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『ファミレス行こ。』完結を受けての考察──狂児はなぜ愛を語らなかったか

 この文章は、以前書いた「ギリシア神話から読み解く『カラオケ行こ!』『ファミレス行こ。』考察」の続編にあたります。前作では宇佐純子=めんたい子説を筆頭に、酒=ヤクザ(神)の飲み物であるなど、いくつかの深読みを展開しましたが、今回は前作執筆時点からいよいよ完結を迎えた『ファミレス行こ。』の、狂児と聡実の関係の着地について、改めて考えていきたいと思います。相変わらずこれもオタクの勝手な深読みであり、和山先生そこまで考えてないと思うよ、で片付けられる幻覚の一種です。ただ、今回はいつもよりちょっとだけ真剣に、というか、正直に書いている部分があります。読み終えて「これは考察というより感想文では」と思われたら、それはたぶん正しい感想です。
 最終回が発表されて半年間、色々な素晴らしい考察が先行して発表されました。そうした先行考察の焼き直しではなく、言わばカウンターとして新たな見方をしたい。そういう意図を持った文章です。


▽畳と川──物語後半の神話的回収

切腹の間で交わされた問い

 第12話、狂児は初めて聡実のアパートに上がります。大阪から肉まんを20個買ってきて、四畳半の部屋で聡実と向き合う場面です。ここで狂児は畳の敷き方に気づきます。四畳半に畳を敷く際、俗に「不祝儀敷き」「切腹の間」と呼ばれる、縁起の悪いとされる並べ方があるのですが、狂児はその配置に気づき、それとなく聡実に確認します。しかし聡実の側には特に意図はありません。
 この非対称性が重要だと思います。地上の住人である聡実は、その部屋が持つ不吉さにまるで気づかず暮らしていて、冥界の住人である狂児だけがそれを読み取ってしまう。ヤクザの世界に生きる者だけが持つ、死のイメージへの感度の違いがここに表れているように思います。
 肉まんを食べながら、聡実は少し前に自分が狂児を後ろから抱き締めてしまったことが頭から離れず、そわそわしています。狂児が何か話を切り出したので、てっきりそのことに触れられるのかと身構えるのですが、狂児が話し始めたのは、昔のバイト先の仲間と久しぶりに再会したら、ねずみ講の大ボスになっていたという、まったく関係のない話でした。
 この迂回の仕方が、地味ながらかなり効いていると思います。聡実は心の中で「アレについてはあえて触れへん感じなんやな…」「あえてって言うか、どうでもいいことやったんかな狂児にとっては」「僕のことよりネズミ講の大ボスに出会ったことのほうがボルテージ上がるんや…」と、皮肉と傷心の入り混じった独白をします。そして「こうやって生きてきたんやこの男は…知らん顔してずーっと…」と思うのです。
 この一文は見逃せないと思います。これまでの考察では、狂児が肝心なことに触れない、身体で示さない、というパターンを、外側から分析するようにして積み上げてきました。しかしこの場面で聡実は、その狂児の在り方を、個別のエピソードとしてではなく、狂児という人間がずっとそうやって生きてきたのだという、一貫した生き方そのものとして見抜いています。考察者が後から言葉にしてきたことを、当の聡実はもうとっくに、肌感覚で理解していたということになります。
 そして狂児が帰ろうとしたとき、聡実はたまらず口を開きます。「僕のことなんやと思ってる?」狂児が「ん?」と訊き返すと、聡実は「僕のこと…」と言い淀み、それ以上続けられません。
 ここで狂児は、聡実の問いに直接答える代わりに、同じ構文をそのまま裏返して聡実に投げ返します。
「聡実くんは俺とどうなりたいの?」「俺のことどうしたいの」
 これは重要だと思います。この問いかけは、狂児が自分から一方的に踏み込んだものというより、聡実が言いかけて言葉にできなかった問いを、狂児が受け取り、形を変えて聡実自身に送り返したものです。狂児は相変わらず、聡実の問いに正面から答えることを避けています。ただしその避け方は単なる沈黙ではなく、問いの構文だけを保ったまま相手に手渡すという、かなり洗練された回避です。前作で触れた「助手席に座った人間はなんでか俺から離れられへん」自分からは動かず、相手の意志を待つという狂児の一貫した性質が、ここでは非常に繊細な形で表れています。
 聡実はこの問いにも答えられません。心の中で「どうなりたいんやろ 僕は狂児と…」「狂児をどうしたいんやろ…」と考え、そして「ヤクザ辞めてほしいとか口が裂けても言われへん」「なんかしら宇宙の力が働いて狂児が足洗うことがあっても僕が背負える人じゃない…」と思い悩みます。
 この独白は、前作で触れた「狂児が地上に戻るのは現実的に困難」という読みに、新しい層を加えるものだと思います。これまでその困難さは、主に狂児側の事情(前科、刺青、ヤクザという身分)として語られてきました。しかしここで聡実は、たとえその困難が奇跡的に取り除かれたとしても、自分にはその狂児を受け止めるだけの器量がないと、自分自身の限界を先に見積もっています。これは、聡実がずっと「求める側」として描かれてきたこの関係の中で、聡実自身が静かに下している、痛切な自己評価だと思います。
 狂児はこの後、「豚まん明々後日までやからな 賞味期限」「腹いっぱい食って頑張って」「なんかあったらまた連絡して」とだけ言い残して、アパートを出ます。聡実の問いにも、自分自身が投げ返した問いにも、結局どちらにも正面から答えないまま、賞味期限という、この上なく即物的な話題で場を締めくくる。これは、これまで見てきた「言葉では前進し、身体では踏みとどまる」という構図の、さらに手前にある層を示しているように思います。つまりこの場面での狂児は、身体どころか、言葉のレベルですらまだ核心には触れていないのです。
 興味深いのは、このすぐ後に描かれる祭林組のカラオケ大会のシーンです。組員の一人が松山千春の「銀の雨」を歌ったあと、狂児が『ファミレス行こ。』の中で初めて「紅」を歌う姿が描かれます(あくまで作中での描写としては初めて、というだけで、これ以前にも歌っていた可能性はあります)。言葉で答えられなかった問いの直後に、狂児がマイクを握るという流れは、示唆的だと思います。「紅」がこの作品の中でどういう歌として機能してきたかは、後の章でも改めて触れますが、狂児にとって歌が、言葉にできない感情を漏らすための、数少ない回路の一つだったのだとしたら、この場面はまさにその回路が起動した瞬間だったのかもしれません。
 そして第14話。カラオケ大会に参加していた狂児を聡実は呼び出し、夜のマクドナルドで再び狂児にこの日と同じ構文の問いを、今度は言い淀むことなく突きつけることになります。「僕はこれからもこうやって会える関係でいたい」「ずっと一緒にいたい」とはっきり言葉にし、「狂児さんは僕とどうなりたいんですか」「ヤクザやめられへんの」と問い返す。狂児の答えはこうでした。「親父が死ぬまではやめへん」「でも聡実くんが俺を必要としなくなるまでは一緒にいるよ」
 肉まんの回で言い淀んだ聡実が、この回ではついに同じ問いを最後まで言い切ることができている。この二つの場面を並べて読むと、聡実の変化の軌跡がくっきりと浮かび上がってきます。そして狂児の返答も、この構造を踏まえると違って見えてきます。一見誠実な言葉に見えて、実際には終わりの基準を「聡実が俺を必要とするかどうか」という、聡実自身の内面という不確かなものに委ねてしまっている。これは肉まんの回で聡実の問いを裏返して送り返したのと同じ身振りの、最終形なのだと思います。狂児は自分の意志で関係を終わらせないと言いながら、自分の意志で続けるとも明言していません。聡実がこの後トイレで一人「最初に僕を必要としたのは狂児のほうやん」と怒るのは、この構造への、極めて的確な反発だったと思います。

