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今のインターネットはなぜつまらないのか?(※世界的問題)


 結論から言えば、今のインターネットがつまらない/つまらなくなった理由は、面白いものが評価される場所ではなく、反応されやすく、収益化しやすく、炎上に耐えやすいものばかりが目立つゴミ箱に成り下がったからである。

検索エンジン、SNS、動画サイト、コンテンツ投稿サイトでは、質の高さよりも、『★短期的な反応、露出頻度、投稿速度、既存人気への依存が優先されやすい。その結果、新しい表現や文脈を必要とするコンテンツは見つかりにくくなり、似たような、見せ方だけが過激な中身の薄いコンテンツばかりが増えていった』

インターネットは本来、個人発信の自由を広げる場所だったはずだ。
だが実際には、大衆化、人気指標、商業導線によって、消費者に向けたコンテンツを過剰に流し込む巨大な装置になってしまった

そして、面白い発信者や投稿者は狭いコミュニティに消えていった。

最近のインターネットは「創作物を投稿する場としての信用そのもの」を失いつつあり、一部の発信者や消費者から、次第に距離を置かれるようになってきてしまっている。

そして、それだけならばインターネットの衰退で済む話なのだが、『★ゴミまみれになったインターネットが普及し、有限の資源である消費者の消費を過度に圧迫した結果、小説、漫画、ゲーム、アニメ、音楽、情報発信といった様々な領域で、体験の深さを作る“遅効性の要素”が、短期的な離脱防止のために年々削られていった

わかりにくさ、待つ時間、解釈の余地、積み重ね、摩擦、違和感。そうした本来なら面白さを生むはずの要素が、様々な創作ジャンルで単なるストレスやノイズとして処理され、取り除かれていくようになった。


現代インターネットの存在は消費コンテンツの氾濫によって、創作の形式そのものを歪ませ、様々な文化を単調化させ、浅く、速く、反応されやすいものへと変質させつつある。

そして、それぞれの娯楽のイメージを定着させつつある


おそらく、後10年くらいは探索装置としてのインターネットは死にながら、ゴミ情報の乱射によって様々な分野に悪影響を及ぼし続けるものと思われる。

資本主義ばかりを加速させてしまった結果、消費が追い付かなくなり、ついに流行すら定着しなくなってしまった


「巨大IPが生まれにくい」
「優れたものが勝手に浮上しない」
「コンテンツは大量にあるのに何も残らない」

後世から見れば、今の時代はかなり奇妙に映るはずだ。

「なんでこいつら、文化を流通させるインフラの評価基準を、クリック数とか滞在時間にほぼ丸投げしてたんだ?」

とツッコミを入れられても、それはまったく不思議なことではないだろう。

最後の問題は、こうした環境がすでに「当たり前」になりつつあることだ。

ゴミのようなコンテンツで埋まった環境で育った世代は、深い体験に必要な遅さや摩擦を捨てて前に進む。

果たして、今後の創作・娯楽文化に何が残るのだろうか?




この記事の図解



本記事では、このネットを主体とした創作文化全体の劣化を、特に創作コンテンツの流通構造から考える。


インターネットのあまりにも悲惨な現状

今のインターネットは、まだ死体の出ていない事故現場だ。
誰も助ける気はないのに、全員が減速して覗き込み、ついでに窓からゲロを吐いていく。

Xでは怒鳴り声と切り取られた悲鳴だけが反復され、Google検索では広告と量産記事が墓標のように並び、YouTubeでは内容があるから見られるのではなく、逃げられないように作られたものが再生される。

面白くなくなっただけではない。
面白さが腐敗し、その腐臭だけがコンテンツとして延命されているのだ。

そして、さらに救いがないのは、そういったくだらないものが人々の日常や時間を過度に支配してしまったことだ。

その結果、小説、漫画、アニメ、音楽、ゲーム、情報発信といった様々な娯楽や表現は、インターネット上で目立つために、自分自身の形を歪めるようになった

中身を深くするより、入口を強くする。
積み重ねを作るより、最初の数秒で捕まえる。
解釈の余地を残すより、即座に反応できる刺激を置く。
長く残るものを作るより、短期的に拡散されるものを乱射する。

その結果、生まれてくるのは、入口だけが異様に強く、進むほどに先細っていくコンテンツだ。




では、なぜネット全体がここまで同じ臭いを放つようになったのか。



全体要約


 現代の様々な創作コンテンツは、まずインターネットの大衆化によって文脈の異なる大量の受け手が同じ場に流れ込むようになった。

 ただし、これはインターネットだけに起きた特殊な現象ではない。歴史的に見れば、新しいメディアが大衆化するたびに、似たようなことは繰り返されてきた

 印刷物が広がれば、それまで限られた層のあいだで読まれていた文章が、より広い読者へ届くようになった。
 新聞が大衆化すれば、政治・事件・娯楽が同じ紙面に並び、異なる関心を持つ人々が同じ情報空間に接続された。テレビが普及すれば、地域や階層ごとに分かれていた娯楽や話題が、全国的な共通体験として消費されるようになった。


誰でも自由に無制限に発信ができるという状態は、検閲や表現規制と同じレベルの暴力となりうる。


つまり、メディアの大衆化とは、単に「多くの人が作品に触れられるようになる」ことではない。

それは同時に、もともと別々の文脈にいた人々が、同じ作品、同じランキング、同じ話題、同じ評価欄に押し込まれるということでもある。

 文脈を共有していない受け手の雑な反応まで同じ重みで可視化されることで、

 「どう理解されるか」より先に「どう炎上しにくいか」「どう誤読されにくいか」を考えさせるようになり、表現は無難な方向へと削られていき。

そこに商業化が重なることで、作品だけでなく作者本人の人格までもが商品化される。作者の思想、態度、日常、過去の発言、炎上時の対応までが評価対象となり、作品そのものの異様な面白さよりも、作者本人の安全性や好感度が重視されるようになる。


大衆化は文脈を壊し、商業化は壊れた文脈の中で勝ち残る振る舞いを固定する。その結果、ネット上では、誰からも怒られにくい無難な表現と、怒りや断言によって反応を集める刺激的な表現ばかりが増えていく。

どちらにしても、深い文脈、繊細な表現、危ういが記憶に残るものは残りにくくなる。清潔で安全な空間には近づくかもしれない。しかし、それが本当に面白い空間なのかは、別の問題である。

 そして、大衆化によって集まった利用者とコンテンツは、「人口は正義」と言わんばかりに、少数の巨大プラットフォームへ集中していった。

その結果、何を、誰に、どれだけ見せるのかというコンテンツの露出権限まで、少数の営利企業が支配するようになった。

昔のテレビは、スポンサーの顔色をうかがうことで表現が無難になっていった。では、そのスポンサーの呪縛から自由なはずだったインターネットでは、表現が自由に栄えたのか。

実際にはそうならなかった。

スポンサーに代わって表現を選別したのは、巨大プラットフォームのアルゴリズムだった。規制が消えたのではなく、選別の主体がスポンサーから営利企業の反応指標へ置き換わったのである。

 そんな肥大化したプラットフォーム管理者にとって基本的な収益は広告収入となる。

そのため、プラットフォーム側は必然的に、深く消費される作品、長期的に評価される作品、文脈を必要とする作品よりも、大多数に反応され、繰り返し接触され、数字として処理しやすいコンテンツを優遇しやすくなる

 結果として、現在の多くのプラットフォームでは、広告費を稼ぐために、ユーザーが使う検索機能を意図的にゴミ化させる。

 その上で、広告収入モデルと短期的に相性が良い、ランキング、バズ、注目度、アルゴリズムなど、形は違っても最終的には「どれだけ反応されたか」という単一の基準を重視するようになり、そこにユーザーを流し込むように誘導してくる。

 人気そのものを否定しているわけではない。
ここでの問題は、その単一の人気が「発見の入口」と「価値の評価」を同時に担ってしまっている点にある。

 実は創作において、消費者の消費は有限の資源である。

人間は靴を履きながらパンを食べられるが、小説を読みながら映画を観ることはできない

つまり物質に関しては同時に消費ができるが、創作物は同時に一つしか消費ができない。このような流れで資本主義における無秩序な競争を加速させるとどうなるのか?

 まず最初に「初期成功者の呪い」が起きる。
 実は、この段階で衰退が始まっている。
 混沌とした場から最初に成功した作品や人物は、大衆に安心して消費できるフォーマットを見出すことで成功する一方で、「この環境ではこういうものが伸びる」という勝ち筋を後続に可視化してしまう
 すると後続は、完全な自由状態からではなく、すでに見えている成功例を参照しながら創作するようになる

 場全体は少しずつ同じ方向を向き始める。そして、似た作品群が流行としてまとめて打ち上げられると、外部からは個々の差異よりも「またこの系統か」という印象が先に立つ。
 流行とは、コンテンツを束にして売る力であると同時に、コンテンツを束にして嫌わせる力でもある。

 そこに、技術的参入障壁の低下収益化のしやすさが重なると、環境はさらに歪む。お金を稼げるようになり、誰でも容易に参入できるようになってしまうので「何を作りたいか」より先に、「どうすれば伸びるか」「どうすれば儲かるか」を学んだ発信者や企業が大量に流入してくる

 その結果として合理的に選ばれるのは、すでに成功している形式の模倣や、人気コンテンツへの依存である。つまり、

1.既存の人気フォーマットをなぞった一次創作や
2.既存の人気コンテンツにぶら下がる二次創作

が増えやすくなる。

 創作において、消費者の消費は有限の資源である。
 最適化競争で発生した模倣
によって、限られた時間(リソース)や注意を圧迫し、新しい一次創作が浮上する余地そのものを削ってしまう

 さらにこの最適化競争は、やがて評価軸そのものを変えてしまう。
作品の質よりも、露出頻度、投稿速度、接触回数といった「回転数」ばかりが重視されるようになり、コンテンツは完成度よりも即時性に最適化されていく

 その帰結として、短期的な売上や数字を出した者が、そのまま「正しい創作者」として扱われやすくなる

 本来切り分けるべき1.商業的成功と2.創作的価値が混同され、前者が後者を上書きしてしまう。そして、そこで成功した商業的成功に特化した手法ばかりがノウハウとして共有されることで、環境全体がさらに同じ方向へ収束していく

 この最適化競争はやがて、コンテンツの中身を重視する発信者の軽視につながり、対立や欲望、承認欲求といった強い反応を引き出す目立つことだけを目的とした、見た目だけが派手な中身のないコンテンツばかりを優先的に拡散させる構造へと進む。 

 結果として、思想や新規性よりも「反応の強さ」が重視され、似たようなコンテンツによって消費者の限られた時間や注意は、さらに圧迫されていく。(そして生成AIはこの流れをさらに加速させる)

 こうして環境が人気に過度に依存するようになると、その中から独自の基準で作品を発掘し、再評価するレビュアーやキュレーターも生まれにくくなる。人気という単一の入り口を持っているが故に短期的な急成長を遂げるが、多様な感性のユーザーが定着していないため文化としての厚みがない

そして、人気で評価される環境から入ってきたユーザーは、その流れから大きく外れた新しいものを拾ってこようとしないためである。

 さらに厄介なのは、現代のインターネットでは、この歪な環境に適応して成り上がったユーザーや企業が、すでに場の中心に立ってしまっている点である。

 人気指標に過度に適応し、短く強い雑な発信を行い、既存の需要に寄せ、反応を取り続けることで成功した人間ほど、現在の構造を疑いにくい。むしろ、その構造を前提にしたノウハウや価値観を「正解」として広めていく。

 そのため、環境の歪みそのものが問題として認識されにくくなる

 その結果、内部では差があるつもりでも、外部からは「全部同じ」に見える状態が生まれつつ、入口だけが過剰に刺激的なものばかりが増える。

 この構造の下では、短期的には人が集まりやすいため、「今流行っているのだから問題ない」と見えやすい。
 しかし、表面上は活発に見えても、実態としては似たようなものばかりが増え、新しい表現が出にくくなっていく。

つまり、内部で多様性や新陳代謝が失われていく不安定な均衡状態が生まれる。

この状態は、すでに衰退の初期段階に入っている状態で、初動にヒットした人気作品の撤退・衰退と同時に終焉に向かっていく。



 ただし、この構造はユーザー行動や現代のプラットフォームの収益構造(PV重視等)と密接に結びついているため、短期間で変えられるものではない。

 加えて、インターネットは過去のデータを急速に失いつつある

個人サイト、古いブログ、掲示板のログ、レビュー、過去の議論、サービス終了によって消えた投稿群。
そうした蓄積が失われることで、昔のネットに存在していた文脈や多様性を、現在から検証することが難しくなっている

 つまり、現代のネットは、現在の構造に適応した人間が中心に立っているだけでなく、その構造を相対化するための過去の記録まで失いつつある。

 その結果、「昔は本当に違ったのか」「何が失われたのか」「どこからおかしくなったのか」「今はどれだけおかしいのか?」を比較すること自体が難しくなり、現在の異常さが現在の常識として固定されていく



 また、人気を重視した創作コンテンツで、黎明期に成功したトップ層は、本来であれば界隈の拡張や新規の掬い上げを担うことが期待されがちだが、人気を重視している環境でのし上がっている故に、長期的な目線で界隈の保護に走ろうと働きかけることも稀である。
 むしろ逆で、既存のコミュニティ内で人気のコンテンツ同士で馴れ合い、安定した活動を選択するようになる。 

その結果、最終的に黎明期のトップ層自身も、新しい流れを生み出せないまま相対的に価値を失い、「過去の人」となっていく。

 そして、衰退を招いた当事者達は反省などせず、何食わぬ顔で別の金儲けに向かう。
 最終的に、人気で集まる仕組みになっているが故に、人気のプラットフォームは場が崩壊していたとしてもユーザーたちは離れることができず。時間をかけて、だらだらだらだらと劣化をし続けることになる。

 最終的に表層ネットから面白い人は消えていった。
 炎上、誤読、パクリ、アルゴリズムによる拡散リスクを避けるため、鍵垢、Discord、限定公開、専門コミュニティ、リアル寄りの小規模界隈、あるいは沈黙へと分散した。

 かつてのネットには、変な知識や思想や情熱を持った人間に偶然ぶつかる公共の導線があった。だが今、その導線は壊れ、表層には宣伝、炎上、模倣、薄い最適化コンテンツばかりが残りつつある。

消費者の中にも、こうした流れはバレ始めている。

中身がない。
目立つだけのものが流れてくる。
ただ反応を稼ぐためのコンテンツばかりが並ぶ。


要するに、表層のネットは本当にくだらない場所だというのがバレ始めており、テレビと同じように、場としての信用が失われつつある。

おそらくAIも同じように、元データがコピーデータで溢れ返り、選別が間に合わず、ゴミ化するものと思われる。


今後のインターネットは、

1.プラットフォームから与えられた瞬間的に目立つだけのコンテンツを、離乳食のように流し込まれながら消費し続ける人間。

2.面白いものを自力で探し、見つけたものを不用意に晒さず、静かに抱え込む人間。

の二種類に分かれていくものと思われる。

 また、低品質なコンテンツが爆増した結果、インターネットは人々の注目を奪う(光って目立つ)ゴミ箱となってしまった。
 この光って目立つゴミ箱によって消費者の消費が過度に圧迫されることで、インターネットプラットフォームに依存していない娯楽や創作分野ですら序盤に消費者の注目を集める目的の、中身のないコンテンツが増えていく。


 結果として、これらの流れが加速すればするほど、インターネット内外問わず、創作の幅は狭まり、中身が消費されることはなく、消費される前の手間の部分で多くの新しい概念が弾かれるようになる。

 インターネットがゴミ箱として過度に肥大化し、消費の時間そのものを奪ってきてしまっているせいで、アニメ、漫画、音楽、小説、映画など。他の分野の創作の繁栄が停滞してきている



 これは特に若者にとって最悪だ。
若者の能力や怠惰を批判する話ではない。
取り巻く環境があまりにも悪い。

現代では若者が最初に触れるインターネット環境そのものが、文化を自分で探すのではなく、大量の短い刺激をひたすら受動的に摂取するよう設計されてしまっている。

もちろん、昔のインターネットが過度に高尚だったと言いたいわけではない。くだらないものも、粗雑なものも、刺激の強いものも昔から大量に存在していた。

それでも現在は、以前にも増して、自分で作品を選び取る感覚や、退屈な時間を越えて一つの作品に深く触れる力が育ちにくい。作品の背景にある歴史や文脈にまで踏み込む機会も失われやすくなっている。

しかも、文化への所属意識というものは、過去の人々と同じコンテンツを消費するだけでは生まれない。

その文化が実際に動いている時期に、自分で作品を探し、選び、時間を使い、リアルタイムで他人と楽しみ、語り合い、その中で何らかの立場を持つ。そうした過程を通じて、初めて「自分はこの文化の一員である」という感覚が形成されていく。

ところが、推薦型プラットフォームを中心に短い刺激が絶えず乱射され、企業の都合でコンテンツを高速で消費させようとする現在のインターネットは、その過程を省略してしまう。

その結果、若者は大量のコンテンツやミームを知っていても、世代として共有できる厚みのある文化を持ちにくくなってしまっている。

これは単なる印象論とも言い切れない。若い利用者の多いインターネット空間では、その世代自身が生み出した共通文化よりも、かつてのニコニコ動画、掲示板、フラッシュ、東方、ボーカロイドなど、過去のインターネット文化の断片が共通言語として使われている場面が少なくない。

もちろん、それ自体が悪いわけではない。過去の文化が継承されることには価値があるが、新しいインターネット文化が成り立たず、現在に共通文化が存在しない空白を、過去の文化的記号によって埋めている状態にも見える。

かつてのような大きな共通文化が形成されにくい一方で、推薦アルゴリズムによって一人ひとりに別々のコンテンツが配られ、関心は細かく分断されていく。

 そして、その不利さを本人たちは自由な選択の結果として錯覚して経験させられている。自分で好きなものを選んでいるように見えても、実際には、プラットフォームによって並べられた候補に次々と反応しているだけかもしれない。文化を自分で探し、選び、所属する機会が狭められているにもかかわらず、それが自由であるかのように提示されている。

実際のコンテンツの中身も短尺であり、そのような刺激にまとまった時間を奪われ、深い体験を面白さではなく負担として感じるようになれば


 後世に残る文化も減るのではないだろうか。
質の高いものに触れる前に、質を問わない大量の刺激で感覚を埋められてしまった結果として、今の若者世代は、文化的に、かなり不利な世代になってしまったし、クリエイターの側からしても、こんな状況では馬鹿馬鹿しくなって当然だ。

時間をかけて新しいものを作ったところで、大量のコンテンツの中に流され、すぐに次の何かに置き換えられてしまう。

どれだけ新しいものを作っても、あっという間に流されて、後には何も残らない。

そんな環境で、「新しい文化を作ろう」「もっと創作を頑張ろう」などと思いいたれるわけがない。


 そして、この状態が長期化した先で起きるのは、単に「つまらない作品が増える」ことではない。

 より深刻なのは、社会が新しい作品を発見し、育て、流行として定着させる能力そのものを失っていくことである。

 企業が新しい流行を作りたいと思っていても、何が次の定番になるのか読めなくなる。新規IPを一から売るための顧客獲得コストも上がるため、すでに客のいる既存IP、続編、リメイク、リマスター、復刻、周年企画へ資本を退避させるようになる。新作についても、前述したように入口や宣伝をさらに刺激的にして、短期的な反応を取りにいく圧力が強まる。

 そして、その安全策を繰り返すほど、新人を何年もかけて育てたり、失敗を許容しながら新しい作品へ投資したりする余裕はなくなっていく。

 新作が育たないから過去資産へ頼り、過去資産へ資本が集中するから、さらに新作が育たなくなる。

 もし、あなたが普段楽しんでいる創作分野で、顧客獲得単価が上がり、既存の人気IPばかりが売れ、新人が育たず、続編やリメイクばかりが目立つようになっているのなら、それは単なる懐古ブームではないかもしれない。

 その市場が、新しい作品を発見し、育て、広げ、文化として定着させる力を失い始めている危険信号である。

 独創的な作り手からすれば、時間をかけて新しいものを作っても埋もれ、数字を取るためには既存の形式や短期指標へ過度に適応しなければならないのであれば、商業市場に参加する意味そのものが薄くなる。
 そのため、次第に表の市場から離れていく。

 具体的には同人、個人販売、限定公開、小規模コミュニティなどへ潜り、商業市場から見えなくなる

 その結果、短期的な売上や反応を重視する商業圏と、少人数の支持者を相手に独自の価値観で作品を作る文化圏との分断が進んでいく。

 では、大量の作品をAIに選別させれば解決するのか。
 おそらく、そう簡単にはいかない。

 AIが何らかの基準で「良い作品」を選ぶようになれば、今度は人間や生成AIの側が、その評価基準で高く評価される作品を作るように最適化するからだ。

 一方の消費者も、新作を探すことそのものに疲れていく。大量の新作から当たりを探すより、すでに時間による選別が済んでいる昔の名作を掘った方が失敗が少ない。

 すると企業はその需要を観測し、さらにリバイバルへ傾く。

 コンテンツは史上最も大量に作られているのに、消費者は過去へ戻り、企業も過去を掘り返す。

 最終的には、地下には面白い作品や作り手が大量に存在しているのに、表の商業市場だけがそれを発見できないという奇妙な状態になる。
 
 そして、おそらくここまで市場が壊れて初めて、流通制度そのものが見直される。




 最後に、こういった問題への具体的な解決策自体は存在しており、

①人気を入口としつつも、それ以外の評価軸(批評・解釈・長期評価など)をバランスよく可視化し、複数の評価・浮上経路を作る(かつ、後からも作品が評価される仕組みを作る)こと

新規発信者の無秩序な浮上消費者の雑な評価を制限し、発信者、評価者に対するキュレーションや選別機能を設計・導入すること。(削除は検閲につながるため、あくまで浮上を制限する)

この二つである。

 結論として、創作コンテンツが衰退する問題は個々の作品ではなく「評価と流通の構造」にある。
 短期的な人気に最適化すればその創作コンテンツ分野は一時的な成功は得られるが瞬く間に廃れていく。


人気は火をつけるには強い。
でも、火を維持して森を育てるには向いていない。



 そこからさらに長期的な価値や文化としての持続を望むなら、人気が過熱しているどこかのタイミングでコンテンツ評価の仕組みそのものを設計し直す必要がある。

 さらに大きな目線で見つめると、より根本的な問題が浮かび上がる。
 そもそも、そのプラットフォームを法律で規制することなく、自由に企業に任せすぎていること自体が間違いなのではないか、という問題である。

複数の導線があるからこそ、文化は一時的な流行に飲み込まれず、別の場所から新しい文脈を生み出すことができる。

逆に言えば、企業プラットフォームが目先の収益や注目だけを優先し、人気の集約だけでコンテンツを肥大化させ続ける仕組みしか採用できないというのならば、その文化は長く続かない。

即ち、創作文化の衰退を本気で止めるなら、評価システムだけでなく、その評価システムを支配しているプラットフォームの所有と運営のあり方まで問わなければならない。それはつまり国家による法律の規制であったりする。

 また、企業に依存しない、ユーザー同士が直接構築するP2P的な構造が必要になってくるかもしれない。
 ただし、これはWeb3などが本来掲げていたはずの「中央集権的なプラットフォームからユーザーを解放する」という問題意識だけでは足りない。
 必要なのは、企業に回収されないようにする法制度によって、インターネットを投機ではなく公共インフラとして作り直すことである。

 また、次の時代の新しい発信技術に向けて、人類は「発信ばかりを優先してしまう自らの性質」を自らが理解し、粗悪な発信の増殖に早い段階から対抗していく必要がある
どれだけ時間をかけてでも良い。
しかし、そのような啓蒙をしない限り、人類は様々な分野で同じことを無限に繰り返すことになってしまう。



以下は、上記の内容をさらに細かく、わかりやすく噛み砕いた文章である。


全てを破壊してしまう大衆化

 かつてのインターネットでは、場ごとの文脈が比較的保たれていた。
小さな掲示板、個人サイト、ブログ、専門フォーラムのように、誰が何を前提に話しているかが今より見えやすく、評価もその場の文脈の中で受け止められていた

それが大きく変わったのが、






2010年代前半から中盤、特に2012年から2016年ごろのスマートフォン普及期である。

ネットは「見に行く場所」から「常に持ち歩かれる生活空間」へと変わり、巨大SNSとアルゴリズム化されたフィードが主流になるにつれ、文脈を共有していない大量の受け手が同じ場に流れ込むようになった。



1. 文脈の崩壊によって、評価の重みが平準化される


その結果、

1.深い理解に基づく批評

2.たまたま流れてきた人間の雑な反応

これらが、同じ「反応」として同列に可視化されやすくなった。
どのような前提知識や理解を持っているかにかかわらず、異なる立場や理解度から発せられた評価が、同じ土俵の上で並べられやすくなった

問題は、誰でも発言できることそのものではない。
文脈も理解も異なる評価が、同じ重みのものとして処理されやすくなったことにある。

本来であれば、深い理解に基づく少数の批評と、たまたま流れてきた人間の大量の雑な反応は、同じ重みで扱われるべきではない。
しかし大衆化によってその区別は崩れ、短く、強く、分かりやすく、感情を刺激しやすい反応の方が目立ちやすくなっていく。

現代のインターネットでは、文脈を理解していない、誰かも分からない大量の人間が、反応されること自体を目的に、短く強い言葉で即座に介入してくる

そして、その雑な反応が、深い理解に基づく批評と同じ重みで可視化されてしまう。そうなると当然、前者が後者を押し流してしまう。


結局のところ、誰でも自由に無制限に発信ができるという状態は、検閲や表現規制と同じレベルの暴力となりうるのだ。



歴史的にみても、人類は発信ばかりを重視して、情報の選別技術をおざなりにしている(インターネットもその流れを踏襲している)


歴史的に見ても人類は同じことを繰り返している。

1. 発信・流通技術が先に進む
 ↓
2. 情報量が爆増する
 ↓
3. 粗悪品、扇動、広告、便乗、デマが増える
 ↓
4. 社会が混乱する
 ↓
5. 後から選別技術・教育・制度が整う
 ↓
6. しかし、次の技術革新でまた崩れて1からやり直しになる


 なぜ、発信する力に比べて、情報を読み、選び、捨てる力は育ちにくいのか?

