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【今日は何の日】7月20日

7月20日、今日が歴史的にどんなことがあった日なのか?
何か行事のある日なのか?
小学生の家庭でのちょっとした会話のために、ぜひ使ってください。
1872年までの日本の出来事は旧暦を使用しています。


行事・記念日

① 海の記念日

7月20日は「海の記念日」です。現在は7月の第3月曜日が「海の日」となっていますが、もともとは毎年7月20日に制定されていました。現在、いくつかの祝日が月曜日になっているのは「ハッピーマンデー」と呼ばれるシステムです。月曜日を祝日にすると土・日・月の三連休を生み出すことができ、これによって旅行に行く人が増えて、地方経済を活性化させることができるという狙いがあります。

「海の日」という祝日の由来は、1876年(明治9年)に明治天皇が東北地方を巡幸した際、軍艦ではなく灯台巡視船「明治丸」で横浜港へ無事帰着したことにあります。当時、日本は近代国家として海運や造船業を発展させようとしていた時代であり、この出来事を記念して1941年に「海の記念日」が制定されました。
その後、1996年に国民の祝日「海の日」となり、2003年からはハッピーマンデー制度によって7月第3月曜日へ移されたのです。
日付が変わっても、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」という趣旨は現在も変わっていません。

日本の祝日一覧
元日(1月1日) 成人の日(1月第2月曜日)
建国記念の日(2月11日) 天皇誕生日(2月23日)
春分の日(3月20日ごろ)
昭和の日(4月29日)
憲法記念日(5月3日) みどりの日(5月4日) こどもの日(5月5日)
海の日(7月第3月曜日)
山の日(8月11日)
敬老の日(9月第3月曜日) 秋分の日(9月20日ごろ)
スポーツの日(10月第2月曜日)
文化の日(11月3日) 勤労感謝の日(11月23日)
※2026年現在、6月、12月に国民の祝日はありません。

② ハンバーガーの日

7月20日は「ハンバーガーの日」です。
1971年7月20日、日本で初めてのマクドナルド店舗が東京・銀座にオープンしたことを記念して制定されました。当時の銀座三越1階に開店した店舗には長蛇の列ができ、日本人の食生活に大きな変化をもたらす出来事となりました。

ハンバーガーはアメリカの代表的な料理として知られていますが、その名前の由来はドイツ北部の港町ハンブルクです。ハンブルク風ステーキがアメリカへ渡り、パンにはさんで食べる現在のハンバーガーへと発展しました。
アメリカ人がハンバーガーを好む印象は強いです。例えば、米軍基地がある佐世保や横須賀はバーガーが有名です。

佐世保バーガー。注文を受けてから焼くため、仕上がりまで15分ほどかかる(筆者撮影)

③ ファクシミリ記念日

7月20日は「ファクシミリ記念日」です。
1981年7月20日、日本で郵政省(現在の総務省)がファクシミリを利用した通信サービスを開始したことを記念しています。

ファクシミリ、いわゆるFAXは、紙に書かれた文字や図を電話回線を使って相手に送る機械です。FAXが普及したことで、それまで郵送に数日かかっていた書類が数分で相手へ届くようになり、仕事の効率は飛躍的に向上しました。現在では電子メールやスマートフォンの普及によって利用機会は減りましたが、長年にわたって企業や役所、学校などで欠かせない通信手段として活躍しました。

④ Tシャツの日

7月20日は「Tシャツの日」です。
この日は、夏本番を迎え、Tシャツを着る機会が増えることから制定されました。また、「T」の字がアルファベットの20番目に近いという語呂合わせも由来の一つとされています。

Tシャツはもともと19世紀末から20世紀初めにかけて、欧米で下着として使われていました。しかし第二次世界大戦後、映画俳優などがTシャツ姿で登場したことで、ファッションとして世界中へ広まりました。服の形がTに近いことからその名が付きました。また、似た名前のYシャツは「ホワイトシャツ」が語源で、「Y」とは関係ありません。

⑤ 修学旅行の日

7月20日は「修学旅行の日」です。
1889年7月20日、山梨女子師範学校が、女子校として初めて修学旅行を実施したことに由来しています。
修学旅行は、教室では学べない歴史や文化、自然を実際に体験することを目的としていて、学びの集大成、学びの一環となっています。地方の学校の場合、公共交通や飛行機、新幹線などの乗り方や、宿泊先の宿での過ごし方、ふるまい方やテーブルマナーなどを教えるという意味合いもあるのです。