堂島川に沈んだ渡し賃

 最終話、年末年始に帰阪した聡実は、狂児と高級寿司を食べます。その帰り道、聡実は「ちょっと外歩きませんか」と誘い、河岸に差し掛かったところで切り出します。「組長が死ぬまではヤクザやめへんって言ってたじゃないですか」「僕、正直あの時、組長早く死なへんかなって思ってしまったんです」狂児は笑います。聡実は「でも人の死を願うのは人としてどうかしてるし」「たとえ組長が死にはっても、狂児が僕のところに来てくれるかわからへんやん」と続け「ちょっと待たれへんなって」「狂児さんの腕の僕の名前消してほしい」と切り出します。「コレがある限り僕は狂児から離れられへん気がする」「コレが消えてやっと初めてスタートラインに立てるんちゃうかなって、対等に」。狂児は薄笑いで「わかった」と答えます。
 これは前作で触れた「刺青を消す」というモチーフの、意味の転換だと思います。以前は「刺青を消す=狂児を地上に引き戻す」という、聡実からの引き止めの試みとして機能していたはずのこの行為が、最終話では聡実自身が対等な立場に立つための、聡実側の自己変革の申し出に変わっています。前作のペルセポネ論で位置づけた、ハデスに略奪される受動的な聡実像から、聡実自身が関係の形を能動的に再定義しようとする姿への変化が、ここにはっきりと表れています。
 そして聡実は、この日のために貯めていた500円玉貯金15万円分をバッグから取り出し、「これで消してください」と差し出します。狂児は「そんなんせんでも普通に言うてくれたらええのに」と、聡実の腕を掴んで拒みます。「俺みたいのんと金銭の取引したらおしまいやで」と。しかし聡実はビニール袋を無理やり開けようとし、力任せに引っ張った拍子に袋が破裂して、中の500円玉が飛び散り、川に落ちていきます。
 ここまでは、狂児の拒否と聡実の強引さがぶつかり合う中で、誰の明確な意志でもなく貨幣が失われる、という展開です。ギリシア神話において、冥界には複数の川が流れ、死者の魂は渡し守カローンに渡し賃を支払わなければ彼岸に辿り着けません。聡実が貯めていたのはまさに硬貨であり、それが対等の証として差し出された瞬間、川に沈んで消えてしまう。
 ただ、この後の展開は、単なる喪失の象徴にとどまりません。「15万ー!」と川に向かって叫ぶ聡実の隣で、狂児は上着を脱ぎ、欄干を乗り越えて真冬の川に飛び込もうとします。聡実がとっさにそれを止め、二人は至近距離で顔を見合わせます。「なんで止めるん」とでも言いたげな狂児の表情に、聡実は思わず笑い出してしまいます。狂児が「何笑てんねん、めっちゃ落ちたで、金」と焦る一方、聡実は笑いすぎて涙を拭うほどです。
 この場面は、これまでの狂児の一貫した抑制──言葉にしない、確約しない、身体で示さない、とは明らかに異なる質のものです。狂児はここで、聡実のために自分の身体を、考えるより先に差し出しています。しかもそれは、崇高な自己犠牲としてではなく、真冬の川に飛び込もうとする無謀さ、あとから振り返れば滑稽さすら伴う衝動として描かれる。狂児の抑制が崩れる瞬間は、悲愴な告白としてではなく、思わず笑ってしまうような、不器用な本気として立ち現れているのです。
 これは、狂児が言葉では最後まで踏み込まなかった代わりに、身体が一瞬、彼自身の意志を超えて先に動いてしまった場面として読めると思います。渡し賃は結局、川に沈んだまま戻ってきません。カローンへの支払いは果たされず、関係の清算という試みは、当初の形では成立しなかった。しかしその代わりに、狂児の中にある衝動的な本気、言葉にできない分だけ身体が勝手に飛び出してしまうような性質が、一瞬だけ露わになっています。聡実がその狂児の姿を見て笑い、狂児も焦りながらそれに巻き込まれていく。この場面が持つ温度は、失われた渡し賃の喪失感というより、二人の間にようやく流れた、飾らない笑いの共有だったのだと思います。
 その後、聡実は道路に落ちて助かった小銭を拾い集め、「これだけあれば食後のデザート腹いっぱい食べられるやろ」「ファミレス行こ」と狂児を誘います。清算のための15万円は失われましたが、その代わりに、二人はもう一度、ただの食事に向かいます。
 そしてこのファミレスでの食事のあと、狂児は聡実に「ごちそうさまでしたー」と言います。これは見過ごせない一言だと思います。『カラオケ行こ!』の頃から、ご飯を奢る、つまり金を出すのは常に狂児の側でした。時計を渡し、豚まんを買い、寿司を奢り、常に与える側にいたのが狂児です。それがこのファミレスの場面で、初めて逆転します。聡実が狂児にご馳走する側に立つのです。
 これは、聡実が橋の上で口にした「対等に」という言葉が、この場面で初めて、行為として一瞬だけ実現された瞬間だと思います。ただし、これをもって「二人はついに対等になった」と結論づけるのは、少し性急かもしれません。この奢りは、15万円という大きな清算が失敗した、その残骸としての小銭で成り立った、いわばなりゆきの行為です。しかもこの直後の別れ際、狂児はハグを拒み、二人の視線は最後まで交わりません。もし対等さが本当に定着したのなら、この直後の場面にもう少しその手応えが表れてもよさそうなものですが、実際には元の非対称性──狂児が一歩引き、聡実が求める側に回るという構図がすぐに戻ってきています。この場面は「対等の到達点」というより「対等というものがどんな形を取り得るのかを、二人が初めて垣間見た瞬間」として、控えめに位置づけたいと思います。
 もう一つ、この場面を象徴的に補強するのが、二作のタイトルの由来です。『カラオケ行こ!』は、狂児が中学生の聡実を誘う言葉から取られたタイトルでした。誘うのは常に狂児であり、聡実はそれに応じる側でした。一方『ファミレス行こ。』というタイトルは、聡実が狂児を誘うこの場面のセリフから取られています。誘う側、選ぶ側、差し出す側という、この関係の主導権の所在が、物語の外側にあるタイトルという形式においてすら、静かに移り変わっている。これは一回の行為ではなく作品全体の構造に関わる話なので、先ほどの奢りの逆転よりも、根拠としてはやや強いと思います。それでも、これを「主導権の偏りが解消された」と言い切るのではなく「解消される可能性の兆しが、作品の骨格そのものに刻まれている」くらいの、慎重な言い方に留めておきたいと思います。

▽言葉は前進し、身体は踏みとどまる

「狂児が好きで 狂児は生きてる」

 第17話、聡実はミスタードーナツでの大学の同級生たちとの会話の中で、以前話した「ハグをした友達」について尋ねられ、こう答えます。「あ、ああ! それ…それな」「うん…」「好きやって」

 この返答の軽さは重要だと思います。これまでの聡実は、狂児への感情について「なんもわからん」「そんな単純なもんではないやろ」と、言語化そのものから逃げ続けてきました。それがここで、驚くほど軽い口調で言い切られている。この回の冒頭、第14話のマクドナルドで狂児に「ずっと一緒にいたい」と打ち明けたことを思い出し、「あ~~~~~~~」とバイト先のロッカーで顔をゴシゴシと擦っているにも関わらず、です。これは長く悩んだ末にようやく到達した告白というより、すでに聡実の中では確定していて、あとは口に出すだけだった、という手触りに見えます。悩んでいたのは「好きかどうか」ではなく、「この好きをどう扱えばいいか」だったのではないでしょうか。