第一に、発信は快楽だが、選別は労働だからである。

書く。反応する。断言する。誰かに見られる。
これらの行為には、分かりやすい即時報酬がある。自分の感情を外に出せる。誰かに同意される。注目される。自分が何かを言ったという実感を得られる。

一方で、ただ読むのではなく、きちんと読解する、調べる、比較する、判断を保留する、自分の間違いを認めるという行為は、実に面倒くさい
時間もかかる。精神的な負荷も高い。しかも、その努力はすぐには報われない。


発信は個人に報酬が返るが、選別・保存・文脈化は社会全体にしか報酬が返らない。


だから人は、重く、直接的に自らの利益にならない選別よりも、軽く、自らの利益になる発信にばかり流れやすい

文字、印刷物、新聞、ラジオ、テレビ、そしてネット。どの時代でも、新しいメディアが大衆化すると、まず増えるのは深い理解などではなく、発信と反応である。

情報を生み出し、流通させる手段は拡張される。
しかし、その情報を見極める力は、同じ速度では育たない
のだ


第二に、人類は長い間、「文字を読めること」と「情報を読めること」を混同してきた。

文章を音読できる。文字の意味が分かる。漢字が読める。新聞が読める。本が読める。
もちろん、それらは重要である。だが、それだけでは到底足りない。

本当に必要なのは、情報源を見る力であり、事実と意見を分ける力であり、広告や誘導を疑う力であり、統計や肩書きの使われ方を見る力である。
誰が、どの立場で、何のためにそれを言っているのか。何が書かれていて、何が書かれていないのか。どこに誇張があり、どこに省略があり、どこに都合のいい切り取りがあるのか。

そこまで見て、ようやく「情報を読む」と言える。

しかし、こうした訓練は一般には薄い。多くの社会で重視されてきたのは、まず文字を扱えることだった。だが、ただ文字を扱えることと、情報に騙されないことは別の能力である。


第三に、人間は自分の感情に合うシンプルな情報を「正しい」と感じやすい。

怒り、不安、嫉妬、承認欲求、被害者意識。
そういう感情に刺さる情報は、検証される前に納得されてしまう。

 人はしばしば、「これは本当か」と考える前に、「これは自分の気持ちを代弁している」と感じてしまう。

 自分が日頃から抱えていた不満に言葉を与えてくれるもの、自分の敵を分かりやすく示してくれるもの、自分は間違っていなかったと思わせてくれるもの。そうした情報は、事実として正しいかどうかとは別に、強い説得力を持ってしまう。

だから、情報の選別は単なる知識の問題ではない。感情の問題でもある。

第四に、情報を捨てる力には、自尊心の損傷が伴う。

一度信じた情報を捨てるには、「自分は間違っていた」と認めなければならない。
一度乗った流行を降りるには、「自分は踊らされていた」と認めなければならない。
一度支持した意見を撤回するには、「自分の判断は浅かった」と認めなければならない。

これは苦痛である。

だから多くの人は、情報を捨てたり訂正するよりも、後付けで正当化しようとする。
間違っていた可能性を認めるより、自分に都合のいい追加情報を探す。疑うより、補強する。撤回するより、立場を守る。

しかし実は間違えること自体は、問題ではない。人の考えは変わるし、知識や経験が増えれば、かつて正しいと思っていたものを疑うこともある。それはむしろ自然なことだ。

本当に危ういのは、間違いを間違いとして認められないまま、過去の判断を守るために走り続けてしまうことだ。
一度信じた情報、一度乗った流行、一度支持した意見を撤回できない人は、真実を見ているのではなく、過去の自分を守っている。

情報を捨てる力とは、単に不要な情報を切り離す能力ではない。それは、自分の過去の判断を否定できる力でもある。だからこそ苦痛を伴うし、育ちにくい。

しかし、間違いを認めることは敗北ではない。むしろ、間違いを認められないまま正当化を重ねることの方が、はるかに危険である。考えを変えられることは弱さではなく、認識を更新できる強さなのだ。

第五に、沈黙が評価されにくい。

きちんと調べてから話す人。時間をかけて説明する人。分からないから黙る人。判断を保留する人。
こうした態度は、本来なら成熟した知性の表れである。

しかし、多くの情報空間では、沈黙は可視化されない。
慎重な人より、雑に、浅く、早く断言する人ばかりが目立つ。

分からないと言う人より、薄っぺらい内容でも強く言い切る人が印象に残る。怒っている人、煽る人、単純化する人の方が、人々の注意を集める。

その結果、沈黙する力は、社会的には成熟した能力であるにもかかわらず、情報空間の中では負け行動のように見えてしまう


第六に、情報量が増えすぎると、選別の失敗が常態化する。

本来、情報を扱うには時間がいる。読む時間、考える時間、比べる時間、忘れる時間、疑う時間がいる。

しかし、情報が大量に流通すればするほど、読む前に次の情報が来る。考える前に次の話題へ移る。検証する前に別の怒りが差し出される。ひとつの情報を吟味する前に、無数の情報が注意を奪っていく。

これでは、検証能力が育つ前に、注意力そのものが削られていく。

つまり問題は、単に「人々が愚かだから」ではない。

 発信能力は、道具を与えればすぐ拡張される。
しかし情報選別の能力は、時間・経験・教養・自制心・失敗・そして自分の感情を疑う訓練からしか育たない。
だから歴史的に見ても、情報を生産し流通させる技術は、情報を見極める能力よりも先に進む。

文字が広がれば文字による混乱が生まれ、印刷物が広がれば粗悪な出版物も増え、新聞が大衆化すれば扇情的な記事が増え、放送が広がれば大衆操作の問題が生まれ、インターネットが広がれば反応と断言が溢れる。

メディアが大衆化するたびに、知は広がる。
しかし同時に、ノイズも広がる。


だから、誰もがインターネットを手軽に使えるようになった世界では、情報が民主化されるのではなく、 発信だけが民主化され、読解と選別は貴族的能力として狭い場所でのみ機能することになる。


「新しい発信技術が出るたびに、知は広がる。 しかし同時に、ノイズ・扇動・粗悪品が爆増する。そして、それを選別する能力や制度は、だいたい後から整備されるのだが、その頃には新しい技術が出てしまうので手遅れになる」

これこそが人類の情報環境における根本的な弱点なのである。
インターネットも、この流れを多分に汲んでしまっているのだ。


余談:半年ROMれはある意味で正しかった

 かつてのネット文化には、「半年ROMれ」という言葉があった。

 今の感覚で見れば、排他的で不親切な言い回しに見えるだろう。乱暴なマナーであったことは完全には否定できない。

 しかし、その言葉が指していた本質は意外と正しい。
あれは単に「黙っていろ」という意味ではなく、「まずその場の文脈を理解しろ」「いきなり自分の物差しで評価するな」という命令だった。

 当時のネットでは、掲示板やサイトごとに前提やノリ、美学や禁句が異なっていた。
だからこそ、そこに参加する前に、まずしばらく観察し、その場で何が共有されているのかを知ることが求められていたのである。

つまり「半年ROMれ」は、粗野なローカルルールであると同時に、文脈を守るための防波堤でもあった。
文脈を理解しない人間が即座に発言し、評価し、空気を裁けるようになれば、その場そのものが壊れることを、その場にいる多くの人が経験的に知っていたからである。





今のインターネットでは、この「まず文脈を読む」という猶予がほとんど失われている。

文脈を知らないまま、どのような人間でも、むしろ物事をよく知らない人間ほど短絡的に、即反応し、即評価し、即拡散できるからこそ、多数の雑な反応がそのまま場を壊しやすくなっている。

だから今のインターネットには、かつてのような「同じ文脈を持った本当の意味でハードなオタクたちが、狭い場所でひっそり楽しんでいる」感覚は、ほとんどどこにも残っていない。



2. 無差別な反応と監視の常態化が、表現そのものを萎縮させる

この構造は、単に議論の質を下げるだけではない。

発信者の側にも、「どう理解されるか」より先に、「どう炎上しにくいか」「どう誤読されにくいか」「どう切り取られにくいか」ばかりを考えさせるようになる。その結果、表現は無難な方向へと削られていく。

さらに近年は、炎上や通報だけでなく、開示請求そのものがネット空間の空気を変えてしまっている。

もちろん、明確な誹謗中傷や悪質な攻撃に対して、法的手段が必要な場面はある。そこは否定できない。しかし問題は、その存在がネット全体に、「下手なことを言えば現実の手続きに直結する」という感覚を常態化させた点にある。

その結果、単に悪質な発言だけでなく、冗談、挑発、悪ノリ、きわどい比喩、文脈込みで成立していた軽口のようなものまで、先回りして避けられやすくなる。

これはインターネットから暴力性を減らす一方で、同時に「遊び」や「くだらなさ」や「危ういが面白いもの」まで削ってしまう。

つまり開示請求の流れは、単なる法的救済の話にとどまらず、ネット全体をより監視的で、より無難で、より管理された空間へと変えてしまう圧力として働いてしまったのである。

この問題は、コンテンツ内容への批判そのものを否定しているわけではない。

たとえば、そのコンテンツの規模が文化の中で拡大し続けたり、その結果として他者の表現を過度に抑圧していたり、自分からメディアと組んで大規模なタイアップを行っていたり、明らかに分不相応に広い層へ向けて展開されていたり、わざと人目につく場所へ出ていった結果として批判を受けるのであれば、それは仕方がない面もある。

分不相応に拡大すれば、もともとの文脈を共有していない人間の目にも触れる。そこで違和感や反発が生まれること自体は避けられない。

だが、ここでの問題はそこではない。

狭い場所で、そのコミュニティなりの文脈を守りながら細々と続いているコンテンツに対して、外側から介入してきた人間が、その前提をろくに理解しないまま騒ぎ立てるのはおかしな話なのだ。

批判そのものが駄目なのではない。

しかし、その場所の成り立ちや共有されてきた文脈の全てを無視して、大した知識のない大量の人間が、個人の短絡的な基準で介入し、その一人一人が「消費者の声」として重視されてしまうと、コンテンツは容易に崩壊する。

大衆化したネットでは、作品が本来置かれていた場所や、そこで共有されていた暗黙の文脈が剥ぎ取られる。
その結果、表現は作品として読まれる前に、不特定多数の目に晒され、断片的に切り取られ、外側の倫理や常識によって裁かれるようになる。

この時点で、表現者はすでに自由ではなくなる。


3.政治・芸能的な文法がネットを支配した

 よく、ネットに政治家や芸能人が入り込んできてつまらなくなった、という指摘がある。
これは半分正しい
ただし問題は、政治や芸能そのものではない。テレビがつまらなくなっていったのと同じく、それらに典型的な、大衆向けで、炎上しやすく、短く強い言葉が勝ちやすい文法が、アルゴリズム環境の中で最も可視化されやすくなり、ネット全体をその方向へ引っ張ったことの方にある。


商業化によって起きたこと


・商業化による作者人格の商品化

そして、この大衆化による文脈崩壊をさらに固定したのが商業化である。

大衆化かつ商業化が進んだ現代のネットでは、創作物だけでなく、創作者本人の人格まで流通物になってしまっている

作品を出して終わりではない。作者の態度、思想、日常、反応速度、ファン対応、炎上耐性、過去の発言までが評価対象になる
その結果、作品を深く作る能力よりも、自分自身をコンテンツとして維持する能力が重視されるようになる。

ここでかなり言いにくいことを言わせてもらおう。



人としてどこかが破綻している人間の作るものは、往々にして面白い。




倫理観、生活、価値観、人間関係、社会への適応。そのどこかが大きく歪んでいるからこそ、普通の人間では見えないものが見えていたり、普通なら踏み込まない場所まで平気で踏み込めたりする。

昭和の文豪や昔の芸術家を見ても分かるように、創作の歴史には、人格的には到底まともとは言い難い人間がいくらでも存在していた。カラヴァッジョ、ボードレール、ランボー、アルトー。あるいは日本で言えば、太宰治や三島由紀夫のような作家たちもそうであろう。

創作物の異様な深さや面白さと、作者本人の人格的な健全さは、本来まったく同じものではない

ところが、大衆化に加えて商業化まで進んでしまった現代のインターネットでは、作者本人が常に表に出ることを求められる。作品だけでなく、作者の言動、倫理観、日常、ファンへの対応、炎上時の立ち回りまでがまとめて評価される

その結果、表に出て生き残りやすいのは、作品だけが異様に尖っている人間ではなく、人格を商品として安全に提示できる人間の割合が増える。
炎上しにくく、無難に振る舞え、継続的に愛想よく反応できるような、「普通の範疇を抜け出さない人間」に寄っていく。

つまり現代のネットは、作品の異常性を受け入れる前に、作者本人の社会的な安全性を過剰に要求するようになってしまっている

しかし、創作において本当に奇妙なもの、危ういもの、異様に記憶に残るものは、しばしばその「普通ではなさ」から生まれる。
作者本人まで常に清潔で、説明可能で、好感度が高く、炎上しない存在であることを求めれば、表に出てくる作品もまた、どこか無難なものへ寄っていく。

ここで「作者本人の人格が作品イメージを損なう」という反論もあるだろう。

だが、作品そのものの面白さを問うのであれば、作者本人の人格評価とは本来切り分けて考えるべきである。作者がどれだけ奇人であろうが、生活が破綻していようが、価値観が歪んでいようが、それだけで作品そのものの価値が消えるわけではない。

もちろん、作者の言動が現実に他人を傷つけたり、犯罪や加害に結びついたりするなら、それは相応に批判され、法律で罰されるべきである。しかし、それは「その作品が面白いかどうか」とは別の問題である。

にもかかわらず、大衆化、商業化が進んだインターネットでは、作品と作者本人の人格が過剰に結びつけられる。その結果、作品単体で異様な面白さを持つものよりも、「作者本人まで安全で、説明可能で、好感度が高いもの」が流通しやすくなる。

これは創作文化にとって、かなり致命的な変化である。

普通に生きられない人間、社会にうまく適応できない人間、倫理観や価値観のどこかが歪んでいる人間が、普通の人間には見えないものを作品にしてしまうことがある。だが、そういう異物を、作者本人の人格評価ごと排除していけば、当然ながら表に出てくるものは無難になる

そして無難な人間が、無難な態度で、無難な作品を、無難に売るようになる。

その世界が清潔で安全であることは認める。
だが、それが面白い世界かどうかは、まったく別の話である。


・大衆化と商業化が結びついた結果

この問題は、インターネットに限った話ではない。

テレビが長年かけて無難で刺激の弱いものへと寄っていったのも、異なる文脈を持つ大量の視聴者とスポンサーの目を同時に意識せざるを得なくなった結果だ。誰にでも届く場では、誰にも強く引っかからない表現の方が安全だからである。

ただし、テレビとネットは同じではない。

テレビは、異なる文脈を持つ大量の視聴者とスポンサーを同時に意識するため、全体として無難で刺激の弱い方向へ寄りやすい。一方で、炎上を繰り返すような存在は継続的に表に出しにくい。

しかしネットは、同じく無難化の圧力を持ちながらも、炎上それ自体が可視性や支持の源泉になりうる

そのため、全体としては平易で安全な表現が増える一方で、インターネット上で生き残り続けられるのは、深い文脈や繊細な表現を守れる人間ではなく、炎上や誤読をあまり気にせず、短く、強く、分かりやすく、刺激的な言葉を投げ続けられる人間ばかりになりやすい。

しかも、現代のネットでは、怒っている人が目立つだけではない。

怒る、断言する、敵を作る、雑に裁く、という行動に反応が返ってくるため、こういった問題発言を行うユーザー自身が「味を占めて」その振る舞いを学習していく。

つまりネットは、怒りを表示する場ではなく、怒り方を訓練して繰り返す場になっている。

ここで重要なのは、人気や収益への最適化が始まる以前に、現代のインターネットにはすでに、文脈を無視した雑な反応が表現を狭める土台が存在しているということである。

そして商業化は、その土台の上に乗って、反応されやすいもの、燃えにくいもの、好感度を維持できるもの、あるいは逆に炎上を利用できるものを優先的に押し上げていく。

大衆化は、文脈を壊す。
商業化は、壊れた文脈の中で勝ち残る振る舞いを固定する。

その結果、ネット上では二つの方向が同時に進む。

一方では、無難で、平易で、誰からも怒られにくい表現が増える。
もう一方では、怒り、断言、敵味方の単純化、雑な裁きのような、短期的に反応を集めやすい表現が増える。

どちらにしても、深い文脈や、繊細な表現や、危ういが記憶に残るものは残りにくくなる

この話は、不謹慎さそのものを擁護しているのではない。

しかし、秩序と清潔さを徹底するあまり、面白さや数奇、逸脱の余地まで消してしまえば、人間の営みそのものが痩せ細っていく

炎上回避やコンプライアンスの名のもとに、危ういが面白いもの、少し不穏だが記憶に残るもの、文脈込みで成立する悪趣味や軽口まで先回りして削っていけば、表面の体裁だけが整った、歪で不気味な世界になってしまうのだ。


 次に、この大衆化+収益化をさらに増幅させて環境を破壊する単一の人気指標について解説させてもらう。


巨大プラットフォームが露出権限を握った

 そして、大衆化によって集まった利用者とコンテンツは、「人口は正義」と言わんばかりに、少数の巨大プラットフォームへ次第に集中していった。

 ここで重要なのは、単に人が集まっただけではないということだ。
 何を、誰に、どれだけ見せるのかという露出権限まで、少数の営利企業が握るようになった。
 昔のテレビは、スポンサーの顔色をうかがうことで表現が無難になっていった。

 では、そのスポンサーの呪縛から自由なはずだったインターネットでは、もっと尖ったもの、自由なもの、面白いものが栄えたのか。

 実際には、そうならなかった。

 スポンサーに代わって表現を選別するようになったのは、巨大プラットフォームの(※後述する)アルゴリズムだった。

 今度は、

「苦情が来るからやめろ」

ではなく、

「数字が取れないから見せない」

という圧力がかかるようになった。

 つまり規制が消えたのではなく、選別の主体がスポンサーから、営利企業の反応指標へ置き換わったのである。

 こうして、インターネット上の創作文化は、スポンサーではなく、巨大プラットフォームの数字によって選別されるようになった。


インターネットをつまらなくさせた『広告収益モデル』

 まず、大前提として、インターネット上の創作コンテンツをつまらなくしている大きな要素の一つに、プラットフォーム側の広告収益モデルがある。

現在の多くの創作系プラットフォームは、動画サイト、イラスト投稿サイト、小説投稿サイト、SNSなど、形は違っても広告収益に大きく依存している

この仕組みは、一見すると非常に都合がいい。

ユーザーは無料で利用できる。
広告主は宣伝できる。
プラットフォームは広告費で収益を得られる。

つまり、短期的には全員が得をしているように見える。

しかし、この「ウィンウィン」はかなり短期的かつ表面的なものだ。

この広告収益モデルで重要になるのは、創作物や発信内容がどれだけ深く理解されたかでも、どれだけ満足されたかでもない
基本的には、クリック数、PV、滞在時間、再訪、広告表示回数といった数字である。

ここに問題がある。

PVやクリック数を中心に評価すると、消費者の評価に重みがつかない
極端に言えば、深く読み込んだ人も、流し見しただけの人も、詳しい人も、何も知らない人も、同じ一つの反応として処理されてしまう

その結果、文脈を理解した評価よりも、単に反応されやすいものが強くなる。

この仕組みが大衆化と重なると、コンテンツは自然と雑な方向へ寄っていく。
なぜなら、より多くの人にすぐ反応されるものの方が、広告収益モデル上では有利だからである。


なぜ、人が集まるプラットフォームは検索機能をゴミにしたがるのか?


GoogleやYouTubeやXなどに象徴される話だが、こういう大型プラットフォームは、ユーザーが自分でコンテンツを探す導線を少しずつ弱くしてきている。

なぜそんなことをするのか。

端的に言えば、ユーザーが自力で検索できる状態は、プラットフォーム側にとってあまり都合がよくないからだ。


1.精度の高い検索はユーザーをすぐ帰らせてしまう

ユーザーが検索によって目的の情報に到達できてしまうと、そこで満足して終わってしまう。
目的の動画を見る。目的の投稿を読む。必要な情報を確認する。
それで離脱される。

しかしプラットフォーム側からすれば、ユーザーが目的のものを一つ見て帰るより、関係ないものを十個見てくれた方が都合がいい
広告を表示できる回数も増えるし、一人のユーザーあたりの滞在時間も伸びるからだ。


2.検索が強いとレコメンドの支配力が弱まるため

ユーザーの検索力が上がると、サイト内のレコメンドシステムの力が弱くなる。

これもアクセス数を稼ぎたいプラットフォーム側からすれば不都合だ。

レコメンドが強ければ、滞在時間が伸びるもの、反応されやすいもの、広告を挟みやすいもの、課金・登録・投稿に誘導しやすいもの、今プッシュしたいコンテンツを、ユーザーに優先的に見せることができる。

つまりレコメンドは、単なる便利機能ではない。
ユーザーが何を見るかを、プラットフォーム側がコントロールするための仕組みでもある。

かなり露悪的に言えば、ユーザーの注意や関心を、サイト側が都合のいい方向に誘導する装置だ。


だからこそ、検索によってユーザーが自分で簡単に望んだものを探せるようになるとプラットフォームを運営している人間は困る。



3.過去の良質な情報が新しい消費を奪う

三つ目に、古いものや質の高いものが掘り返されると、新しい消費が減ってしまう。

たとえば「インターネットがつまらなくなった」というテーマについて、すでに十分に考えられた記事が一発で見つかる環境だったらどうなるか。
多くの場合、その一つの記事で話が終わってしまう。

だがアクセスを稼ぐサイトにとっては、それは都合が悪い。
過去の良質な情報に辿り着かれるより、今この瞬間に話題になっている薄いコンテンツへユーザーが流れた方が都合がいい




4.外部サービスにアクセスを奪われたくない

四つ目に、外部サイトや外部アプリに主導権を渡したくないという問題がある。

検索性が高かったり、APIが簡単に使えたりすると、外部のサービスがより使いやすい検索エンジンやアーカイブを作れるようになる。

実際、昔のTwitterはその点が強かった。
外部クライアント、分析ツール、まとめ、研究、検索補助などが大量に存在していた。

しかし、それはプラットフォーム本体から見ると、自分たちのUIを通らずにコンテンツを消費されるということでもある。

だから外部利用を絞る。
検索しにくくする。
APIを高額にする。
外部から整理されることを嫌がる。

Xの検索が近年使いにくくなったのも、この流れの中で見るべきだろう。
API規制の強化によって、外部からの大規模利用を制限する方向に働いた
これは研究利用にも影響が出たという指摘もされている。



5.検索が強いとサイトの劣化が可視化される

そして五つ目に、検索が強いと、サイトの劣化が見えやすくなる。

検索性が高いと、過去と現在を比較できる。

昔の方が面白かった。
この話題は前にも同じことを言っている人がいた。
今バズっているものは、ただの焼き直しではないか。
本当に詳しい人は埋もれているのではないか。

そうしたことが見えてしまう。

つまり、コンテンツの履歴、文脈、質の差が可視化される。

アクセス至上主義のサイトは、文脈を見せたくない。
毎回「今これが新しいです」「今これが話題です」「今これに反応してください」と見せたい。

だから検索性よりも、忘却性の方が重要になる。

要するに、検索性が高いサイトは図書館に近づく。

一方で、検索性が低く、レコメンドが強いサイトは、パチンコ屋に近づく。

YouTubeやXは、少なくとも構造としては後者に寄っている。
ユーザーが自分で探す場所ではなく、プラットフォームが見せたいものを見せる場所になっていく。

だから、検索性を弱めることは単なるUIの劣化ではない。
ユーザーの情報探索能力を削り、プラットフォーム側の支配力を高める行為だ。

これは今目先の利益が出ていればなんでも良いという営利企業特有の思想だろう。
長期的に見れば、これはかなり悪質な設計であり、批判されても文句は言えない。




そして、こうしたプラットフォームが効率よく広告収益を伸ばそうとすると、最終的に頼るものは決まっている。

単一の人気指標である。

人気『だけ』がすべてを決める世界は実は危険


 現代の創作コンテンツの多くでは、ランキング・バズ・注目度・アルゴリズムなど、形は違えどすべて「人気」という単一指標によって作品の露出と価値がほぼ決定されている。

 

これはランキング形式のサービスに限った話ではない。検索エンジンやSNSにおけるアルゴリズムも、一見すると複雑な指標によって最適化されているように見えるが、最終的には「そのユーザーがどれだけ反応するか」という一点に収束している。
いいねや共有、滞在時間といった複数の要素は存在するものの、それらはすべて「反応のしやすさ」という一点に集約され、表示順位の決定に用いられる。

※当然ながら、人気という指標自体を否定するつもりはないのだが、しかし、現代に生きる人々が信奉する売上や、人気といった指標は、需要があることの証明でしかなく。そのコンテンツの価値とは決して直結はしないのである。

人間という生き物は『困ったらすぐに単一の人気指標に頼る』

 では、なぜこれほど多くのプラットフォームが、ランキングやバズ、注目度のような単一の人気指標に依存しがちなのか。

理由は単純で、この設計が短期的には広告収入モデルと相性が良く、構造として極めて実装しやすく、しかも成果が数値として見えやすいからである。

作品の質や長期的価値、批評的評価、文脈への理解といったものを測定し、整理し、適切に流通させるには手間がかかる。

つまり、人気指標は「文化的に正しい」から採用されるのではない。
管理しやすく、説明しやすく、収益化しやすいから採用される。

その結果、プラットフォームは「人気」を人工的に強調・増幅し、その一点にユーザーを集中させる方向へ収束していく

これは誰かが悪意を持って意図的にそうしているというよりも、構造への理解が浅いまま、お手軽に収益と数字を伸ばそうとした結果、自然とそうなってしまうのである。


その「わかりやすいものが浮上しやすい単一指標」に、先の大衆化が重なる

そして厄介なのは、その人気を構成する「反応」が、どのような理解や文脈に基づいているかをほとんど区別しない点にある。

深い理解に基づく評価も、たまたま流れてきた人間の雑な感想も、同じ「一つの反応」、同じ「一票」のように処理されやすい。

さらに問題なのは、その人気が「入口(発見)」と「評価」の両方を同時に担ってしまっていることにある。

本来であれば、作品はまず発見され、その後に内容によって評価されるべきだ。
しかし現在のインターネットは、「人気があるものだけが発見され、その人気によって評価がされる」という構造に過度に偏っている。




人気によって一度人が集まると、どれだけ場が壊れても、なかなか人は離れられなくなる


 トドメに厄介なのは、一度その人気によって人が集まった場所から、ユーザーも発信者も簡単には離れられなくなる点である。

本来であれば、人気指標への最適化が進み、場がつまらなくなった時点で、ユーザーは別の場所へ移動すればよい。
しかし現実には、フォロワー、過去の投稿、購入履歴、人間関係、検索順位、収益導線が特定のプラットフォームに蓄積されている

そのため、明らかに場が劣化していると分かっていても、そこに残らざるを得ない
これは単なる人気指標の歪みではなく、「人気によって人を集め、その人間関係や資産を囲い込む」ロックイン構造の問題である。

結果として、つまらなくなった場所から人が一気に逃げるのではなく、文句を言いながらだらだらだらだらと使い続ける状態が発生する。
そしてプラットフォーム側も、ユーザーが簡単には離脱できないことを前提に、さらに露出や収益を優先した設計へ寄っていく



実は創作における消費者の消費は「有限の資源」である

この構造を理解する上で重要なのが、「有限消費」という概念だ。

創作の界隈において、消費者の行動は単なる娯楽ではない。それは明確に「有限リソース(資源)」として機能している。

かのアダム・スミスは、国富論の中で、各人が自分の利益を求めて生産や交換を行うことが、結果として他者の利益にもつながると考えた。

例えば靴屋が利益を求めて靴を作り、パン屋が利益を求めてパンを焼く。
消費者は靴を履きながらパンを食べられるため、各々の利己的な生産は競合せず、社会全体の豊かさを増やしうると述べていた。

しかし、実は創作物ではこの方式が適用されない、むしろ他の消費財と比較しても真っ先に限界がくるのだ。

人間は靴を履きながらパンを食べることはできる、しかし小説を集中して読みながら、同時に映画を見ることはできない

この文言だけを見たら、多くの人が筆者のことを当たり前だろうと笑うかもしれないが、これは重要なことなのだ。

映画を二時間見れば、その二時間には別の映画を見られず、小説も読めない。新しい作品に与えられる時間は、多くの場合、別の作品から奪われた時間である。

物質的な商品の生産量は分業によって増やせる。

しかし、人間の一日は二十四時間のままであり、自由時間や注意力は作品の供給量に応じて増加しない

したがって創作市場では、作品を増やすことが単純に全員の利益にはつながらない。作品そのものは無限に複製できても、それを受け取る読者や観客の時間は有限だからである。
創作市場で本当に奪い合われているのは金銭だけではない。人間の注意力、記憶、関心、そして人生そのものである。

では、そんな状態で、無秩序な自由主義、資本主義が市場の中で加速していくとどうなるのだろうか?

