「読まれない文章」に悩んでいたとき、大嫌いなトマトが教えてくれたこと
トマトを食えた試しがない。
中身のぐじゅぐじゅが気持ち悪すぎる。
生のトマトの中身を見るたびに、なぜか「エイリアン」を思い出す。
映画観たことないのに。
一応、上昇志向のある大人なのでトマトを食べてみようと試みたことくらいはある。でもやっぱりダメだった。
生のトマトを口に含んで、美味しいと思える要素をひとつも感じられない。甘くもなければ旨みも感じられず、青臭くドロドロとして、ただただ「マズい」としか形容できない。
トマト農家の方がいたら本当ごめんなさい。
俺の脳は、生のトマトを「異物」と認識しているみたいです。
小学校の時、給食にプチトマトが出た。
今は知らないが当時は「お残しはゆるしまへんで」文化の真っ只中。
どうしても食べられなかった。昼休みまで粘らされ、最終的に箸使いをミスったフリして地面に落とした。
小学生に、「大人との対話を通じて穏便な解決を図る」なんて高度な思考が働くわけがない。口にしたくないから、目をそらした。
「全部食うまで遊ばせない」の文化、シンプルに「暴力」だったと思う。
大学時代、バイト先のまかないでトマトスライスを出されたこともある。
元ヤンの雰囲気が拭えない若店長の言う「砂糖をかけるとうまいのよ」の熱弁の最中、いつの間にか目の前に置かれていた。マジックかと思った。
分かる、もう絶対に食べられないことは分かっていた。
ただ、誰かが好きなものを推すとき特有の「断ると変な感じになる妙な圧」から逃れられず、えいっと食べた。
嘔吐中枢の反応を類稀なる精神力で抑えつつ、無理矢理に飲み込んだ。
バイトはやめた。
でも、熱してあると食べられる。
ピザの上に乗った「焼かれたトマトの断片」なら割と問題なく食べられるし、ミネストローネもシェフの腕前次第でギリいける。
同じトマトなのにな。
これ、「文章を書く行為にも似ているな」と思った。
内容自体は同じでも、切り口、文体、表現次第で反応が変わる。
自分の文章が読まれないとき、俺は生のトマトなのかもしれない。
模索して煮るなり焼くなりすれば、もっと多くの人に受け入れられる可能性がある。
でも「生のトマトが好き」って人も、きっといる。
と信じたい。
「ありのままを読者に受容してもらいたい」という思いは、正直なところワガママでしかない、と思っている。文章は読者のために書かれるものだから。
ありのままを受容したいなら、手帳に日記書いて自分が受け止めりゃいい。
「俺の文章」というトマトをどうやってお届けするのか。
それは書き手として延々と追求していくテーマだろうし、希望を感じてもいる。
だって焼けば食えたから。
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