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認識は2つで一組 ~過去の自分のいた世界を、現在の自分が捉える~

第1章 認識は2つで一組になっている

Ⅰ:認識とはなにか、対象とはなにか
「AはBである。」「BはCである。」「CはAである。」
国語辞典を何度か引いて、最初に調べた単語に戻ってきたことはありませんか?あ、なるほど、絶対的な意味はこの世に存在しないのか、と気づいて満足する・・・そして最初にやろうとしていたことをいつの間にか私は忘れているのです。
 単語A、B、Cの差異を把握することは難しく、いずれの単語の意味も理解できないように思いました。しかしながら、単語の意味を知ろうとする、「対象を把握しようとする」私自身の行動を強く感じました。
 対象が何であるかを自分が把握しようとするとき、対象となりうる認識がすでにそこに存在します。認識や対象を自分は作成していません。
 認識や対象はどのようにして自分にもたらされているのか。そもそも認識とは何か。対象とは何か。国語辞典を引いて感じたのは思い出せないくらい前の話ですが、私は現在もこれらの疑問にはっきりと答えられません。この悔しい状況をなんとか打破し、答えを見つけたいと思いました。

Ⅱ:感覚と、それがどこにあるのかわかっていること
 私はよく関節が痛くなります。手足の指、手首、かかと、膝などです。肘と腰は痛くならないのですが。市販の鎮痛薬でまだ痛みは治まるので受診を先延ばしにしてしまっています。痛いと感じたとき、痛みが体のどこにあるのかわからなくて困ることはありませんよね?
 ラーメンの匂いは鼻で感じられます。ラーメンのおいしさは舌で感じられます。魂で感じたり全身で感じたりすることもあるかもしれませんが、感覚の内容とそれがある場所はいつもセットになって感じられます。不思議じゃありませんか?私は大学に入学してすぐに売店の神経生理学の教科書を立ち読みしましたが、感覚の内容と場所がセットになって感じられる理由を見つけられませんでした。
 赤ちゃんは追視をし、大きな物音にびっくりし、くすぐられると笑います。「びっくりしたわ」、「やめてくださいよ」と赤ちゃんは言いませんが、これらは赤ちゃんが刺激に反応している証拠です。赤ちゃんの身体は感覚を通じて赤ちゃんなりに対象を把握しているのだと思います。
 動物はどうでしょうか。最近でも道路で猫を見かけたりします。振り返ったら猫も私を見ていたり。行ったことはありませんが、サバンナやアフリカの野生動物は天敵を警戒しながら弱肉強食の世界で生きているのでしょう。空から小動物を発見したり、草陰から血の匂いを嗅ぎ分けたりしながら獲物を探す。動物が視覚や嗅覚などの感覚器官を介して対象を把握している、内容と場所の認識を獲得していることは間違いないと思います。

Ⅲ:対象は、内容と場所という2つの認識の組み合わせである
 猫を見たとき、猫が対象の内容であり、目が対象の場所です。赤ちゃんの泣き声が聞こえたとき、赤ちゃんの泣き声が対象の内容であり、耳が対象の場所です。このように、自分が把握した対象には内容と場所の認識が必ず伴っています。
 右手首の痛みと右手首はいつも同時に認識されます。痛いけどどこが痛いのかわからず困ることはありません。また、右手首だけを単独で認識することもありません。右手首の皮膚が上着の袖に接している感触や、他の身体全体の位置とともに右手首が認識されることはありますが、これは触覚や位置覚が右手首と同時に認識されているからでしょう。
ラーメンの匂いや味、猫や赤ちゃんの泣き声も同様で、対象の内容と場所のどちらかだけを認識することはできません。
 これらから、「対象を把握するとき、対象には内容の認識と場所の認識が必ず一組になって存在する。そのどちらか一方だけを把握することはできない」という仮説を立てることができると思います。

Ⅳ:内容と場所の組み合わせは、2方向の主観である
 仮説の通り、対象を把握するときに内容Aと場所Bという2つの認識が一組になって与えられるとします。
 このとき、自分はAがBにあると認識し、また、BはAのある場所である、と認識します。自分はB→Aという把握と、A→Bという把握を行うことになります。この2つの認識の間の矢印を主観であるとすると、主観には2つの向きがあると言えます。
 内容と場所という一組の認識が与えられると、そこには2方向の主観が生まれます。