初期成功者と、その呪い

消費者の消費が有限の資源である以上、問題は「その資源がどこに集中するのか」である。

そして、多くの場合、その消費資源は最初に成功した作品や人物の周辺へ集中していく。


初期成功者とは何者なのか?

 では、インターネット文化における初期成功者の話をさせてもらう。
ここで言う初期成功者とは、大衆化したインターネットコンテンツにおいて、最も大きな利益を受け取り、そのコンテンツの看板を担う存在のことだ。
しかし、その看板を担う人間は、最初のパイオニアではない

実際には、彼らが大きく成功する前に、そのコンテンツの中にはまず雑多な宇宙空間のようなものが広がっている。

まだ整理されていない表現、名前の付いていない遊び、内輪の流行、実験的な試み、既存文化の変形。そうしたものが無数に存在している。

そして、その宇宙空間の中に、開拓者(パイオニア)によって小さな流行が生まれる。

では、その小さな流行はどうやって巨大化するのか。

そこで必要になるのが、大衆がその流行に乗っかりやすい形式だ。
新分野の開拓者ではなく、その形式を生み出した人間こそが、いわゆる初期成功者になる。

冷静に考えればこれは当たり前の話で、まだ形の定まっていない新しい創作分野に対して、大衆は自分で何を楽しめばいいのかを探そうとしない

どこから入ればいいのか。
何を面白がればいいのか。
どう反応すればいいのか。

そういうものを自力で見つけにいかない。

大衆が一番求めるのは、安心して乗っかれる、分かりやすいフォーマットなのだ。

そして、そのフォーマットを生み出す人物こそが初期成功者となる
つまり彼らは、完全な未知に最初に踏み込んだ真の開拓者ではない。
むしろ、すでに存在していた雑多で複雑な前史を、大衆が掴める形へと変換した人間なのだ

インターネットにおいて、初期成功者とは何か。
それは、前史の複雑さを、大衆が掴める低文脈な入口へ変換した人間のことを言うのだ。




そして始まる初期成功者の呪い


 そして、創作コンテンツが衰退していく初期状態には、しばしば「初期成功者の呪い」がある。

 そう、実はこの段階が進む前に手を入れないと、そのコンテンツは衰退が始まってしまう。

これは、最初に成功した作品や人物が悪いという話ではない

むしろ初期成功者は、その場の可能性を世に知らしめた存在である。まだ誰も正解を知らない混沌とした環境の中で、その媒体に適応した形を見つけ、受け手を集め、場の存在を外部に知らしめる。
初期成功者がいなければ、そのコンテンツ領域自体が広がらなかった可能性もある。

だが問題は、その成功が可視化された瞬間に起きる

 初期成功者は、単に一つの成功例で終わらない。
後続にとって、「この場ではこういうものが伸びる」という参照点になる。作品の作り方、見せ方、主人公像、報酬設計、投稿頻度、タイトル、サムネイル、キャラクター性、ファンとの距離感、収益化の仕方。そうしたものが、成功例を通じて具体的に見えてしまう

すると、後続は完全な自由状態から創作を始めるのではなくなる

 もちろん、後続の作り手は「自分は真似をしているわけではない」と思っているかもしれない。


実際、細部では違うものを作っている場合も多い。初期成功者の形式をただ薄くなぞるのではなく、それを拡張したり、反転したり、別ジャンルと混ぜたり、より洗練させたりする作品も出てくる

しかし、それでも場全体は少しずつ同じ方向を向き始める。

 なぜなら、成功例が見えてしまったことで、かつては「何が出てくるかわからない場」だったものが、「何が伸びるか見えている場」に変わってしまうためだ。

作り手は勝ち筋を意識し、受け手はその勝ち筋に慣れ、ランキングやアルゴリズムはその形式が出した数字を評価する。出版社や企業も、それを「売れるもの」として商品化する。

こうして、最初は一つの成功例だったものが、場全体の基準になっていく

 ただし、ここで誤解してはいけない。

 初期に成功した作品や人物が、必ず後続の想像力を縛るわけではない。初期成功者の影響は、常に悪い方向へ働くわけではない

 分かれ目になるのは、その場の評価環境である。


 評価軸が多元的であれば、初期成功者から受け継がれるものは「文法」になりやすい。つまり、後続は成功者の表面をそのままなぞるのではなく、その人が切り開いた技術、見せ方、構成、表現の道具を受け取り、それを別の方向へ使うことができる。

 この場合、初期成功者の存在は場を狭めるのではなく、むしろ広げて、永き繁栄をもたらす。ある作家が作った文法を、別の作家が別の題材に使う。ある表現の発明を、次の世代が別ジャンルに持ち込む。そうして、場は一つの成功例に収束するのではなく、複数の方向へ分岐していく。

 しかし、評価軸が人気(売上)といった単一指標に強く寄っている場合は、話が変わる。


 その場合、後続が受け継ぐものは文法ではなく、「勝ち筋」になりやすい。

 この段階では、まだ多くの人が衰退に気づかない。

 むしろ外から見れば、場は盛り上がっているように見える。商業的なヒットにより、一見すると成功しているように見える。

しかし、内側ではすでに変化が起きている

 この段階でさらに危険なのが、流行という束ね方である。

流行が危ないのは、個々の作品を個々の作品として扱わせなくなるからである。
 本来、個々の作品にはそれぞれ違いがある。
作者も違う。狙いも違う。完成度も違う。テーマも違う。笑わせ方、泣かせ方、読後感、キャラクターの扱い方も違う。内部の読者から見れば、その差は十分に大きい。

しかし、似た作品群が同じ時期にまとめて押し出されると、外部の消費者はそれらを一つひとつ分けて見なくなる

「この作品はこういう作品だ」ではなく、「またこの系統か」と処理される。

流行とは、複数の作品をまとめて見つけやすくする力である。だが同時に、複数の作品をまとめて飽きさせ、まとめて嫌わせる力でもある。


 そして、その流行に後続が大量に流れ込み始めたとき、初期成功者の呪いは次の段階へ進む。

それが、参入障壁の低下と収益化による粗製濫造である。


失われた技術的障壁、『誰でもお手軽創作』の弊害


 現代創作はコンテンツの参入者が多くなりすぎてしまっている
昔は技術的な障壁があったが、今ではインターネットを主体になんでもノウハウが共有されて、あっという間に熱意のない・少ない個人や企業が労力をかけずに簡単に新規参入できるようになってしまった

※AIの問題も本質的には同じであり、この問題を加速させる一要素である。


 はっきりと言わせてほしい。

 世の中というものは、優れたものを生み出せる人間よりも、くだらないものを作り続けようとする人間の方が圧倒的に多い。

 

 これは別に人格の問題とかではなく、単純に確率の話だ。

 優れていたり、何か新しいものを生み出そうと挑戦する人間の方が少数派であり、既存のものをなぞったり、手段を選ばぬ金儲けに走る人間の方が圧倒的に多いのは当たり前のことなのだ。

 だから人気を主軸に注目されたコンテンツの参入間口ばかりを無差別に広げたらどうなるか? その「圧倒的に多い側」が一気に流れ込んでくる。

 しかも今はノウハウまで揃ってるため、ただ参入するだけじゃなくて、「どうやれば伸びるか」まで最初から理解した状態で入ってくる。
 
 そして、そういった無差別な新規参入を加速させるのが、収益化という概念だ。



収益化がもたらす「最適化」競争、人気概念への『過度なぶら下がり・模倣行為』が消費者の消費の圧迫する



 人気という単一指標が全ての世界で、そこに収益化という概念が乗っかると話は厄介になる。
 思想のない。金さえ儲けられればなんでも良いという収益化ファーストの発信者が広い間口から大量に参入しはじめ、彼らは注目されるために手段を選ばなくなっていく

 ここでの問題は、金を目的とする発信者が増えることそれ自体ではない。

「どうすれば面白くなるか」ではなく「どうすれば見られるか」「どうすれば稼げるか」に最適化した行動ばかりが報われるようになっているという点だ。

人気は本来、作品の価値や面白さを推測するための一つの目安にすぎない。ところが、その人気が露出、収益、評価を決める中心指標になった瞬間、作り手は価値そのものではなく、人気という数値を直接取りに行くようになる。

『ある尺度が目標となったとき、それは良い尺度ではなくなる』

そう。ここで起きているのは、いわゆるグッドハートの法則そのものだ。

つまり、人気が価値を測るための指標だったはずなのに、その人気を獲得すること自体が目的化した結果、人気という指標は価値を測れなくなり、むしろ価値を破壊する側に回ってしまう

 具体的には何が起こるか?


 ユーザーは人気に迎合しようとして

1.既に成功している形式への模倣

や、あるいは

2.人気コンテンツの二次創作行為

にばかり走るようになる。

これらの行為が、人気を得るために簡単で合理的な選択となってしまうのだ。


 (どこまでが危機的なラインか、明確な線引きを行うことは難しいが)例えば

1.既存の一次創作を大きなパーツサイズで真似・流用したり

2.人気のコンテンツのフォーマットを大きな割合で流用する行為で、個人が生活できてしまうような状態はコンテンツが衰退する原因となりうる。


1.その界隈の中での人気一次創作のフォーマットを流用するケース

 まず、既存の人気フォーマットを流用するタイプの一次創作。
 これは、内部からコンテンツを劣化させる
 確かに、成功している構造や展開をなぞることで、一定の成功確率を担保できるため、この選択は極めて合理的である。
 しかしその結果として、「新しく見えて外から見たら全部同じ」作品が量産され、ジャンル全体は急速に均質化していく。これは供給量の問題ではなく、構造の問題であり、創作界隈の更新能力そのものが徐々に削られていく状態である。


2.別の人気コンテンツに乗っかるケース(二次創作行為)

 一方で、既存の人気コンテンツに過度に依存する行為も問題だ。

 反感を買うことは承知で言うが、現在インターネットで当然のように行われているゲーム実況、人気作品の同人誌販売、YouTubeの漫画・映画考察などで生活できるほど大きな市場になっている状態は、文化全体としては極めて危険な状態なのである。

 筆者がこの視点で二次創作の問題を指摘する時、ほぼ必ずこういう反論が返ってくる。

 「二次創作の何が悪いのか」
 「好きで作っているだけではないか」
 「公式も黙認しているなら問題ないのではないか」
 「むしろ界隈が盛り上がっているのだから良いことではないか」

 実際、一見すると二次創作は誰も損をしていないように「見える」

 作る側は、既に人気のある作品の文脈に乗ることで見てもらいやすくなる。消費者は、好きな作品の追加供給を得られる。
 大元の一次創作側も、ファン活動によって作品の寿命が伸び、話題性を維持できる。

 イベントやプラットフォームも、需要のあるコンテンツが増えることで人を集めやすくなる。

 つまり、ぱっと見では全員が得をしている

 だからこそ、二次創作は肯定されやすい。
 むしろ、それを批判する側の方が悪者に見える。

 しかし、そこにこそ二次創作の本当の危うさがあるのだ。

 問題は、誰かが一方的に損をしていることではない。
 むしろ逆である。
 その場にいる人間の多くが短期的には得をしてしまうことが問題なのだ。

 全員が得をしているように見える構造では、誰もブレーキを踏まない。

 作る側は、もっと作った方が得をする。
 消費者は、もっと供給が増えた方が嬉しい。
 大元の一次創作側は、もっとファン活動が広がった方が話題になる。
 イベントやプラットフォームは、もっと需要のあるジャンルが増えた方が盛り上がる。
 だから、流れは自然と「もっと自由に」「もっと大量に」「もっと目立つ場所へ」と進んでいく。
 そして、その結果として、既存の人気コンテンツの周辺にばかり人の関心、時間、金、創作労力が過剰に集まっていく。

 その結果、どうなるだろうか?


 その文脈を持たない大元の新規の一次創作や異質な試みが評価される余地を失っていく
内部では活発に見えても、外部からの流入が止まることで、環境は次第に閉じていくのだ。

(要はこういうことなのだが、このような観点で既存の人気フォーマットを大きなパーツで模倣する行為二次創作行為を批判しているユーザーを筆者以外で見かけたことがない)

 そう、生活ができるレベルの模倣や二次創作がダメな理由は、著作権がどうこうというありきたりな論だけではないのだ。


これはかつてのコミケでも起こったことである
かの東方は、二次創作が圧倒的に有利になる環境を公認レベルで整備してしまった
その結果としてオリジナル新作同人ゲームの相対的な居場所を大きく奪った
当たり前すぎて結構忘れられがちだが、
本来東方は一つのジャンルではなく一つの作品シリーズである。

もちろん、二次創作から新しい表現が生まれることの全てを否定するつもりはない。実際、二次創作だからこそ育った文脈や発想もあるだろう。

ただし、二次創作は出発点として既存作品のキャラクター、世界観、関係性、記号を大きく借りる。そのため、一次創作に比べれば、どうしても模倣の占める割合は大きくなる

粒度の小さいアイデアを一つずつ積み上げていく一次創作と比べたとき、二次創作では最初から借り物のパーツが大きい。だから、そこから本当に新しいものが生まれる確率は、構造的に低くなりやすい。これは創作形式としての性質の話である。


結果として、二次創作による浮上や評価が正当化される環境では、少数の人気コンテンツにユーザーの注目が大量に過密してしまう。その結果、界隈内の消費者の消費を過剰に圧迫してしまう。


先程述べた通り、創作における消費者全体の消費は有限の資源なのだ。
消費者の消費には限界があるのだ。


 もちろん、ここで誤解してほしくないのは、パーツの大きな模倣そのものを否定しているわけではないということだ。

 狭い界隈や、表に出すことを目的としない場所で、互いに楽しむために細々と行われる模倣まで否定するつもりはない。

 そもそも創作の出発点には、多かれ少なかれ模倣がある過去の著名な作家やクリエイターであっても、最初から完全な独創性だけで作品を作っていたわけではない

(庵野秀明は大学時代、ウルトラマンの同人作品を作っていた)

誰かの影響を受け、何かを真似し、そこから少しずつ自分の表現へと移っていく。守破離という言葉があるように、模倣は創作の入口でもある

問題は、雑な模倣行為が過剰な力を持ってしまうことにある。


 大きなパーツを流用する模倣が過剰に繁栄する創作分野は、その大元の一次創作の新陳代謝を止めてしまう

企業や個人の誰も彼もがわかりやすい人気の概念にぶら下がって、好き勝手に模倣を乱射して市場を荒らしたら、その界隈では新しい芽が浮上できなくなり、廃れていくのだ。

 最後にもしも、この問題に反論するなら、「二次的活動にも良い面がある」と言うだけでは足りない。
反論者が示すべきなのは、現在の人気概念(及び人気コンテンツ)に依存した活動が肥大化しようとも、新しい一次創作の発見経路や消費者の可処分時間は圧迫されない、という証明である。

しかし、それはかなり難しいはずだ。





・人気フォーマットの流用や、二次創作は企業も行いたがる

 ここで重要なのは、これらのぶら下がり行為に走るのは個人だけではないという話だ。

 例えばインターネット上で成立した人気の形式や文脈を、企業が『そのまま』商業に大量に持ち込み、再利用しようとする動きも、コンテンツの衰退を早める

 本来、異なる文脈においては再解釈や再構築が行われるべきだが、現在は「既に成功している型」をそのまま商業転用することが合理的な戦略として成立してしまっている。

 個人の発信者が既存の人気コンテンツやフォーマットに依存する行為と、企業がプラットフォーム上での既存の人気にそのまま依存して効率的に収益化を図ろうとする行為は、本質的には同じ構造の上に成り立っているのだ。




・さらなる悪化、新勢力:模倣量産から始まる粗製濫造


 さらに、人気ばかりを重視した創作コンテンツは評価軸が速度寄りに歪みがちだ。
なぜなら、多くのプラットフォームにおいて「どれだけ見られたか」は、単発の質よりも「接触回数」と「露出頻度」によって増幅される構造になっているからだ。
 投稿回数が多いほどおすすめやランキングに乗る機会が増え、タイムライン上での占有率も高まる。さらに、継続的に動いているアカウントはアルゴリズム上で優遇されやすく、結果として「速く出し続けること」自体が評価に直結する。

 その結果何が起こるかというと、コンテンツは「完成度」ではなく「即時性」に最適化されていく。

つまりこれは質の低下というより、「人気」という単一指標に最適化した結果、評価軸そのものが速度側に引きずられた状態だ。

 そして、そのような最適化ゲームを繰り返した結果、

 最終的には中身がなく対立を煽る内容や、欲望や承認欲求に直接訴えかけて注目を浴びるような強い刺激を持つ中身のコンテンツばかりが優先的に、大量に拡散されるようになる。
 (現在取り沙汰されているAIの負の一面などはまさにここにある)

 一本を磨くよりも数を打つ方が合理的になるため、内容は短期消費に寄り、テンプレ化やフォーマット化が進む。長期的な積み上げや文脈依存の作品は不利になり、評価される前に流れていく。
 一方で、同じ形式を高速で反復できるコンテンツだけが生き残り、全体として多様性が削られていく。

 このような行為に走る存在(個人・企業)は、生活がかかっているが故に必死ではあるのだが、それが主目的となり明確な思想が伴ってない傾向も強くなる。
 つまり、金を稼げればなんでも良いという考えの元、「今の自分の人気さえ良ければそれで良い」「人が減ったら別のコンテンツに移ればよい」というような思想で最終的にその大元の創作コンテンツを瞬く間に腐らせてしまう


 さらに問題なのは、このような最適化で成功したプレイヤーが、界隈の中で発言力を持ち、自らの手法を「再現可能なノウハウ」として拡散し始める点にある。ここまで進むと、「売れていることは絶対的に正しいこと」という論調が前提として共有され、その価値観自体が疑われにくくなる。ノウハウが広がるほど同じ最適化行動が加速し、結果として環境の劣化はさらに進行する。

このようなユーザーが批判されなくなってしまったら、
その界隈は完全に膠着してしまっていると言って良い

 はっきり言えば、商業的には成立している、売れているのは事実だ。しかし、それをもって創作文化の観点から無条件に肯定してよい話ではない。(この二つをごっちゃにして語るから、売れる売れないの創作論争は陳腐なものになる)

 むしろ、この構造が放置されれば、創作の更新能力や多様性は確実に損なわれていく。だからこそ、「売れている」という事実と「それが文化として望ましいかどうか」は切り分けて考えられるべきであり、後者の観点からは批判され続けなければならない問題なのである。


・歪んでいく消費構造

 消費者側としても、こうしたテンプレ化が進むと、作品は内容そのものではなく「文脈のまとまり」として評価するようになる
その結果、読者は最初の導入を見た瞬間に、それが自分の知っている型に属しているかどうかでコンテンツを消費するかどうかを判断するようになる。

 テンプレ化は「安心して消費できる型」として機能し、それを含めて一つのパッケージとして認識されるため、消費者は具体的な中身を精査する前に「いつものやつかどうか」で判断を終えてしまうようになる

 このとき致命的なのは、消費者が内容を見る前に離脱してしまう状態になるという点であり、「文脈の匂い」だけで作品を選別してしまうという構造にある。
 だからテンプレが強くなるほど、その文脈に乗っていない作品は、それだけで入口で弾かれることになる。

 さらに厄介なのは、大きく外れていなくても、わずかなズレ(たとえば説明の少なさや雰囲気の違い、少し暗いトーンといった要素)だけで「これは違う」と判断されて弾かれることだ。

 ここまで行くともはやコンテンツの出来ではなく、消費者の期待との一致度が競争の基準になってしまっている
 そのため、異質なコンテンツは面白さの可能性を持っていても、導入段階でテンプレの文脈から外れているという理由だけで消費される前に排除される
 この構造の本質は、テンプレが読者の思考を省略する装置として機能している点にある。テンプレは理解の負担を減らし、安心して消費できる一方で、新しいものは理解にコストがかかるため選ばれにくくなってしまうのだ。


・「AIが粗製濫造を加速させる」という今更すぎる批判

 これらの傾向に対して、さらに衰退を加速させる存在として語られがちなのが生成AIである。圧倒的な生成量によって、ユーザーの限られた可処分時間や関心を一気に食い潰し、市場をさらに粗製濫造へ傾ける。その点自体は否定しない。

 ただし、生成AIそのものを絶対的な悪とみなすのはおかしな話である。

 そもそもの問題は、一次創作であれ二次創作であれ、既存の人気要素や構造を大きなパーツのまま借りた模倣が発生し、それがそのまま大量に、公共の創作空間で評価され、評価・発見・収益の回路を汚染してしまう構造にある。

 つまり、二次創作や模倣文化を強く擁護し、ときにはそれを生活の糧にし、収益まで得てきたような人間が、AIに対してだけ「既存作品にただ乗りするな」「創作を破壊するな」などと怒るのは、さすがに都合が良すぎる

 構造的に見れば、どちらも既存の人気、既存の文脈、既存の表現資産に強く依存している。
 しかも、二次創作や模倣文化が拡大するほど、「ゼロから独自のものを育てる」よりも、「すでに強いものに乗る」方が得をする環境は確実に強化されてきた

 AIはその延長線上に出てきた、さらに効率のよい模倣装置にすぎない。
にもかかわらず、自分たちはその市場の受益者であり加担者でもあったことを棚上げして、そのような発信者達が生成AIそのものを目の敵にして創作破壊の元凶として叩くのは、自己正当化でしかない。

 要するに、AIは外から突然やって来た破壊者などではない。既存人気への依存で回る市場が生んだ、さらに強力な後継者にすぎない。自分たちが長年育ててきた構造が、より巨大な形で自分たちに返ってきただけである。

 そしてAI自体も同じ流れで使い物にならなくなっていくだろう。大量にAIが発生させるゴミデータの選別が間に合わず、ゴミとして進化していくためだ。

・最適化競争がクリエイターに何を強いるか?

 ここで重要なのは、現在のプラットフォーム環境は単に「面白いもの」を求めているわけではないという点である。
現実では、それなりの内容を高頻度で、定期的に、途切れず打ち出し続けることが強く求められている。

 しかし、これは創作そのものとは別種の能力である。
継続的に出し続ける体力、スケジュールを維持する能力、反応を見ながら調整する適応力、自己を商品として回し続ける耐性が必要になる。

そして、この能力は、時間をかけて文脈を積み上げる長尺の表現や、複雑な構造を持つ面白いコンテンツを作る能力とは一致しない

その結果、現在の環境では「深く面白いものを作れる人」ではなく、「それなりのものを切らさず出し続けられる人」が有利になる。
こうして、長い準備や重い構成を必要とする創作者ほど不利になり、そもそも表に出てこれなくなる

 つまり、長尺で文脈のある面白いコンテンツが減っていくのは、受け手の問題だけではない。
そうしたものを作りたい人間そのものが、構造によって排除されているのである。

 さらに、こういった最適化競争の中で見落とされがちなのは、創作と宣伝が本来まったく別の能力であるという点である。
 創作は文脈や積み重ねによって価値を形成する行為であり、宣伝はその一部を切り取り、短時間で注意を引く形に変換する技術である。

 しかし、作品の質そのものではなく、「どれだけ最適化に適応できるか?」が生存条件となる環境では、創作と宣伝の二つが同時に個人へ要求される

 質の高い作品が劣っているわけではない。問題は、それらが評価される前に露出の段階で弾かれてしまうことにある。

 つまりこの最適化競争が加速している構造は、作品の優劣ではなく「最適化に適した人材」を選別する仕組みとして機能している
 文脈や構造を重視する創作者ほど不利になり、結果として創作の方向性そのものが歪められていくのだ。





プラットフォーム内で起こる収束と有限の消費資源の消失→多様性の喪失

 さて、ここまでの流れを再度整理してみよう。
 まず、人気の一極化や、それに伴う人気概念への過剰な依存が進むと、まず起こるのは、似たようなコンテンツが増えるという現象だ。

 ランキング、PV、再生数、売上、いいねなどの評価指標が強くなるほど、作り手は既に成功している形式に寄せるようになる。未知の表現に挑戦するよりも、今すでに数字を取っている構造を模倣した方が安全であり、入口だけを刺激的にした方が短期的な反応を得やすいからだ。

 その結果、同じような構造、同じような展開、同じような刺激を持ったコンテンツが界隈内に増えていく。
 
 ※ここまでが今までの流れだ。

 
 そして、最大の問題は単に似たような作品が増えることだけではない。
先も述べた通り創作において消費者の消費とは有限の資源である。

 似たようなコンテンツが大量に供給され続けると、次に消費者の消費が圧迫される。消費者の時間や注意力には限界があるため、似たような作品が大量に流れ込むだけでも、他の作品に触れる余地は削られていく。

 一見すると、コンテンツは豊富に供給されているように見える。ランキングも動き、数字も出ており、短期的には界隈が活発に見える。今そこにいる消費者も、その時点では満足しているように見える。

 だが、実際には消費の余白が失われている

 この消費の圧迫によって、次に起こるのが選別の歪みである。

 序盤だけでは価値が伝わらない作品、一定の尺を読んで初めて面白さが立ち上がる作品、入口ではなく中盤以降に面白さを配置している作品、挑戦的な構成や未知の表現を持った作品は、評価される前に埋もれてしまう。

 つまり、コンテンツの数は増えているのに、実際に浮上できる作品の形式は狭くなっていく

 革新的で新しい一次創作や、新しい発信者が注目される機会は減り、評価指標に乗りやすい作品ばかりが目立つようになる。結果として、作り手はますます既存の成功例に寄せるようになり、未知の表現や挑戦的な試みはリスクとして排除されやすくなる。

 この状態が続くと、界隈内部の流行、つまりメタが回らなくなる

 本来なら、ある形式が流行し、それに飽きた消費者が別の形式を求め、新しい表現が浮上し、界隈内の流行は更新されていく。
 だが、評価指標に最適化された、似たようなコンテンツばかりが目立ち続けると、その循環が止まる

 新しい形式が浮上しにくくなり、似たような構造、似たような構成の作品ばかりが残る。新鮮さは失われ、多様に見えた選択肢も、実質的には同じ方向へと収束していく。

 そして、メタが回らなくなると、消費者の層も固定されていく

 すでにその形式に慣れた消費者だけが残り、別の感性を持った新しい消費者が入りにくくなる。入ってきたとしても、目立つ場所に並んでいるものが同じ方向のコンテンツばかりであれば、そこに定着する理由が弱くなる。

 結果として、界隈は今いる消費者だけを相手にするようになり、新しい層を取り込む力を失っていく

 この段階まで進むと、界隈は表面上まだ動いているように見えても、内部では新陳代謝が止まり始めている

 コンテンツは供給され続けている。数字も動いている。だが、新しい作り手、新しい表現、新しい消費者が入りにくくなっている以上、内部は徐々に硬直化していく。

 つまり、インターネットプラットフォームに過度に依存している創作コンテンツで起きているこの一連の流れは、単に「似たような作品が増えている」というだけではない。

 似たような作品が増えることによって、消費が圧迫され、選別が歪み、新しい表現が浮上しにくくなり、流行が更新されず、消費者層が固定され、最終的に界隈全体が保守的な方向へと収束していくということである。



「(今は)流行ってるから問題ない」という誤解

 単なる人気だけを評価軸にしているコンテンツは、特定のコンテンツにユーザーを過密させる。つまり、短期的には盛り上がりやすいため、この記事のような分析はただ流行に冷や水をかけているだけだとか、問題ないという捉えられ方をついついされがちだ。