また、集団生活を通して協調性や自主性を育てることも大きな目的です。友達と協力して行動した経験は、多くの人にとって一生の思い出となります。

中学校の修学旅行の行き先変化
高校の修学旅行の行先変化

⑥ ビリヤードの日

7月20日は「ビリヤードの日」です。この記念日は、1955年7月20日に日本ビリヤード協会(現在の日本ビリヤード協会の前身)が設立されたことを記念して制定されました。

ビリヤードは、テーブルの上で球をキューという棒で突き、決められたルールに従って得点を競うスポーツです。その起源は15世紀ごろのヨーロッパとされ、もともとは芝生の上で行われていた球技が室内へ移り、現在の形になったと考えられています。
日本には明治時代初期に伝わり、戦後には多くのビリヤード場が誕生しました。近年では世界で活躍する日本人選手も増え、スポーツとしての認知度も高まっています。

⑦ 中小企業の日

7月20日は「中小企業の日」です。
2020年に中小企業庁が制定した比較的新しい記念日で、日本経済を支える中小企業の役割を広く知ってもらうことを目的としています。

日本には約330万社の企業がありますが、そのうち99%以上が、働く人が300人未満の中小企業です。また、働く人の約7割が中小企業で働いているといわれ、日本経済を支える大きな存在です。

一方で、中小企業は収入が不安定なので、人手不足や後継者不足、原材料価格の高騰など、さまざまな課題も抱えています。大企業の企業城下町にある中小企業は、大企業の関連工場として特定の部品を作る場合が多いです。すると、大企業の経営によって中小工場の経営も左右されてしまうのです。
近年ではDX(デジタルトランスフォーメーション)やAIの活用、海外への販路拡大など、新しい挑戦を進める企業も増えています。

何があった日

① 1205年7月20日 牧氏事件

源頼朝の死後、鎌倉幕府では将軍よりも北条氏が実権を握るようになります。その中心人物が、頼朝の妻、北条政子の父である北条時政でした。
時政は2代将軍 源頼家と対立するとこれを伊豆に追放し、3代将軍 源実朝をたてます。そして、初代執権として権力を握りました。

時政には複数の男子がおり、特に次男 北条義時は「十三人の合議制」にも名を連ねて政治に参加していたため、北条氏の家督は義時に継承される流れが強かったようです。しかし、時政の後妻である牧の方は、自分の娘婿を将軍にしようと考え、有力御家人である畠山重忠を滅ぼすことや将軍の実朝を支える勢力と対立することを仕向け、幕政に影響力を与えました。

これに対して時政の息子である北条義時、娘の北条政子は、父・時政を鎌倉から追放したのが「牧氏事件」です。直接的な軍事衝突にはならず、最終的に時政は伊豆へ隠居し、牧の方も幕府の政治から退くことになりました。
執権の座は、義時に受け継がれました。

この事件によって、北条義時が幕府の中心人物となり、その後の執権政治が本格的に始まります。鎌倉幕府では将軍よりも執権が実権を握る政治体制が確立され、日本の武家政治は新しい段階へ進みました。

② 1948年7月20日 祝日法が制定される

「国民の祝日に関する法律」、いわゆる祝日法が公布されました。

戦前にも祝日はありましたが、多くは天皇や皇室に関係する日でした。戦後、日本国憲法の施行に合わせて新しい祝日の考え方が必要となり、祝日法が制定されます。

戦前の祝日
戦前の祝日 → 戦後・現在の祝日
四方拝(1月1日)→ 元日
紀元節(2月11日)→ 建国記念の日(1967年復活)
春季皇霊祭(春分の日)→ 春分の日
天長節(4月29日・昭和天皇誕生日)→ 天皇誕生日 → みどりの日 → 昭和の日
神武天皇祭(4月3日)→ 廃止
地久節(3月6日・皇后誕生日)→ 廃止
明治節(11月3日)→ 文化の日
秋季皇霊祭(秋分の日)→ 秋分の日
新嘗祭(11月23日)→ 勤労感謝の日
天長節祝日 → 廃止

