【今日は何の日】7月19日
7月19日、今日が歴史的にどんなことがあった日なのか?
何か行事のある日なのか?
小学生の家庭でのちょっとした会話のために、ぜひ使ってください。
※1872年までの日本の出来事は旧暦を使用しています。
行事・記念日
① やまなし桃の日
7月19日は「やまなし桃の日」です。この記念日は、全国有数の桃の産地である山梨県が制定しました。
山梨県は、桃の収穫量が長年全国1位を誇ることで知られています。ちなみに2位は福島県です。
山梨県はぶどうも1位ですが、旬はももの方が夏寄りで、ぶどうより早いのが特徴です。
では、なぜ7月19日が桃の日なのでしょうか。これは、7月が桃の最盛期であることに加え、7月19日が1年が始まって200日目で、百と書いて「もも」とも読むことから、100の倍数日目である7月19日が選ばれました。語呂合わせを利用したユニークな記念日です。
桃は古くから日本人に親しまれてきました。『古事記』では、黄泉の国から逃げるイザナギノミコトが桃の実を投げて鬼を追い払ったという神話が登場します。また、『桃太郎』は誰もが知る昔話です。中国の伝説に出てくる理想郷は「桃源郷」とよびます。このように桃は、魔除けや長寿、幸福の象徴として考えられてきました。

山梨県でもも栽培が始まったのは江戸時代後半のようです。山梨で多く作られた「甲州八珍果」の一つに数えられます。ただし、現代に繋がる栽培方法の確立は1900年以降でした。太平洋戦争中は食糧増産のため桃は切られることもあったようですが、現在は特にブランド化が進み、山梨の桃は人気を博しています。
甲州八珍果
ぶどう、もも、かき、なし、くり、りんご、ざくろ、くるみ(またはギンナン)
② 女性大臣の日
7月19日は「女性大臣の日」です。
1960年7月19日、第1次池田勇人内閣が発足しました。この内閣では、中山マサが厚生大臣に任命され、日本で初めての女性大臣となりました。この出来事を記念して、7月19日は「女性大臣の日」とされています。

中山マサは、戦後間もない頃から女性の権利向上に尽力した政治家です。
女性の地位向上や福祉政策に力を入れ、日本の社会保障制度の充実にも貢献しました。
その後、日本では多くの女性政治家が活躍しています。しかし、世界全体と比べると、日本の女性議員や女性閣僚の割合はまだ高いとはいえません。
これまで、日本では高市早苗氏が首相、土井たか子が衆議院議長、扇千景と山東昭子が参議院議長を歴任しました。これで三権のうち立法と行政のトップは女性が経験したことになります。司法のトップである最高裁判所長官は、これまで全て男性でした。
省付の国務大臣のうち、2026年現在、農林水産大臣以外はすべて女性が就任したことがあります。
例えば、外務大臣は田中角栄の娘の田中真紀子や上川陽子が歴任しました。現在、東京都知事の3期目を務める小池百合子氏も、環境大臣や防衛大臣を歴任しています。
2026年2月の衆議院総選挙では、女性の当選者は68名で、全体の14.6パーセントでした。


何があった日
① 1189年7月19日 源頼朝が奥州征伐のため鎌倉を出発
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、奥州藤原氏を討つため鎌倉を出発しました。この戦いは「奥州征伐」と呼ばれ、頼朝の武力での全国支配が完了したことを天下に示すことになりました。
奥州藤原氏は現在の岩手県平泉を中心に栄えた武士の一族で、初代藤原清衡以来、およそ100年にわたって東北地方を支配していました。平泉には中尊寺金色堂が建てられるなど、当時の日本でも有数の豊かな文化が花開いていました。
しかし、源義経が兄・頼朝と対立し、平泉へ逃れると状況が変わります。
藤原秀衡は義経を保護しましたが、秀衡の死後、後を継いだ藤原泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経を自害に追い込みました。それでも頼朝は奥州征伐を決行し、30万とも呼ばれる全国の御家人を動員しました。
福島県白河市付近の阿津賀志山の防塁で、奥州藤原氏は防衛を図りましたが失敗。泰衡は平泉を捨てて逃走し、家来に裏切られて殺害されました。こうして奥州藤原氏は滅亡します。
藤原泰衡の遺体は、首だけがミイラになって中尊寺金色堂に納められているのが発見されました。額には大きな損傷があり、釘などでうちつけてさらし首にされた等の説もあります。
② 1864年7月19日 禁門の変(蛤御門の変)
長州藩と幕府側の薩摩藩・会津藩などが京都で衝突した事件です。
前年の八月十八日の政変で京都から追放された長州藩は、追い打ちをかけるように池田屋事件で多くの武士を殺害されました。そこで、報復を兼ねて、勢力を回復しようとして兵を率いて京都へ進軍しました。京都から幕府勢力を追い払い、朝廷に影響力を取り戻そうとしたとされています。
しかし、幕府側の薩摩藩と、京都守護職の会津藩は協力してこれを迎え撃ち、市街地を巻き込む激しい戦闘となります。まだ将軍に就任する前の一橋慶喜(のちの徳川慶喜)が戦場を取り仕切りました。薩摩の西郷隆盛も連携したとされています。
天皇のいる御所に向かって発砲した長州藩は、朝敵として扱われることになりました。

