渡り廊下の天井に
休憩室のパイプ椅子に座ってぼんやりと何も無い青い空を眺めていると、ここからホールに繋がる渡り廊下の天井に、お札が貼ってあるのを知っているか、と話す声が聞こえてきた。
彷徨える魂が間違ってこちらに来てしまわないようにお札が貼られているのだと、得意そうな声が言う。
青い空に国旗が並び風に靡いている風景が頭の中に現れていて何かを思い出しそうだったのに、その声でそれはすぐに掻き消えた。思考がそちらにシフトする。
彷徨った魂はどうしてこっちに来てはいけないのだろう。煙に乗って空までいくことができなくなるから?そもそも煙なんてもうイマドキ出てないしな。
煙が空に高く昇っていく様子も、在りしものの形が無くなり今まさに天に向かっているんだと思えて、なんとなく視覚的別れというか、それはそれで情緒だったのではないか。公害云々の話はまた別として。
ふと考えただけでは天井のお札の理由がピンとこなかった。彷徨うことは良くないことなのか。
自分から体という器が無くなって、どこへでも自由に行けるのなら色んなところに行ってみたい。晴れた空を気持ち良く飛んでみたい。それを彷徨うと言うのか。
待てよ。死が訪れて人生の終わりが来るとして、こうして焼かれて灰になったらすぐに解放されるわけじゃないんだったな。死後の世界に行くまでの49日間、魂はどこかにいるはずだ。
そこまで考えて我に返った。生命の動きが止まった後のことなんて考えたところでどうしようも無い。魂というものが存在するかどうかなんて考えること自体無意味だ。死んでからでさえ魂となって何か思ったり考えたり苦しんだりするなんてもううんざりなんだ。
何かしら未練や悔いがある魂が悪い形になって憑いてきてしまわないように、なのか。
うっかり着いてきてしまって、彷徨うことになったら気の毒だから、なのか。
それとも単に彼岸と此岸の境界線ようなものなのか。
お札だろうが読経だろうが結局どれもこれも生きている人間の気が済むように為されていることなのだろう。
死の先は無だ。死役所のようなところがあったら面白いとは思うが、黄泉の国も天国も地獄も無い。ただ誰も知らないからどう考えようとそれは自由だ。あるかないか、信じるか信じないか。
そう考えると死の先には自分が思う自由があるのかもしれない。証明するものは何も無いが、それを思うのは自由なのだから。
