とか後援会とか同窓会とかPTAとかいっぱいあるじゃん。私たちなんか分かんないけどいっぱい寄付させられてるじゃん。そんなの、後藤さんみたいな人のためにお金出さなくてなんに出すんだよ!」
「部外者! うるさいよ」高校部の人だろうか、私に言った。「そんなんお前に言われんでも、誰だって考えるよ! みんないろんなこと提案して、考えて、でも最終後藤がやっぱりそれは嫌だって言ったら、やっぱり無理だろ! 部外者は黙ってろよ! みんな考えたんだよ。それで今日があるんだから、何んにも知らない癖して、お前、黙ってろよ!」
その高校部の先輩も泣いていた。私は素直に悪かったと思って黙った。頭を下げて体育館を出た。
高校部の校舎を歩いた。中学部に行って知った顔に合うのがいやだった。中学部の人たちが後藤さんのこと話題にしてるのを聞くのが嫌だった。それで、高校部の三階、文化部が集まってるフロアに自然と足が向いていた。なんか私と関係ないような張り紙が続いていた。歴研とか星座研究会とかアニ研とか。人通りは一階に比べると格段少なかった。でもそれなり漫研とか賑わっていた。アニ研と漫研がどう違うのか分からなかったが、心のざわめきを押さえるためにふらふら回ってみた。いくつか教室を回って、文芸部という張り紙の教室に入った。漫研の教室から比べると、閑古鳥の声が聞こえてくるようだった。私を含めて見学者は三人しかいない。眼鏡をかけた文芸部員の人が、「よかったら部誌もらってください」と控えめに声をかけてくる。私は部誌をもらって、ぱらぱらめくりながら教室内を回る。他校の寄贈部誌が置いてある。何気なくスッと見ていると、高校の部誌に混じって中学校の部誌もいくつかあった。ひとつ手にとって開いた。後藤さんの顔が浮かぶ。ちゃんと話をしよう。自分のことも言おう。そんなことを考え考え、ページを追った。
関口隆司。
手が止まった。いきなり、関口君がそこにいた。同姓同名? いや絶対違う。関口君だ。絶対そうだ。
「こ、これ」
と眼鏡の文芸部員の人に言った。
「何ですか」
「私の知り合いが書いてるんですけど、この部誌、ちょっと借りさせてもらえませんか」
眼鏡さんはちょっと困った顔をする。手渡して見てもらうと、ああこれ、と言った。
「これ中学校の部誌でしょ。渡されたとき、あれって思ったのよ」
「どんな子でしたか」
「男の子。背が高くて初め高校生かと思ったわ。貸してあげたいけど、でも寄贈されたもんだから、私の一存で決められないの」
「私、中学部の吉田って言います。生徒手帳もあります。借りられないんなら、知り合いのとこだけでもコピーしたいんですけど。生徒手帳置いていくんで、三十分、じゃなくって二十分で、じゃなくって十五分で戻ってきますから、ちょっとこの部誌貸して頂けませんか」
私の勢いがあんまりすごかったのか、もともと中学校の部誌なんてあんまり興味なかったのか、眼鏡さんは生徒手帳と引き替えに部誌を貸してくれた。
私は借りた部誌を手に図書室に急いだ。文化祭で開いてないかと思ったが、幸運なことに開いていた。もっとも文化祭は学校施設のPRでもあるわけだから、開いているのは当たり前ではあったのだけれど。私は関口君の小説を夢中でコピーした。し終えると部誌を返しに走って、三階の上、屋上へ通じる踊り場にあがった。そこには廃棄する机や椅子がいくつか置いてある。そのひとつに座って、私は関口君の小説を読み始めた。
電 話
関口隆司
学帽を被った兄はずっと外ばかり見ていた。小学校三年生だった僕は、あの学帽を早く被ってみたいと思いながら兄を眺めていた。兄は何も喋らなかった。僕も黙っていた。兄の頬を汗が伝わって落ちる。バスに冷房はなかった。街全体が暑くて、走る車に吹き込む風も、体を涼ませてくれはしなかった。憂鬱な仕事だった。僕たち兄弟は、父に会おうとしていたのだ。会社に至急電話してくれという、ただそれだけの伝言のために、僕たちはバスに乗っていた。