 この直後、聡実は中学生の合唱祭の日に見た、大破した狂児の車と、スナックに現れた狂児の姿を思い起こします。そして「狂児が好きで 狂児は生きてる それだけのことや」というモノローグに至ります。

 ここで聡実が想起しているのが、狂児との楽しい思い出ではなく、狂児の身に危険が及んだ瞬間であることに注目したいと思います。「好き」という感情と「生きている」という事実が、同格で並べられている。これは、冥界の住人である狂児にとって「生きている」ということ自体が、地上の人間にとってのそれよりも遥かに不確かで脆い前提だからだと思います。狂児を好きになるということは、聡実にとって「いつ失われるか分からない存在を好きになる」ことと不可分だった。聡実はこのモノローグで、ようやくその不可分性そのものを引き受けています。

ハグをしなかった、その理由について

 物語の最後、ファミレスでの時間を終えた早朝、二人は別れの挨拶を交わします。「ごちそうさまでしたー」という狂児に、聡実は「どういたしまして、寿司もありがとうございました」と返します。向かい合っていながら、二人の視線は交わっていないように見えます。聡実は「ん」と腕を開いてハグを待つポーズを取りますが、狂児は「フッ」と笑って、聡実の背中を軽く叩くだけで応じません。「ほなまた」と片手を上げて、狂児はその場を去っていきます。聡実は一人「ハグせえよ」と呟きながら、地下鉄の入り口を降りていきます。
 言葉ではすでに、二人は「ずっと一緒にいたい」という確認を交わし、川の場面ではあの衝動的な飛び込みという、狂児にしては珍しく身体が先に動く瞬間さえありました。にもかかわらず、この最後の別れの場面では、身体的な結びつきの水準で、狂児は最後まで踏み込みません。刺青という、身体に刻まれた所有の印は消すと約束したのに、新しい身体的接触は与えない。狂児は言葉の水準では応え、川では思わず本気を露わにしたのに、この一番シンプルな別れの瞬間においては、また一歩引いてしまう。
 興味深いのは、この場面で二人の視線が最後まで交わっていないという点です。ハグを断られた聡実は、その場で狂児を追及することも、寂しさを表に出すこともせず、ただ「ハグせえよ」とひとりごちて、地下鉄の階段を降りていきます。降りながら聡実は一度振り返りますが、その視線の先に何があったのかは、読者には示されません。一方の狂児も、少し歩いてから振り返ります。しかしそのときにはもう、聡実の姿はどこにもありません。そして狂児の、感情の読み取れない真顔に近い表情が大きなコマで描かれ、物語は幕を閉じます。
 二人がそれぞれ別々に振り返り、しかもその視線が一致することも、読者に共有されることもない、というこの構成は、非常に周到だと思います。もし二人が同時に振り返り、目が合う場面が描かれていたら、それはこの関係に対する、かなり明確な祝福の演出になっていたはずです。しかし実際には、聡実が見たものは読者に伏せられ、狂児が見たものは「もう誰もいない」という不在でした。この作品は、最後の最後まで、二人の視線が重なり合う瞬間を、読者にすら見せないという選択をしています。
 狂児の最後の真顔は、これまでの狂児の全ての抑制──言葉にしない、確約しない、ハグに応じない、の最終的な貫徹だと思います。もしここで狂児が明らかに寂しげな表情を見せていたら、それはこの作品の抑制の美学からすると、過剰な描写になっていたはずです。感情を読み取らせないという選択そのものが、狂児という人物の一貫性の、最後の証明のように思えます。ただ、その一貫性のすぐ手前に、川での衝動的な飛び込みという、狂児が自分でも制御できなかった瞬間があったことも、忘れずにいたいと思います。狂児は、感情が溢れ出す瞬間を確かに持っている人物です。ただその感情は、最後の去り際という、一番静かで、一番何かを言うべき瞬間には、姿を現しませんでした。

