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【映画レビュー】PERFECT DAYS 〜善を慈しむ男・雨にも負けない男〜

アマプラで映画「PERFECT DAYS」を観た。心洗われる素晴らしい映画だったので、紹介したい。

驚くべきことにこの映画にはストーリーらしいストーリーがない。平山<役所広司>という男の日常がただひたすらに描写される。

そして、平山にはセリフがほとんどない。どんな男なのか、言語的な説明がほぼないまま、我々は、平山の日常を追いかけ、彼を知ってゆくことになる。

この日常が渋い。禅僧のような、修道女のような、丁寧な、清貧な、整った、穏やかな、そういう日常である。

平山の日常・習慣を少し覗いてみよう。

彼は、スカイツリー近くの狭い借家に住んでいる
彼は、一日の始まりに必ず空を見上げる
彼は、布団を丁寧に畳む
彼は、カセットテープで昔の音楽を聴く
彼は、トイレ清掃員である
彼は、真面目に工夫をもってはたらく
彼は、しゃべらない
彼は、木の成長を喜ぶ
彼は、木漏れ日の下で決まって昼食をとる
彼は、フィルムカメラを常時携帯している
彼は、毎晩少しだけ本を読む
彼は、幸田文の「木」を読む
彼は、フォークナーの「野生の棕櫚しゅろ」を読む
彼は、日の高いうちから銭湯に通う
彼は、居酒屋でちょっとだけ引っ掛ける
彼は、毎週末コインランドリーに行く
彼は、毎週末写真を現像する
彼は、毎週末いきつけのスナックで静かに酒を飲む

こんな感じだ。激しい感情の起伏や刺激物が一切ない。落ち着いて洗練された、そういう生活だ。

だから、最初は、この清貧孤高の生活を指して、「PERFECT DAYS」といっているのだろうかと思った。しかし、どうもそうではないらしい。もっと深いところに真髄はあるとみた。

普段まったくしゃべらない平山が、ところどころ「にやり」と本当に嬉しそうに頬を緩めるシーンがある。これこそ見逃してはならないシーンだった。これらに共通しているのは、「何かとつながっている時」、なんだな。

ここは、はっきりさせとかないといけないと思うので、あえて言っておくと、この映画は「孤独ながらも自分の世界の中で、秩序をつくって静かに暮らす人」を描き賛美しているのではない。実は問題意識は全く逆にあって、「清貧孤高の生活であっても世界との繋がりは必要だ」ということを言っているのではないかと思う。

私は、こう思う。平山は、一見孤独に見えるけれども、実は、いろいろなものと繋がっている存在なのではないか、と。

平山の暮らしは、実は深く世界と繋がっているからこそ、我々は、癒されるのではないか、と。

わたしたちは、「孤独」の対義語として何を思い浮かべるだろう。「妻」「夫」「家族」「友人」「仲間」そんなところか。では、それらがいなければ、ただちに人間は孤独なのか。これらをもてない人間は、幸せではないのか。否、である。監督のヴェム・ヴェンダースは、明らかに否、と言っている。

平山が朝一番、空を見上げる時、彼は生きていることに感謝し、あるいはその美しさに見惚れ、より大きな世界と繋がっている。

平山が読書をするとき、過去の賢者と会話を交わし、彼らと繋がっている。

家族でも友人でもないけれど、毎日、毎週顔を合わす人間と彼は心を通わしている。

植物(木)を育て、木漏れ日を撮影し、風の音に耳を澄ませる時、平山は、この世の美を感じ、生命の奇跡と畏怖を感じ、世界と繋がっている。

ここには、ユング的に言えば自己を超えた世界との共鳴があり、またハイデガーの言葉を借りれば、世界に対して開かれた生のあり方があるように思える。

繰り返しになるが、平山は、一見、ともに暮らす家族も友人もいない「孤独の人」だが、実は自分の狭い世界から、極めて大きな世界への接続を日々試みている人間、ということになる。

「大きな世界に属していることを感じながらひとりで暮らしていること」と「孤独に生きていること」は、違う。そのことをはっきり感じさせられる。誰かと暮らしているとしても、「孤独である」ということが起こりうるのがその証拠だ。

さて、何が平山を孤独から救っているのか。彼は、ひとりだ。ひとりなのに、なぜ孤独につぶされず、世界との「繋がり」を感じながら、幸せに生きていけているのか。

陳腐だが、それは ”善なるもの” に敏感な心のためではないか━━

平山の心は、美しいものに敏感である。それは、好奇心、感謝、寛大、優しさに開かれている。

そういうシーンが随所にある。

不真面目な同僚になけなしの金を貸し、迷子の子どもに付き添ってやり、家出した姪を見守り、大切なカセットテープを盗んだ女を許す。もちろん対人ばかりではない。音楽に感動し、写真に感動し、本に感動している。自然を愛している。一日の始まりに感謝している。今ここにある奇跡を奇跡だとして捉えようとしている。

その善なる行為の結末の先々で、彼は自分の狭い世界が大きな世界に接続されるのを感じているのだ。

人間にとって、なにより大切なのは、開かれた心である━━

あまりにありきたりで、あまりに雑なまとめだが、そんなふうに締めくくりたいと思う。いくぶん抽象的な話になってしまった。まったくもってうまく書けているように思えないし、伝わっている感じもしない笑

この映画は、私が言語化できる範疇を超えているのだと思う。たぶん、読みも感想もだいぶ甘い。ご容赦願う。せめて、feeling good でも聞いて、心を洗って帰ってほしい。

最後にこの映画を見て、真っ先に思い浮かんだ詩を引用して終わりたいと思う。

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだを持ち
欲は無く
決して瞋からず
何時も静かに笑っている
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆる事を自分を勘定に入れずに
良く見聞きし判り
そして忘れず
野原の松の林の影の
小さな萱葺きの小屋に居て
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
誉められもせず苦にもされず
そういう者に 私はなりたい

宮沢賢治 「雨ニモマケズ」
映画中、雨のシーンが多かったのってこの詩と関係ある?とか思ったり・・・


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