あの頃は、電話のない家もそう珍しくはなかった。学校の連絡網にも、自宅の電話番号に混じって、「呼」の印のついた呼び出しの電話番号も多くあった。クラスの四分の一が、呼び出しだったろうか。僕の家には電話があったが、父の今いる場所には電話がなかったのだ。
電話を受けた母は、割烹着をとって、出かける支度をした。何も言わず怖い顔で、よそ行きの服に着替えた。それなのに、玄関まで行って座り込んでしまった。泣いていたのかもしれない。暫くそうして座り込んでいた。それから、僕たちを呼んで、父への伝言を言いつけた。
「いっしょに行かないの」
僕が言うと、兄が無言で僕の手を引いた。学帽を被って外に出た兄は、もう僕を見はしなかった。
バス停に止まるたび、誰か知った顔がないか伺った。父の所へ行くのは初めてではないが、そのことを人に知られるのはきっと恥ずかしいことなのだと、僕は考えていた。兄は振り向きもしないで、ただ窓の外を見ていた。
目的の停留所につくと、兄と僕はお金を払って降りた。ワンマンバスだったろうか、まだ車掌がいただろうか。そこから、白く渇いた道を二人で並んで歩いた。短い影法師が、一足進むたび、道案内でもするように前に動いた。
「向こうの家に着いたら、何にも言うな。お兄ちゃんが全部言うから何にも言うな」不意に兄がそう言った。「それから、何を出されても、絶対手をつけるな」
有無を言わせぬ響きがあった。僕は兄を見て頷いた。兄は、まっすぐ前を向いていた。
表札のない、古い小さな平屋の前に立って、兄は学帽をとった。「ごめんください」と声をかける。固い声だった。用件以外は何も喋らないという意志のようなものが、その声にはあった。
「はあい」という声がして、すぐに若い女の人が出てきた。女の人はシミーズ一枚だった。女の人の名前はもう忘れてしまったが、その姿だけは今も鮮明に覚えている。
「あら、坊ちゃん方。いらっしゃい」
「父はいますか」兄は言った。
「ああ、今、夕飯のおかず買いに出ちゃったのよ。ほんと行き違い。そうね、長くても三十分もしたら帰ってくるから、お上がんなさいよ」
「いえ、ここで待ちます」
「伝言なら、伝えるけど」
「直接言うように、母に言われてますから」
「じゃあ、お上がんなさいよ」
「ここでいいです」
女の人はちょっと機嫌を損ねたようだった。それなら勝手にどうぞ、とでも言われるかと思ったが、軽くため息をついてこう続けた。
「あたしがさあ、坊ちゃん方の家に行ったとしよう。あいにくお父さんは留守なんだ。じゃあ、ここで待たしてもらいますって、玄関に三十分もいられて、お母さんは平気かな」
どう、と言うように、兄と僕の顔を代わる代わる見比べた。僕に判断など付きようもなかった。暫く考えて、兄は「おじゃまします」と言った。
女の人の後に続いて部屋に入る。兄はいつもは脱ぎ散らかす靴をきちんと揃えた。僕も兄に倣って、揃えた靴を隅に寄せた。玄関には他に父の革靴があった。近場の買い物ということでサンダルでも履いて出たのだろうか。「夕飯のおかず」という言葉が思い出された。買い物籠を持って、魚屋や八百屋をまわるのだろうか。魚を二匹、野菜を二人で食べられる分考えて、そうしてお金を出して買うのだろうか。一円二円のお釣りもきちんと貰って、買い物をするのだろうか。そんなことを考えると、鼻の奥が熱くなった。自分たち家族が捨てられたような気がした。
六畳の部屋に通されて、サイダーを出された。兄は正座して「お気遣いなく」と短く言った。
「お気遣いなんて、難しい言葉知ってんのねえ」
女の人は僕たちの正面に横座りして、ゆっくりと団扇を使っている。
「いつもはもう少し風が入るんだけどねえ。今日はだめねえ。やっぱり扇風機、買うかなあ」
誰に言うともなく女の人が喋っている。僕はチラっと兄を見た。女の人の声が聞こえていないように、兄は無表情だった。
