合鍵で、彼の冷蔵庫を開ける
夜。
このドアの側は、私が勝手に決めた“持ち場”だ。
体育座りでスマホを弄りながら、帰りを待っている。
「また来たのか」
呆れたような声が頭上から降ってくる。今日はちょっと遅かったな。
「……君は、どこまでなら許されると思っている?」
「来るなとは言われてないよ」
「そうじゃない。君のそういう、無防備な性分に目を瞑るのにも限度がある」
冬の夜、凍えさせていること。夏の夜、防犯上のリスク。
そういう問題なんだろう。
「…じゃあ、早く部屋に入れてよ」
特大溜め息。そんなに溜められるものなんだ、息って。
「……これを持っていけ。ただし、僕の許可なく他者を招き入れることは許さない」
真っ直ぐこっちを見て、手渡してくる。それは多分、先生の部屋の合鍵。
(…やったw でもその様子、目を逸らしたら負けだと思ってるな?)
躊躇すれば引っ込めるのは分かってる。半ば奪うように受け取る。
先生は特に驚きもせず、視線はそのままに念を押す。
「他人はおろか、君自身も、僕の許可なく入ることは推奨しない。すぐに君は“許されたつもりになる”からな」
いつものドアの前なのに、妙な緊張感。
なんだろう、見られてはいけないような、この感じ。
(人の家に鍵を使うのって、初めてだ…。なんかドキドキするな)
別に泥棒しようってわけじゃない。
思い切って、差し込む。回った。ホントに合鍵だった!
「それは、そうだよな…。疑い深いのは、良くない」
ドアの隙間から滑り込んでしまえば、もうそこは、見慣れた先生の部屋だ。
後ろ手に鍵を閉める。
(入る許可って……必要だったっけ)
先生は出勤。私は休日。
つまり、今、この部屋のあるじは私であると言える。……よな?
これを機に、気になっていた事を確認したい。
感情や倫理観を押さえ付ける価値はある。
冷蔵庫を開ける。
「……はい」
えっと。分かってたけど。より良く分かったというか……。
栄養食っぽい空ケースと、水、…だけ。
ちょっと放心した。
思ってたより重症だった。先生……。
一番知りたい事は分かった。
じゃあ次は、私が一番したいコト、しても……いいよな?
この部屋、匂いがない気がする。
誰でも感じた事があるだろう、友達の家の匂いとか。
「無臭…?」
通い過ぎて、鼻が慣れた……のか?
いやいや、そこまで入り浸っていない、と思う。
言い訳はこれでいいか。
普段なら、絶対に怒られるやつを実行する。
先生の、ベッドにダイブ。
ん、あれ、思ったより固めのマットレスだな。
シーツをかき寄せる。
「すーーーーーーーー。はあ……」
僅かに感じる、先生の匂い。
愛おしいけど、
その体臭の薄さが逆に腹立つ。
……まあ、よし。
枕に口元を埋めながら、考える。
隙間なくびっしり並べられた、専門書の書棚。
絵画はまだしも、観葉植物すら置いていない。
(一つくらいあってもいいのに。
殺風景だな……らしいと言えば、そうだけど。…ともかく)
「……やるか」
帰宅した彼を出迎えたのは、出汁や醤油の香り。
(あれ、なんか、固まってる?)
鍋をかき混ぜる音だけが響く。ようやく先生が眉をひそめた。
「勝手に入るなと言ったはずだが」
「そうだっけ?」
とぼけながら、合鍵をわざとらしく振ってみせる。
硬直が解けたのか、遅れて、溜め息。
「……買い出しに、行ってきたのか」
「へへ、好きな物、色々買って来たw ついでにサボテンも」
(放っておいても平気なやつ)
「物を増やすな。ここは君の領分ではない」
「えー、先生の物でもあるのに。ちょっとくらい、受け入れてよ」
その瞬間は、用事でしばらく行けなかった、数日後に訪れた。
(やっぱり、世話はされてないな)
サボテンに水やりをしている私を尻目に、パソコン前の先生が事務的なトーンで告げてきた。
「……前、君が作ったあの料理の材料が、冷蔵庫に残っているようだが。処理しておいてくれ」
……あれ。もしかして、回りくどく催促されてる?
私が来ない間に……何か、あった?
持ち込んだ物の位置が、微妙に変わっている。
先生は、ずっと画面を見続けている。
その背中を見ながら、僅かに目を細めた。
(……そういうことか。先生らしい)
少し、空気が固い。
鍋をコンロに乗せる。
その日、私はいつもより手際よく料理をする。
「……材料、足りないな。買いに行こっか」
「いや。あるものでいい。君にとっても、その方が合理的だろう」
キーボードを打つ音が、やけに規則正しい。
その指が、一瞬止まった。
「知らなかったんだ」
小さく呟いて、しばらく沈黙。
「……味付けは、前と同じで頼む」
頷いて、私は調味料へ手を伸ばした。
いいなと思ったら応援しよう!
応援してもらえたら嬉しいです。