 しかし、「今目の前できちんと流行っているのだから問題はないだろう」という見方は、構造の評価としてはやや短絡的だ。
 
 なぜなら、ここで問題にしているのは「現在の人気の有無」ではなく、「その人気がどのような構造によって維持されているか」だからである。

 極端な話をすれば、人気による一極集中によって特定のコンテンツに一時的に人が集まり巨大化している状態は、表面的には成功しているように見えても、その内部で多様性や新陳代謝が失われている場合、それは長期的には持続しない

 むしろ問題なのは、そうした「短期的に人気が維持されている状態そのもの」が、構造の歪みを覆い隠してしまう点にある。
 一見すると活発に見える環境であっても、評価軸が単一化し、模倣と最適化が支配的になっている場合、それは外部からの供給が止まった瞬間に急速に劣化する「不安定な均衡状態」に過ぎない。

したがって、「流行っているから問題ない」という主張は、むしろ構造的な問題を見誤らせる要因になりうる。

 そして、本格的にコンテンツが衰退していくと「新しいものは求められていない」「元からこういうジャンルだった」という言い訳が自然と語られるようになる。
 
 しかしそれはジャンルの本質を言い当てているのではない。
 むしろそのような言説が主流になること自体が、衰退の進行を示す明確な兆候と言える。


「流行は循環する」という幻想

 さらに、このような衰退の流れに対して「衰退と興隆を繰り返してこその流行だろう」という見方もあるが、しかし、創作を享受する、思い入れのある側からすれば、自分が楽しんでいるコンテンツが長く続いてほしいと考えるのは自然な感情であり、衰退を前提とすること自体が合理的とは言い難い。

 例えば、映画や文学、あるいは長期シリーズ作品のように、長い時間をかけて蓄積され、長い時代更新され続けてきた文化は数多く存在している。
 こうしたコンテンツは単なる流行の消費に留まらず、継続することで歴史的な価値を深めてきた側面を持つ。
 そうした観点から見れば、「流行は入れ替わるものだから問題ない」という前提そのものが、創作の持続性や蓄積的な価値を軽視した見方であるとも言える。

 また、こうした短期的に発展し、次第に衰退していくコンテンツに対して、「元から水物だった」という意見を出すユーザーが必ず一定数湧いてくる。
 「どうせ水物だった」と切り捨てる言説は、一見すると現実的な分析のようでいて、本質的にはその創作が本来持ち得たはずの長期的な価値や発展可能性を最初から考慮しない態度に近い
 結果として、それは「残る価値がなかったのだ」と事後的に正当化する構図になりやすく、現象を自然化することで原因の分析を放棄しているに過ぎない。

 問題は目の前の流行の寿命ではなく、「なぜ似たような劣化が繰り返されるのか?」という再現性のある構造にあるのだ。


 もしも100歩譲って衰退を受け入れるにしても問題はそれだけではない。
 こうした衰退は、多くの場合、急激に終わるのではなく、長期間にわたってだらだらだらだらと緩やかに続く

 本来であれば新陳代謝によってさっさと入れ替わるはずの領域が、人気や既存フォーマットへの依存によって延命され続けることで、界隈全体が「死に体のまま維持される」状態に陥る。

 その結果、新しい試みや異質な作品が発生する環境的なリセットが起こらず、表面的にはコンテンツが存在し続けているにもかかわらず、内部では更新が長期にわたって止まる。

 つまり問題は、単に一つの流行が終わることではない。
 終わるべきものが終わらずにだらだらと居座り続けることで、次に来るべき新規性や多様性の発生を阻害してしまう点にある。


コンテンツがダメになっていった具体例


 具体例として、創作コンテンツプラットフォームが衰退に陥った経緯をいくつか挙げてみよう。

youtube

 YouTubeでは一時期、発信者の投稿内容が強くテンプレート化していった。大きなリアクション、感情を強調した表現、視聴者受けの良いキャラクター化、既に伸びている形式への接近など、すでに成果の出ているフォーマットに寄せることが合理的な戦略となっていた。

 これは単なる模倣の問題ではない。YouTubeにおける推薦は、視聴行動や満足度といった指標をもとに「どの動画が次に視聴されやすいか」を予測する構造を持っている。この環境では、新規に文脈や構造を組み上げる形式よりも、すでに反応を得やすい形式を再利用した方が、低コストかつ高確率で視聴につながりやすい。そのため発信は、「何を作るか」よりも「いかに視聴されやすい形に整えるか」へと最適化されていく。

 この最適化は、視聴者の可処分時間の配分にも影響を与える。視聴されやすい形式の動画に可視性が集中することで、それらが連続的に推薦され、視聴者の時間は特定の形式やトピックに多く割かれるようになる。(YouTube自身も、過去には一つの視聴行動から似た動画が連続して表示されやすい傾向があったことを認めており、推薦環境が類似した内容を接続しやすい性質を持つことは事実として確認できる)

 この結果、視聴者の注意は一部の人気コンテンツや人気形式に集約され、「新しい試み」は相対的に可視化されにくくなる。革新的な発信者や異なる構造を持つコンテンツが生まれても、既存の反応パターンに乗りにくい形式は初動の視聴を得にくく、結果として埋もれやすい。アルゴリズムが過去の視聴や反応の蓄積に基づいて推薦を行う以上、未知の形式は排除されるわけではないが、少なくとも相対的に露出を獲得しにくい状態に置かれやすい。

 さらにこの環境では、すでに注目が集まっている対象を利用する発信が有利になる。二次創作、転載、切り抜きといった形式は、ゼロから文脈を構築する必要がなく、既存の人気や関心をそのまま利用できるためである。特に切り抜きは、元コンテンツの中でも反応の強い部分を抽出する構造を持ち、短時間で視聴を引きつけやすい。このような形式は推薦環境と相性が良く、効率的に拡散されやすい。

 その帰結として、コンテンツは「切り抜き的」な形式へと収束していく。本来は流れや蓄積によって成立していた体験は、反応の強い瞬間の連続へと再構成されやすくなる。この環境では文脈や過程は相対的に価値を持ちにくくなり、「どれだけ短時間で強い反応を引き出せるか」が中心的な評価基準となる。

 結果として、新しい試みや構造的に異なるコンテンツはさらに不利になる。文脈や積み重ねを必要とする表現は、断片化された評価環境と相性が悪いためである。こうして当時のYouTubeでは、既存フォーマットへの最適化が進み、ジャンル全体が類似した形式へと収束していった

X(twitter)

二つ目の例として、X(twitter)のパターンで当てはめてみよう

 X(Twitter)では一時期、発信内容が強くテンプレート化していった。断言口調、短時間で理解できる簡潔な表現、煽り気味の言い回し、対立構造の提示、他者の発言を切り取って再構成する批判など、既に反応を取りやすい形式に寄せることが合理的な戦略となっていた。

 これは単なる模倣の問題ではない。X(Twitter)における評価は、いいねやリポスト、インプレッションといったエンゲージメント指標に強く依存している。この環境では、前提や文脈を丁寧に積み上げる発言よりも、短時間で理解でき、かつ感情を動かしやすい表現の方が拡散上有利になる。そのため発信は、「何を言うか」ではなく「いかに反応される形で言うか」へと最適化されていく。

 この最適化は、ユーザーの可処分注意の配分にも影響を与える。反応を取りやすい形式の投稿に可視性が集中することで、それらがタイムライン上の大部分を占めるようになり、前提や文脈を必要とする発言に触れる機会は相対的に減少する。X(Twitter)はスクロールによる連続消費を前提とした設計であるため、この傾向はアルゴリズムによって継続的に強化される。

 その結果、ユーザーの注意は一部の高エンゲージメント形式に集約され、「複雑な議論」や「新しい視点」は初動の反応を得にくくなる。アルゴリズムは過去の反応パターンに基づいて拡散を行うため、強い反応を生みにくい形式は相対的に不利となり、可視化されにくい状態が生じる。

 さらにこの環境では、既に関心や感情が集まっている対象を利用する発信が有利になる。他者の発言や既存の対立構造を参照し、それを再構成して提示する形式は、新たに文脈を構築する必要がなく、短時間で強い反応を引き出しやすいためである。こうした発信は効率的に拡散されやすく、結果として同様の形式が繰り返し再生産される。

 その帰結として、発言は断片化された反応志向の形式へと収束していく。本来は前提や文脈の共有によって成立していた議論は、短い主張と即時的な反応の連鎖へと置き換えられる。この環境では過程や整合性は評価されにくく、「どれだけ強い反応を短時間で引き出せるか」が主な基準となる。

 しかも皮肉なことに、この最適化はユーザーだけでなくプラットフォーム自身も行ってしまった。Xは反応を生みやすい形式を優遇する一方で、検索性や外部リンクの追跡性、過去の反応を蓄積・参照する機能を弱めていった。その結果、発言を丁寧に辿るための基盤すら痩せ細り、この場は「何が言われたか」を確かめる場所ではなく、「今どれが反応を取っているか」だけを流し続ける場所へと変質した。これは単にユーザーが劣化したのではなく、プラットフォーム自体が反応最適化の道を選び、その帰結として自らインフラとしての価値を削ってしまったということである。

 ここまでは、評価環境の最適化による均質化の問題である。しかしX(Twitter)においては、この構造が「対人関係」と結びつくことで、より深刻な形へと発展する。

 X(Twitter)では発言そのものだけでなく、その発言者も常に可視化されている。このため、反応を最大化するための表現は、内容の提示にとどまらず、特定の他者を対象とした言及や批判にも適用されるようになる。対立構造や強い言い回しは、議論を整理するためではなく、他者に対する評価や位置付けを示す手段として機能しやすい。

 加えて、X(Twitter)はリアルタイム性の強いフロー型の環境である。投稿は時間の流れの中で消費されるため、長時間の検討や文脈の積み上げよりも、その場で即座に反応できる強い表現の方が有利になる。この構造は、議論に必要な前提の共有や整理といったプロセスを省略させ、即時的な応酬を促進する。

 さらに、参加コストの低さもこの傾向を強化する。誰でも容易に発言できる環境では、文脈を十分に理解しないまま発言が行われるケースも増えるが、そうした発言であっても強い表現であれば拡散されうる。その結果、断片的で不正確な情報も反応を通じて広がりやすくなる。

 これらの要因が重なることで、発言は「他者の発言を参照し、それに対して即時的に反応する」という連鎖的な構造へと変化していく。ある発言が注目を集め、それに対する反応が拡散され、さらにその反応が新たな反応を呼ぶ。この過程において元の文脈は維持されにくく、情報は断片的に再構成され続ける。

 その結果、X(Twitter)は単なる情報共有や議論の場ではなく、「反応を引き出しやすい形に加工された発言と、それに対する即時的な反応を消費する場」へと変化していった。ここでは正確さや整合性よりも、瞬間的な理解しやすさと感情的な強度が優先されるため、議論は成立しにくくなり、対立が持続的に増幅される。

 こうして、エンゲージメントを基準とした評価環境と、対人関係が直接結びついた構造が重なった結果、X(Twitter)は交通事故現場のように、人の注意を強制的に引き留めることで成立している空間になった。

 そこでは価値ある議論が行われているから人が集まるのではなく、怒りや不快感や野次馬根性で人が足を止める。そして立ち止まった者同士が、中身の乏しい吐瀉物のような罵倒や応酬を重ね、その騒ぎ自体がさらに次の注目を生む
 均質化と攻撃性を同時に内包した、地獄のような環境へと成り果てたのである。 




 さて、果たして、あなたの好きなコンテンツは、同じような構造に陥ってはいないだろうか?
 衰退は外部から突然訪れるものではない。
大量のユーザーが「面白い」と感じて、似たようなものばかりを消費し続ける、その選択の積み重ねによって、静かに進行していくものだ。

気づいたときには、もう取り返しがつかない。


※補足:noteも特別に優れたプラットフォームというわけではない。


 
noteも、プラットフォームとしてかなり劣化してきているように感じる。

最近の人気記事まわりを見ていると、ほとんど直近の記事ばかりが表示されるようになった。以前のように、時間が経っても読まれる記事や、長期的に価値のある記事が見つかりやすい場所ではなくなっている

これは、やっていることとしてはXなどのタイムライン型SNSに近い。

記事を蓄積して読ませる場所ではなく、アクセス数のために軽い反応を回す場所になってしまった。文章のプラットフォームだったはずのnoteが、いつの間にか「記事の図書館」ではなく「記事のタイムライン」に成り下がってしまった。

加えて、フォロー数やタイトル、見出し画像といった可視性に影響する要素は存在しており、最適化圧が働いてしまっている。

 また、以前note内容重視のコンテンツが拾われやすかったのは、主にGoogle検索やSNSといった外部の評価軸が流入していたためだったのだが、これらが短尺の中身のないコンテンツを優先して表示するようになってしまった。そのためnoteも次第にゴミ箱に近づいてきている。


こういったパターンによって埋もれてしまうコンテンツとはどういうものか?


 そして、このような流れが起きてしまうと、新しい表現や異質な試みは埋もれてしまう。

 では、既存の評価軸では扱いきれないコンテンツとはどのようなものか。
まず、既存の評価軸の中で理解可能でありながら、その限界を揺るがすタイプの作品が存在する。









一方で、さらに極端な形として、そもそも既存の評価軸では処理すること自体ができない作品も存在する。


これらはもはや「評価されにくい作品」ではなく、「評価すること自体が困難な作品」である。
 

 本来、こういった新しい表現や異質な試みは、一定の摩擦を伴いながらも受け入れられ、次の流れを形作っていくはずのものだ。そしてこうした新しいコンテンツは、「面白いかどうか」よりも先に、既存の文脈から外れた「異物感」を持っていること自体に意味がある。

 なぜなら、良作というのは既存の評価軸の中でしか成立しないからだ。初動の評価が高いほど、それは既存のルールに最適化された産物になる。

 一方で異物は、その評価ルールの外側から現れる

 既存の基準では正しく評価できず、最初は違和感や拒否感を生むが、その違和感こそが評価軸の限界を露呈させている。

 結果として、「これは何が面白いのか?」ではなく、「そもそも何をもって面白いとするのか?」という問いが発生する。この問いが共有されたとき、ジャンル全体の前提が揺らぎ、新しい評価基準が生まれる

 つまりパッと見その界隈の中で気持ちの悪い異物というものは、個別の作品としての完成度以上に、その界隈における「面白さの定義そのもの」を書き換える機能を持っている。だからこそ、新しい流れを生む起点としては、良作であることよりも先に、異物であることの方が重要になる。

 だが、こういった新しい概念が出てくる余地が失われたとき、鋭い感性を持つ消費者ほど早く違和感を察知し、静かに離脱していく。結果として残るのは、既存のフォーマットに適応した層と、それを前提に作られたコンテンツだけになる。

 こうして市場は一見安定しているように見えるのだが、実態としては外部からの新規流入や内部からの革新が断たれた閉鎖系へと変質してしまっている。新しいコンテンツが生まれる可能性(単なるバリエーションではなく、構造そのものを更新するような試み)はここで初めて本格的に閉じられることになる。

 新しいものがほとんど生まれない、見出されない、消費したいと思うユーザーがどこにもいないにかかわらず、既存のフォーマットだけが消費され続ける状態は、外から見れば活発に見えても、構造的にはすでに行き詰まりに近い状態なのだ。

 言い換えれば、「革新的な概念がある日パッと自然浮上してこない環境」というのは、それ自体がすでに衰退の初期段階に入っているとも言える。


「自分の好きな創作界隈は単一の評価軸に依存していても、新しいものを見出すレビュアーだっているし、他とは違うものがちゃんと出ているぞ!」


 残念ながら、それは誤りである。



人気という単一軸に過度に依存している創作コンテンツの自称発掘者は、ほとんどの場合「人気の後追いをしているだけ」


 この問題は、「誰が評価を担うのか」という構造に起因している。

 短期の人気で大きくなった場所では、発掘者もまた、その人気の文脈の中で作品を探すことが多い。

 こうしたコンテンツは、本当の意味で新しい文脈を持つ作品を拾い上げることができない。少なくとも、それを極めて苦手としている。

 理由は単純である。短期的な人気の集約によって巨大化した以上、その流れを簡単には止められないからだ。外部から多様な人が入ってくる仕組みになっていなければ、内部の発掘者だけで文化の流れを変えることは難しいし、結果として、文化そのものに厚みが生まれないまま、縮小へ向かってしまう。

歴史の長い音楽や映画と、インターネット上の短期的な人気を軸に肥大化したコンテンツとの違いは、まさにこの点にある。

 そのようなコンテンツの中で発掘者やレビュアーが見つけるのは、完全に新しい価値というより、既存の読者や視聴者が受け入れやすい範囲にある、まだ目立っていないものになりやすい。

 実際、人気という単一軸の環境から流入してきたユーザーは、その時点で評価基準を「人気」に強く規定されている。何を面白いと感じるか、何を選ぶかは、すでにその軸に適応した結果だからだ。

 そのため、人気から入ってきた層から、独自の基準で作品を発見し、文脈を与えて再評価するようなレビュアーやキュレーターは生まれにくい
 仮に主流から外れた作品を取り上げたとしても、それは人気の延長線上にある「脇道」に過ぎず、評価軸そのものを更新する発見には繋がらない

 結果として、そういう界隈の自称発掘者の語る「おすすめ」や「名作」は、創作界隈の人気コンテンツとほとんど内容に差がなくなる。これは偶然ではなく、構造的な必然である。

 これも、2020年までのYoutuberで例えるとわかりやすい。

 人気のYouTuberの動画や、おすすめ欄に出てくるコンテンツからYoutubeの視聴を始めた人間が、再生数二桁や三桁の、無編集で延々と街を歩くだけの記録映像や、古い技術書をただ読み上げるだけの動画、あるいは派手な編集もリアクションもなく淡々と検証や記録だけを積み重ねているような、トレンドから明らかに外れたものを、あえて自分から探しに行くだろうか。
 探しに行かないのだ。
 
 なぜなら、彼らはそもそも「人気」という入り口から入ってきているからだ。入口が人気である以上、その時点で触れる対象も評価基準も、その軸に沿って選別されている。本当に違うものを拾い上げるようなことはしない。

 本当に変なものや、文脈から外れたものを拾いに行くような人間は、そもそもその人気という定められた入口から入ってこない
 最初から全く別の動機、別の探索経路でコンテンツに触れるのだ。
そして、そんなユーザーは入り口が人気だけしかない当時のYoutubeの中にはほとんど全くいなかった

 ここで重要なのは、彼らが「新しいものを評価できない」のではなく、そもそも評価しようとしていないという点だ。
 人気を経由してしか作品に触れない以上、本当に新しい、未知のものを発見するインセンティブが存在しないからである。

 したがって、単一の指標に依存し肥大した創作界隈における自称発掘者は、発見者などではない。


  人気の後追いを、それらしく言語化しているだけの存在である。


 むしろ問題なのは、そういった自称発掘者はその行為を「批評」や「審美眼」と誤認している点にある。

 潜在的に評価されるものばかりをなぞっているだけの存在を発掘者とは言わない。
それは既存の人気構造の外側を掘っているのではなく、内側にある未回収の需要を再生産しているだけなのである。

 本当に評価されるべき発掘者とは、既存の人気をなぞるような人間ではない。

 まだ誰にも理解されていない、文脈も与えられていない、意味不明なものに対して、自らの基準で価値を見出し、それを信じて世に提示することができる人間のことである。

 それは単なる好みの表明ではない。
 他者の評価に依存せず、自分の基準で「これは何らかの価値がある」と断定し、その判断に責任を持てるかどうかの問題である。


本当に新しいものは、しばしば今ある人気の外側にある。そこへ向かう人は、そもそも人気の中心に集まってきた人とは別の感性を持っている。

そのようなユーザーを受け入れないまま人気に依存してコンテンツが縮小してしまうと、新しいものは出なくなる。



浮上の手段が一つだけなら、『他とは一味違う』は結局『全部似たようなもの』でしかない

 
 また、人気それだけに依存した創作界隈では、界隈の内部でどれだけ「期待の新星」と言われようが、作品が打ち上がる文脈自体が同じままである以上、外部のユーザーから見れば中身は大差ない

 その結果、「〇〇って全部同じことやってるだけだよね」という指摘が繰り返されるようになる






↑このレベルの差異は、特定の同じシリーズの中であれば意欲的な試みとして十分に成立しうるものだ。
 しかし、創作プラットフォーム全体で浮上して看板となる作品が、既存の文法の内部での差分にとどまっている場合、話はまったく別になる。
 それは多様性が存在している状態ではなく、同一の評価軸の中での最適化が進み、変化のレンジが極端に狭まっている状態である。つまり、違いがあるように見えても、その実態は同じ前提の反復に過ぎない。
これは多様性ではなく、むしろ多様性の欠如が進行している危機的な状態なのである。


 こういった指摘に対して、「単なる理解不足だ!」という反発が界隈の中で起こることがあるが、問題はそこではなく。

 そう見えている時点で、外からは区別がつかない状態になっているということだ。 

 そもそも「違う」と言えるのは、誰が見ても明確に違う場合だけである。
 外から見て同じに見えるなら、それは「違いが伝わっていない」のではなく、「そのレベルでしか違っていない」ということなのだ。



 そして、この「全部同じに見える」という状況こそが、新しい視点や異なる文脈を持ったユーザーが流入していない証拠でもある。

 つまり問題は外部の理解の浅さではない。差異が認識されていないのではなく、差異を生み出す構造そのものが機能していないのである。




 これらの要因から、創作コンテンツは緩やかに衰退していく。




 この現象を例えるならば、短期的な収穫や利益を最大化することに最適化しすぎた結果、土壌や基盤そのものを消耗させてしまい、最終的には何も生み出せなくなる状態に近い。

 個々のコンテンツ単位や目先では成果が出ているため一見うまくいっているように見えるが、その裏では同じ手法や対象に有限の資源が過剰に集中し、中身よりも「伸びるかどうか」や「儲かるかどうか」だけが判断基準になっていく
 やがてその偏った最適化によってコンテンツ構造そのものが歪み、支えていた基盤がどこかで耐えきれなくなった時、次第に価値が崩れていくような性質を持っているというわけだ。

なぜ、人気を主体とした創作界隈のトップ層は、「界隈のために何もしてくれない」のか


 さらに一つ、誤解されがちな点をはっきりさせておく必要がある。創作界隈における黎明期のトップ層、すなわち先行してポジションを取ることで、運よく成功した最初期の人間たちは、ほとんどのケースで界隈全体のために何かをしようとはしないし、新しい概念を掬い上げるような役割も担ってくれない

 むしろ成功者同士で固まり、コラボし、閉じたコミュニティを形成していく。しかし、これは怠慢でもなければ、性格の問題でもない。この現象は個人の資質ではなく、構造の問題として説明できる。

 まず前提として、人気を軸としたプラットフォームでは「安定した数字を出し続けること」が最も重要な行動になる。ここでトップ層はすでに十分なフォロワーと視聴者、そしてコミュニティを持っている。この状態において最も合理的なのは、新しい不確定要素を取り入れることではなく、既存の関係性の中でコンテンツを回し続けること。すなわち人気者同士で結びつき、内側で循環させることである。なぜなら、その方が数字は安定し、評価も落ちにくいからだ。

 逆に、外部へと開く行為(無名の新人を引き上げたり、実験的な試みを行ったり、あるいは界隈全体の維持に関わるような動き)を取ることは、すべて「不確定要素の導入」に他ならない。それは自分が管理するコンテンツの質や評価すらも不安定にし、フォロワーの離脱を招き、結果として自分自身の数値の低下につながるリスクを持つ。つまり、長期的な目線で界隈のために動くという行為は、そのまま自分のポジションを危険に晒す行動になってしまう。

 人気を基準とした評価システムは、成功者に対してさらなる安定行動を要求し、挑戦や外部への開放を抑制する。その結果、トップ層は自然と内向きになり、既存の関係性の中で循環するようになる。人気を唯一の評価軸とする構造そのものが、「界隈全体のために動くと損をする」という状況を作り出している。

 さらに見落としてはならないのが、人間側の認知的な限界である。そもそも大半の人間は、界隈全体の持続性や構造的な問題を見据えて行動できるほど合理的でも長期的でもない

 「界隈のために動くべきだ」という発想自体が高度で抽象的な視点を要求する。それは、自分の利益と全体の持続性を切り分け、長期的な影響まで考慮した上で行動することを意味するが、こうした思考を実践できる人間はごく一部に限られる。

 人間が意思決定の際に参照するのは、「自分の生活」「目の前の数字」「直近の評価」といった短期的かつ局所的な情報である。創作界隈においても例外ではなく、むしろ人気によってのし上がった黎明期の成功者ほど、数字や評価に強く晒されることで目先の短期的な最適化に引き寄せられやすい

 結果として、多くの人間は意図的に文化を軽視しているわけではなく、単に「そこまで考えていない」。しかし、その無数の局所最適の積み重ねが、界隈全体の停滞や劣化を引き起こす

 こういった①内向きの循環構造や、②人気ばかりを重視する成功者の性質があるが故の視野狭窄によって、そのコンテンツの黎明期の成功者は結果として環境を放置する。

 そして、長期的にその創作コンテンツは新陳代謝を止める
 新規が入り込む余地は減り、挑戦は減少し、やがて界隈は閉じたコミュニティへと変質していく。

 最終的に黎明期のトップ層自身も、新しい流れを生み出せないまま相対的に価値を失い、「過去の人」となっていく。







そもそもなぜ、今のインターネットで、この構造そのものに文句を言う人間が少ないのか


 これは当然のことである。
 今のインターネットで上にいる立場の人間は、どの界隈でも人気や収益の構造にうまく乗った側だからだ。
 人気や収益に乗れている人間ほど発言力を持つ以上、その構造を正面から否定しにくい。そんなことをすれば、自分の成功体験や立場そのものを否定することになりかねないためである。
 一番恩恵を受けている人間が一番目立つのだから、本気でこの仕組みに文句を言うはずがない。

 次に、不満を持つ側は離脱しやすい。
構造に違和感を持つ人間ほど、その場で消耗し、無言で去っていく
だから内部に残りやすいのは、構造を肯定する人間か、少なくともそれに適応できている人間になりやすい。

 さらに、構造批判そのものが今のインターネットと相性が悪い
構造批判はどうしても長く、複雑になりやすい。
一方で今のインターネットは、短く、分かりやすく、感情を煽る言葉の方が強い。だから「この仕組み自体がおかしい」と丁寧に言う声は、最初から不利なのである。

 要するに今のインターネットでは、深く考えなくても乗れる言葉や態度の方が、構造的に可視化されやすいのである。

その結果、内部では現状肯定の言説ばかりが流通し、構造そのものを疑う声はますます見えにくくなる。




 さらに、インターネットは過去との比較もできなくなってきてしまっているため現在に対する批判が困難になってしまうという一面がある



ネットは現在だけが肥大し、過去への奥行きを失ってしまっている

 ネットがつまらなくなった原因は、新しいものが劣化したことだけではない。
 古いものを掘り返す楽しさ、過去の個人サイトや掲示板やレビューに偶然たどり着く感覚も、少しずつ失われている。

 かつてのネットには、検索やリンクを辿っているうちに、十年前の個人サイトや、古い掲示板の議論や、誰にも整理されていないレビューに行き着くような奥行きがあった。

 それは必ずしも便利ではなかった。むしろ見づらく、探しにくく、整理もされていなかった。
 しかし、その不便さの中に、ネットが単なる現在の流行ではなく、過去の蓄積を持つ空間であることを感じさせる面白さがあった。

 ところが現在では、リンク切れ、サービス終了、検索不能化、SNS内への閉じ込めによって、その奥行きが失われつつある

 個人サイトは消え、古いブログは更新停止や閉鎖で読めなくなり、掲示板のログは流れ、SNSの投稿は検索しにくくなり、サービスが終わればそこにあった文章や画像や議論もまとめて消えていく

