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竹田恒泰「女性天皇は味噌汁に入れたウンコのようなもの」と暴言


上杉隆・竹田恒泰論争に一言。竹田系統は「女系」であることより、「庶系」であることが重要です。初代、竹田宮恒久は長男であるのに、北白川家を継承できませんでした。それはなぜか。正妻ではなく、家女房(つまりは側室)の子(庶子)だったからです。  

竹田恒泰氏の高祖父、北白川宮能久には、成人した男子が5人いました。長男が恒久、次が成久、そして、輝久、芳之、正雄です。  

長男恒久の母親は家女房の申橋幸子、二番目の成久の母親は、正妻の富子(宇和島伊達家出身)でした。そこには歴然とした身分差がありました。恒久の母親幸子の出身家(申橋家)は、輪王寺門跡の家司の家系で、日光では名家ですが、身分でいえば「平民」です。  

その下の3人の子の母は、申橋幸子とは別の家女房、あるいは家女房でもないもっと下級の女性です。  

恒久は、女系で見ると、地位が高くないため、跡取りになりませんでした。北白川宮能久が亡くなった時点(1995年)で、長男恒久は13歳、成久はたった8歳でしたが、成久が当主となったのです。「妾腹」の恒久は、「正統」とはみなされなかったのです。  

その他の庶子、輝久、芳之、正雄も、それぞれ小松、二荒、上野として臣籍降下しています。恒久も、当然、民間人になるのが順当でした。  

しかしながら、1900年代に入り、明治天皇の4人の娘の嫁ぎ先を検討するなかで、皇族内で世代が釣り合うという偶然の理由で、恒久は、特に竹田宮という宮家を立てることを許されたのでした(とてもラッキーでした)。本来は、小松輝久、二荒芳之、上野正雄と同様の民間人としての人生を歩むはずでした。  

竹田恒泰さんは、自分は、天皇の男系の血統を引いていると胸を張ります。しかし、それならば、なぜ、竹田宮家の祖(曽祖父の恒久)は、長男(第一子)なのに、北白川宮家を継げなかったのでしょうか。  

それは、女系の血が正統なものではなかったからです。男系理論なら、母方の血筋など関係ないはずなのですが、実際は、母の血が跡取りとして相応しくないからは臣籍降下する予定だったのです。  

当然にして、竹田宮恒久は、弟の北白川宮成久よりも、継承順位が下でした。







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