▽なぜ狂児はここまで抑制して愛を語らないのか

 ここから先は、これまでの神話的な読解の外側にある話をしたいと思います。
 『カラオケ行こ!』における狂児と聡実の関係は、作品の枠組みの中では奇妙な友情として描かれていますが、外側から見れば、ヤクザの大人が縁もゆかりもない中学生をカラオケボックスに連れ回すという、成立の経緯そのものにいびつさを孕んだ関係でもあります。もし『ファミレス行こ。』が、三年の時を経て再会した二人を単純にラブストーリーとして描いていたら、その筆致次第では『カラオケ行こ!』での関係が、事後的に未成年へのグルーミングという文脈で強調されて読まれてしまう危険があったのではないかと思います。
 この考えを念頭に置くと、『ファミレス行こ。』における狂児の徹底した抑制──約束しない、確約しない、ザクロ(冥界の食べ物)を食べさせない、身体で示さない、は単なる人物造形上の美学というより、作品全体がその出自の危うさを自覚し、それを修復しようとする試みだったのではないか、と考えられます。
 ただ、川で見せたあの衝動的な飛び込みを踏まえると、この抑制は「完成された美学」というより、「かろうじて保たれている自制」に近いものだったのかもしれません。狂児の中には、聡実のために考えるより先に身体が動いてしまう性質が、確かに存在します。これは『カラオケ行こ!』で、聡実に絡んだ宇宙人をボコボコにしてしまったことも挙げられます。その性質が普段は表に出てこないのは、狂児がそれを注意深く抑え込んでいるからだとしたら、この抑制は静かな誠実さというより、常に漏れ出しそうな衝動を、聡実を守るために必死で堰き止め続けている状態だったと考えた方が近いのかもしれません。それは、これまで思っていたよりもずっと不安定で、ずっと綱渡りに近い抑制だったのではないでしょうか。
 「聡実くんは俺とどうなりたいん」という問いかけも、この文脈で読み直すと違って見えてきます。中学生だった聡実には、そもそも狂児との関係を選ぶ・選ばないという主導権自体がありませんでした。狂児から一方的に声をかけられ、連れて行かれた。大人になった聡実に、はっきりと自分の意志で答える機会を与えることは、狂児なりの、過去の非対称性への埋め合わせだったのかもしれません。
 そしてハグを拒む場面も、単に「聡実を大切にするがゆえの抑制」というだけでなく、かつて未成年だった聡実に向けていたかもしれない感情の延長線上に、今の自分の欲望が位置づけられて読まれることへの、狂児自身の恐れなのではないかとも思います。狂児は聡実を求めながらも、その求め方の形が、あの頃の関係の延長として読まれることを、誰よりも恐れているのではないでしょうか。川では守り切れなかった衝動が、去り際という一番意味を持ってしまう場面でだけは、かろうじて堰き止められた。そう考えると、あの最後の抑制は、狂児が最後の力を振り絞って守り抜いた一線だったのかもしれません。
 この恐れが単なる想像上のものではないことを裏付ける場面が、実は本編にはいくつもあります。まず、岡田の取材はごく早い段階から、すでに聡実本人にまで及んでいました。聡実の働くファミレスに客として訪れた岡田は、たまたま来店したマサノリのアシスタント・マコトくんと知り合いだったことから、同じテーブルにつくように促します。互いの仕事の話の流れで、岡田は祭林組組長の失踪した息子について取材していることを明かし、その資料として何枚かの写真を見せます。その中に、狂児と聡実が一緒に食事をしている盗撮写真がありました。マコトくんはそこに写る聡実が、今まさに自分たちの給仕をしている店員だと気づきます。岡田は「祭林組の男とたまに会ってるから、どういう関係なのかなって」「まぁこれは小ネタだけどね、面白そうだからついでに追ってる」と、聡実についても、軽い調子ながら取材の対象にしていることを口にします。
 マコトくんはこのやり取りをこっそり写真に撮り、マサノリに知らせます。ちょうど狂児と久しぶりに再会し居酒屋で飲んでいたマサノリは、その場でこの情報を狂児と共有します。狂児と聡実の写った写真を見て「これファミレスの店員じゃねぇの、お前とメシ食ってるとこ写真撮られてるけど」と訊ねるマサノリに、狂児は「甥っ子」ととっさに誤魔化します。そして狂児は、岡田の名刺を手に入れるよう頼みます。