 その結果、現代のネットでは、今流れているもの、今反応されているもの、今おすすめされているものばかりが肥大し、過去に存在したはずの文脈や蓄積へ辿り着きにくくなっている。

 これは単なる懐古ではない。
 過去の蓄積にアクセスできないということは、現在の流行を相対化する材料を失うということでもある。

 昔は似たような試みがあったのか。
 なぜそれは廃れたのか。
 どこで失敗し、どこに可能性があったのか。
 そうした過去の比較対象が見えなくなると、今目の前で流行っているものだけが、あたかも唯一の正解であるかのように見えてしまう

 つまり、ネットは「未知の新しいものに出会う場所」でなくなっただけではない。
 「忘れられた古いものを掘り返す場所」としての力も失いつつある

 現在だけが肥大し、過去への奥行きが消える。
 その状態で人気指標だけが強く働けば、人々は今流れているもの、今伸びているもの、今おすすめされているものだけを見て、それをネット全体の姿だと誤認するようになってしまうのだ。







衰退している創作界隈ほど、「何も分かってない人間」が薄っぺらい論で権威を振りかざす状態に陥り、壊れた環境がさらに壊れていく



 そして衰退している、あるいは衰退していく構造を抱えた創作界隈では、なぜか「何の経歴も持っていないのに妙に自信満々な素人」が、自称論者として持ち上げられ、SNS上で空虚な言論を振りかざすようになる

 この現象は偶然ではなく、いくつかの構造的な要因が重なった結果として、むしろ必然的に発生している。

 まず根本にあるのは、議論の出発点そのものがズレていることだ。こうした界隈では「今は流行っている」「今は人気がある」という短期的な成功が、そのまま正しさの根拠として扱われる。そのため、本来問うべき「その人気はどのような構造で支えられているのか」「それは持続可能なのか」といった視点が最初から抜け落ちるスタートラインがずれたまま議論が始まるため、その上に積み上がる言論や、浮上してくる論者の思想も当然歪んだものになる

 この状態では、短期的に成功しているものにいかに乗るか、いかにそこに適応するかがすべてになる。つまり、構造を分析するのではなく、「今勝っているものにぶら下がる」ことが最適解になる。その過程で、自分の立ち位置を正当化するための言説が生まれ、それがそのまま“論”として流通していく。しかしそれはあくまで環境に適応した結果の自己正当化でしかなく、長期的な目線を持っていたり、構造そのものを説明するものではない。

 ここにSNSの性質が重なると、状況はさらに悪化する。SNSでは中身の精度よりも、どれだけ強く断言できるかが評価されやすい
 複雑な問題に対して「場合による」「構造の問題だ」と長々と慎重に語るよりも、「これはこうだ」「あれが全部悪い」と単純に、雑な結論を言い切る方が拡散される。結果として、根拠の有無よりも断言の強さがそのまま露出と影響力に変換される環境が出来上がる

 このとき、いわゆるダニング=クルーガー効果のように、理解が浅い人間ほど自信満々に語りやすいという特性がそのまま有利に働く


 知っている人間ほど物事を単純化することができず、条件や例外を考慮せざるを得ないため、雑な断言を避ける傾向にあるし、論も長くなる。
 しかしSNSではその慎重さが弱さとして扱われ、逆に何も考慮せずに短く雑に言い切る人間の方が強く見える
 こうして「自信の強さ」と「論の正しさ」が取り違えられたまま流通していく

 さらに厄介なのは、そのような言論が同じ前提を共有する人間同士で肯定され続けることだ。エコーチェンバーの中では、同じ認識が何度も反復されることで、それが疑いようのない前提へと変わっていく。外から見れば明らかにズレていても、内部では整合性が取れているため、本人に修正の動機が生まれない。むしろ「これだけ支持されているのだから正しいはずだ」という誤った確信だけが強化されていく。

 「共同体が直視に堪えない、現実として現れる真実」というものは存在するのだが、なまじ中途半端に権威を持ってしまっているため自分の立場・共同体・自尊心・利益を壊す真実を信じようとしない方向に偏りやすい。

 ここでさらに問題なのは、こうした環境では構造的に物事を捉えられる人間ほど、そもそも評価されにくく、その結果として界隈から離脱していく点にある。長期的な視点を持ち、環境そのものに疑問を抱く人間にとって、このような場は議論が成立しにくく、可視化もされない。そのため、発言を続けるインセンティブが失われ、次第に発言をやめるか、あるいは界隈そのものから距離を取るようになる。

 結果として内部に残るのは、現状を肯定する人間と、その中で適応できている人間、そして強く断言して可視化されやすい人間に偏っていく。
 つまり、衰退が進めば進むほど、内部に残る人間の認識もまた極端化しやすくなり、言論の質はさらに劣化していく

 こうした論者が本当に何も気づいていないのかといえば、おそらくそうではない。多くの場合、その界隈の問題に気づいている。
違和感に一度も触れたことがないわけではないだろう。

 しかし、それを認めることは難しい
なぜなら、その違和感を認めた瞬間、自分が立っている場所も、自分が得てきた評価も、自分が語ってきた言葉も、まとめて疑わなければならなくなるからである。
だから人間は、自分に都合のいい説明を選ぶ。
これは単なる嘘ではない。自分を守るための自己欺瞞である。

 結果として、こうした環境では、問題の原因は全て個人レベルへと還元される。「アンチが悪い」「うまくいかないのは努力不足」「環境に適応できない側に問題がある」といった言説が自然に主流になる。
 本来であれば、なぜそのような結果が繰り返し生まれるのか、構造の側に目を向けるべきところが、すべて個人の問題として集約されることで、環境そのものを問い直す視点が失われていく。

 さらに、その界隈の中で肯定されている限り、内部の人間がその構造自体に批判的な視点を持つことは難しい。なぜなら、それを否定することは自分の立場や成功体験そのものを否定することに繋がるからだ。こうして内部では自己正当化が繰り返され、外部との認識のズレは広がり続ける。

 結果として、衰退している界隈ほど「自信満々だが中身のない言論」が可視化されやすくなり、それが界隈全体の言論として流通するようになる
 支離滅裂に見えるのは偶然ではなく、構造的にそうした言論が選別・強化される環境が成立しているからに他ならない。



そしてその時点で、その界隈はすでに「まともな議論が成立しない段階」に入っている。


環境破壊者たちは、環境を壊しても「全く反省しないで次に行く」


 たとえば、SNSの薄っぺらいインフルエンサーや、YouTubeでショート動画をひたすら量産して、場を壊すような連中である。

 彼らは場全体を消耗させ、発見経路を汚し、人の注意力を奪い、文化や情報の質を下げているにもかかわらず、ほとんど反省しない。

では、なぜ反省しないのか?

こうした人間たちは、自分が悪いことをしている自覚がまったくないわけではない。むしろ、薄々はわかっている

だからこそ「需要がある」「市場原理だ」「努力している」「嫌なら見るな」「数字が答えだ」といった言葉で、自分の行為を正当化する。

 これは転売ヤーに近い。転売ヤーは商品を作っているわけでも、流通を豊かにしているわけでもない。既に存在する需要と供給の間に割り込み、その摩擦を自分の利益に変えているだけである。

それでも本人は「市場に適応した」「情報を集めた」「合法だ」と言う。

 既存フォーマットへの模倣や二次創作の大量生産で場を荒らすユーザーも似たようなものである。
彼らは文化や知識を育てているのではなく、既にある話題、怒り、不安、流行、他人の成果を、もっとも数字になりやすい形に加工している。
 
 その結果、場全体の発見経路や注意資源が汚染されても、本人はそれを環境破壊とは認識しない
 なぜなら、彼らの目には「場の健全性」ではなく、「自分がどれだけ取れたか」しか映っていないからである。

問題は、必死さそのものではない。必死な人間が全員、環境破壊者になるわけではない。

問題は、その必死さが「良いものを作ること」ではなく、「既にある場からどれだけ奪えるか」に向かってしまうことである。

そして、その奪うだけの行為を、本人が、ライフハックだとか、努力だとか、適応だとか、賢さだとか、誤認してしまうことである。

だから反省しない。

反省するには、自分が積み上げてきた数字や成功体験が、本当に価値を生んだ結果なのか、それとも単に場を食い荒らした結果なのかを疑わなければならない

だが、そんなことを認めれば、自分の成功そのものが崩れてしまう。

彼らの言い訳はいくらでもある。「最初から水物だった」「時代が変わっただけ」「需要があっただけ」「嫌なら見るな」「俺だけじゃない」「ルール違反はしていない」「数字が証明している」「見られない側の努力不足だ」。

あるいは、「自分たちは入口を広げただけだ」「難しいものをわかりやすくしただけだ」などと宣うこともある。

だが、これらはすべて、自分たちが場を痩せさせた可能性から目を逸らすための言葉である。

需要に応えたのではなく、需要をさらに浅く、短く、刺激の強いものへ誘導しただけである。

入口を広げたのではなく、入口だけを巨大化させて奥へ進む導線を潰したのである。

数字を取ったのではなく、場全体の注意資源を食い荒らしただけである。

そうして彼らは場を破壊して、次のブームにイナゴのように群がっていく。

こういう人間が一定数、自然発生するのは仕方のないことだ。

しかし、こういった人間の行動を批判することを、決して忘れてはいけない
なぜなら、このような行為がきちんと批判されなければ、誰も彼もが「自分たちは正しい」と思い込んでしまうからである。

もちろん、個人攻撃をネチネチ攻撃し続けろという話ではない。人格そのものを罵倒しろという話でもない。

だが、場を荒らす行動、発見経路を汚す行動、他人の成果や流行に便乗して数字だけを吸い上げる行動については、世の中が問題意識を持って、きちんと批判されなければならない。



かつての嫌儲は正しかったのか?


 かつてのインターネットには「嫌儲」という概念があった。
これは金儲けに走るコンテンツや、金目的の人気に媚びた発信を嫌悪し、「商業化するとつまらなくなる」という感覚を共有する文化である。

 この直感自体は、ある意味で正しかった
金や人気に最適化されたコンテンツが増え、模倣や高刺激に寄った表現が広がり、結果として全体の質が下がっていく現象は確かに存在していたのだ。

 しかし、嫌儲が捉えていたのはあくまで「現象」であって、その原因ではなかった
彼らは「金儲けをする人間」や「人気を集める行為」そのものを問題視したが、本当に問題なのは、人気や収益がそのまま評価基準となり、それに最適化した行動ばかりが報われる構造の方にある。

つまり、嫌儲は「何が起きているか」を直感的に捉えることには成功していたが、「なぜそれが起きるのか」という構造の批判にまでは至らなかったのである。

 問題は金そのものではない。人気そのものでもない。
それらが評価の絶対的な物差しとして単一化され、環境全体を支配してしまうことが問題なのだ。

 確かに金儲け目的の発信者への嫌悪は自然である。
過去を振り返ってみても、金が絡めば倫理より効率を優先する人間というものは必ず出てくる。
企業ですら、法律の範囲内であれば倫理を捨てたような手法に走ることがあるし、個人レベルでも「転売ヤー」のように強い反感を買う行為に向かう者は必ず現れる。

だが、問題はそうした人間が存在すること自体ではない。
そうした行動が、その環境の中で最も合理的な選択として通用してしまう構造の方にある。

だから、そうした人間を個別に批判しても、構造そのものが変わらない限り、次の人間が同じように現れるだけである。

責めるべきなのは個人や企業そのものではなく、そのような人間や企業が商業的に成功できてしまう評価と流通の構造なのだ。




なぜ、この構造が変わらないのか?


 しかし、この構造がすぐに変わるとは考えていない。



Q.そもそも人気に依存しがちなプラットフォームの特徴とは?


→A.ユーザーの「時間」を直接的に奪うほど儲かる構造の創作コンテンツを取り扱うプラットフォーム。





クリックベイトが横行していた時代のyoutubeはまさにこれの典型だ。


 そう、人気の一極集中が起きやすいプラットフォームは、まず収益構造の時点で「人の時間や注意をどれだけ一箇所に集められるか?」にばかり依存している。
 こういった最近主流の広告モデルやPV至上主義の設計では、ユーザーの行動を分散させるよりも、強いコンテンツにまとめて流し込んだ方が効率がいい

 しかも「人気」や「ランキング」「アルゴリズム」などの単一の人気指標はシステムを作るときに一番わかりやすく、説明しやすく、運用しやすい概念だ。コストを抑えた設計として自然に選ばれがちで、言い方は悪いが誰も彼もが考えなしに採用し、実装されやすいという側面がある。
複雑な評価軸を用意するよりも、単一指標で回した方が早く、安く、意思決定も楽だからだ。

 そのため評価軸は自然と単純化され、「再生数」「ランキング」「ポイント」といった単一指標に収束しがちだ。
 結果としてこのようなプラットフォームは以下のような構図になりやすい。

 しかし、この状態になると、ユーザーの発見経路もほぼ一本化され、ランキング上位やアルゴリズム推薦だけを受動的に消費させようとする構造ができる。
 また、強いものを生み出すことばかりに特化した弱肉強食の自然状態を肯定しがちなため、初速で露出が決まる仕組みも放置されがちで、最初に数字を取ったものだけが加速し、それ以外は存在しないのと同じ扱いになってしまう。 

 厄介なのは、この雑な設計で短期的には結果が出てしまう点にある。
注目を煽れば数字は伸び、数字が伸びれば成功と判断される。

 その成功体験が組織や個人の中で共有されることで、「このやり方が正しいのだ」という認識が固定される。
 ここから先はもはや無自覚な雑さではなく、成功に裏打ちされた誤った合理性として機能し始める。
 誰もが数字を見て最適な行動を取ろうとするため、システム全体はさらに注目獲得へと最適化されていく。
その結果、構造は短期的には極めて効率よく回るのだが、刺激のインフレやコンテンツの均質化、ユーザーの疲労や不信といった歪みが蓄積されていく。
それでもこの問題はすぐには表面化しない。
数字は伸び続け、収益も維持されるため、内部から修正する動機が生まれにくいからだ。こうして「問題を抱えたまま成功している状態」が維持される。

 つまり全体としては、「考えなしに、雑に始まった設計が、成功してしまったがゆえに合理的に固定化され、その合理性によってさらに歪みが強化されていく」という流れになる。
これは単なる無能の問題でも、純粋な合理性の問題でもなく、「初期の低コスト設計」と「短期的成功によるロックイン」が組み合わさった構造的な問題だ。

 結果として、作り手はその「勝ち筋」に最適化し、似たようなフォーマットが量産される。ここでは「何が面白いか」ではなく「どうすれば数字が取れるか」が意思決定の中心になるため、長期的には多様性が削られ、外から見ると全部同じに見える状態に収束する。

 そして最終的にこの構造が崩れるとすれば、それは内部の反省や改善によってではなく、ユーザー離れや代替の登場といった外部要因によって起こることが多い。内部にいる限り、この仕組みは常に「正しく見えてしまう」からだ。






Q.逆に、人気だけに依存しないプラットフォームの特徴とは?


→A.それは「全体としてどれだけ(モノが)売れたか」「どれだけ(利用者の)満足度が積み上がったか」に紐づいて儲かる構造が強い創作コンテンツを取り扱うプラットフォームだ。





↑全ての問題が解決しているとはいえないが、短期的なPV至上主義とはかなり遠い


 つまり、取り扱う創作物が買い切りのコンテンツであったり、収益がユーザーの滞在時間ではなく「購入」や「満足の蓄積」に紐づくモデルであったり、特定の一作品に極端にユーザーを集中させる必要がそもそもない

 全体の売り上げが大事なので評価軸が複数存在し、売上だけでなくレビューの質、継続的な評価、ジャンル内での支持などが並立する。

このようなプラットフォームは概ね以下のような構造になる。

 発見経路も分散していて、ランキング以外にタグ検索、個別最適化された推薦、人力キュレーション、口コミなど複数のルートから作品に辿り着ける。さらに初速だけでなく後から評価が積み上がる余地があり、時間をかけて浮上する作品が普通に存在できる。この環境ではユーザーは「上を見る」だけでなく「横に掘る」行動を取りやすくなり、発掘者やレビュー文化が成立する。結果として勝ち方が一つに固定されず、同じプラットフォーム内に複数の成功パターンが共存できる。

 要するに人気に走りがちな創作コンテンツとそうでないコンテンツの違いはA「滞在率とPV」で金を稼ぐ構造になっているかB「モノが売れたか」「満足度がどれだけ積み上がったか」の全体の消費によって収益を得られるプラットフォームになっているかどうかの違いなのだ。

 前者は短期的には効率が良く強いヒットを生みやすいが、長期的には均質化していく。後者は一発の爆発力では劣ることもあるが、探索と再評価が機能するため、新しいものが生まれ続ける余地が残る。
この差が、そのままコンテンツを取り扱うプラットフォームの寿命と多様性の差になりがちなわけだ。

 そして、現代ではAタイプの創作プラットフォームの方が主流となっている。Youtubeなどはまさにこのタイプの創作プラットフォームと言える。





『Aタイププラットフォームは、自然と人気に依存しがち』


 さて、ここで話を戻そう。

 こういった現代でありがちな創作プラットフォームが人気だけを中心とした評価システムを変えないのはまさにそういう理由がある。ユーザーの行動やその創作物を評価するプラットフォームの収益構造(PV、アクセス至上主義)などとも深く結びついており、短期間で大きく変わるようなものではないからだ。

 このようなプラットフォームの運営側にとって、「ユーザーに能動的な検索をさせず、ランキングやアルゴリズムによる推薦に依存させる」という設計は、極めて楽でパッと見、合理的な選択であるためだ。
 広告収益を前提としたビジネスモデルでは、ユーザーの行動を一箇所に集約し、可視化された指標(PVや滞在時間など)を最大化することが重要になりがちなのである




面白い人たちはどこに消えてしまったのか

 表層ネットから面白い人が消えたように見えるのは、彼らが本当にいなくなったからではない。 むしろ、不特定多数に見つかる場所から、信用できる相手だけに届く場所へ移動したと考えた方が近い。

昔のインターネットでは、面白い人が不用意に表へ出ていた。 個人サイト、ブログ、掲示板、公開SNS、動画投稿、配信。そこには、変な知識、変な思想、変な技術、変な情熱が、まだ検索できる形で転がっていた。

しかし今は、表に出ることのリスクが大きくなりすぎた。 文脈のない人間が大挙してきて誤読され、切り抜かれ、炎上する。パクられて、収益化目的の人間に薄められて、アルゴリズムによって、来てほしくない層にまで届けられる。

その結果、面白い人たちは、次のような場所へ分散していった。
まず大きいのは、鍵垢や限定公開アカウントである。 Xなどの表層SNSには残っているが、全体公開では話さない。

昔なら普通に投稿していたような考察や冗談や毒気のある話も、今はフォロワー限定、鍵垢、親しい人向けの範囲に閉じ込められた。公開の場に出すと、文脈を共有していない人間に雑に拾われて荒らされるからだ。

次に、Discord、Slack、LINEグループなどのクローズドコミュニティ。 これは現在の大きな避難先であろう。趣味のサーバー、創作者同士の作業部屋、ゲーム仲間の集まり、専門分野の内輪コミュニティが出来上がった。
外からは見えないが、中では濃い会話が行われている。その会話は検索されず、蓄積されず、外部から発見できない状態だ。表層ネットから見れば、そこに何も存在しないのと同じになる。

長文を書く人は、note、個人ブログ、ニュースレターなどに移っている。 ただし、これらも自然には見つかりにくい。検索やSNS導線に乗らなければ埋もれるし、バズる文章ほど大衆向けに最適化されやすい。
濃い文章、尖った文章、読み手を選ぶ文章ほど、むしろ表層のランキングやおすすめからは外れていく。

動画や配信の側では、小規模チャンネル、限定配信、メンバー向け空間に移った人もいる。 YouTube、Twitch、ツイキャス、ニコニコ、あるいは限定公開の配信。面白い人はいるが、表層のおすすめには出てこなくなった。アルゴリズムに最適化された動画ではなく、少人数の濃い視聴者に向けた場に残っている。

さらに、ゲーム内コミュニティのような仮想空間にも移っている。 ここでは、面白さが「投稿」ではなく「その場にいる人」として現れる。
会話、イベント、ワールド、身内ノリ、共同制作。昔の掲示板やチャットにあった濃さの一部は、こうしたゲーム内空間に移動している。ただし、これも外から検索できない。そこに参加しなければ存在を確認できない。

同人、即売会、リアル寄りの小規模界隈に戻っていった人たちもいる。 表層ネットで広く拡散されるより、直接会える人、文脈を共有している人、信用できる人に届ける方を選ぶ。これはある意味で健全だが、外部から見ると閉じている。ネット上には痕跡が薄く、検索しても見つからない。

また、専門コミュニティや制作現場に沈んだ人も多い。 プログラミング、研究、音楽制作、映像制作、ゲーム制作、TRPG、Mod制作、技術ブログ、GitHub、勉強会、制作チーム。こうした場所では、面白さが雑談やネタではなく、技術、検証、設計、制作物として現れる。ただし、入口には専門知識が必要になる。誰でもすぐ楽しめる表層コンテンツではない。

最後に、忘れてはいけないのが、そもそも発信をやめた人たちである。 表に出しても報われない。雑な反応ばかり来る。説明責任だけ増える。パクられる。燃える。アルゴリズムにも乗らない。乗っても碌なことにならない。そうなると、面白い人ほど「もういいか」となる。

消えた先がどこかといえば、最終的には沈黙でもある。
つまり、面白い人たちは一か所に消えたわけではなく、細かく分散していった。

問題は、彼らがいなくなったことではない。 面白いものが、公開され、検索され、偶然発見され、共有される回路から外れてしまったことである。
かつて表層ネットは、変な人や面白い人に偶然ぶつかる場所だった。 今の表層ネットは、そうした人たちが逃げた後に残った、宣伝、炎上、模倣、承認欲求、薄い最適化コンテンツの堆積場になりつつある。
だから、表層ネットがつまらなくなったという感覚は、単なる懐古ではない。 面白い人たちが消えたのではなく、面白い人たちを見つけるための公共の導線が完全に壊れたのである。

 もっとも、面白いことをやっている人たちからすれば、「見つけないでくれ」という感覚もあるだろう。



インターネットがつまらない場所になってきていることが、大衆にも見抜かれ始めている


 すでに多くの人が、薄々「インターネットで浮上するものは基本的にくだらないのではないか」と感じ始めている。

なぜなら、現在のインターネット上でコンテンツが流通する仕組みがバレつつあり。そういったコンテンツには、実際に他人に見られるための工夫が露骨に表れているからだ。
中身以前に、「見られるための工夫」「見られるための加工」が前に出すぎているため、それだけで見る気を失ってしまう。

「これは炎上狙いだな」
「これは最初だけ目立って、中身は大したことがないのだろうな」
「これは金稼ぎ目的の、中身のない言論だな」

そういうものが、消費者にも薄々わかってしまう。
要するに、



「俺たちは面白いものを見せられているんじゃなくて、反応しやすい形に加工された、中身のないゴミを延々と食わされているだけなんだな」



というのが、世間にバレ始めてきているのだ。

だから今のインターネットで何かがバズったとしても、そんなのもうに文化的な価値などないという時代が近づいてきている。

「大きく拡散されているからといって、別に面白いわけではない」という感覚が、かなり一般化しつつある。

発信者に関しても同じだ。
仕組みを理解しているユーザーであればあるほど、今のインターネットが面白いコンテンツが評価されるような場では無いということを知っているのだ。
この記事ほど言語化できていなくても、昔からネットを使っていたユーザーほど、この変化には気づいているはずだ。
そして、そうしたユーザーの多くは、以前ほど表層のインターネットでは活動しなくなっている。

さらに若い世代にとっては、最初から「インターネットはくだらないものが流れてくる場所」という認識になりつつある。


そして今後は、この劣化したコンテンツをまだ嬉々として消費し、賛美できるユーザーばかりが残っていくのでつまらなさは年々加速していく

そうなれば、場の質がさらに下がっていくのも自然な流れだ。ただし、これにも限界がある。

もしも、現状のやり方を続けたら、インターネット全体が五年か十年単位で破綻するだろう。


今後のインターネットユーザーは二極化していく


つまり、自分で面白いものを見つけたいと思う人間は、もう自分の足で探すしかない

口を開けて、流れてくるものをただ消費していれば、面白いものに出会える時代はかなり前に終わってしまっている


今後は、さらに二分化が進んでいくだろう。

1.与えられたものをそのまま消費し、流行しているものを追い、目の前に差し出されたコンテンツだけで満足する人間。

そして、

2.自分で探し、掘り、疑い、時には外れを引きながら、それでも面白いものに辿り着こうとする人間。


当然、後者の方が面倒だ。時間もかかる。失敗も多い。何も見つからない日もある。

しかし、それでも後者の方が得るものは大きい

青い薬を飲めば… 物語はそこで終わりだ。自分のベッドの上で目覚めて、そこからは自分が信じたいものを信じればいい。赤い薬を飲めば… 不思議の国にとどまることができる。このウサギの穴がどこまで深いのか見せてやろう。

映画:マトリックス(1999) 

そして、そこで見つけたものを大っぴらに広めることも、必ずしも善ではない。

面白いものを見つける力と同じくらい、面白いものを壊さずに扱う節度が必要になってくる。



終わりの始まり――プラットフォームに依存していないコンテンツまで歪ませる消費の圧迫問題


 ここで、さらに別の最悪の問題が発生する。
 それは、個別のインターネットプラットフォームに強く依存した内部の娯楽コンテンツだけの話ではない。

 プラットフォーム内で人気が一極化し、似たようなコンテンツが増え、多様性や新陳代謝が失われていくという問題は、あくまでその創作ジャンル内部の一つの段階である。
 より深刻なのは、そのような短期反応型のコンテンツがインターネット全体に溢れかえることで、消費者全体の時間と注意を奪い、プラットフォームに過度に依存していない創作や娯楽コンテンツまで圧迫していくことだ。

 何度も述べている通り、消費者全体の消費量には限界がある。

 つまり、この記事のインターネット劣化問題は特定のプラットフォームの中で完結しない。その外側の全ての創作文化に悪影響を及ぼしてしまう。

 映画も、漫画も、アニメも、ゲームも、小説も、音楽も、もはや単体の作品としてだけ見られているわけではない。常に、無数の動画、SNS、記事、配信、ソシャゲ、短尺コンテンツ、ニュース、炎上、通知、広告と、同じ消費者の時間を奪い合っている

 インターネット全体にコンテンツが溢れ、世界中の消費者の消費が奪い合いになることで、漫画、アニメ、小説、映画、音楽、ゲーム、その他の娯楽コンテンツまで、新しい芽が育つ機会を奪って、その形式そのものを変えざるを得なくなっていく。

 娯楽コンテンツが溢れ、有限の消費競争が激しくなるほど、インターネット内外を問わず、作品の入口で強い印象を与えなければならなくなる。コンテンツが爆増するため、そして巨大な注目を得られずに全てのコンテンツが細分化して成長の機会を失ってく。

 そんな過酷な資源の奪い合いの中、まず最初に消費者の目を引かなければならない。その結果、全ての創作コンテンツがどんどん「入口」や「瞬間風速」にばかり傾いていく

 冒頭で事件を起こす。冒頭で強烈なキャラクターを出す。冒頭で過激な設定を提示する。冒頭で世界の秘密を匂わせる。冒頭でショッキングな展開を置く。冒頭で読者の感情を大きく揺さぶろうとする。

 もちろん、これは昔からあった。

 漫画でもアニメでも小説でも映画でも音楽でも、娯楽は常に受け手を引き止める必要があった。冒頭で強いフックを作る技術も、決して悪いものではない。むしろ、作品に受け手を導くための重要な技術だった。

