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愛すること わたしなりの解釈

昨日の日経新聞に「哲学カフェ」なるものがあると特集されてました。近くにあったら行きたかったー。憧れて読んでました。


もし参加したら、わたしはどんなテーマで語り合いたいか。思わず妄想です。

「愛」ですね。
参加できずとも、考えを深めてみよう。そんなわけで、今晩はわたしの哲学ひとり語り記事です。

愛するということ。このタイトルでズバリ、哲学の偉人が出してる本があります。エーリッヒ・フロムです。

何回も読んでいます。悲しいかな。いまだ読んだよレポートを書けるほど、理解に至れてない。そんなわたしが、「愛すること」を語れるのか。いいんです。語りたいんだから、やっちゃおう、書いちゃおう。

誰しもそうだと思うのですが、自然と心からわく気持ちに「好き」「嫌い」または「快」「不快」があると思います。パッと感じる感覚だから、自分でコントロールできることじゃない。無理くり何とかせずとも良い。自然に任せるのが一番。

そうなんですよね。わたしはこのごく当たり前に、ずいぶん遠回りして気づきました。

「嫌い」「不快」の存在を消し去ったら、すんごい素敵なはず。こんな単純な発想がわたしの始まりでした。「嫌い」と感じた物へは、目の前から無くす。イヤと感じた人間関係なら疎遠になる。研ぎ澄ますイメージと言いますか。洗練させようとしてました。

するとどうなるか。「ここにもある」「そこにもある」と嫌い発見センサーが過敏になる。たぶん差したる存在じゃないんだろけど、発見した途端にその存在感が超巨大に感じる。研ぎ澄ましたイイものへ目を向けるどころか、退治すべきものばかりへ目を向けがちになるんです。全然楽しくない。むしろしんどいさが増します。

そんな遠回りをしたわたしだからこそ、思うんです。愛するとは、好きも嫌いもその存在をそのままに認めることだって。「ああ、好きだな」「ああ、嫌いだな」そう感じるままに委ねること。一方を優遇し、一方を排除することが、愛するではない。

「嫌い」の存在を認めなかったわたしからすると、「嫌いがあっていいよ」ってものすごい愛です。なんて心が広いんだろうと思います。

エーリッヒ・フロムの「愛するということ」の中で、共感と言いますか。とても腑に落ち、救いの箇所があります。

愛するとは技術である。

愛するとは、先天的な才能じゃないんです。自分で磨いてく中で培われる。つまりわたしは絶賛、愛することを磨いてる最中てこと。愛するって、自分でなんとか出来る。ホッとします。

日経新聞にも載っていたのですが。哲学カフェにて語り合うことで、万人に共通の「絶対解」を出そうとしてるわけじゃないです。いろんな生き方があるし、いろんなシチュエーションがある。その時々にあった答えなんて、いっぱいあります。

いっぱいあるからこそ、「自分の答えってコレだな」と考える力を身につけるのが何よりも大切です。哲学を通して語り合うことで、考える力、生きる力をつけてます。

わたしも自分の人生経験、感性に合わせ、愛することをこれからも益々磨きます。愛について深まったその時は、再び記事にします。そのときは、どうぞまたよろしくお願いします。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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