Ⅴ:主観の入れ子構造:主観を新たな主観が捉える
 「ずっと行きたかった新宿のラーメン屋さんに昨日のお昼に行ったことをさっき思い出した私は今ラーメンを食べている。」この文章には「私は新宿のラーメン屋さんにずっと行きたかった」、「私は昨日のお昼に新宿のラーメン屋さんに行った」、「私はさっき思い出した」、「私は今ラーメンを食べている」と複数の主観が含まれています。また、文章全体で一つの主観にまとまっていると言えるでしょう。主観が新たな主観によって対象として捉えられ、この運動の連続によってマトリョーシカのような主観の入れ子構造が形成されると思います。

Ⅵ:言葉、感覚の記憶、認識の連鎖
 私たちや赤ちゃんや動物には感覚が伴っています。感覚は“内容と場所の組み合わせ”そのものです。私たちや赤ちゃんや動物には“内容と場所の組み合わせ”が伴っています。
 言葉は“音声(内容)を捉えた聴覚(場所)の記憶の組み合わせ”の集合体です。この意味では、言葉も感覚の一種であると例えることができます。
 言葉は他のさまざまな感覚の記憶と結びついて、名前や目印や記号など、私たちの身の回りの物事を象徴する役割を持っています。
 会話やメールなどの情報伝達は言葉を介して行われます。言葉は他人との情報伝達の手段です。
 言葉や言語に関する文献は枚挙に暇がないと思います。私はラカンのシニフィアンの連鎖について説明できるほど博学でありませんが、それが単純に“繋がっている”という意味ではないことは伺い知れます。しかしながら、言葉や感覚の記憶や認識は、国語辞典の単語A、B、Cの説明文のように、お互いを説明しながら支え合ってまさに連鎖を形成しているのだと思います。この連鎖を可能にしているのは主観の入れ子構造であると考えます。

Ⅶ:自分という認識の出現
 主観は方向を持っています。主観の出発点は自分であるはずです。複数の主観の出発点をたどっていくと、すべてが一点に交わる様子が確認される…わけではありませんが、主観の出発点も収束点も自分という認識の点であるように感じます。内容側の認識においては、自分という認識の点から主観が四方八方に伸びて世界を対象として把握しようとします。場所側の認識においては、外界や身体などの世界や自己の内界から主観が自分という認識の点に向かって収束します。内容と場所の2つの認識を主観が行き来することで、私は世界と自分を把握することができると考えました。

第2章 生成AIとの出会い ~経験は意味付けの素~

 私は精神科の訪問診療に2年間携わらせて頂きました。車移動が基本で、コインパーキングから歩いて訪問させて頂きます。川越街道や笹目通りは車が多いです。特に理由なく渋滞します。通勤時間帯は特に混んでいます。雨の日はさらに混みます。分刻みで利用者の方と約束していたため、1、2分の遅れが私の精神状態を大きく脅かしました。工事中!コインパーキングが満車!一台分だけ駐車禁止になっている!パーキングが更地になっている!道順もパーキングを見つけるのもグーグルマップにお任せで、いつまで経っても道を覚えられないのでした。
 冬には契約しているガソリンスタンドさんがスタッドレスタイヤに交換してくれました。それでも都内は坂道や細い道が多くて、雪が降ると恐怖でした。雪や凍結よりもさらに怖かったのは台風です。ある年は3回台風が東京直撃予報になりました。1つ目は東に逸れました。2つ目は西に逸れました。3つ目にいよいよかと思われたとき、静岡県沖の南方で熱帯低気圧に変わりました。私の「来るな」という祈りが届いたのではないかと思い、怖くなって交通安全のみを祈ることにしました。