 その後、岡田は直接聡実に声をかけ、若い頃の狂児とマサノリの写真、そして狂児と聡実が写った写真を見せて、正体を訊ねます。聡実は動揺を押し殺しながら「叔父ですね」とだけ答え、それ以上は「個人情報なんで」「全く見たことない顔です」と突っぱねます。この時受け取った岡田の名刺を、聡実は狂児との焼肉の席で見せます。狂児は「あー岡田な、知ってる知ってる」と言いながら、その名刺を焼肉の網の上に落とします。心配する聡実に、狂児は「聡実くんが心配することはなんもない」とだけ答えます。
 聡実がとっさに口にした「叔父」という嘘は、狂児が居酒屋の場でマサノリに口にした「甥っ子」という嘘と、示し合わせたわけでもないのに、きれいに呼応しています。二人は、互いに何と答えるべきかを話し合ったわけではないのに、同じ側から見た同じ嘘、血縁という、最も無害で詮索されにくい関係を、それぞれ独立に選んでいるのです。
 この焼肉屋からの帰り道、蒲田駅に向かう狂児の後ろから、聡実は雑踏の中で不意に抱きつきます。「…なに?」と驚く狂児に、聡実は「…いや、確認」とだけ答え、「また連絡します」と言い残して去っていきます。これが、前作でも触れ、この考察の第一部でも言及した、聡実がずっと頭から離れずにいたあの抱擁です。
 この文脈を踏まえると、あの「確認」という一言の意味が、かなりはっきりしてきます。聡実はこの日、自分と狂児の関係を、赤の他人である岡田に向かって「叔父」だと偽らなければなりませんでした。写真に撮られ、素性を探られ、二人の関係が、いつ誰かに暴かれてもおかしくない危ういものだと、突きつけられた一日だったはずです。そのすぐ後で、聡実は狂児を抱きしめています。これは単なる衝動的な恋愛感情の発露というより、嘘で塗り固めなければならなかった関係が、確かにここに実在しているという手触りを、自分の腕の中で確かめる行為だったのではないでしょうか。「確認」という単語を選んだことも、これで腑に落ちます。聡実は、狂児という存在そのものの実在を、言葉ではなく身体で確かめずにはいられなかったのだと思います。
 狂児が聡実に近づくことをためらう理由は、単なる感傷的な過去への配慮だけでなく、聡実に近づくこと自体が、聡実を岡田のような視線、そしてその先にある、もっと危険なものに晒すことと直結している、という現実的な恐れでもあったのだと思います。そしてその恐れは、聡実の側にも、確かに伝わっていました。聡実があの日、言葉ではなく身体で「確認」せずにいられなかったのは、狂児と自分を繋ぐものが、いつ誰かに奪われ、否定されてもおかしくない、脆いものだと知ってしまったからなのだと思います。
 もう一つ、別の日のエピソードも見ておきたいと思います。マクドナルドで聡実が狂児に「これからも一緒にいたい」と伝えた回の次の第15話、その店内にライターの岡田が居合わせていました。恐らくは狂児と聡実の関係についての取材の一環でしょう。聡実が帰った後、狂児は自ら岡田に声をかけます。「最近この辺チョロチョロしてるみたいやけど、なんか聞きたいことでもあるん?なんでも答えるで」戸惑いながら自己紹介する岡田に、狂児はこう続けます。「ほんで今度はどういう記事?祭林組組長の息子の現在?成田とハンバーガー食う兄ちゃんの正体?」
 「成田」は狂児自身であり、「ハンバーガー食う兄ちゃん」とは、直前まで狂児と一緒にいた聡実のことです。狂児は笑いながら岡田の縛った髪を掴み「今ちょうど近くに組長がいてるから直接話聞きにいこか」と、カラオケ大会中のスナックざくろへ連行していきます。
 焼肉屋の場面で聡実が選んだのが「叔父」という嘘による受動的な防御だったのに対し、このマクドナルドの場面での狂児は、むしろ自分から岡田に接触し、脅威そのものを直接摘み取ろうとする、能動的な対処に出ています。二人は同じ脅威に対して、正反対の方法で応じている。聡実は言葉で誤魔化し、身体で確かめることしかできませんが、狂児はその気になれば、脅威そのものに直接手を下すことができる。この非対称性もまた、地上の住人である聡実と、冥界の住人である狂児との、埋めがたい隔たりを示しているように思います。