「あの、何。お母さんに、向こう行ったら、おばちゃんと話してはいけません、なんて言われてるわけ」
今度は明らかに僕たちに向かって、声がかけられている。もう一度兄を見た。兄は聞こえないような顔をしていた。顔を戻すと、女の人と視線があった。びっくりして兄を見ても、兄は知らん顔をしている。また女の人と視線があって、もうなにか意思表示しないといけないように思われた。喋ってはいけないと兄に言われていたので、僕は女の人に向かって首を振った。
あはは、と女の人は笑った。兄が僕を見たので、僕は下を向いて小さくなった。
「かわいいわね、弟さん。それにお利口そう」
兄は無言だった。
「お兄ちゃんとしてはどうなの。弟を誉められて悪い気はしないでしょう」
やはり兄は何も言わない。
「でも、お兄ちゃんも、まっすぐそうでいい感じ」
思わず軽く吹いてしまった。すぐにまじめな顔をしたが、兄には感づかれてしまっただろう。
「お構いなく」
兄はそう言った。
「お構いなく、か。やっぱり構っちゃいけないかしらね」
「話をする気になれません。それから母の話をするのはやめてください」
「ごもっともです。どうもすいません」
女の人はすいませんのところで、横座りのまま手をついて軽く頭を下げた。
五分、十分と時間が流れる。子供の頃は、今より座り慣れていたのだろうか、正座が苦痛になったという記憶はない。蝉の声だけを聞きながら、僕たちは時間をやり過ごそうとしていた。
女の人はぼんやりと団扇を使い、時々、横座りした足のくるぶしあたりを撫でていた。体育館で聞く校長先生の話の時と同んなじだ。そんなことを僕は考えた。時間をやり過ごすことだけを考えて、僕は黙って座っていた。
だいぶ時間がたったように思えても時計はなかなか進まなかった。何度目かで時計を見たとき、細い声で、ふと女の人が漏らした。
「そんなに嫌わなくてもいいじゃない」
僕にははっきり聞こえた。
「こんなにはっきり嫌われると、あたしだって人間だから、こたえんだけど」
女の人は下を向いて、そう言った。
僕は女の人が気の毒になった。女の人を見まいとして下を向いたとき、兄が女の人に話しかけた。
「僕は、あなたを嫌ってなんかいません」
えっ、とビックリして、女の人が兄を見る。言葉の内容というよりも、兄から話しかけたことに驚いたようだった。
「悪いのは、僕の父です」
「そりゃまあ、そうだけど、でも誘惑してるのはあたしだよ」
女の人はちょっと元気になった。
「誘惑される父が悪いんです」
僕はユーワクという言葉に耳が赤くなった。男女のことは多く知らない年齢だったが、ユーワクがそれに関する言葉だとは知っていた。そしてその言葉を話す兄を、随分と大人のように感じた。
「お兄ちゃんはいくつなの」「十四です」
「へえ、しっかりしてるね。あのお父ちゃんの子とは思えないね。で、弟さんは」
答えていいのか、兄を見た。兄は軽く頷く。
「三年生です」
初めて声をだした。ずっと黙っていたので、声が高く出た。
「かわいい声ね」
僕はまた赤くなった。
「何か服を着てくれませんか」
「はい?」
「そんな格好で、人に会うのは失礼だと思います」
「あ、ああ。ごもっとも」
女の人は立ち上がって隣の部屋に行った。しばらくして、空色の水玉模様のあるワンピースを着てきた。ワンピースというよりムームーのような服だった。
「これでいいかしら」
兄が何も言わないので、ちょっと肩をすくめて、女の人は座った。座りしな、僕に向かって軽くウィンクする。今度は赤くならなかった。退屈紛れに、女の人が僕をからかっていると、さすがに僕にも分かってきたからだ。でも、悪い気はしなかった。
勢いよく玄関の引き戸が開く音がした。同時にいくらか滑稽味を帯びた言い方で「帰ったぞー」と父の声がする。しかし、すぐに、僕たちの靴に気づいたのだろう、間があって閉められる引き戸の音はいやに大人しかった。
