【今日は何の日】6月27日
6月27日、今日が歴史的にどんなことがあった日なのか?
何か行事のある日なのか?
小学生の家庭でのちょっとした会話のために、ぜひ使ってください。
※1872年までの日本の出来事は旧暦を使用しています。
行事・記念日
① メディア・リテラシーの日
ディア・リテラシーの日は、新聞やテレビ、インターネット、SNSなどの情報を正しく読み取り、自分で考えて判断する力の大切さを考える日です。
現代では誰でも簡単に情報を発信できる一方で、誤った情報やフェイクニュースも広がりやすくなっています。そのため、情報をうのみにせず、複数の情報源を比較しながら判断することが重要とされています。
制定のきっかけとなった松本サリン事件については、後の項目で説明します。
② 日照権の日
日照権の日は、1972年6月27日に最高裁判所が日照権に関する判断を示したことに由来します。日照権とは、建物によって日当たりが極端に悪くならないよう守られる権利のことです。
環境権の一部にふくまれ、日本国憲法に書かれていない「新しい人権」のひとつです。日本国憲法第13条の「幸福追求権」を拡大解釈する形で、人権のひとつとされています。
日本国憲法第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
現在では建築基準法や都市計画法などにも関係し、住宅地での建物の高さや配置を考えるうえで重要な考え方となっています。マンションなどの大型建築は、建てる前に「環境アセスメント」を行い、場合によっては、建物の形を斜めにするなどして周りの建物の日照権を守る必要があります。

③ 演説の日
演説の日は、1874年6月27日に福沢諭吉が東京・三田で日本初の本格的な演説会を行ったことに由来します。当時の日本では、人前で自分の意見を述べ、議論する文化はまだ十分に広がっていませんでした。
福沢諭吉は英語のspeechの訳語として「演説」という言葉を広め、言論によって社会を動かすことの大切さを説きました。明治時代の自由民権運動や議会政治の広がりとも関係する記念日です。

何があった日
① 1582年6月27日 清須会議(清洲会議)
本能寺の変で、明智光秀の裏切りにより織田信長が亡くなった後、織田家の後継者と領地配分を決めるために開かれた会議です。信長と同日にその長男・織田信忠も京都の二条城で討死してしまったので、織田家は当主が不在となっていました。
会議には織田家の重臣である羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が参加しました。信長の孫である三法師(3歳)が後継者に選ばれ、秀吉は大きな発言力を持つようになります。
この会議をきっかけに、秀吉は事実上の天下人として織田家中および国内での立場を強め、やがて天下統一へと進んでいきました。
会議の様子を表した三谷幸喜の映画「清須会議」が有名です。小説版もあります。

その後、三法師を擁した秀吉は、信長の三男・織田信孝を自害に追いやり、次男・織田信雄を押しのけて実権を握ります。その後、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破り、小牧・長久手の戦いで徳川家康を従え、秀吉は天下を固めていくことになります。
織田家を形式上引き継いだ三法師は、のち織田秀信と名乗り、岐阜城主となりますが、関ケ原の戦いで西軍に属して改易されました。
② 1882年6月27日 日本銀行条例
明治政府は日本銀行条例を公布し、日本銀行の設立を決めました。
日本銀行は日本の中央銀行として、紙幣の発行や金融の安定を担う機関です。「政府の銀行」「銀行の銀行」「発券銀行」の3つの役割を持ちます。

それまでの日本では、複数の銀行が紙幣を発行していたため、通貨制度が安定していませんでした。日本銀行の設立によって、近代的な金融制度が整えられていきます。
ちなみに、日本初の銀行は渋沢栄一が1873年に設立した第一国立銀行です。
③ 1994年6月27日 松本サリン事件
長野県松本市で、猛毒のサリンがまかれ、多くの人が被害を受けた事件です。後にオウム真理教による犯行であることが明らかになりました。
当初は無実の住民が疑われるなど、報道のあり方にも大きな問題を残しました。この事件は、翌年の地下鉄サリン事件へとつながる重大事件でもありました。
誕生日
① 1377年6月27日 後小松天皇
後小松天皇は、南北朝時代から室町時代にかけての天皇です。
足利義満の時代に即位し、南北朝合一のときの天皇として知られています。
後醍醐天皇が京都から脱出し、吉野に南朝を開いてから、およそ60年、京都の北朝と吉野の南朝、2人の天皇・2人の元号のある時代が続きました。
足利義満の軍事力・経済力を背景に、南朝の御亀山天皇は三種の神器をもって上洛。神器は北朝へ返されました。その後、南北朝が交互に天皇を出すという約束は反故にされ、北朝の天皇が続くことになりました。
② 1850年6月27日 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)
小泉八雲は、ギリシャで生まれ、来日後、日本文化に深く魅せられ、日本人女性と結婚して日本国籍を取得しました。『怪談』の作者として知られ、「耳なし芳一」「雪女」などの物語を海外に紹介しました。島根県松江市で暮らしたことでも有名です。