この法律では、国民の祝日は「自由と平和を求め、よりよい生活を築くための日」と定められました。当初は元日、成人の日、憲法記念日、文化の日、勤労感謝の日など9つの祝日が設けられました。

祝日法で定められた最初の祝日
元日(1月1日)
成人の日(1月15日)
春分の日(春分日)
天皇誕生日(4月29日)
憲法記念日(5月3日)
こどもの日(5月5日)
秋分の日(秋分日)
文化の日(11月3日)
勤労感謝の日(11月23日)

その後、「海の日」「山の日」「スポーツの日」などが追加され、現在では16日の祝日があります。また、ハッピーマンデー制度によって成人の日や海の日などは月曜日へ移され、三連休が増えました。

③ 1969年7月20日 アポロ11号が月面着陸

アメリカの宇宙船アポロ11号が月面着陸に成功し、ニール・アームストロング船長が「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という有名な言葉を残しました。

月面着陸したアームストロング船長

この計画は、アメリカとソ連が宇宙開発を競い合った「宇宙開発競争」の中で実現しました。1957年にソ連が世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げました。最初の有人飛行もソ連が先で、ガガーリンの「地球は青かった」は有名でな言葉です。
そして、アメリカも宇宙開発を急速に進め、ついに人類初の月面着陸を成功させたのです。

現在では日本も無人探査機「SLIM」の月面着陸に成功するなど、宇宙開発はさらに発展しています。また、アルテミス計画では再び人類を月へ送り、その先の火星探査も目指しています。

日本の無人探査機SLIM

④ 1975年7月20日 沖縄海洋博が開幕

沖縄県本部町で「沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)」が開幕しました。

この博覧会は、1972年の沖縄返還後、初めて沖縄で開催された世界規模のイベントです。テーマは「海―その望ましい未来」で、世界36か国が参加しました。

海洋資源や海洋科学、未来の海洋開発などが展示され、日本中から多くの観光客が訪れました。この博覧会をきっかけに沖縄の道路や港湾などのインフラ整備が進み、現在の観光県としての発展につながったともいわれています。

日本で行われた万博
1970年 大阪万博(アジア初の万博)
1975年 沖縄海洋博
1985年 つくば科学万博(科学技術)
2005年 愛・地球博(環境・自然との共生)
2025年 大阪・関西万博
             (テーマ:いのち輝く未来社会のデザイン)

会場跡地は現在、「海洋博公園」となり、美ら海水族館や熱帯ドリームセンターなど沖縄を代表する観光地になっています。

沖縄 美ら海水族館(筆者撮影)

誕生日

① 1751年7月20日 上杉鷹山

上杉鷹山は出羽国米沢藩(現在の山形県)の藩主となり、深刻な財政難に苦しんでいた藩を立て直した人物です。大名の頃の名前は上杉治憲、隠居したあとの名前が上杉鷹山です。

上杉鷹山

当時の米沢藩は、歴代藩主のぜいたくな生活や度重なる災害などによって莫大な借金を抱え、藩の存続さえ危ぶまれる状況でした。そもそも、上杉は越後の戦国大名 上杉謙信の子孫です。豊臣秀吉の命令で会津若松120万石に移され、五大老を務めました。
しかし、関ヶ原の戦いでは西軍について徳川家康と対立したため、領地を大きく減らされ、米沢30万石に移されます。さらに、江戸中期には領地を削られて15万石となっていました。
もとが大藩だったぶん、領地の削減で財政は悪化の一途だったのです。

そこで鷹山は、自ら質素な生活を送りながら家臣にも倹約を徹底させました。また、新田開発や農業の振興、特産品づくりを進め、藩の収入を増やす政策を次々と実行します。

鷹山が残した言葉として有名なのが、「なせば成る、なさねば成らぬ何事も」という言葉です。正確には続きがありますが、この一節は努力の大切さを表す言葉として現在でも広く知られています。

上杉鷹山は、厳しい改革を進めながらも領民の生活を第一に考えた政治を行いました。そのため、後世には「名君」として高く評価され、アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が「最も尊敬する日本人政治家」として名前を挙げたことでも有名です。

② 1822年7月20日 メンデル

メンデルは現在のチェコにある修道院で修道士として生活しながら、エンドウ豆を使った実験を繰り返しました。花の色や種子の形など、異なる特徴をもつエンドウ豆を交配させ、その子どもにどのような特徴が現れるかを何年も観察しました。