「坊ちゃん方がお待ちですよお」
遠くにいる人に呼びかけるように女の人が言う。振り向けば父がすぐ見られるのに、僕たち兄弟は前だけを見ていた。やがて父が僕の傍を通って、女の人の横に座る。何も言わないで、買い物籠を女の人に渡す。女の人は、どうもお使いだてしてすいません、と言って、買い物籠を持って奥の台所に消えた。
「なんだ」
不機嫌そうに父が言う。
「母さんから伝言です。至急、会社に電話入れてくれって」
兄がそう答える。
「そんなことなら、ことづければいいじゃないか。こんないつまでも待ってないで」
「待っててはいけませんか」
「そうじゃないが、簡単な用件ならことづければいいと言ってるんだ。アレだって馬鹿じゃない。そんなことぐらいできるさ」
「あれえ、ちっさい西瓜が入ってるじゃない。これ、よく冷えてんねえ」
突然、女の人が素っ頓狂な声を出す。父は、まったく余計な、みたいな顔をする。
「ねえ、お父ちゃん。坊ちゃん方にお出ししてもいいかしらねえ」
「勝手にしろ」
「勝手にしまーす」
父は手を軽く組んで、諭すように言った。
「西瓜食ったら、もう帰れ」
おいしそうよお、坊ちゃん方、サイダーも飲んでくんないんだから。西瓜食べてってよねえ。お父ちゃんからのお許しも出たんだし。ひっきりなしに女の人が喋る。女の人が父のことを「お父ちゃん」と言うのに、僕はひどく違和感を持っていた。父だけでなく、僕や兄も根こそぎこの女の人に奪われてしまったようで悲しくなった。家で待つ母の顔が浮かんだ。こんな家、さっさと出て早く家に帰りたかった。
「西瓜は食べません。それから、話はことづけだけではありません」
兄は脱いだ学生帽を固く握っていた。平静に見えるのは外見だけで、兄は何かを必死にこらえているらしかった。
「なんだ、他になにかあるのか」ちょっと台所を気にするふうで父が言った。「おい、俺にもサイダー」
「ごめん。もうないのよ。最後の一本だったんだから。あれ、坊ちゃん方、手をつけてないからもらったら。親子なんだし」
なんだ、ないのか、と独り言のように父は言い、僕の前のコップをとった。一息に飲んで、意地を張らずに飲みゃあいいじゃねえか、と言った。
「なんだ、何の話だ」
父は必要以上に構えてると思った。今から兄に不愉快な話をされるという予感のようなものがあったのかもしれない。しかし、兄は父を不愉快にさせるような話はしなかった。
「お願いがあるんです」
「何だ」
「この家にも電話を引いてください」
「電話?」
自分のしていることに難癖でもつけられるかと思っていた父には意外な言葉だったのだろう。一瞬、あっけにとられ、すぐに、いやまだ油断できないぞ、という顔になった。
「電話をどうして」
「僕がこっちに来なくてすみます」
「何だ面倒なのか。電話は金がかかるんだぞ」
父は、事態をなるべく簡単に、電話だけの話として処理したいらしかった。金がなあ、と金銭の問題だけのようにして、兄の話を受けていた。兄も深入りするつもりはないらしかった。続けてこう言った。
「来年、高専を受けようと思います」
「何だ。大学には行かねえのか」
「工業高校も考えましたが、手に職をつけるのなら、高専の方がいいかと」
「手に職をつけたいのか」
「はい」
「早く俺から自立したいのか」
「はい」
「まあ、それもいいけどな」
「いや、しっかりしてるわねえ、お兄ちゃん。本当にお父ちゃんの子なの」
女の人が台所から現れて、切り分けた西瓜を並べる。もともと大きくならない品種なのだろう、小さいのによく熟れてうまそうだった。「さあ、召し上がれ」
お盆を胸に抱えて、女の人が父の隣に座る。
「で、それがどう繋がる?」
父は、さっそく西瓜にかぶりつく。果汁がズボンにぽたぽた落ち、あらあら赤ちゃんね、と女の人が布巾でそれを拭く。
「お前らも食え」