▽「Everything」という選曲の意味

 第16話、マサノリと組長の関係を嗅ぎ回っていたライターの岡田は、狂児に連れられて祭林組のカラオケ大会が開かれるスナックざくろに現れます。組長に自分の取材について詰められた岡田は、マイクで額を一発殴られたあと、「まあ一曲歌えや」「点数次第で考えたる」と告げられます。そこで岡田が歌うのがMISIAの「Everything」でした。組長はこの歌唱に涙します。そして「今集めてるデータ全て消すか お前が消えるか どっちか選べ」と迫り、岡田は取材からもこれまでの記事化からも手を引くことを約束させられ、解放されます。
 この選曲は、狂児と聡実の関係を考えるうえで、実は希望の光を差し込ませてくれるものだと思います。「Everything」というタイトルそのものが、何かを失う歌ではなく「あなたがすべてだ」という、揺るぎない肯定の言葉です。本来出会うはずのなかった二人が奇跡的にめぐり逢ったことへの驚き、会いたい気持ちを抱えたまま会えない時間が過ぎていくもどかしさを歌いながらも、この曲が最終的にたどり着くのは「優しい嘘はいらない、欲しいのはあなたそのものだ」という、飾らない真実だけを求める強い意志です。
 これは、狂児が聡実に対して一度も気休めの言葉を口にしてこなかったことと、そのまま重なります。「聡実くんが俺を必要としなくなるまでは一緒にいる」という返答は、一見素っ気なく、突き放しているようにも聞こえます。でも、これは狂児が聡実に対して、耳に心地よいだけの嘘を差し出すことを、最後まで拒み続けた証でもあります。狂児は不器用なままに、偽りのない自分自身だけを聡実に差し出し続けてきました。そしてそれこそが「Everything」が歌う「優しい嘘はいらない」という願いに、そのまま応える生き方だったのではないでしょうか。だとすれば、狂児の言葉の少なさは、愛の不在の証拠ではなく、むしろ愛の純度の高さの証拠として読むこともできると思います。
 もう一つ心に留めておきたいのは、この曲に涙したのが、前作で全能神ゼウスに見立てた組長その人だったという点です。しかもこの落涙の場面では、組長の脳裏に、家出する前の幼いマサノリの姿が思い出されているという描写があります。つまり組長がこの曲に重ねていたのは、二十数年会えずにいた実の息子との関係だったのです。
 これは、この曲がこの作品の中で果たしている役割を、もう一段大きなものにしてくれると思います。「Everything」は、狂児と聡実という一組の関係だけの主題歌ではなく、この作品全体を貫く「言葉にできない親愛の器」として機能している。掟と暴力によって支配する、言葉より行動で語るヤクザの世界の頂点に立つ組長ですら、実の息子への言葉にならない想いを、この曲に託して初めて涙する。ヤクザとしての建前の下で、ずっと言えずにいた父としての本心が、岡田の歌を通してふいに漏れ出してしまったのだと思います。
 興味深いことに、マサノリ自身もこの日、担当編集の鈴木から仕事の電話がかかってきた際、思わず声を荒げています。「俺は今日20数年ぶりに親父に会ったんだぞ、少しは余韻に浸らせろ」そしてアシスタントのマコトくんに、その余韻の中身を明かします。「MISIAのEverythingが頭ん中にずっと流れてたのによ」マコトくんはすかさず「それだと『やまとなでしこ』ですね」と突っ込みます。
 この軽妙なやり取りの中に、実はさりげなく重要な情報が挟まれています。マサノリの頭の中にも、父との再会の余韻とともに、同じ「Everything」が流れていたということです。つまりこの曲は、狂児と聡実、そして組長とマサノリという、この作品の中にある二組の「言葉にできない親愛」に、共通して流れている旋律なのです。掟や沈黙に縛られて素直になれない者たちの心の中で、この曲だけが、飾らない本心の代弁者として鳴り続けている。作品はこの一場面を通して、狂児と聡実の関係の底にある願いが、決して報われないものではなく、本物であるということを、本人たちの口からではなく、脇役の岡田の歌と、組長とマサノリという、もう一組の不器用な親子の姿を通して、そっと肯定していたのかもしれません。
 そしてこの曲が持つ意味を踏まえると、肉まんの回の直後に狂児が久しぶりに「紅」を歌う場面も、違って見えてきます。「紅」と「Everything」、この作品には言葉にならない想いを託す歌が、少なくとも二つ存在していることになります。狂児にとっての「紅」が、ヤクザとしての自分、あるいは失われた過去への鎮魂の歌だとすれば、「Everything」はこの作品に登場する不器用な男たちが共有する、まだ言葉にならない今の想いの歌なのかもしれません。