メンデル

その結果、親の特徴は一定の規則に従って子へ受け継がれることを発見します。これが現在「メンデルの遺伝の法則」と呼ばれるものです。当時はまだDNAも遺伝子も発見されていませんでしたが、メンデルは実験によって遺伝の仕組みを見事に説明しました。

メンデルが発見したメンデルの法則

現在では、この研究は遺伝学の基礎となり、医療や農業、品種改良などさまざまな分野で活用されています。病気の原因を調べたり、新しい作物を開発したりする際にも、メンデルの研究が出発点となっています。

③ 1861年7月20日 白瀬矗

明治から大正にかけて、ヨーロッパ各国が南極探検を競い合っていましたが、日本にはそのための資金も経験もほとんどありませんでした。それでも白瀬は多くの人々の協力を得て探検隊を結成し、1910年に南極へ向けて出発します。

途中で厳しい気象条件に苦しみながらも、1912年には南極大陸へ上陸することに成功しました。南極点へ到達することはできませんでしたが、日本人初の本格的な南極探検として世界から高く評価されています。
現在でも南極には「白瀬海岸」や「白瀬氷河」といった地名が残され、その功績は世界中で語り継がれています。また、南極観測船「しらせ」の名前も、白瀬矗に由来しています。

日本の観測船しらせ

亡くなった日

① 1866年7月20日 徳川家茂

徳川家茂は紀伊藩の藩主でした。
13代将軍の徳川家定が病気がちとなると、井伊直弼ら南紀派の大名から推薦され、13歳で将軍となりました。
当時はアメリカのペリー来航以降、外国との関係や開国問題をめぐって幕府への批判が高まっていました。

14代将軍 徳川家茂

家茂は朝廷との関係改善にも努め、孝明天皇の妹・和宮と結婚したことが知られています。これは公武合体政策の象徴的な出来事でした。また、第二次長州征討では自ら大阪城まで出陣しましたが、その最中に病気で亡くなります。

家茂の死後、第15代将軍となったのが徳川慶喜です。しかし幕府の勢いはすでに大きく衰えており、その翌年には大政奉還が行われ、約260年続いた江戸幕府は終わりを迎えます。

② 1870年7月20日 小松帯刀

小松帯刀は、幕末の薩摩藩の重臣でした。西郷隆盛、大久保利通の上司にあたる人物で、彼ら下級武士が活躍できる環境を支えてくれた人でもあります。

小松帯刀は薩摩藩の家老として藩政を担い、藩主・島津久光の信頼を受けて外交や政治の中心で活躍しました。当時、日本では幕府を中心とする政治を続けるべきか、新しい政府をつくるべきかで国中が揺れていました。その中で小松帯刀は、西郷隆盛や大久保利通とともに薩摩藩をまとめ、長州藩との関係改善にも尽力します。

小松帯刀

特に有名なのが1866年に結ばれた薩長同盟です。この同盟は坂本龍馬の仲介によって実現したといわれますが、実際には小松帯刀が薩摩藩を代表して交渉を進め、同盟成立を後押ししました。薩摩藩と長州藩という当時最大級の勢力が手を結んだことで、倒幕運動は一気に進み、やがて明治維新へとつながっていきます。

しかし、小松帯刀は明治政府が本格的に動き始めたばかりの1870年、36歳という若さで病死しました。もし長生きしていれば、西郷隆盛や大久保利通と並ぶ明治政府の中心人物になっていたともいわれています。

③ 1883年7月20日 岩倉具視

岩倉具視は京都の公家の出身で、幕末には朝廷で活躍した政治家です。当初は公武合体を進めていましたが、時代の変化に合わせて倒幕へと方針を転換。
大政奉還の後、天皇と薩長結びつけ、王政復古の大号令を出しました。これにより、徳川の立場は排除され、薩長中心の政府が成立していくことになります。

岩倉具視

明治時代になると、岩倉具視は右大臣として政府の要職につきました。
岩倉使節団として西洋に渡ったことも有名です。不平等条約の改正はできませんでしたが、最先端の欧米を視察して帰国し、日本の近代化を推進する政治家のひとりとなりました。

岩倉使節団の集合写真
左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通ら

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