「伝言のあるたび、僕がバスでこちらに伺うのは時間がかかります。今の僕の力で高専は無理ではないと思いますが、でも悔いの残らないようこの一年勉強だけはしっかりやりたいんです。ですから、この家に電話を引いてください」
「受験勉強の邪魔ってわけか」
「あら電話、ねえ、引いてくれるの」
「電話する相手もいねえくせして、よく言うな」
「失礼ね。知り合いの五人や十人、あたしだっているわよ」
「ですから、お願いします」
頭のいい兄のことだ、高専は合格するだろう。でも僕は、兄は県立の西高に行くものとばかり思っていた。その頃、いやたぶん今でも、頭のいい子はたいがい西高へ行く。
「高専か。ま、それもいいかもな」
父は理系の大学を出て、技術職として会社に雇われていた。もしかしたら兄の言葉に、自分の跡を継いでくれるという思いを勝手に感じたのかもしれない。まんざらでもない表情で、何度は頷き、もったいをつけて、「引いてやろう」と言った。それを聞いて、女の人は大げさに騒ぎ嬉しがった。
兄は父の言葉を聞くと、ありがとうございます、と言って頭を下げた。僕もなんだか下げなければいけないように感じて、頭を下げた。それから、兄はすぐに立ち上がる。僕も慌てて、立ち上がった。
「それじゃあ失礼します」
「なんだ、西瓜、食ってけよ」
兄はもう一度礼をして玄関に向かう。西瓜に未練はあったが、僕もそれに倣う。
「なんだ、もったいない」
いまいましそうな父の声が背中で聞こえる。お前も食え、というようなことを父が言い、はあい、と女の人が答える。二人のやりとりを聞きながら、兄は玄関の引き戸を閉めた。ピシャリという乾いた音がして、ふたりの声は聞こえなくなった。
兄は学帽を深く被った。
「もう、こんなとこ来なくていいんだ」
そう呟いて歩き出す。
僕は泣きたい気持ちになった。父は嫌いだったが、玄関をピシャリと閉めたその音で、父との関係が永遠に切れてしまったようで、それはそれで悲しいことのように思えたからだ。泣きそうになりながら、決して泣いてはいけないのだと思い、必死に我慢して兄について行った。
いつのまにか夕暮れになっていた。先を行く兄の背中がゆれる。これから三人だけの暮らしが始まる。そのことだけは、僕にもしっかり分かっていた。「覚悟」という言葉の意味を、僕はその時、初めて知ったのだと思う。
了
母子家庭だって言ってた。お兄さんの話なんか一度も出なかった。それに昔の話だ。でも、確信した。関口君だ。そういえば図書館での勉強の合間、関口君は昔の新聞とか昭和の記録本とか眺めていることがあった。
「そんなのに興味あるんだ」
「へへ。時事問題の勉強。知ってた、昔って電話引くのに十万くらいかかったって」
「へえ、そうなの」
記憶が鮮やかに蘇る。
関口君は私の学校の名前を訊かなかった。でも何かの拍子に知ったのかもしれない。ノートとか教科書とか学校のプリントとか、どこかに学校の名前が書いてあったのかもしれない。体育祭や文化祭の日にちなんか言ったことがあるから、受験情報誌なんか見て、うちの学校が分かったのかもしれない。そうだ、そうに違いない。 関口君は、私にこの小説を読ませようとしたんだ。コピー用紙を両手で抱えて、私は最後に見た関口君の姿を思い出そうとした。
青いドレスを着た、酔って自分の力で歩けないお母さん。それを支える関口君。私を見たときの驚きの目。そして怖い目。石のように動かない私の足。
他人なんか、優しくもなんともないんだ。
「トロッコ」のラストのことを関口君はそう言った。どんなことが関口君にあったんだろう。どんな暮らしをしてきたんだろう。何も知らないけど、この小説にぜんぶ書いてあるような気がした。小説には嘘がある。関口君の小説にも、嘘がいっぱいある。でも、この少年の気持ちは本物だと思った。そんなほんとの気持ちを書ける関口君をすごいと思った。