▽それでも残る、聡実の飢えについて

 「Everything」が示してくれたように、狂児の想いが本物であることには、もう疑いの余地がないと思います。ただ、想いが本物であることと、その想いが相手を満たすかどうかは、別の話でもあります。
 最終回、川での飛び込み未遂を踏まえると、狂児は完成された抑制の人ではなく、衝動と抑制の間を、綱渡りのように行き来している人でした。だとすれば聡実が置かれている状況は、以前考えていたよりもさらに複雑で、より切ないものだったのではないかと思います。狂児が完璧に一貫して何も見せてくれないのなら、聡実はある意味では諦めがついたかもしれません。でも狂児は、川では思わず本気を漏らし、聡実を笑わせるほどの不器用さを見せてくれる。それなのに、一番肝心な去り際には、また元の抑制に戻ってしまう。これは、完全な拒絶よりも、ある意味で残酷な構造だと思います。狂児が本気を出せる瞬間があると分かってしまった分、出さない瞬間の落差が、より強く聡実に響いてしまうからです。
 狂児の抑制は、狂児自身にとっては誠実さの表れだったとしても、その誠実さの基準を決めているのは狂児であって、聡実ではありません。聡実は一度も「あなたのその抑制のやり方に同意します」と言ったわけではなく、ただ、狂児が示す分だけを受け取り続けるしかない立場に、ずっと置かれ続けている。愛されていないわけではないけれど、愛され方を選ぶ権利は、最後まで聡実には与えられなかった。
 最終話でハグを求めたあの場面を見ると、聡実は狂児からも、もっと即物的で直接的な愛情を注いでほしいと、ずっと願っていたのだと思います。でも狂児にはそれができない。正確に言えば、川ではできたのに、去り際にはできなかった。
 中学生の頃に出会ってから、聡実はずっと狂児に囚われています。大人になって、ようやく自分の言葉で「好き」と言えるようになっても、狂児からその言葉に見合うだけの、分かりやすい形の愛情表現を、望むタイミングでもらうことはできませんでした。それがどれだけ狂児にとって深い愛の形だったのだとしても、聡実にとっては、ずっと満たされない飢えとして残り続けたのではないかと思います。
 狂児の不器用な本気に胸を打たれる読み方と、聡実の飢えに胸が痛む読み方は、本来どちらも正しくて、どちらか一方を選ぶ必要はないと思います。ただ、美しい抑制の物語として消費してしまうと、聡実がずっと抱えてきたその飢えが、なかったことにされてしまう気がして、それだけはここに書き残しておきたいと思いました。