こうした怪談は、大人世代には常識ですが、今の小学生には広まっていないものもあり、「大人の常識」テーマの一環として入試でも扱われることがあります。
「耳なし芳一」あらすじ
昔、下関の寺に、芳一という琵琶法師がいました。芳一は特に『平家物語』を語るのが上手で、その名は広く知られていました。
ある夜、武士に呼ばれた芳一は、大きな屋敷の中で、人々の前で琵琶を演奏します。その後、芳一は毎晩のようによばれ、続きを語るようになりました。しかし、その屋敷は実際には存在せず、芳一が演奏していた相手は壇ノ浦の戦いで亡くなった平家一門の亡霊だったのです。
住職は事情を知ると、芳一を守るため、全身にお経を書きます。しかし、耳だけ書き忘れてしまいました。
その夜、いつものように迎えに来た亡霊には、芳一の姿が見えませんでしたが、耳だけが見えたため、「耳だけ持ち帰ればよい」と考え、芳一の両耳を引きちぎってしまいます。
芳一は命を取り留めましたが耳を失いました。人々は彼を「耳なし芳一」と呼ぶようになりました。
「雪女」あらすじ
昔、若い木こりたちが山で木を切った帰り、大雪のため山小屋で一夜を過ごすことになりました。
その夜、美しい雪女が現れ、1人ずつに冷たい息を吹きかけて命を奪っていきます。しかし若い巳之吉(みのきち)には「今日のことを誰にも話さないなら命は助けてあげる」と約束させ、その場を去りました。
数年後、巳之吉はお雪という美しい女性と出会い、結婚します。二人は幸せに暮らし、多くの子どもにも恵まれました。しかし、ある冬の夜、巳之吉は昔出会った雪女の話を、お雪にうっかり打ち明けてしまいます。
すると、お雪は「その雪女は私です」と正体を明かします。本来なら約束を破った巳之吉の命を奪うところでしたが、子どもたちのことを思い、命だけは助けて姿を消しました。それ以来、お雪は二度と戻ってきませんでした。
2025年後期のNHK朝ドラのモデルとなり、それがきっかけで中学入試にも多く出題されました。特に八雲の妻・小泉セツは、八雲にとって欠かせない存在だったと言われています。セツは積極的に英語を身につけだだけでなく、地元住民からの口伝の聞き取りなどを積極的に行い、簡単な言葉に直して八雲に伝えるなど、八雲の執筆を助けたのです。
③ 1880年6月27日 ヘレン・ケラー
ヘレン・ケラーは、幼いころの病気で、目が見えず、耳が聞こえず、話すことも難しい状態になりました。しかし、家庭教師アン・サリバンの支えによって言葉を学び、大学にも進学しました。
井戸の水をサリバン先生にかけてもらったヘレンが、「water(水)」を理解した瞬間はよく知られています。

その後は、障害のある人々の教育や権利の向上のために活動しました。平和活動に対する貢献で、ノーベル賞にノミネートされたこともありました。
亡くなった日
① 1936年6月27日 鈴木三重吉
鈴木三重吉は、児童文学雑誌『赤い鳥』を創刊した作家です。
『赤い鳥』には、芥川龍之介、北原白秋、新美南吉など多くの作家や詩人が関わりました。子どものための優れた文学や童謡を広めた人物です。日本の近代児童文学の発展に大きな役割を果たしました。

② 1946年6月27日 松岡洋右
松岡洋右は、満州国が国際社会で認められるか、リットン調査団の結果を受けて国際連盟で話し合われたとき、日本代表として演説したことで知られています。投票の結果、満州国は全世界の国々から承認されず、松岡が議場を後にしたことで日本は国際連盟を脱退しました。その後、日本は国際社会で孤立を深め、日中戦争から太平洋戦争へ突入していくことになります。
その後、外務大臣として日独伊三国同盟の締結を進めました。
戦後、A級戦犯として起訴されましたが、裁判中に病死しました。

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