今なお、当時の弾痕が残る
戦いの結果、長州藩は敗北し、久坂玄瑞や来島又兵衛など多くの有力な志士が戦死しました。
この火災は市街地に広まって「どんどん焼け」とも呼ばれ、京都の町に大きな被害をもたらしました。
京都は太平洋戦争で大きな空襲をうけなかったので、今でも「前の戦争」というと応仁の乱を指すこともあるといいます。
しかし、この敗北は長州藩をさらに強くしました。幕府による長州征伐が行われる中で、高杉晋作らが藩内改革を進め、西洋式軍隊や身分にとらわれずに兵を集めた奇兵隊を整備します。そして薩長同盟を結び、やがて倒幕運動の中心となっていきます。
③ 1960年7月19日 第1次池田勇人内閣が発足
岸信介内閣が日米安保条約の改定を成し遂げて総辞職したのを受け、池田勇人内閣が成立しました。
池田内閣といえば、日本経済を大きく発展させた「所得倍増計画」が有名です。当時の日本は高度経済成長期の真っただ中にあり、国民の生活は急速に豊かになっていきました。
所得倍増は1970年を目処の予定でしたが、なんと七年後の1967年には達成されたのです。

所得倍増計画では、「10年間で国民所得を2倍にする」という大胆な目標を掲げました。道路や新幹線、高速道路などのインフラ整備が進み、家電製品が各家庭に普及し、日本は世界有数の経済大国へと成長していきます。
一方で、高度経済成長には公害問題や都市への人口集中などの課題も生まれました。そのため、中学入試では経済成長の成果だけでなく、公害や環境問題とセットで問われることが少なくありません。
④ 1980年7月19日 モスクワオリンピック開幕
モスクワ五輪は「ボイコットのオリンピック」として知られています。
前年にソ連がアフガニスタンへ軍事侵攻したことに抗議し、アメリカを中心に60以上の国と地域が参加を取りやめました。日本もアメリカと歩調を合わせ、不参加を決定しています。
多くの日本代表選手は大会出場を目標に努力を続けてきましたが、政治的な理由によって夢を断たれることになりました。この出来事は、スポーツと国際政治が深く結び付いていることを示す代表例として知られています。平和の祭典として、会期中は戦闘行為を止めることが推奨されることもあるオリンピックが、政治対立の影響を受けてしまった皮肉な例です。
オリンピックは平和の祭典と呼ばれますが、実際には冷戦の影響を大きく受けてきました。1984年のロサンゼルス大会では、今度はソ連など東側諸国が報復としてボイコットを行っています。
⑤ 2000年7月19日 二千円札が発行される
日本銀行は二千円札の発行を開始しました。
2000年を記念するため、同年行われた九州・沖縄サミットを記念するため、世界に多い「2」のつく紙幣を発行することで経済を活性化させるため などの目的がありました。
表面には沖縄県にある守礼門、裏面には『源氏物語』の一場面(出典は源氏物語絵巻)と紫式部の肖像が描かれています。

発行当初は大きな話題となりましたが、自動販売機やATMへの対応が十分ではなく、一万円札や千円札ほど普及しませんでした。発行も2003年で止まっています。
現在でも使うことはできますが、実際に目にする機会は少なくなっています。珍しいので、未使用のピン札だと2400円以上の価値を持つこともあるようです。
誕生日
※7月19日は、中学受験で特に重要な人物の誕生日はありません。
亡くなった日
① 1965年7月19日 李承晩
李承晩は韓国の初代大統領です。

1945年、日本が敗戦すると、朝鮮半島は北緯38度線を境に、北をソ連、南をアメリカが占領しました。その後、1948年に南側では大韓民国(韓国)が建国され、李承晩が初代大統領に就任します。一方、北側では朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国され、朝鮮半島は二つの国家に分かれることになりました。
1950年には朝鮮戦争が勃発します。北朝鮮軍が南へ侵攻したことで始まったこの戦争には、国連軍としてアメリカを中心とする国々が韓国側を支援し、中国は北朝鮮を支援しました。日本も直接戦闘には参加しませんでしたが、アメリカ軍への物資供給や修理などを担い、「特需景気」と呼ばれる経済成長のきっかけとなりました。
李承晩は強い反共主義を掲げる一方で、長期政権の中で不正選挙や政治腐敗が問題となります。1960年には「四月革命」と呼ばれる民主化運動が起こり、大統領を辞任してハワイへ亡命しました。
② 2004年7月19日 鈴木善幸
鈴木善幸は岩手県出身の政治家で、内閣不信任の成立のあと、衆議院を解散した大平正芳首相が選挙期間中に急病死すると、そのあとをうけて1980年から1982年まで内閣総理大臣を務めました。

鈴木内閣の時代は、世界では冷戦が続いていました。アメリカとソ連が対立する中、日本は日米同盟を基軸としながらも、できるだけ国際社会との協調を図る外交を進めました。また、この頃は1980年代の経済成長へ向かう転換期でもあり、日本企業が世界市場で存在感を高め始めた時代でもあります。
③ 2007年7月19日 河合隼雄
河合隼雄は、日本を代表する臨床心理学者であり、日本にユング心理学を広めた人物として知られています。また、文化庁長官を務めるなど、教育や文化の分野でも大きな功績を残しました。
臨床心理学とは、人の心の悩みや問題を理解し、支援するための学問です。河合隼雄は、カウンセリングを日本社会に広く普及させる役割を果たしました。現在では学校にもスクールカウンセラーが配置されることが一般的になっていますが、その基礎づくりに貢献した一人が河合隼雄です。
著書『こころの処方箋』は有名で、中学入試にも頻出します。
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