▽曖昧さは、答えだったのか

 最後に、この結末が「構造的必然」だったのか、それとも「妥協」だったのか、という問いに戻りたいと思います。
 ペルセポネ神話は本来、地上と冥界を「往還」する物語であり、その往還自体が季節の循環という秩序を作ります。しかし狂児と聡実の関係には、その往還の出口──結婚のような、制度的な着地──がありません。往還し続けることしかできない。畳の不吉さ、川に沈んだ渡し賃、拒まれたハグ、判読できない最後の真顔。これらのディテールを並べていくと、この関係が最後まで制度的な着地に近づかないよう、かなり周到に避けられていたように見えます。単なる回避というより、近づいた瞬間に、その儀式自体が失敗する形で妨げられ続けていた、という方が近いかもしれません。
 もしこれが本当に意図的な設計だったとすれば、和山先生が最後まで拒んだのは「関係に決着をつけること」自体ではなく「決着を、目に見える形で示すこと」だったのだと思います。そしてそこには、前章で触れたような、作品自体の出自と向き合う、倫理的な配慮もあったのではないかと思っています。
 ただ、この結末を単に「曖昧なまま終わった」と呼ぶのは、正確ではないのかもしれません。川での場面が教えてくれたのは、二人の関係が、抑制だけでできているのでも、衝動だけでできているのでもないということでした。狂児は聡実のために真冬の川に飛び込もうとするくらいには、我を忘れて本気になれる人です。同時に、一番言葉にすべき瞬間には、その本気を差し出せない人でもあります。この二つは矛盾しているようで、実は同じ一人の人間の中に、両方とも本物として存在しているのだと思います。そしてその直後、聡実が初めて狂児にご馳走をし、二作のタイトルの主語が狂児から聡実へと移り変わっていたように「誰が誘い、誰が差し出すか」という主導権の偏りにも、確かに変化の兆しはありました。それが完全に解消されたとまでは言い切れませんが、曖昧なままの部分と、少しずつ前進した部分が、この結末には同時に存在しているのだと思います。
 狂児は最後まで、分かりやすく愛を語りませんでした。でもそれは、愛していなかったからではなく、その言葉の重さを聡実に背負わせたくなかったからだと、私は思っています。狂児の本気は、確かに存在します。ただそれは、狂児自身にも制御できない形でしか、姿を現しません。もしそうだとしたら、あの最後の、感情の読み取れない真顔こそが、この作品の中で最も雄弁な、狂児の告白だったのではないでしょうか。愛していないからではなく、愛しているからこそ、その愛を、狂児は自分の意志で差し出すことが最後までできなかったのだと思います。

▽あとがき

 『ファミレス行こ。』の最終回は、2026年2月に発表されました。もちろんわたしは最終回が掲載されたコミックビームを発売日に買って読みました。それからの半年、わたしは『ファミレス行こ。』について語ることができませんでした。それはわたしが心のどこかで望んでいた、分かりやすい幸福な結末ではなかったからです。この物語がそう単純な帰結を辿らないようだぞ、とはある程度読んだ段階で分かっていました。でも、わたしは『カラオケ行こ!』から始まったこの物語とは、数年単位の長い付き合いをしてきました。だからその年数分のカタルシスをではないけれど、言わば見返りとして明快なハッピーエンドを求めてしまっていたのです。そして発表された最終回は、余白のある結末でした。二人が言葉として愛を語り合ったわけではありません。今後の二人がどうなるか、示めされてもいません。最終回を読んだあと、正直に言うとがっかりしました。求めていたカタルシスを得られなかったからです。その気持ちを消化できないまま、『ファミレス行こ。』を閉じて、半年が経ちました。
 半年の間は本当に一切『ファミレス行こ。』について触れませんでした。たまたま前回書いた考察文に多くのリアクションをいただき、その通知がまた半年後にやってきたことで「逃げていた最終回の終わり方について、改めて考え直そう」と思いました。
 今回この考察を立てながら、この半年間『ファミレス行こ。』から離れていて良かったと思いました。モヤモヤした気持ちのまま、どうにか理想とするハッピーエンドとして受け止められないかともがいてドツボにハマっていたかもしれません。
 漫画の読み方・受け止め方は人それぞれです。和山先生もそうした余白をあえて残されたのだと思います。その余白を、わたしはこういうかたちで受け止めることにしました。
 『ファミレス行こ。』の続編を望む声はネットにたくさんあります。わたしも欲を言えば、まだまだふたりを見ていたい。でも、今のこの終わり方で締めるのも美しい幕引きだとも思うのです。狂児と聡実の関係は、この先楽しいことばかりではなさそうです。むしろ難関がいくつも立ち塞がっています。これまで『カラオケ行こ!』『ファミレス行こ。』を読んできて、この先このふたりがそういった苦難に立ち向かう姿を見たいかと言われると、わたしはちょっと違います。和山先生の描く独特な世界観に、現実的な苦難は似合わないと思うのです。
 ふたりが今後どうしていくのか、それは読者ひとりひとりがそれぞれの狂児と聡実の人生に思いを馳せていくことでいろんな答えが生まれるのだと思います。わたしの中にもひとつの答えがあるし、これを読んでくださっているあなたの中にもまた別の答えがある。それが『ファミレス行こ。』という作品が与えてくれた自由さなのだと思います。

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