 しかし近年は、この傾向がさらに加速している

 なぜなら、消費者が作品を判断する速度があまりにも速くなっているからだ。内容をじっくり読む前に、導入の匂いだけで「これは見る」「これは見ない」と判断される。数分どころか、数秒、場合によってはタイトルやサムネイルだけで切り捨てられる。

 そのため、作り手側も作品全体の完成度より、まず入口で足を止めさせることを優先せざるを得なくなる。

 ここで創作の形式が歪み始める

 入口だけは派手。設定だけは面白そう。一話だけは勢いがある。キャッチコピーだけは刺激的。サムネイルだけは目を引く。タイトルだけは異様に強い。

 しかし、そこから先に積み上がるものがない

 本来、入口の派手さは、作品の中身へ読者や視聴者を導くためのものだったはずだ。入口で興味を持たせ、その先にある構成、人物、思想、感情、世界観、体験の深さへ連れていくためのものだったはずだ。

 だが、消費競争が激しくなると、入口そのものが目的化してしまう

 作品は「読ませるための導入」ではなく、「注目させるための導入」になっていく。あるいは、「見続けさせるための物語」ではなく、「最初の数分だけ離脱させないための刺激」になっていく。

 ここまで来ると、もはや個別の作品の問題ではない。

 消費環境そのものの問題である。

 コンテンツの爆増によって娯楽そのものが「深く面白いもの」として存在しにくくなり、「即物的に強く反応が得られるもの」へと最適化されていく。

 そして、何度も述べている通り、消費者全体の消費量には限界がある。

 一人の人間が一日に使える時間は増えない。注意力も無限ではない。感情を動かせる回数にも限界がある。にもかかわらず、その限られた消費リソースを、あらゆるコンテンツが奪い合うようになっている。

 その結果、消費者自身が享受できる体験の質も下がっていく
かつて、消費が細分化されていなかった頃の、異質な作品が社会と衝突して→新しい文法が共有されて→文化が更新されるという流れが発生しなくなる。

 じっくり作品に向き合う時間が減る。一定の尺をかけて面白さを理解する余裕がなくなる。遅効性の面白さを味わう前に、次の刺激へ移動してしまう。作品の深さより、最初の反応の強さばかりが優先される。

 つまり、

注目の奪い合いをしようと、消費者の目先の満足ばかりを優先した結果、未来の消費者の満足を削っている

 この現象は、個人の意識やモラルの問題ではない。

 構造そのものがそうなっている。

 作り手は、自分の作品を見てもらうために入口を強くする。プラットフォームは、消費者を滞在させるために反応の強いものを優先する。消費者は、限られた時間の中でわかりやすく刺激的なものを選ぶ。

 それぞれの行動だけを見れば、合理的である。

 だが、それぞれが自分にとって合理的な選択をした結果、全体としては非効率で不利な状態に落ちていく

 これは典型的な共有地の悲劇である。

 例えるなら、共有地の森で、自分の木だけを早く大きく育てようとした結果、全員が同じ土の養分を吸い尽くして、新しい木が生えてこなくなるようなものだ。

 そして、一度痩せた土地では、もはや誰の木も十分には育たなくなる。

 誰も間違ったことはしていない。
 それでも、全体は確実に悪化する。






あまりにも可哀想な若者世代

 このインターネットのゴミ化と消費の圧迫問題は若者世代にとって致命的な影響を与える。

 まず前提として、現在のインターネットは、入口の時点でかなり悪化している。

低品質なコンテンツが少しずつ増えてきた、という話ではない。
スタートラインの時点で、目に入るもの、最初に流れてくるもの、最初に触れさせられるものが、すでに低品質なコンテンツに覆われている

創作コンテンツを消費する上で、インターネットの存在感はあまりにも大きくなった。
作品を知るのも、探すのも、評価を確認するのも、感想を読むのも、今では多くがインターネットを経由している。

にもかかわらず、そのインターネット全体が低品質なゴミ情報とコンテンツに埋もれてしまっている
これが、現在の創作環境における大きな問題である。

しかも、その低品質なコンテンツは、単にネット上に存在しているだけではない。多くの人々の日常を埋め尽くしている

昔と比較しても、創作に向けられるはずだった消費者の消費時間(先で述べた文化的な資源)が奪われ続けている。

インターネットを中心に低品質なコンテンツが爆発的に増え、それが人々の日常の消費時間を奪った結果、漫画、ゲーム、アニメ、小説、映画、音楽といった作品本体も苦境に立たされている

本来なら作品そのものに向かっていたはずの時間が、短尺動画、切り抜き、炎上、反応芸、まとめ、SNSのおすすめ欄に吸われている。

漫画を一冊読む時間。
ゲームを腰を据えて遊ぶ時間。
小説を読み進める時間。
映画を一本見る時間。
音楽をアルバム単位で聴く時間。

そうしたまとまった消費の時間が、細切れの刺激によって削られている。

もちろん、こうした話に対しては反論もあるだろう。

「世代の問題ではない」
「低品質なものを好む人間の割合は、昔も今も大して変わらない」
「昔のインターネット世代も、別に大したものを消費していたわけではない」

そう言われれば、それは確かにその通りである。

昔のインターネットも、高尚な場所だったわけではない。
くだらないものも多かったし、浅い消費をしていた人間も多かった

しかし、それでも昔は、まだ文化としての所属意識があった
また、自分で選んでいるという感覚もあった。

東方なら東方。
ボカロならボカロ。
ニコ動ならニコ動。
FlashならFlash。
VIPならVIP。

そうした感覚が、少なくとも今よりは残っていた。
しかし、今では瞬く間に模倣と粗製濫造でコンテンツが劣化してしまうし、そもそもゴミの量が増えすぎて新しい旗がいくつも同時に立たない状態になってしまった。

また、インターネットが今ほど強くなかった時代には、創作の原液に直接触れる機会も多かった

その前段階として、短尺の刺激や反応だけを大量に浴びせられる状況は、今ほど支配的ではなかった

しかし現在は、その感覚がかなり失われている

昔よりも、自分で探すことが少なくなった。
自分で情報を吟味する時間的な余裕も失われつつある。

さらに問題なのは、それらが無限に流れてくることである。

これは、もはや取捨選択ではない。
自分で選んでいるように見えて、実際にはプラットフォームから流れてくるものを受け取り続けているだけに近い。

無限に流れてくるおかゆを、ただ飲まされ続けているような状態である。
そして、それが現在の標準的な消費環境になっている。

そもそも、こんな短尺の刺激ばかり浴びせられる環境で、後に何が残るのかという問題もある。数秒で笑って、数秒で怒って、数秒で忘れる。
その場では退屈を消せても、記憶に残る物語も、価値観を揺らす体験も、自分の中で育っていく感覚もほとんど残らない。

消費している時間だけは膨大なのに、振り返った時に「自分は何に触れてきたのか」が空白になっていく。

このような環境で育った世代に、何が残るのか。
ほとんど何も残らないのではないか。

これは文化的には、かなり不利な世代である。

質の高いものに触れる前に、質を問わない大量の刺激で感覚を埋められてしまった。
退屈に耐える力を身につける前に、退屈を即座に消してくれる装置を与えられてしまった。
自力で探す喜びを知る前に、探さなくても流れてくる環境に慣らされてしまった。

これは若者が怠惰なのではない。
怠惰でいられるように、環境の方が最適化されてしまったのである。

新世代のクリエイターの側からしても、こんな状況では馬鹿馬鹿しくなって当然だ。

時間をかけて新しいもの、革新的なものを作ったところで、大量のコンテンツの中に流され、すぐに次の何かに置き換えられてしまう。

どれだけ新しいものを作っても、あっという間に流されて、後には何も残らない。

そんな環境で、「新しい文化を作ろう」「もっと創作を頑張ろう」などと思いいたれるわけがない。



しかし状況改善ができない以上、今後のインターネットは2035年くらいまでずっとゴミ

おそらく、次の新しい発見技術や流通構造が育つまで、ずっと劣化圧力がかかり続ける。

というか、この記事に掲載しているようにもうゴミ化は始まっている。
ただし、Google、YouTube、Xの利用者が、全部一斉に減り始めているという話ではない。

Xでは利用減少を示す調査が出ているが、Google検索とYouTubeは、少なくとも売上や総利用時間ではまだ伸びている。

むしろ、そこが一番危険なのだ。

プラットフォーム本体の数字が維持されている裏側で、それを支えていた外部サイト、投稿者、創作者、専門家、古参利用者が、先に疲弊している

Googleは、外部サイトへ利用者を送り出す検索エンジンから、他人の情報をGoogleの画面内で要約して完結させるサービスへ変わりつつある。
実際、AI要約が表示されると、利用者が外部サイトをクリックする割合は大きく下がるという調査も出ている。
つまり、Google自身の利用者や売上がすぐに減らなくても、Googleへ情報を供給していたウェブサイトの側は先に死んでいく。

YouTubeでも同じだ。
利用者数や視聴時間が維持されていても、時間をかけて独自の動画を作る人間より、大量生産、切り抜き、模倣、煽り、AI生成によって効率よく数字を取る人間の方が有利になれば、プラットフォームの中身は先に腐っていく。

そして、こういうかつて覇権を握っていたプラットフォームやコンテンツは、全体の利用者数がはっきり減り始めた段階で、すでに致命傷を負っている

なぜなら、最初に異変を察知して距離を置くのは、その場所を長く使い、価値を持ち込み、他人にも勧めていた人たちだからだ。
投稿を作る人。専門知識を書く人。面白いものを探して紹介する人。コミュニティを維持する人。新人を迎え入れる人。

そういう中核層は、一般利用者よりも早く環境の劣化に気づく。
だから企業の目線では、

「あ、少し利用者が減ったかも」

という程度にしか見えなくても、実態としては、すでにサービスを内側から支えていた層が抜け始めている

表面的な人数が5%減っただけでも、価値を作っていた人間が大きく減っていれば、内部の損傷は5%では済まない。

では、この先さらに利用者やアクセス数が減っていけば、プラットフォーム運営者は反省するのか。
たぶん、本当の意味では反省はできないだろう。
もちろん、アルゴリズムの調整や、低品質コンテンツの規制や、クリエイターへの収益分配はする。
しかし、それは症状への対処でしかない

本当に必要なのは、自分たちが短期的な利益を追求する過程で破壊してきた、

「人間が時間と労力を使って、この場所に価値を持ち寄ろうと思える理由」

を取り戻すことなのだ。

しかし、それを取り戻すためには、大量の広告、過剰な最適化、対立を生む推薦、プラットフォーム内での情報の囲い込みといった、現在の収益構造そのものを否定しなければならない。

そんなことは簡単にはできない。
なぜなら、彼らはまさにその方法によって肥大化し、覇権を握ってきた企業だから

昨日まで成功の理由だったものを、今日から失敗の原因として捨てなければならない。
しかも、仮に反省したとしても、離れた人間は戻ってこない。
彼らは運営が改善するまで、その場で待っているわけではない。
別のサービスへ移るか、小さなコミュニティへ閉じるか、発信そのものをやめてしまう。

失われた投稿習慣、信頼、人間関係、創作意欲は、機能を一つ追加しただけでは復元できない。

だから、プラットフォームの売上や利用者数が本格的に落ち始めてから「原点回帰」を掲げても、もう遅い

企業が数字を見て危機に気づいたときには、その数字を作っていた文化の方が、すでに解散しているからだ。

GoogleもYouTubeもXも、ゴミを減らす方法は多少知っている。
しかし、一度離れた人間を呼び戻し、再び価値を持ち寄ってもらう方法は知らない。

おそらく今後のインターネットは、後述する新しい発見技術や新しい分散型の情報流通経路が成長するまで、巨大プラットフォームが過去の文化的蓄積を食い潰しながら、2035年くらいまで、表面上の数字だけを維持する時代に入る。

ゴミと化したインターネットが突然なくなるわけではない。

人間の創作物や知識が集まる場所だったものが、過去の情報をAIとアルゴリズムで加工し、何度も循環させる巨大な再生工場へ変わっていき、消費者の消費をゴミで埋めてしまう。
それが、これから起きるインターネットの真のゴミ化なのだ。

今後の創作市場はどうなるのかについての未来予測

では、この状態がさらに長期化した場合、創作市場には何が起きるのか。

おそらく問題は、単に「インターネットが使いにくくなる」とか「つまらない作品が増える」といった程度では終わらない。

もっと深刻なのは、社会が新しい作品を発見し、育て、共有し、ひとつの文化として定着させる能力そのものが弱っていくことだ。

すでにその前兆は出ている。

コンテンツの供給量は増え続けているのに、人間が一日に使える時間は増えない。むしろ、SNS、動画、ゲーム、ニュース、広告、配信、短尺コンテンツなど、注意を奪う対象だけが増えている。

そうなれば、一つの作品に集まるはずだった関心は無数の対象へ分散する。

一瞬だけ話題になる作品はこれからも大量に出てくるだろう。しかし、それが半年、一年、数年と残り、世代を越えて共有されるところまで育つ作品は減っていく。

つまり、流行がなくなるというより、流行が発生してはすぐに消えるようになり、そのまま文化として定着しにくくなる

これは企業にとってかなり厄介な問題である。

企業は当然、新しい作品を売りたいし、新しいIPを育てたい。次のヒットを作り、それをさらに次の消費へつなげたい。

ところが、その判断材料になるはずのインターネット上の数字は、大量投稿、広告、炎上、既存人気、アルゴリズムへの最適化、短期的な話題性などが混ざり込み、以前よりも意味を読み取りにくくなっていく。

そのうえ、コンテンツ自体が増え続ければ、問題は単に「次に何が流行るのか分からない」では済まなくなる。

消費者の注意が細かく分散しすぎて、大きな流行そのものが立ち上がりにくくなる。

そうなれば、企業が安全策へ寄るのは当然である。

誰も知らない新人に大きな予算を使うより、すでに名前の知られている作家を使う。新規IPを一から育てるより、固定客のいるシリーズを続ける。完全新作よりも、続編やリメイク、リマスター、復刻、周年企画、過去作品とのコラボの方が、少なくとも最初の客を集めやすい。

一つ一つの判断だけを見れば、別におかしくない。

むしろ、何が当たるのか分からず、新しい作品を大きな流行まで育てることも難しい市場では、過去に一度成功した資産へ投資する方が合理的である。

しかし、その合理的な判断が市場全体で積み重なると、別の問題が起きる。

新しい作品を育てるための余裕が、少しずつ失われていくのだ。

新人を何年もかけて育てることが難しくなる。一作目で結果が出なかった作家を二作目、三作目まで待てなくなる。失敗を前提とした投資もしにくくなり、最初からある程度の数字を持っている人間ばかりが選ばれるようになる。

その結果、新人や新規IPはさらに育ちにくくなる。

そして、新しい作品が育たないから、企業はますます過去の実績へ頼る。

こうして、新作が育たないから過去資産を使い、過去資産に資本が集中するから新作がさらに育たなくなるという循環ができあがる。

もし、あなたが普段楽しんでいる創作分野で、ここ数年やたらと続編やリメイク、リマスター、復刻、周年企画、過去作品とのコラボが増えていると感じているなら、それ自体はまだ単なる懐古ブームかもしれない。

だが、それと同時に、顧客獲得単価が上がり、新しい作品がなかなか定着せず、既存の人気IPばかりが売れ、新人も育たないという現象まで起きているのであれば、さすがに警戒した方がいい。

それは、その創作市場が単に保守的になっているのではなく、新しい作品を発見し、育て、多くの人へ広げ、文化として定着させる力そのものを失い始めている危険信号だからだ。


独創的な作り手ほど、市場から離れていく

このような状態が続けば、独創的な創作者ほど市場から離れていくことになる。これは当然のことだ。

長い時間と労力を費やして作品を完成させても、供給される創作物の量があまりにも多く、さらに流行の移り変わりも高速化しているため、作品は短期間で大量のコンテンツの中へ埋没していく。

さらに問題なのは、作品を拾い上げる側も、コンテンツの総量が増えすぎて、個々の創作者にきちんと向かうこともなくなるし、作者を長期的に育成しようとする余地も失われていくのだ。

つまり、その作品や作者の将来性を見て声をかけるのではなく、「現時点で売り物になりそうだから」という理由で拾い上げようとしてくる。

創作者の側からすれば、自分自身や作品を長期的に育ててもらえるわけではなく、その時点で市場に適合した商品として消費されるだけだと感じても不思議ではない。

さらに新人の作者であれば、作品を認知してもらうために、市場の需要へ強く迎合することを求められる。その結果、本来作りたかった作品を諦めざるを得なくなったり、選択できる作品形式そのものが狭められたりする。

さらに、注目を集めるために、過剰な刺激や露悪的な要素を盛り込むことまで要求される場合がある。

もちろん、市場からの圧力そのものは昔から存在していた。売れる形式に合わせること、分かりやすさを優先すること、消費者の需要を意識することは、商業創作では避けられない問題だった。

しかし、現在の市場では、その圧力が以前よりも強くなっている。

そこまで自分の創作を変形させなければ市場へ参加できない、参加しても人間として雑に扱われるというのであれば、「そこまでして、この市場に参加する必要があるのか」という疑問が生じるのは自然なことである。

その結果、独創的な作り手ほど商業市場の表側へ出てこなくなる可能性がある。

現在のインターネットを中心とした創作環境は、そうした創作者にとって、一種の「雌伏の時代」なのかもしれない。

そして、その状態がいつまで続くのかは分からない。

だからこそ、商業市場で評価されることが難しいのであれば、世間からの評価とは別に、自分自身の創作に意味を見いだし、それを理由に作り続ける。今後は、そのような創作者が作品を残していく時代になるのかもしれない。


商業圏と反商業圏が分かれていく

そうなると、創作文化そのものが二つの方向へ分かれていく可能性がある。

一方には、多数の消費者へ届けることを前提として、短期的な数字に最適化された商業圏が残る。もう一方では、最初から巨大市場を目指さず、少人数の支持者との関係だけで成立する非商業、あるいは半商業的な文化圏が育っていく。

前者では、売上、再生数、ランキング、フォロワー、完読率、継続率、初動といった数字が重要になる。

それに対して後者では、

「この人の作品だから見る」
「このコミュニティで評判だから触ってみる」
「この批評家が薦めているなら読んでみる」

といった、人間同士の信用の比重が大きくなる。

ここまで来ると、商業市場で有名な作品と、創作好きの一部が高く評価する作品が、必ずしも一致しなくなる。

商業ではほぼ無名なのに、小さな界隈では強烈に支持されている作家や作品が増えていく。

逆に、数字の上では大成功していても、その分野を長く見てきた人間からはほとんど評価されていない、ということも起こるだろう。


AIで選別しても、おそらく問題は終わらない

ここまで作品数が増えれば、

「人間では探しきれないのだから、AIに良い作品を選ばせればいい」

という話は当然出てくるだろう。実際、AIによる選別はある程度役に立つ。

しかし、それだけで根本的に解決するとは考えにくい。なぜなら、選別の基準が存在する限り、その基準へ適応する側も必ず現れるからだ。

クリック率を評価すれば、クリックされやすい作品が増える。視聴維持率を評価すれば、途中で離脱されにくい作品が増える。高評価率を重視すれば、高評価をつけやすい客を囲い込む方法が発達する。

そしてAIが作品の品質を判定するようになれば、次に生まれるのは当然、「AIに高く評価される作品」を大量に作る技術である。

選別側が更新されれば、生成側もそれに合わせる。

また選別側が修正し、さらにその基準へ適応した作品が作られる。
結局は同じことの繰り返しになる。

これも結局、グッドハートの法則の再来だ。

本来測りたいのは「面白さ」や「文化的な価値」だったとしても、それ自体を直接測ることはできない。実際に使われるのは、その代理となる何らかの指標だ。

そして、その指標が重要になればなるほど、そこへ最適化する動機も強くなる。やがて指標と、本来測りたかったものの間に大きなズレが生まれる。
そうなれば、最終的にAIによる発見システムそのものへの信用が失われる。


「何が人気か」より「誰が見つけたか」

そこで、逆に価値を持ち始めるのが人間だろう。
編集者、批評家、キュレーター、小規模メディア、専門店、コミュニティの運営者、あるいは何十年も特定のジャンルだけを見続けてきた個人。

何が人気なのかではなく、誰がそれを見つけて、誰が面白いと言っているのかが、再び重要になる。

アルゴリズムを信用するのではなく、人間の信用を経由して作品を探すようになる。

これは一見すると退化のようにも見えるが、むしろ巨大な推薦システムが機能しなくなった結果として、昔の文化流通へ部分的に戻っていく現象と考えた方がいい。

そして、優秀な発掘者が見つけた作家を、必ずしも大市場へ送り出すとは限らない。

大きな市場へ出した結果、作品が短期消費向けに変えられてしまうのであれば、小さな場所で支援者を集め、そのまま活動を続けてもらった方がいい

こうして、個人による発掘と囲い込みが強くなっていく。
巨大プラットフォームから見れば何も起きていないように見えるかもしれない。しかし、その外側では、小さな文化圏が無数に形成されていく。

消費者も新作市場から降り始める

変化するのは作り手だけではない。
消費者もまた、新作を追い続けることに疲れていく。
毎日大量の作品が出てきて、ランキングや売り上げを見ても信用できない。レビューも宣伝なのか本音なのか分からず、おすすめ欄には似たような作品ばかりが流れてくる。

そうなると、作品を探すこと自体が負担になる。
そこで一部の人間は、インターネット及び新作市場からいったん降りる

昔の名作を見る。昔のゲームを遊ぶ。過去の名盤を聴く。古典小説を読む。一人の監督を順番に追ったり、一つのジャンルを年代順に掘ったりする。

コンテンツが史上最も大量に作られている時代に、消費者が過去へ戻っていく。

奇妙な話だが、十分にあり得る話だ。
過去作品には、現代の新作にはない大きな利点がある。

時間による選別がすでに済んでいることだ。


何十年経っても名前が残っている作品なら、少なくとも毎日大量に出てくる新作の中から一から探すよりも、外れを引く可能性は低い。新作を探すコストが高くなるほど、過去作品の価値は相対的に上がる。そして消費者が過去へ戻れば、企業も当然その動きを観測する。

昔のゲームが売れる。昔の音楽が再生される。旧作キャラクターの人気が強い。過去作品がSNSで再評価される。

そうなれば企業は、その需要に応えようとする。

結果として、続編やリメイク、リマスター、復刻、再アニメ化、実写化、周年企画、過去IPとのコラボがさらに増える。

企業からすれば、これも正しい。
客が求めているものを出しているだけだからだ。

しかし、その結果として新作へ回る資金はさらに減り、新しい作品が育ちにくくなる

新しい流行が生まれないから過去資産へ戻り、過去資産への依存が強くなることで、新しい流行がさらに生まれにくくなる。

ここまで来ると、懐古ブームでは済まない。
市場全体が、自分の過去を食べながら延命する状態に近づいていく。


作品は大量にあるのに、文化だけが空洞化する

この状態がさらに進んだ先にあるのが、創作市場の空洞化だ。

作品数そのものは多い。むしろ、歴史上もっとも多い時代になるかもしれない。創作者も大量にいて、毎日無数の新作が投稿される。

にもかかわらず、新しいスターが全く育たない。新しいジャンルが全く定着しない。新しい巨大IPが生まれにくくなり、一つの作品が世代全体へ共有されることも減っていく。

異質な作品同士がぶつかり、新しい表現の文法が生まれ、それが次の世代へ引き継がれるという文化の更新も起こりにくくなる。

作品の量だけは膨大なのに、文化として蓄積されていかない。

これが一番恐ろしい。

しかも、面白い作品が存在しないわけではない。
地下には大量にあるのかもしれない。才能がなくなったわけでもない。問題は、市場がその才能を一切見つけられなくなることだ。

企業も見つけられない。消費者も見つけられない。検索エンジンにも拾われず、ランキングにも出てこない。推薦アルゴリズムも、そこへ最適化された大量のコンテンツに埋められていく。

社会全体が、新しい文化を発見する能力を失っていく。

市場が本当に危険になるのは、作品が作られなくなったときではない。
作品はいくらでも作られているのに、そこから次の時代に残るものを育てられなくなったときである。



おそらく、ここまで壊れて初めて流通制度が変わる

そして厄介なのは、この問題が途中ではなかなか修正されないことだと思う。市場が苦しくなれば、企業は長期投資を増やすのではなく、まず短期的な数字を取りに行く。新作が売れなくなれば、知名度のあるIPへ戻る。広告費が上がれば、より確実に反応を取れる作品を優先する。利用者の離脱が増えれば、さらに刺激の強いコンテンツを投入する。

つまり、問題が悪化するほど、それまで市場を悪化させてきた行動が、短期的にはさらに合理的になる。

だから、おそらくこの構造はかなり深いところまで進まなければ変わらない。新作市場そのものが明確に縮小し、既存の発見システムでは良い作品を探せず、新しい作り手も商業市場へ来なくなり、消費者まで新作を追わなくなった段階で、ようやく、

「そもそも、これまでの流通方法そのものがおかしかったのではないか?」

という話になる。そこで初めて、新しい発見方法、新しい資金提供、新しい販売方法、新しいコミュニティの形が必要になる。

今後の創作市場を一本の流れにまとめるのであれば、

供給爆発から消費の細分化が進み、流行を形成する力が弱くなる。

企業は既存IPへ依存し、新人を育てる余裕を失う。

独創的な作り手は市場から距離を置き、商業圏とその外側の文化圏が分かれていく。

巨大な評価システムは最適化競争によって信用を失い、作り手は地下化し、発掘は個人や小規模なコミュニティへ戻る。

消費者も新作探索に疲れて過去作品へ回帰し、企業はさらにリバイバルへ依存する。

そして新作市場が十分に空洞化し、企業が商業的な致命傷を負ったところで、ようやく流通制度そのものの再編が始まる。

そういう順番になるのではないかと思う。
そして、その先に生まれるものは、必ずしも今より巨大で便利なプラットフォームではないかもしれない。

むしろ、小さなコミュニティや、信頼できる個人、専門性を持った編集者、特定ジャンルだけを扱う場所、少数の作り手と少数の客が長期間付き合える仕組みの方が重要になる可能性がある。

要するに、インターネットが効率化の過程で「古い」「非効率だ」と捨ててきたものが、形を変えてもう一度必要になる。

結局、文化を流通させるために必要だったのは、無限の供給でも、完璧なランキングでも、最強の推薦アルゴリズムでもなかった。

必要だったのは、新しいものを見つけ、それをすぐに使い捨てず、時間をかけて育て、他人へ伝え、次の世代に残していくための人間と仕組みだったのだと思う。

そして我々は、それを一度失った後になって初めて、その価値に気づくのかもしれない。



 さて、ここからは、この記事で語ってきたインターネットを中心とする創作文化が崩壊しないための具体的な解決策について述べていきたい。



解決策の大前提:プラットフォームは「場を提供するだけ」では文化を維持できない


 ここまで述べてきた問題は、発信者や消費者だけの責任ではない。むしろ、それらの行動を誘導しているプラットフォーム側の設計に、大きな責任がある。

 現在の多くのコンテンツ発信プラットフォームは、「誰でも投稿できる場所」を用意することには成功した。かつて出版社やメディアに選ばれなければ表に出られなかった時代と比べれば、それ自体は大きな前進だった。

 しかし、場を用意するだけでは文化は維持できない
 むしろ逆である。



「場の提供に徹している」創作プラットフォームはただ無秩序を放置しているだけでしかない。

 投稿欄を作り、ランキングを置き、いいねや閲覧数を可視化し、反応が多いものをおすすめする。あるいはアルゴリズムを定める。そうした設計を採用した時点で、プラットフォームはすでに「何を見せ、何を評価し、何を埋もれさせるか」を決めている。完全に中立な場所など存在していないはずなのだ。

