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未送信の「ありがとう」を、君に


「……終わりにしよう。」

あの瞬間、私の中で何かが確かに割れた。
彼は目を伏せて小さくうなずいた。「わかった」
怒鳴り合うことも、言い訳も、抱きしめ合うこともなく、それで終わった。
私が“終わらせた”的確な一言で、二人の時間は綺麗に断ち切られた。

部屋に残ったのは、並んだ歯ブラシと、二人で選んだくたびれたスニーカー。
玄関のマットに落ちた砂つぶまで、彼の輪郭に見えてしまう。
夜、眠れなくなった私は、スマホのメモ帳を開き、未送信の手紙を書いた。

ねぇ、ほんとはさ、終わりにしたくなかった。
あなたの「忙しい」が怖くて、「私が大切じゃない」に翻訳してしまった。
本当は、あなたの弱さも疲れも、受け止めたかったのに。
ありがとう、って言いたかったのに。

保存に触れる指が震えた。送信ボタンは、押さなかった。
——卑怯だと思った。届かない手紙でしか勇気が出ない自分が。

季節は、私を置いて行った。
いつか二人で歩いた並木道が黄金色に変わる頃、私はやっとあの部屋を片付けた。
タンスの奥から、小さな紙袋が出てくる。
中には、私が寒がると彼が貸してくれた、毛玉だらけのグレーのマフラー。
端っこにほつれ。そこを指でなぞった瞬間、涙腺は壊れた蛇口みたいに開いた。
「寒くない?」って何度も聞いてくれた声が、布の温度として蘇る。

それでも日々は、私を立たせた。
仕事に戻り、笑い方を思い出し、友だちに「大丈夫」と言えるようになった。
大丈夫じゃない夜は、未送信の手紙にもう一行だけ言葉を足した。

あの時の私に、会えたら叱ってやりたい。
でも、あなたと過ごした時間にだけは頭を下げたい。
ありがとう。間に合わなくてごめん。

ある日、駅前の書店で、彼に会った。
目が合う。心臓が落ちて、床下で弾ける音がした気がした。
彼は少し痩せて、でも変わらない癖で、照れたように前髪をかいた。

「久しぶり」
「……うん」

私が持っていた紙袋の口から、グレーの毛糸がのぞいた。
彼の目が一瞬だけ柔らかく揺れる。

「それ、まだ持ってたんだ」
「うん、返そうと思って」
「似合ってたのに」

言葉の端っこに、笑いのかけら。
私たちは立ち読みの人波に押されながら、数センチずつ後ずさった。
離れないように——じゃなくて、これ以上近づかないように。

「元気?」
たぶん嘘の定型文。
でも、彼の声は、相変わらず私の中のいちばん遠い戸棚まで届く周波数だった。

「ねぇ」私は深呼吸した。「渡したいもの、あるんだ」

スマホを開き、未送信の手紙を画面に映す。
指が震える。ここで見せたら、ズルいだろうか。
でも、この言葉はもう私一人では持ちきれない。

彼は黙って受け取り、目で文字を追った。
声に出さない読み上げのリズムが、肩の上下でわかる。
最後まで読み終わった彼は、画面を両手でそっと包み、返してきた。

「ありがとう」
いつか別れを受け止めた時と同じ、静かな声だった。
でもそこには、あの時なかった熱があった。
「俺も、言えなかったことがある。あの日、止められなかったこと、ずっと後悔してた。
 ——弱音、見せればよかった。君に。」

胸の奥で、何かがやっと泣いた。
嗚咽じゃなく、安堵に近い涙。
私たちの別れは失敗でも敗北でもなく、ただ、言葉が間に合わなかっただけだとわかった瞬間。

「マフラー、返すね」
彼は首を振った。「持ってて。似合うから」
「でも——」
「寒いとき、俺の代わりにそれが君を守るなら、それでいい」

書店の自動ドアが開くたび、冷たい風が足元を撫でる。
私たちの間を、季節が抜けていく。
“もう二度と”と“またいつか”の間に立って、どちらも選ばない沈黙を分け合う。

「じゃあ」
さよならの代わりに、彼は言った。「あったかくして、帰って」

たったそれだけの言葉で、世界がほんの少し優しくなる。
彼が人混みに溶けたあと、私は外に出て、マフラーを首に巻いた。
毛玉のざらりとした感触。頬に触れる温度。
彼の指先が結んだみたいに形が整って、私はひとり、笑ってしまった。

家に帰って、未送信の手紙を開く。
下に新しい行を増やし、初めて“送信”を押す。
宛先は、彼じゃない。過去の私だ。

ねぇ、あのときの私へ。
間に合わなかった言葉は、今日ちゃんと届いたよ。
ありがとうは言えたし、ごめんねも言えた。
それでも私たちは、別の道を選んだ。
悲しくないと言えば嘘になるけど、悲しみと一緒に歩けるくらい、私たちは強くなった。
心配しないで。あなたが愛した人を、いまも私は大事に思ってる。
それはもう恋じゃないけど、温度は残る。
冬の駅前で、マフラーみたいに。

送信済みの表示が、小さな星の点滅に見えた。
窓の外、街灯が淡く滲む。
画面を閉じると、部屋は驚くほど静かで、そしてちゃんとあたたかい。

——さよならを選んだ日から、君はずっといる。
触れられないけれど、消えもしない形で。
毛玉だらけのマフラーみたいに、不格好だけど確かな温度で。

私はもう、あの日の「終わり」で足を止めない。
未送信だった言葉を、これからは間に合わせる。
ありがとうも、ごめんねも、好きだも、次の誰かに。

それが、私の「幸せのかたち」。
失くしたものの温度を、未来の手に渡していくこと。
——そして今日、やっと私自身を抱きしめられた。

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