中学校の生徒が他の中学校を直接訪ねるのは禁止だった。禁止でも行ってみたかった。でも、行って会えるかどうか分からない。向こうの学校の先生が出てきて追い返されるかもしれない。それに図書館に来ない関口君が、私が行っても会ってくれるとは思えなかった。直接会ってくれるなら、図書館に来るはずだ。じゃなぜうちの学校に部誌なんか届けたんだろう。分からない。どうしていいか、分からない。ただ、関口君の小説を読んだこと、私に届いたってことだけは、なんとかして伝えたかった。それだけは、どうしても。
私は小説の感想を中学校の文芸部付けで送ることにした。つたない、まるで読めてない感想でもいい、私に届いたってことを伝えたいと思った。私は階を降りて、眼鏡さんからもう一度部誌を借りて全部コピーした。家に帰ってから、一つ一つの詩や小説を読んで、コメントを書いた。関口君のものだけ書くのは、部誌を作った人たち、関口君にも、失礼な気がしたからだ。素直に、なるべくいいところを見つけながら書いた。こんな経験は初めてだった。いろんな作品があった。私から見ても出来のよくないもの、頭でっかちに書かれたもの、ファンタジーめいたもの、ミステリーっぽかったりホラーだったり。いろいろ読む中でやっぱり関口君の小説が、なんていうか、一番落ち着いて読めた。この小説だけ違って見えた。
手紙を送って一週間くらいして返事が来た。通りいっぺんの感謝の気持ちが書いてあった。筆跡は、関口君のものではなかった。
うちの学校の文化祭が終わって暫くすると、尾山台高校の学園祭があった。私は尾山台の文芸部を訪ねてみたいと思った。うちみたいな女子校の文芸部にだって部誌を届けにきたんだ。尾山台に送ってない訳がない。ただ、そこで関口君に会えるなんて思っていた訳ではない。こんな小説を書く関口君が目指す、尾山台高校の文芸部ってどんなとこなのか覗いてみたかった。
模擬店やイベントなんかには目もくれずに、私は文芸部の教室を目指した。教室には部員らしい男の人がひとり座ってるだけで、他に誰もいない。机が壁に寄せられていて、その上に歴代の部誌が並べてある。随分多い。最新号は無料で配布されているらしく、「どうぞお持ちください」の紙が置いてあった。私は一冊手に取る。壁には、その最新号の各作品の一ページ目が拡大コピーされて貼ってあった。私はその一枚一枚を丹念に読んだ。「トロッコ」を読んでくれた関口君の声が聞こえるような気がした。
すごい、と思った。関口君の学校の部誌はなかったけれど、ここには沢山の関口君がいる。一ページしか読んでないのに、どれにも引き込まれるような魅力があった。言葉が生きてる。うちの学校の部誌とも、関口君以外の人たちの小説とも、全然違う。関口君が尾山台に入りたい理由がわかった気がした。
きっと関口君の中には、書きたいことがいっぱいあるんだ。そして、やっぱり心の中に書きたいことがいっぱいある人たちと、お互いに小説の話がしたいんだ。そうなんだ。
「ずいぶん熱心に読んでくれて、ありがとう」
部員の男の人が話しかけてくる。
「面白いです」
「そりゃ、どうも。君、中学生?」
「はい。来年、ここを受けます」
「そうなの。じゃ、がんばってね」
離れて行こうとする背中に訊いた。
「あの」
振り返る。
「あの、私にも書けますか」
部員の人はにっこり笑って、「書けますよ、必ず」
と言ってくれた。私は大きく頷いた。
書けるかどうかわからない。でも書いてみたい。小説を、自分のホントの気持ちを、この尾山台で書いてみたい。
出願の日、矢ガモから調査書をもらって、後藤さんといっしょに教室を出た。みんな口々に「がんばってね」と言ってくれる。後藤さんにも私にも等分に。「出願なんだから、受験と違うから」私は苦笑して言う。「でも、ガンバレよな」と頼子が言った。後藤さんが学校を辞めることが噂になって、それを本人が認めて、そのとき自然な気持ちで、「私もなの」と言えた。都立受験組は、結局うちのクラスでは二人だけだった。二学期末の合唱コンクールはそんなこんなで珍しくクラスが盛り上がった。その気持ちを励みに私は冬休み勉強した。十二月の会場テストで尾山台はB評価だった。でもそんなこと、もうどうでもよかった。年が明けてからはただ自分を信じてがんばった。