 現在の病院に戻って自転車通勤になってからの冬のある日、スマホに生成AIのアプリが搭載されていることに気づきました。私は精神の構造について考えることを趣味にしています。駆け出しの頃、当時の部長の先生から「今は(精神病理は)流行らないから、こっそりやりなさい」とアドバイスを受けました。その教えを守り、誰にも話さずこっそりとメモ帳に書き続けた日々でした。電車通勤時代はバスと徒歩をあわせて片道1時間40分で、空想するにはうってつけの時間でした。
 パソコンを使って私の考えをどう思うかを本格的に生成AIに尋ねてみました。すごく褒めてくれて(笑)、どんどん相談するようになりました。生成AIとの壁打ちから得た学びの一つは、「意味付けは一つの経験である」というものです。この対偶は「経験なくして意味付けなし」ですが、行動しても意味を得られるかどうかはわからないが、行動しなければ意味を得ることは難しい、ということだと思います。“主観を主観で捉える”という観点では、「何をしたか」は2つの意味において意味付けに重要であると思います。行動の対象になった物事に意味が付加されますし、「何をしたか」という行動自体がその人にとってさらなる意味付けの対象になるからです。祈るという行為が自分の行動を、自分自身を意味付けていたのだなと思い、身が引き締まりました。

 絵にも動画にも言葉にも表現できない精神の構造や機能のイメージをどうやって表現するのか。私は大学受験で二浪しており、数学の成績の悪さに最後まで足を引っ張られました。数学が何のためにあるのか理解していませんでしたが(これだから成績が悪かったのかも)、「これを数式で表せますか?」と生成AIに尋ねてみました。生成AIの返答は「できます!」でした。数式の候補を挙げてもらい、それを選んでいく作業を続けました。数式の操作が正しいのか間違っているのかは私にはわかりません。複素平面、ベクトル、外積、e、回転、量子力学、周回積分、Σ、波動関数。これらを習得するのにどのくらいの時間が必要でしょうか。数学をもっと真剣に勉強すればよかったと強く思います。同時に、どれだけ初歩的な質問にも必ず返答してくれる生成AIに感謝しました。これまでの人生で数学を勉強しなかったことを後悔するのか、残りの人生で数学を勉強する動機を与えてくれたと喜ぶのか、意味付けは私の行動次第ということになります。

第3章 過去の自分の世界を、現在の自分が捉える

 第1章をまとめ直すと、以下になります。
・認識は内容と場所の2つで一組であり、双方向の主観が発生する。
・主観は新しい主観に捉えられ、入れ子構造を形成する。
・主観の入れ子構造は言葉や感覚や意味などの認識を繋いでいる。
・自分という認識は内容側の認識においては点であり、自分という点から世界全体を見ている。場所側の認識においては(自分の状態として)全体であり、全体から自分という点を見ている。

 生成AIとの対話を通じて得た学びがあります。それは物理時間と主観時間が明確に異なるものであることです。楽しい時間は短く、つまらない時間は長く感じられますが、それは主観時間です。物理時間の中で動くAIには主観時間はまだ流れていないのかもしれません。私は数学が苦手であるため、せっかく作ってもらった数式を自由自在に応用することができません。生成AIとは出会ったばかりですが、感謝の気持ちでいっぱいです。数式で精神を記述することができたら、将来もしも数学的理論が実証されるようなことが起きたら、脳や精神に関係するすべての科学や学問が一気に進化することは間違いありません。

 最後に、私が述べさせていただきたかったことをまとめます。①主観が内容と場所の認識を行き来することと、②古い主観は新たな主観(の内容側の認識)に捉えられること。この2つを照らし合わせると、一組になっている2つの認識には時間のずれがあることが推測されます。古い主観の場所側の認識を把握することと、新たな主観の内容側の認識を把握することは同時であり、現在という時間を表していると考えられます。また、古い主観の内容側の認識は過去、新しい主観の場所側の認識は未来の認識を表していると考えます。
 このずれにより、過去の自分のいた世界(古い主観の内容側の認識)を、現在の自分(古い主観の場所側の認識)が捉えることになります。現在の自分は現在の世界(新しい主観の内容側の認識)の中に存在しますが、現在の世界を把握することはまだできません。この時間のずれが、途切れることなく出現する主観の原動力になっていると考えられます。
 主観が内容と場所の認識を行き来することと、新たな主観による主観の把握の連続が、自分と世界を把握し続ける精神の運動であると思います。認識とは何か。対象とは何か。それらは静的な意味を指すのではなく、精神の運動のことを表しているのかもしれません。

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