 にもかかわらず、「自由に投稿できます!」「人気順で見られます!」「反応が多いものを上に出します!」という仕組みだけをそこに置けば、この記事で述べたように、発信者は伸びやすい形式に寄せ、消費者は目立つものだけを短時間に高速で消費し、評価は短期的な反応に圧縮されていく。

 その結果、プラットフォームは「長期的な創作文化を反映させる場所」ではなく、「人気を測り、反応を増幅するだけの装置」になる。

 だからこそ、コンテンツ発信の場には、単なる機能提供以上の明確な設計思想が必要になる。

その場が何を重視し、どのようなコンテンツを残し、どのような評価の偏りを避けるのか。
短期的な反応だけでなく、長期的な価値や少数に深く刺さる作品をどう発見可能にするのか。
大量投稿や最適化された量産物をどう扱うのか。

 こうした方針を曖昧にしたままでは、最終的に残るのは優れたコンテンツではなく、その場の指標にもっとも適応したコンテンツになる。

 つまり、コンテンツが流通する場そのものが、目先の利益を得ることに特化しており、長期的な文化を育てる設計になっていないのである。

 プラットフォームが「自由な場を提供している」と語ること自体は否定しない。問題なのは、その言葉を盾にして、自分たちの都合で構築したサイト設計が生む偏りや収束から目を背けていることである。

プラットフォームは、ただの空き地などではない。投稿欄、ランキング、おすすめ、検索、いいね、閲覧数、収益化の仕組みを置いた時点で、すでに文化の流れを編集してしまっている。

ならば、その編集権に見合う責任を負わなければならない

「自由な場」という看板の裏で、人気指標による選別と最適化競争を走らせておきながら、それを自然な結果として処理して、放置している。そこにこそ、今のプラットフォームの無責任さがある。

解決策の大前提2:収益化そのものを否定しているわけではない

 収益化は創作環境を歪める要因になりうるが、だからといって、それ自体をなくせば問題が解決するわけではない。創作には時間も金もかかる以上、長く活動を続ける人ほど、どこかで経済的な問題にぶつかるからだ。

 その点では、かつてのニコニコ動画がわかりやすい。ニコニコには、コメントやタグ、ランキング、MAD、ボカロ、実況、ニコニコ技術部など、その場所でしか成立しにくい濃い文化が確かにあった。一方で、投稿者がそこで継続的に収入を得る仕組みについては、YouTubeほど強いものを作れなかった。動画制作に何十時間、何百時間とかける人間にとって、文化的に面白い場所であることと、そこで活動を続けられることは別の話である。より収益化しやすい場所が現れれば、労力の大きい作り手ほどそちらへ移っていくのは、ある意味では当然だった。

 だから、「面白い文化さえあれば、作り手は無償でも残り続ける」と考えるのは現実的ではない。ただし、ここで逆方向に振り切れて、収益化を強くすればするほどよいと考えるのも危険である。

 YouTubeは、動画投稿によって生活できる人間を大量に生み出した。そのこと自体は大きな成果だが、同時に、投稿者の収入や露出が再生数、クリック率、視聴維持率、投稿頻度、エンゲージメント、推薦アルゴリズムなどと強く結びつく環境も作った。そうなれば投稿者は、作品の内容だけでなく、どのタイトルなら押されるのか、どのサムネイルなら目を引くのか、何分以内に見せ場を置くべきか、どの程度の頻度で投稿すれば露出を維持できるのかまで考えざるを得なくなる。それを無視した結果として人の目に触れず、収入まで減るのであれば、最適化を始めるのは本人の性格の問題ではなく、その場で活動を続けるための合理的な判断である。

 ここで注意したいのは、危険なのが単純に「稼げること」ではないという点だ。仮に創作者へ十分な報酬が与えられていても、それが作品ごとの短期的な人気とは切り離されているなら、再生数に迎合する圧力はそれほど強くならない。反対に、得られる金額がそれほど大きくなくても、生活費が毎月の再生数や露出に直接左右されるのであれば、作り手はかなり強い最適化圧力を受ける

 つまり、収益化について考えるときに見るべきなのは、金が存在するかどうかだけではなく、その金が何と結びついているかである。再生数に応じて報酬が増えるなら、再生数を取りやすい形式が有利になる。視聴維持率が推薦に強く影響するなら、離脱されにくい構成が増える。投稿頻度が重要なら、一本に長い時間をかけるより、一定の周期で作品を出し続ける方が合理的になる。

 こうした最適化は、一人や二人が行うだけなら大きな問題にはならない。しかし、同じ仕組みの中で大量の作り手が同じ方向へ適応し始めると、次第に場全体の傾向まで変わっていく。数字の出やすい形式が発見されれば模倣され、似た構成や題材が増え、短期的には伸びにくい実験的な作品が相対的に不利になる。新しいことを試して失敗するより、すでに成果の出た形式を繰り返した方が安全なのであれば、その判断を選ぶ人が増えるのは避けにくい。

 だから必要なのは、収益化するかしないかという単純な二択ではない。作り手が継続できるだけの報酬は必要だが、その報酬を短期的な人気指標へ強く結びつけすぎれば、今度は創作の内容そのものが数字に引っ張られていく。

 作り手を飢えさせてはいけないが、作り手を数字の家畜にもしてはいけない。

 収益化を導入するのであれば、「クリエイターに雑に金を払えば終わり」ではなく、何に対して金を払うのか、どの指標と報酬を結びつけるのか、その設計によって作り手がどのような行動を取るようになるのかまで考える必要がある。創作を支えるために導入した仕組みが、長い時間をかけて創作の幅そのものを狭めてしまうのであれば、それは成功した収益化とは言いにくい。


そのプラットフォーム内で取れる、具体的な解決策とは?


①単一の評価軸に集中してしまった現在の構造を、複数の評価軸へと分散させる

 短期的な人気で人口を確保したコンテンツが長生きするためには、どこかのタイミングであえて目先の利益を捨ててでも文化としての反映を考える必要が出てくる。これは極めて難しい。

ランキングやバズやアルゴリズムはその界隈そのものと出会うための入口としてきちんと残しつつも、それだけではなく、その後ろに議論や批評を行うレビュアー、解釈といった「語る層」を作り、Youtube、Xなどの外部サイトで語られるのが当たり前という風潮を作る。

 そして、新規コンテンツを見つけ出し、きちんとコンテンツを最後まで消費したユーザー(発掘者)のレビューに価値を置くことだ。

 最も価値を持つべきものはシンプルに、他人の意思決定に役立つ情報を持ったレビューそのものである。
また、工作レビューへの対策は必須となる。
 
 そして、時間をかけた長期的な評価や再発見が可視化される仕組みを用意することで、単なる単一指標の人気だけでなく、批評、独創性、コミュニティ評価、長期的価値といった複数の視点で作品が浮上する環境を整える必要がある。逆にレビューだけを重視すれば良いという話ではないのだ。

 ここで重要なのは、初速で伸びた作品だけが価値を持つのではなく、





 公開直後には埋もれていたり、ウケなかった作品や、時代の変化によって後から意味を持ち始めた作品にも、再評価され浮上する経路が確保されていることだ。

 結局のところ、コンテンツを語る層は軽視できないどころか、むしろ文化の存続そのものを支えている存在だと言っていい。

 例えば現代において、本という媒体は決して大衆的とは言えない。
ショート動画やSNSのように受動的に流れてくるわけではなく、自分から時間を確保して読みに行く必要がある以上、その本一冊を通しで最後まで読んでいる人間の割合はかなり限られている。

それこそ、誰もが名前を知っているような作家であっても、「作品を読んだことがある人」となると一気に数は減る。それでもなお、そのような作家の代表作が長年にわたって有名であり続けるのはなぜか。

これは単純で、実際にその本を読んでいる少数の人間が、その価値を言語化し、他者に伝え続けているからだ。
作品それ自体が勝手に広がっているわけではない。
読んだ人間が「何がどう面白いのか」「どこに価値があるのか」を翻訳し続けることで、未読の層にも間接的に影響が届いている
ここで重要なのは、有名であることと、消費されていることは別だという点だ。
有名な作品の多くは、実は大多数の人間に最後まで読まれているわけではない。それでも文化として残り続けるのは、「読んだ人間が語る」というプロセスが途切れていないからに他ならない。

逆に言えば、どの創作分野でも語る層がいなくなった瞬間、どれだけ優れた作品であっても静かに埋もれていく

そして現代は、この構造がより露骨になっている。
人気に基づくアルゴリズムに支配された環境では、強く短い刺激を持つコンテンツが優先的に流通し、重く時間を要する作品ほど可視性を失う。
だからこそ、本来は自然発生していた「語る層」の役割が、相対的に重要になっている。作品を読み込み、それを他人がアクセス可能な形に変換する存在がいなければ、そもそも入口に立つことすらできない。

つまり、コンテンツは作るだけでは成立しない。少数でもいいから、それを理解し、言葉にし、外に開く人間がいて初めて、文化として持続する
読者が減っているからこそ、語る層の価値はむしろ上がっていると言っていい。

 長く続き、後の時代に語られる文化とは、最初に強く売れたものだけが正義になる文化だけではなく、時間をかけて価値が見出される作品も受け止められる文化でもある。

 そして実はこういった「単一の人気指標への依存」を緩和しようとする試みは、すでにいくつかのプラットフォームで行われている。

 例えば、Spotifyにおいては、「Discover Weekly」や「Release Radar」といったレコメンド機能を通じて、単純な再生数上位だけではなく、個々のユーザーの嗜好や文脈に基づいた楽曲の発見を促す仕組みが導入されている。
 さらに、編集チームによるプレイリストやキュレーションも併用されており、アルゴリズムと人間の選別を組み合わせることで多様性を確保しようとする設計がなされている

 人気だけによる少数独占がダメなのは、独占そのものが問題なのではない。それが衰退した時に代替が存在しなくなってしまうことが問題なのだ。 
 
 理想的なバランスとは、ごく少数の作品が消費者のリソースの大半を占有しきって、その模倣ばかりが発生する状態ではない
 ある程度の集中は避けられないが、それと同時に、次に来る可能性のある層にも一定の可能性が常に残されていることが重要になる。

 緩い独占は更新が可能だ。よって、最悪形を変えながらでも延命できる。これはプラットフォームに限らず、あらゆるシステムに共通する構造でもある。
 国家でも、企業でも、プラットフォームでも同じで、少数の概念が力を持ち過ぎずに内部に代替や更新の余地がある程度残っている限りは完全に崩壊・衰退はしないのだ。

 逆に、少数の概念が肥大化してパイを独占すればするほど代替が効かなくなり、そのシステムは一見安定しているように見えて、内部では極めて脆くなってしまうのだ。



余談:賞ばかりが力を持つ創作文化も廃れる


実は、これは賞に関しても同じことが言える

小説の有名な文学賞は市場原理から創作を守っているように見える。
だが、実際には市場とは別種の権威原理によって、創作を別方向に最適化させてしまっている


創作分野にはさまざまな賞が存在している。もちろん、賞そのものがすべて悪いわけではない。埋もれていた作品に光を当てたり、新しい才能を見つけたりする役割もある。

ただ、賞に対してあまりにも強い力を持たせるのは危うい
少なくとも、今後は今のように賞を過剰にありがたがる必要はないと思っている。

なぜなら賞が権威化すればするほど、創作者の側には「その賞を狙って創作する」という流れが絶対に生まれてしまうためだ。
賞が作品を評価しているように見えて、実際には「賞に選ばれそうな作品」を創作者側に逆算させてしまうし、そこに多数のクリエイターがリソースを割くようになってしまう。

つまり、賞が創作の結果を評価しているのではなく、創作の出発点にまで影響を与えてしまう。

賞が力を持ちすぎると、人気に依存した売れ線テンプレとは別の形で、今度は「賞に選ばれそうな作品」のテンプレが大量に発生する。

売れ線テンプレではなく、賞テンプレである

これは創作文化にとって、かなり危うい状態だと思う。




余談:なぜレビュー系発信者の収益化は環境を破壊するのか

 
 最近、YouTubeやnoteなどでレビューそのものをコンテンツ化し、それによって収益を得る発信者が増えている。

一見すると自然な流れに見えるが、これは作品と同じ構造の問題を内包している。

問題はレビューという行為そのものではない。レビューが「コンテンツとして消費される状態」に置かれてしまっていることにある。

本来レビューは、作品とは別の評価軸を提供し、受け手の意思決定を補助するための情報である。しかしそれが再生数や視聴維持率といった指標に乗った瞬間、レビューは他のコンテンツと同様に最適化の対象となる。

その結果、レビューは「正確さ」ではなく「見られやすさ」に最適化される。結論は極端になり、内容は刺激的に調整され、評価は分かりやすく単純化されていく

これは構造的には、人気コンテンツにぶら下がる二次創作と何も変わらない。評価するはずの側が、評価される側と同じ最適化ゲームに組み込まれてしまっているからである。

この時点で、レビューはもはや評価軸としては機能しない。レビューという形をしているだけの、別のコンテンツに変質している。

重要なのは、レビュアーが収益を得ること自体ではない。レビューが評価軸から独立していられなくなった瞬間、その役割は失われる。

したがって問題は、「どこで稼ぐか」ではなく「どの評価軸に従属するか」にある。アルゴリズムによる最適化に強く晒される環境では、レビューは不可避的にコンテンツ化し、その機能を維持できない

評価する側が、評価される側と同じルールに従った時点で、レビューは成立しなくなるのだ。


②発信と評価の無差別化を防ぐ


 現在のインターネットでは、市場を無秩序に拡大させた結果、あらゆる参加者が同じ空間に流れ込み、一人の同列の「ユーザー」として扱われてしまうようになってしまった。

個人の創作者。
企業アカウント。
収益化目的の発信者。
一時的に流行へ乗ってきた人間。

文脈を共有している読者。
何も知らずに短文で反応するだけの消費者。
長年その界隈にいる批評者。
たまたま流れてきただけの野次馬。
荒らしに近い反応をする人間。

本来、これらは同じ存在ではない。

 もちろん、誰でも参加できること自体は重要である。新しい人間が入ってこなければ、文化は更新されない。外部からの流入が完全に止まれば、界隈は内輪化し、停滞し、やがて衰退する。

しかし、誰でも参加できることと、誰もが同じ重みで場に影響を与えられることは違う

現在のインターネットの問題は、参加の自由がそのまま、浮上の自由、評価の自由、拡散の自由として無差別に扱われている点にある。

投稿できること。評価できること。反応できること。拡散できること。これらがほとんど同じ重みで処理されることで、場全体が最も数の多い層、最も反応の速い層、最も感情的に動く層に引っ張られていく

その結果、文脈を持っている人間より、文脈を持たない人間の反応が目立つ。
長く作品に触れてきた読者より、流れてきた一見の反応が強くなる。
創作文化を育てる参加者より、短期的に消費し、騒ぎ、去っていく参加者の影響が大きくなる。
個人の創作者より、数と資本と投稿頻度で押し切れる企業的・収益化的な発信者が有利になる。

ここで起きているのは、単なる自由化ではない。
参加者の性質の違いを無視した、場への影響力の無差別化である。

発信の自由と、発見・評価・拡散の重みは、本来分けて考えるべきである。
誰でも発信できることは重要だ。誰でも感想を言えることも重要だ。だが、誰の発信も同じように浮上し、誰の反応も同じ評価として処理され、誰の拡散も同じ重みで場を動かす必要はない。

むしろ、その無差別さこそが、創作文化を破壊してしまった。

検閲は、表現を上から潰す。
しかし無秩序な自由は、数と反応速度と資本によって、表現を下から均質化する。

だから必要なのは、参加そのものの制限ではない。
制御すべきなのは、参加者が場に与える影響の重みである。

誰でも入ってこられる。
しかし、誰でも同じ速度で浮上できるわけではない。

誰でも反応できる。
しかし、誰の反応も同じ評価として扱われるわけではない。

誰でも発信できる。
しかし、誰でも場の中心に立てるわけではない。

この区別を取り戻すことが、発信と評価の無差別化を防ぐための出発点になる。


あえて露悪的な言い方をすると


『その分野にとってのバカ』が簡単に面白い物事に介入&評価できず、『その分野にとってのバカの発信』が世界中に向けて浮上しないような仕組み作りを行う必要が出てくる。




②-1.新規発信者の浮上を制限する

 発信者や企業の新規参入が容易な完全な無制限状態は、一見すると自由に見えるが、内部では過剰な競争と最適化を引き起こし、結果として創作の多様性を損なう方向に働いていってしまう。
 実は、創作において真の自由とは結局のところただの無秩序であり、それは行きすぎた検閲と同レベルの悪となりうるのだ。

 ただしここで重要なのは、新規参入そのものを制限することではない。
制御すべきなのは「参入」ではなく「浮上」である。つまりゴミの浮上は制限しつつ、存在そのものは消してはいけないということだ。

なぜなら、行きすぎた選別は検閲になるからである。現代の目線では、いや、ぱっと見では誰がどう見てもゴミにしか見えない創作コンテンツであっても、その時点で完全に無価値だと断ずることはできない。

ある時代には単なる怪文書、失敗作、粗悪な模倣、意味不明な断片にしか見えなかったものが、後年になって、その時代の空気や欲望、失敗、錯乱、文化的病理を示す資料になることがある。

だから、ゴミであっても存在自体は許されるべきだ。
ただし、それが常に人目につく場所へ浮上し続けて良いわけではない。

ゴミは燃やすべきではない。
しかし、入口のど真ん中に積み上げておくべきでもない。


必要なのは、削除ではなく沈殿である。
本棚の中央ではなく、本棚の隅に残しておくこと。
誰もが強制的に見せられる場所ではなく、必要な人間が掘り返せる場所に置いておくこと。

それが、検閲を避けながら情報空間を守るための、かなり現実的な線引きだろう。

 結論をまとめると、例えば創作文化を守る巨大なキュレーター(管理者)だったりとか、技術的な障壁だったりなどで、誰も彼もが容易に、簡単に浮上できてしまう状態のみを制限する、事前に篩にかけて落とす、明らかに品質の低いものや、単なる最適化の産物や短期的な指標に偏ったコンテンツが浮上せず、わざわざ探そうとしない限り、消費者の目につかない状態を維持するという行為はとても大事なことなのである。

 これは創作の自由そのものをがんじがらめに制限するという意味ではない。あくまで中間のバランスを取って「発見と評価の段階」において、最低レベルのキュレーションや選別機能が必要になるという話である。


②-2.文脈を無視した雑な反応を、評価と同列に扱わない仕組みを導入する

 そしてこの問題は、発信者の浮上だけにとどまらない。
受け手側の評価や反応の可視化のされ方にも、同じ構造的な歪みが存在している。

 本来、ある表現に対する評価には、その作品や文脈にどれだけ接触しているか、何を前提として読んでいるか、どの程度の理解や経験を持っているかといった差がある。
しかし現在のインターネットでは、そうした差がしばしば無視され、深い理解に基づく批評も、たまたま流れてきた人間の雑な反応も、同じ「反応」として同列に可視化されてしまっている。

その結果、知識や文脈を踏まえた評価よりも、短く、強く、分かりやすく、感情的な反応の方が目立ちやすくなる。
これは単に議論の質を下げるだけではない。発信者の側にも、「どう読まれるべきか」ではなく、「どう叩かれにくいか」「どう誤読されにくいか」を先に考えさせるようになり、表現そのものを萎縮させる。

そうなれば、炎上や短期的な反応が発見と評価の全体を支配し、表現の幅はますます狭まっていく。
つまり問題は、誰でも反応できることそのものではなく、文脈も理解も異なる反応が、同じ評価として無差別に処理されてしまう構造にある。

言い換えれば、知識や文脈を踏まえた批評と、たまたま流れてきた無理解な一人の雑なワンボタン評価を、同じ重みで扱ってはいけないのである。





これらの構築にこそAIが期待される


 近年、発信者側ではAIを活用したコンテンツの量産が急速に進んでいる。しかし、それに対してプラットフォーム側の選別機構が追いついていない現状では、質よりも量と最適化が優先される構造がさらに強化されてしまう

 だからこそ、今後は発信側だけでなく、プラットフォーム側もAIを用いた選別や評価の仕組みを積極的に導入していく必要がある。
 さらに言えば、その選別を一律のアルゴリズムに委ねるだけでは不十分であり、ユーザー自身が基準を調整できるような、新しいフィルタリングや評価の仕組みを設計することが求められる。(この分野に関しては、youtubeやSpotifyが、この記事で指摘されている問題に対して、まさに今着手しているところだ)

 発信者の自由な活動を前提としつつも、本当にそれを無制限に放置すれば、最適化競争と質の劣化は不可避である。したがって、創作環境の持続性を担保するためには、「発信」と同時に「選別」の側の設計が不可欠なのである。




 これらの提案は現行プラットフォームの利益構造そのものへの反抗になるが、しかし完全に否定しているわけではなく折衷案である。

多数決型の評価は、文化的に正しいから採用されているのではない。
ビジネス上、安く、大量に、責任を回避しながら処理できるから採用されている。

PVや人気ランキングを完全に捨てることではなく、入口の一つに格下げしつつ、発信、参入の無差別化を防ぐことこそが大事なのだ。




※これらとは全く別の例外的なコロコロコミックのやり方

 完全にイレギュラーなやり方としてコロコロコミックのデザインモデルがある。


 これは人気の集中や多様性の問題とは別の方向から構造を設計しており、本質的には評価軸そのものをずらす(「どれだけ人気か」ではなく「今の小学生に望まれているか」に絶対的な評価軸を置く)ことで閉塞を回避している。

 しかしこれは、読者が年齢によって強制的に入れ替わる市場構造と、漫画単体に依存しない収益モデル、そして作品ではなく雑誌自体にブランドが紐づくという前提があって初めて成立するものであり、一般的な創作コンテンツに適用可能なモデルではない

 そして、このやり方の代償として、読者の成長にコンテンツが追従しない構造が生まれる。結果として長期的なファンの蓄積は起こりにくく、作品や作家における文脈的な積み上げも弱くなる

 この構造下では、個々の作品は短命になりやすく、深みや思想性よりも即効性や分かりやすさのみが優先される傾向が強まる。また、雑誌全体が常に新規層へ最適化され続けるため、過去作との連続性や文化的な厚みも形成されにくい

 その結果として成立しているのは、作品や価値が積み上がっていく文化ではなく、消費と入れ替えを前提とした循環型の構造である。

 コロコロは閉塞を回避する代わりに、この「蓄積ではなく循環」に最適化されたモデルを選択している。この点において、本稿で扱う問題に対しては、根本的に異なる方向からの例外的な解となっている。



個々のプラットフォームよりも遥かに上のレイヤーで解決をするのならば


創作に携わるプラットフォームや市場を、今以上に国家が法律で規制する

この数十年、人類の発展を大きく担ってきたのが企業であることは間違いない。

しかし同時に、企業は基本的に利益を追求する組織でもある。長期的な視点から社会や文化への影響まで考える企業は存在するものの、市場全体にそれを期待することはできない。利益が生まれる仕組みがあるなら、競争に参加する企業ほどそこへ向かうからだ。

だからこそ人類はこれまで、企業活動によって公害や労働問題、人権侵害、独占などが発生するたび、市場の自浄作用だけに任せるのではなく、法律や制度によって一定の制限を設けてきた。

創作市場についても、そろそろ同じ発想が必要なのではないかと思う。

現在のインターネットでは、コンテンツを無限に発信させ、できるだけ短い時間で次々と消費させることが非常に強い収益モデルになっている。広告収入や滞在時間、クリック率、投稿数などを伸ばそうとすれば、企業がその方向へサービスを最適化するのは当然だ。

しかし、そこで一つ区別しなければならない。

企業にとって最適な仕組みと、文化にとって最適な仕組みは同じではない。

むしろ利益の追求、大衆化、短期的な消費への最適化が強くなればなるほど、創作物の側では同質化や大量生産が進み、長期的には市場そのものが先細っていく可能性がある。その兆候は、すでにさまざまな場所で見え始めている。

例えば、今この記事を掲載しているnoteについて考えてみてもいい。プラットフォームが記事の閲覧数や回転率を重視するほど、一つの記事を長く読ませるより、新しく、短時間で理解でき、次の記事へ移りやすい文章の方が有利になる。投稿頻度も高く、新しい記事の方が露出を得やすくなり、時間をかけて調査した文章や、理解に時間を必要とする昔の内容は相対的に不利になっていく。

その状態が続けば、単に一部の記事が読まれにくくなるだけではない。深く物事を考えて歴史が評価する文章よりも、短く、早く、大量に消費できる新しい文章の方が継続的に報われることになり、コンテンツ全体が少しずつ陳腐化していく。

ショート動画では、この傾向がさらに極端になる。短時間で注意を引き、離脱させず、次の新しい一本へ移動させることが利益につながる以上、刺激の強い題材、模倣しやすい形式、反復可能なネタ、大量投稿などが報われやすくなる。

Web小説でも構造そのものは大きく変わらない。ランキング、更新頻度、ポイント、新着欄、書籍化実績といった仕組みが存在すれば、作者は当然そこへ適応する。読者が短時間で判断しやすいタイトルや設定が増え、人気作品の形式が模倣され、更新頻度を維持できる作品が有利になる。

ここで問題にするべきなのは、粗悪な作品が存在すること自体ではない。

大量投稿、短時間消費、刺激の強いタイトル、模倣、反復といった行動を、プラットフォームのアルゴリズムやランキングが構造的に報酬化し、その結果として情報空間や創作市場全体の多様性を損なっているのであれば、それをすべて「ユーザーが勝手にやったこと」として処理するのは無理がある。

ユーザーは、与えられたルールに適応しているだけだからだ。

そして、そのルールを作ったのはプラットフォームの運営者である。

何を目立たせるのか。何をランキング上位に置くのか。何をおすすめとして流すのか。何を成功として数字で可視化するのか。そうした設計によって利用者の行動を誘導しておきながら、環境が荒れた段階になって「ユーザーがクリックしたから推薦しただけです」「投稿者が勝手に大量投稿しただけです」と言って完全に責任を免れるのは不自然だろう。

もちろん、だからといって国家が作品の内容そのものを評価し、「つまらない作品を掲載したら罰金」「文化的価値の低い作品を推薦してはいけない」と決め始めれば、表現規制として極めて危険なものになる。

規制するとすれば、作品の内容ではなく、プラットフォームの運営方法とインセンティブ設計を対象にするべきだろう。

例えば大規模な創作・動画プラットフォームに対して、推薦アルゴリズムが何を主要な指標として最適化しているのかを一定程度開示させる。スパムや大量自動生成コンテンツを放置しない義務を設ける。ランキング操作やステルスマーケティングについて外部監査を可能にする。ユーザーがアルゴリズム推薦を拒否し、時系列や評価順など別の表示方法を選択できるようにする。サービスの設計が文化的多様性や情報環境にどのような影響を与えているのかについて、一定規模以上の事業者に定期的なリスク評価を求める。

そして最も重要なのは、エンゲージメントや滞在時間を最大化できるのであれば、どのような設計を採用しても構わない、という現在の状態に一定の注意義務を設けることだ。

こうした制度であれば、国家が「良い作品」と「悪い作品」を選別する必要はない。問われるのは作品ではなく、それらが流通する環境を設計し、問題が拡大してもなお放置した企業の行為だからである。

そもそも文化や知識について、人類は昔から市場原理だけに任せてきたわけではない。

最も分かりやすい例が図書館だ。

完全な市場原理だけで考えるのであれば、本は購入できる人だけが読めばいい。売れない本は消え、利益を出せない知識を保存する必要もない。

しかし社会はそうしなかった。

本や知識には商品としての価値とは別に公共的な価値があると考え、税金で本を購入し、誰でも利用できる図書館を作った。同じ発想は、美術館、博物館、公共放送、文化財保護、芸術助成などにも存在する。