後藤さんとは受ける学校が違う。駅で別れる前、少し話をした。
「憶えてる? 人の人生はそれぞれだって、後藤さん、私に言ったの」
「憶えてる。一学期の終わり頃」
「そう。ね。訊いていい」
「いいよ」
「どうしてうちの学校に残らなかったの。残ろうと思ったらできたでしょ」
「そうね」
「いいたくないんなら、いいけど」
「大丈夫。あのとき、お父さんのことがあって、迷惑かけたくないって思った。でも、それが全部じゃないんだ」
「なに?」
「そうだな。自分の殻を壊したかったのかもしれない」
「自分の殻?」
「そう。なんか全部守って守ってみたいな生き方イヤなんだ。うちの学校にいると、私弱いから、全部守ろうとする。守ろうとしてた。それに気が付いたから、やっぱり辞めようかなって」
「そうなの」
「知子は?」
「私はね、私は小説が書きたいの」
「小説?」
「そう。書きたいの」
「小説なら、うちの学校でも書けるじゃない。高校部には文芸部もあるしさ」
「違うの。私の知ってる人で、中学生なんだけど、小説書いてる人がいるの。その人が尾山台受けるんだ。でね、尾山台の文芸部の人が書く小説もね、ステキなんだ。なんかこう、言葉が生きてんだ。そこに、私もいたいんだ」
「そう」
「わかんないでしょ」
「わかんないけど、いいと思うよ」
私たちは握手した。受験の日は、それぞれの家から高校に行くから、もう二人で駅に来ることもないだろう。
「今、しとかなきゃ」
そう言って差し出した私の手を、後藤さんは優しく握ってくれた。
受験の朝は大変だった。お母さんは早くから起きてお弁当を作る。お父さんは会社に行くのを一時間遅らせて私を見送ると言う。昇まで起きてきて「ねーちゃん、がんばれ」と言ってくれる。朝食はいつも通りパンにしてもらった。
「なんだこりゃ。受験の時はカツ丼に決まってんだろ」
なんてお父さんは無理を言う。
「そんなもん朝から食べてもたれたらどうすんの。いつも通りがいいの。いつも通りが!」
お母さんはそう言ってるくせに、今日のパンは特別柔らかだ。今朝早くパン屋に行って買ってきたにちがいない。昇が、「ねーちゃん。あめはふらないよ。くもりだよ。じゅうさんどだよ」とテレビの天気予報を読み上げる。
「いいから。分かったから、静かに送り出してくれ!」
でもうれしかった。みんなで私のことを心配してくれるのがありがたかった。
カバンには筆記用具と上履き、受験票にお弁当。それから「トロッコ」。試験と試験の間に読むつもりだった。気持ちが落ちつく方法を考えてそうした。ゆっくり読もう。ていねいに。
「よし!」と気合いを入れてカバンを持つ。
駅に向かう途中で頼子が自転車で追いかけてきた。
「これ」とお守りをくれる。
「いいのに。学校遅れるよ」
「いいか。へージョー心だぞ!」
手を振って猛スピードで帰って行く。
三つ先の駅で降りて尾山台高校に向かう。吐く息が白かった。風が冷たい。十三度なんてうそだ。三度の間違いだろ。昇のヤロと思いながら歩く。校門が見えたとき、そこに寄りかかる人影が見えた。門柱を背にして本を読んでいる。関口君だった。
近づくと顔が上がった。
「ア、おハヨ」
なんて昨日別れたような顔をしてる。
「おはよ」
私も合わせた。四ヶ月の時間が魔法の力でたくし込まれたみたいになくなった。
「関口君の小説、読んだよ」
「サンキュ。感想、ありがとな」
「私も書くよ、小説」
「うん」
「いいでしょ」
「いいよ」
関口君は門から背中を離して歩き始める。私は後に続きながら言った。
「今日もサンドイッチ?」
「キュウリのヤツはウィンナーと交換な」
すぐに関口君はそう答えた。
了