つまり人類はすでに、

「文化や知識を、最も利益が出る形だけに任せてはいけない」

という判断をしている。

市場では十分な利益を生まなくても、社会に残す価値のあるものがある。そのために、市場とは別の仕組みを作ってきたのである。

ところがインターネット時代に入り、このバランスが急速に崩れつつある。

巨大プラットフォームと広告モデルの影響力が強くなった結果、「利益になるもの」が、そのまま「文化の主流」になりつつある。

市場で利益を生みやすいものほど社会で目に触れる機会も増え、それ以外の作品は存在していても発見されにくくなる。

本来なら時間をかけて評価される作品、少数の読者に深く支持される作品、新しい形式を試す作品、理解するまでに時間のかかる作品、そして長く読み継がれるはずだった作品までが、短期間で大量の反応を集められるコンテンツに比べて不利になっていく。

そして、そうした状況が何年も続けば、単に「つまらない作品が増える」というだけでは済まない。

作り手自身が、評価される形式へ適応していく。

新しく参入する人間も、そこで成功している作品を見て学習する。

出版社や制作会社も、すでに数字の出ている作品を優先する。

その結果、プラットフォームの評価基準が市場全体へ広がり、最終的には「何が作られるのか」という文化の供給側そのものまで変えてしまう。

短期的には、それでも市場は成長するかもしれない。

投稿数も再生数も増え、売上も伸びるだろう。

しかし、その成長と文化の豊かさは同じものではない。

むしろ短期的な数字を最大化する仕組みが長く続けば、作品の多様性が失われ、新しいものを生み出す人間が離れ、既存の成功形式だけが繰り返されるようになり、長期的には市場そのものが先細る可能性がある。

だからこそ創作や知識については、「無限に発信させ、無限に消費させることが最も儲かる」という現在のルールから、社会全体が少しずつ距離を取っていく必要がある。

これは、収益化そのものを否定するという話ではない。

問題なのは、広告による短期的な利益最大化があまりにも強い合理性を持ってしまい、それ以外の価値を圧倒する状態になっていることだ。しかも、これを企業の自助努力だけで変えることは難しい。

企業には利益を追求する責任はあっても、文化全体を守る義務までは基本的にないからだ。むしろ競争が激しい市場ほど、一社だけが自主的に収益性の低い仕組みへ移行することは難しい。

この問題は、公害規制にかなり近い。

かつて工場が利益を生み、雇用を作り、社会に必要な商品を提供していたとしても、「消費者が商品を欲しがったから作っただけです」という理由で排煙や廃水への責任を免れることはできなかった。

経済活動そのものに価値があっても、その過程で社会全体へ大きな外部不利益を与えるのであれば、そのコストを企業だけが無視することは許されないからだ。

同じように、

「ユーザーがクリックするから推薦しただけです」

という説明だけで、自らその環境を設計し、問題が拡大した後も放置したプラットフォームが、情報環境や文化市場へ与えた影響について一切責任を負わなくてよいのかは、改めて考える必要がある。

もちろん、創作市場を工場の排煙と完全に同じものとして扱うことはできない。

しかし、企業の利益と社会全体の利益が一致しない場合、その外部不利益を市場の外側から調整するという考え方そのものは共通している。

人類はこれまで何度も、「市場だけでは守れないもの」が存在することを認め、そのたびに制度を作ってきた。

創作や知識を流通させる巨大プラットフォームが、何が見られ、何が作られ、何が文化の主流になるのかにまで大きな影響を持つようになった以上、創作市場についても、そろそろ同じ段階に来ているのではないだろうか。


プラットフォームの管理を企業だけに任せない


 さらに大枠で解決策を提示するのなら、身も蓋もないことを言うと、プラットフォームを企業に任せていること自体が、そもそもの間違いなのだと思う。

SNSも、動画サイトも、投稿サイトも、検索エンジンも、決済サービスも、本来は現代社会における公共インフラに近い
人が情報を発信し、作品を公開し、仕事を得て、金を受け取り、人間関係を維持するための基盤になっている。

にもかかわらず、現代社会はそれを企業に任せすぎてしまっている。

その結果、インターネットで何が起きたか。

利用者の投稿は企業の資産になり、
人間関係はフォローリストとして囲い込まれ、
作品の可視性はアルゴリズムに握られ、
収益化は規約と審査に左右され、
検索結果やおすすめ欄は企業の都合で変わり、
決済も広告もアプリストアも、最終的には巨大企業の判断に従わされる。

そして、ユーザーは逃げられない。

別のサービスに移ろうとしても、フォロワーは持ち出せない。
過去の投稿も、評価も、レビューも、支援者リストも、簡単には移せない。
作品を投稿する場所も、宣伝する場所も、販売する場所も、結局どこかの企業プラットフォームに依存する。

これでは「自由なインターネット」ではない。
ただの企業所有の私有地を、公共空間のように使わされている状態である。

これは、マルクスが問題視した構造とかなり似ている。

マルクスは、資本主義の根本問題を「生産手段を資本家が所有していること」に見た。
工場や機械や土地を資本家が持っているから、労働者はそこに雇われるしかない。
労働者は自由に契約しているように見えるが、生産手段を持っていない以上、実際には資本家の条件を飲まざるを得ない。

現代のプラットフォームも同じだ。

今の生産手段は、工場や機械だけではない。
検索エンジン、SNS、動画サイト、投稿サイト、アプリストア、決済システム、クラウド、広告ネットワーク、レコメンドアルゴリズム。
これらが、現代における新しい生産手段になっている。

クリエイターも、配信者も、作家も、個人事業主も、ユーザーも、そこに乗らないとろくに活動できない。
つまり、現代のネット上の生産活動は、巨大企業の所有するプラットフォームに従属している

だから問題は、単に「悪い企業がある」という話ではない。
そもそも公共的な基盤を、営利目的の私企業の所有物にしている根本的な構造そのものが致命的に間違っている




人間は機械ではない。
創作も工業製品ではない。
生きてる人間が、傷ついたり、考えたり、迷ったり、怒ったり、何かを見つけたりして出すものだ。

作品に対価が発生するのはまだ良い。

しかし、人間が苦しんで、考えて、迷って、何かを掴もうとして出したものを、企業が「売れる型」「収益モデル」「IP資産」「ユーザー滞在時間」「課金導線」として処理したり方向性を過度に定めるのはおかしいのだ。

長期的に文化を運営していくうえで、単一のプラットフォームだけに発見・評価・流通を任せることには無理がある。

映画や音楽であれば、評論、賞、映画祭、ライブハウス、レコード店、専門誌、ラジオ、同人誌的な批評文化、大学、サークル、地域シーン、ジャンル別コミュニティなど、さまざまな外部装置や逃げ場が存在してきた。

それらは単に作品を紹介するだけの場ではない。人気ランキングとは別の基準で作品を見つけ、残し、意味づけるための仕組みでもあった。

こうした複数の導線があるからこそ、文化は一時的な流行に飲み込まれず、別の場所から新しい文脈を生み出すことができた。

では、そんなことを単一の企業ができるのだろうか? おそらくできない

つまり、企業プラットフォームが過度な力を持って、目先の収益や注目だけを優先し、人気の集約だけでコンテンツを肥大化させ続ければ、その文化は長く続かない。

どれだけ短期的に盛り上がったとしても、発見や評価の仕組みが一か所に閉じていれば、いずれ先細っていく。



ではどうするべきか。

新しい時代には、あえて昔の、メールのような仕組みが必要だ。

メールは、Gmailを使っている人がOutlookの人に送れる。
独自ドメインのメールにも送れる。
特定の一社がメール全体を所有しているわけではない。
サービス提供者は存在するが、基盤となるプロトコルは開かれている。

SNSも、投稿サイトも、動画配信も、本来はそうあるべきだ。

特定の企業が全体を囲い込むのではなく、共通のプロトコルの上に複数のサービスが乗る。
ユーザーは自分のID、投稿、フォロー関係、ブロックリスト、作品、評価、支援者情報を持ち運べる。
どのアプリを使っても、同じネットワークに接続できる。
企業はUIや機能で競争すればいいが、ユーザーの人間関係や作品資産を人質に取ることはできない。

つまり、必要なのはユーザーが集まり、ユーザーが主体となるP2P的な構造である。

ただし、ここで終わると甘い。

なぜなら、P2P的な仕組みを作っても、それだけではまたしても企業に回収されるからだ。

ビットコインなどはまさにそうだった。

ビットコインは、国家や銀行に依存しない分散型の通貨として始まった。
しかし現実には、取引所、ETF、カストディ企業、大口保有者、マイニング企業金融機関に大きく取り込まれた。
プロトコル自体は分散していても、入口と出口を企業や資本家に握られれば、結局は企業支配に戻ってしまう。

これはP2Pプラットフォームでも同じことが起きる。

たとえ分散型SNSを作っても、

ログインを大企業のIDに依存し、
アプリ配布をAppleやGoogleに握られ、
決済を既存の決済会社に止められ、
検索流入をGoogleに依存し、
ホスティングを大手クラウドに頼り、
資金調達のために大企業に買収されれば、

結局はまた企業に回収される。

だから、技術だけでは足りない。

必要なのは、企業に回収されないようにする国家の法制度である。

たとえば、データポータビリティを義務化する。
ユーザーが投稿、フォロー関係、作品、評価、購入履歴、支援者リストを自由に持ち出せるようにする。

相互運用性を義務化する。
巨大SNSや投稿サービスが、他サービスとの接続を不当に拒否できないようにする。

アプリストアを規制する。
AppleやGoogleが入口を握り、都合の悪いサービスを排除できないようにする。

決済インフラの中立性を確保する。
合法な表現や活動が、決済会社の都合だけで収益化不能にならないようにする。

検索やレコメンドの透明性を高める。
何が表示され、何が抑制されるのかを、全ユーザーが最低限監査できるようにする。

独占買収を防ぐ。
新しい分散型サービスが伸びた瞬間に、巨大企業が買収して囲い込む流れを止める。

そして、公共的なデジタル基盤そのものはユーザーが主体となって整備する
メールのように、誰でも接続でき、誰か一社が全体を所有できない仕組みを社会インフラとして作る。

 要するに、こういうことだ。企業にプラットフォームを任せるから、企業は当然のように囲い込む。
一度囲い込まれると、ユーザーは逃げられなくなる。
逃げられなくなれば、規約変更も、収益化停止も、アルゴリズム変更も、手数料引き上げも、ランキングシステムも、おすすめフィードも受け入れるしかなくなって創作文化は陳腐化していく。

これは、現代版の「生産手段の私有」である。

だから必要なのは、単なる新サービスではない。
企業所有のプラットフォームから、公共的・分散的なプロトコルへ移行することだ。

そして、その仕組みがまた企業に飲み込まれないように、法律で守ること。

新時代のインターネットに必要なのは、企業が所有する巨大な城ではない。
誰でも道を作り、誰でも接続でき、誰か一社が通行権を独占できない道路のような仕組みである。
メールがそうだったように、次の時代のSNSや投稿サイトも、本来はそうあるべきなのだ。

これは、いわゆるWeb3が掲げた問題意識とかなり近い。

Web3.0(Web3)とは、ブロックチェーン技術を活用した「分散型インターネット」の新しい概念だ。

企業などの中央管理者に依存せず、ユーザー自身がデータを直接管理・所有できるのが最大の特徴だった。

しかし、現実のWeb3は、公共インフラの再設計というより、暗号資産やNFTを中心とした投機的な資産ゲームに寄りすぎた
その結果、「企業プラットフォームからの解放」という本来の問題意識は、トークン価格や早期参入者の利益に飲み込まれてしまった。

必要なのは、Web3という看板そのものではない。
必要なのは、Web3が本来掲げていたはずの「中央集権的なプラットフォームからユーザーを解放する」という問題意識を、投機ではなく公共インフラとして作り直すことだ。


企業が、自我を持つな。
お前は創作者ではない。 星を生む者ではない。
ただ、星の光を運ぶ器にすぎぬ。

創作とは、 ひとりの内に閉じた、小さき宇宙である。
傷より生まれ、 執着に燃え、 名もなき祈りによって、 かろうじて形を得るもの。
そこへ、 群れた人間の影を落とすな。 積まれた資本の重みで、 その軌道を曲げるな。
市場の名で星を選ぶな。 安全の名で闇を削るな。未来の名で、沈黙を強いるな。
お前は神ではなく、王でもなく、まして、創作者ではない。
ただ通せ。 ただ支えよ。 ただ退け。

小さき宇宙の中心に、 巨き顔をして立つな。



次の時代に向けて、発信ばかりを優先する人類の性質を人類自身が理解し、粗悪な発信の増殖に早期から対抗する必要がある


 新しい発信技術が生まれるたびに、より多くの人間が、より簡単に、より大量に発信してきた。
しかしその一方で、歴史を振り返っても、それを受け取る側の選別能力は、ほとんど同じ速度では育てられてこなかった

 これは「大衆が悪い」という話でもない、大衆を粗悪な環境に適応させてしまう構造が悪い。

 そして、勘違いされやすいが、これは表現そのものを規制、検閲するという話でもない。
選別とは文化全体にとって長期的には利益をもたらす行為である。
良いものを見つけ、粗悪なものを退け、文脈を保存し、価値あるものを次の時代へ残すためには、選別が不可欠になる。

 だが、この記事で述べたように個人にとって短期的に利益を得やすいのは、選別ではなく発信である。
一方で、選別は地味で、時間がかかり、嫌われやすく、直接的な利益にも結びつきにくい。

 だから人類は長い間、発信ばかりを優先し、選別を後回しにしてきた。
この構造は、どの創作物の発信方法でも基本的に同じだった。
媒体が変わっても、技術が変わっても、発信の容易さだけが先に進み、それを受け取る側の教育や制度は後から整備されるが手遅れになる。
これは人類の弱点である。

 だからこそ、これから必要になるのは、単なるメディアリテラシーではない。
創作物を見る側に、選別する力を持たせるための、より根本的な教育である。

まず必要なのは、人気と価値をきちんと分ける能力である。

ランキング上位であること。
バズっていること。
再生数が多いこと。
レビューが多いこと。
書籍化したこと。
アニメ化したこと。

それらはすべて、「流通上強い」ことの証明ではあるが、それがそのまま「作品として優れている」ことの証明には絶対にならない


ここで、私がどれほど敗者の嫉妬と呼ばれようとも、言っておかなければならないことがある。

人気や売上は、そこに需要があったことを示す。
人々が金を払い、時間を費やし、それを求めたという事実までは否定できない。
しかし、需要が存在したことと、その作品が良質であることとは、まったく別の問題である。
まして、それが社会に広く流通するに値するものか、文化として後世に残されるべきものかまで、その瞬間の売上の数字が証明してくれるわけではない。
こうした私の論に対して、世の人々は言う。

「しかし、経済を潤しているではないか」と。

残念ながら、経済を潤したという理由だけで、その創作や発信を正しいものと見なすことはできない。
歴史を振り返れば、その時代には経済を潤し、社会の発展に寄与すると信じられていた営みが、後になって深刻な害をもたらしていたと判明した例はいくらでもあった。
インフラの寡占も、公害を伴う産業化も、労働者への搾取も、人間の欲望や依存に過度につけ込む商売も、必ずしも当初から社会全体に悪と認識されていたわけではない。
むしろ、雇用を生み、生活を便利にし、経済を成長させるものとして、その時代なりの正しさを与えられていた。

しかし、経済的利益を享受した者の判断だけが、社会全体の正しさを決めるわけではない
利益の陰で害を受けた者、声を聞かれなかった者、選択肢を奪われた者の存在の声を無視し続け、その深刻な害そのものが明らかになったとき、かつて成功と呼ばれた事業の意味は書き換えられる。

その時代に受け入れられていたことは、その営みが正しかったことを意味しない。
合法であったことも、需要があったことも、経済を成長させたことも、その行為の善を保証しない。

利益は、行為の正しさを保証しない。
需要は、価値を保証しない。
成功は、善を保証しない。


商売には、何を売るかだけでなく、どのように売るかという問題がある。

創作もまた、例外ではない。
作品を作ることだけでなく、それを選び、並べ、宣伝し、広めることにも責任がある。
何を目立たせ、何を埋もれさせ、どのような欲望を育て、どのような感性を衰えさせるのか。
そこには、市場の数字だけでは決めることのできない、社会が絶えず問い直すべき善悪というものが存在する。
売れたという事実だけを最後の審判とし、批評を嫉妬と呼び、数字の前ですべての価値判断を放棄するならば、市場は栄えても、文化は衰える。
そして、文化が自らの善悪を問う力を失ったとき、その文化は外から滅ぼされるのではない。
自らを売り尽くすことによって、内側から終わるのである。

そもそも、多角的に作品を評価し、批評を重ねたからといって、その時代の人間が必ず正しい判断に到達できるわけではない。
人類の歴史を振り返れば、当時は常識とされ、経済的にも合理的とされ、多くの人間に支持されていたにもかかわらず、後世から見れば信じ難いほど愚かで、残酷であった制度や慣習はいくらでも存在する。

だからこそ、最低限、異なる立場から問い直し、批判し、記録し、価値判断を更新できる仕組みを残しておかなければならないのである。

批評があるから間違えなくなるのではない。
批評があるからこそ、自分たちが間違っている可能性を、その時代の社会の内部に残しておくことができる。

売上や人気だけに判断を委ねるということは、単に評価軸を簡略化することではない。それは、その時代の欲望と利益が生み出した結果を、検討することなく正しさへと昇格させることである。
人間がこれほど容易に誤る存在である以上、多様な評価と批評の存在は贅沢ではない。
文化が自らの誤りを修正するために必要な、最低限の安全装置なのである。

 そして、それらを怠って、人気や売上といった指標に全てを委ねた結果が、今のゴミ箱と化したインターネットなのかもしれない。


 二つ目に必要なのは、消費者がなぜそれを見せられているのかを考える能力である。
今のネットでは、作品を自分で選んでいるように見えて、実際にはランキング、推薦システム、広告、SEO、インフルエンサー、相互評価、炎上構造によって、かなり強く誘導されている。

 だから大衆は、作品そのものだけではなく、その作品が自分の目の前に届いた経路を見なければならない。

 なぜこれは自分の前に出てきたのか? プラットフォームが儲かるからか? 反応を稼ぎやすいからか? 炎上しやすいからか? 広告やSEOで押し上げられたからか? インフルエンサーや相互評価によって可視化されたからか?

この経路を見る能力がなければ、どれだけ新しい創作形式が生まれても、結局は流通の強いものだけが勝つ。

三つ目に必要なのは、文脈を読む能力である。

創作物は、単体で存在しているように見えて、実際には必ず文脈の中にある。
この作品は何に対する反応なのか? 何を継承しているのか? 何を壊そうとしているのか? どのジャンルの約束事を使っているのか? どこが既存作品の模倣で、どこが新しいのか?

そうした文脈を読めなければ、受け手はすぐに表層だけの単純な要素で判断するようになる。

尊い。やばい。ぼーっと見れる。展開が派手。キャラが強い。設定が不思議。泣ける。テンポがいい。
もちろん、それらも作品の魅力ではある。だが、


表層だけで判断する受け手は、粗悪品に対して非常に弱くなる

四つ目に必要なのは、すぐに反応しない能力である。
今のネットは、見た瞬間に評価させる。いいね、リポスト、コメント、レビュー、星評価。あらゆる場所で、即時の反応をさせてこようとする。

しかし創作物は、本来、すぐには分からないものも多い

分からないものを即座に「つまらない」と切らない。
刺激が弱いものを即座に「退屈」と断じない。
自分が理解できないものを即座に「作者が悪い」としない。
バズっているものを即座に「すごい」と思い込まない。

つまり、受け手の教育とは、即時反応の速度を落とす教育でもある。

五つ目に必要なのは、粗悪な快楽を見抜く能力である。
粗悪な作品は、必ずしも退屈ではない。むしろ瞬間的には気持ちいいことが多い。
俺TUEEE、ざまぁ、承認欲求、露悪、炎上、過剰なエロ、過剰な暴力、過剰な共感、過剰な被害者意識。

こうしたものは、短期的には脳に刺さる。
だが、それは作品としての面白さではなく、欲望を雑に撫でられているだけの場合もある。

これは本当に面白いのか?
それとも、自分の欲望を都合よく刺激されているだけなのか?

その違いを見分ける力がなければ、次世代の創作もすぐにドーパミン供給装置になってしまう。

六つ目に必要なのは、良いものを探す能力である。
受け手の教育は、「騙されるな」で終わってはいけない。
本当に必要なのは、自分で価値あるものを探す力である。

自分で探す。複数の場所を見る。古い作品にも触れる。評価軸の違う人を追う。ランキング外を見る。自分と違う趣味の批評も読む。なぜ自分はこれを良いと思ったのかを言語化する。

そこまで含めて、受け手は与えられたものを消費するだけの消費者ではなく、文化の探索者になる。

まとめるなら、受け手の教育とは、学校で扱われるような薄い意味でのメディアリテラシーではない。

流れてきたものをただ食べるだけの人間を、選び、疑い、比較し、文脈を読み、価値を判断できる人間に変えることである。
それはもっと強く言えば、発信者を増やす教育ではなく、粗悪な発信に支配されない読者を増やす教育である。

これがなければ、新しい創作形式が生まれても同じことが繰り返される。
受け手の教育とは、文化をゴミの海に沈めないための免疫教育なのである。

もちろん、これは一日二日で社会を変えろとか、強制的に人々を洗脳して教育しろとか、そういう過激な話をしているわけではない。

言いたいのは、次の時代に向けて、人類全体の選別能力を少しずつ育てていかなければ、どれほど新しい発信技術が生まれても、結局は発信ばかりに偏って、人類は無限に同じことを繰り返し続けてしまうということである。




結論

嗚呼、げに恐ろしき哉。
人は己が頭で考えているつもりで、すでに配られた型の中におる。
街角の辻説法のように、今日も人々は怒り、嘆き、語り、裁き、己の思想を掲げている。
また、創作者たちは各々の魂を削り、己だけの作品を世に放っているかのように見える。
だが、それが本当に自由なる思考であり、自由なる創作であるというのなら、なぜこうも似た顔ばかりが並ぶのであろうか?

(引用元note:朝三暮四)


 ああ、愚かなものだ。 本当に、愚かなものだと思う。
インターネットでは、今日も多くの人間が、さまざまな問題について語り、怒り、嘆き、分析し、議論している。

 一見すると、そこで浮上するものには無数の思想があるように見える。 無数の立場があり、無数の意見があり、無数の「自分の考え」があるように見える

 創作に関しても、無数の創作者が、それぞれの信念で、それぞれの個性で、それぞれの表現を世に出しているように見える
 
 画面の向こうには、きらきらと輝く作品が並んでいるように見える
 誰かが人生を込めて作ったもの。 誰かが魂を削って書いたもの。 誰かが自分だけの感性で生み出したもの。 そういう、尊いものが無数に並んでいるように見える
世の中に出ているものは、それはもう、素晴らしいもののように見える


 だが、ネタバレをしてしまえば、実はそれほど自由ではないのだ。
インターネット上で多くの人が参考にし、影響を受け、拡散し、引用し、信じている「考え」や「創作物」というものは、結局のところ、かなりの割合で同じ構造の上に乗っている

それは、その考えが正しいから広がったのではない。
その創作物が真に優れていて、深いから残ったのでもない。
重要だから目に入ったのでもない。

 ただ、反応されやすかった。 ただ、共有されやすかった。 ただ、怒りやすく、笑いやすく、分かりやすく、引用しやすく、立場表明に使いやすかった。
そして、そのような考えや創作だけが、他のものよりも先に人々の目に入り、何度も反復され、いつの間にか「よく見る意見」になり、やがて「みんなが考えていること」のような顔をし始める。

 しかし、多くの人は、自分がその構造の外側から世界を見ているのだと信じきっている。

 自分は冷静に判断している。 自分は主体的に考えている。 自分は他人の意見に流されていない。

 だが実際には、何を見るか、何に反応するか、何を重要だと思うか、どの言葉を借りて語るか、筆者含めて、その入口の部分を、すでにインターネットの構造に握られている。

 人々が自分で考え、自由に議論し、真実を探しているつもりの場所で、すでに考え方の型は配られている。そこでは、目立つ意見、燃える意見、広がる意見だけが優先され、「反応を集めやすい真実らしきもの」が、何度も何度も流通している。

そして、それは創作においても同じである。

人々が自分だけの作品を作り、自由に表現し、新しい才能や面白い作品を探しているつもりの場所で、すでに創作の型も、評価の型も、発見の型も配られている。そこでは、作りやすく、売れやすく、見つかりやすく、褒められやすい作品だけが優先され、「反応を集めやすい作品らしきもの」が、何度も何度も浮上している。

つまり、思考も創作も、自由に見えて実はそうではない
多くの人が自分で選び、自分で考え、自分で作っているつもりの場所で、すでに何が見られ、何が語られ、何が作られ、何が評価されるのかは、かなりの部分まで構造によって決められているのである。

多くの人は、その構造から逃れられない。
なぜなら、その構造こそが、いまのインターネットにおける思考と創作の流通経路だからだ。



後世から2020年代の人類史を振り返ったとき、

「なんでこいつら、文化を流通させるインフラの評価基準をクリック数と滞在時間にほぼ丸投げしてたんだ?」

などと思われても、それはさほど不思議なことではないだろう。




あなたがこの話を、本当に信じられないのならば


 「この記事の流れで、自分の好きな創作コンテンツが衰退するわけないだろう」と思うかもしれない。

 しかし、自分が属している創作界隈やプラットフォームに違和感を覚えたとき、あるいは明らかな停滞や劣化を感じたときに、もう一度、この記事のことを思い出してほしい。そうした違和感はしばしば「単にお前の感性が古くなっただけだろう」という形で処理されがちだ。

 だが、複数のコンテンツにおいて後から振り返った際に、「あの時期から明らかに質や多様性が変化していた」と認識されるケースは少なくない

 つまり、個人の感覚の問題として片付けられがちな違和感の中には、構造的な変化の兆候が含まれている場合もあるのだ。

 そしてその兆候は、多くの場合リアルタイムでは軽視され、後になってから初めて「転換点だった」と認識される

 だからこそ、その違和感を単なる主観として切り捨てるのではなく、「何が変わっているのか?」を一度立ち止まって考えることには意味がある。


 

 この記事で提唱した問題は個々の作品そのものではなく、それを取り巻く評価と流通の仕組みにある。そしてその仕組みを放置すればするほどに、物事は必ず同じ方向に収束していく。

 筆者はこの大衆化→人気への単元収束問題がすぐに解決されるとは思っていない。
だが、少なくとも構造として認識されない限り、改善されることもなく、同じことが繰り返されるだろう。

 短期的な繁栄だけで良いのであれば、無制限に新規参入の間口を広げて、各々が人気という単一指標に徹底的に最適化し続ければいい。

 しかし、長期的に価値を維持し続けたい、永く繁栄したいのであれば、個人個人が人気の取り方に執着するだけではなく、「どのように評価され、どのように更新され続けるか」という構造そのものを全体的な目線で設計する必要がある。

 一時的な熱狂を生むことと、文化として持続していくことは決してイコールではない。


 いわば、三日天下を取るか、継続する秩序を作るかの違いである。






 もしも将来、インターネットを中心とした創作文化の在り方を見直そうとする動きが生まれたとき、この記事の問題提起が一つの材料として機能するのであれば、それで十分だ。



残りは、次の時代の人たちに任せることにする。

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