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【映画感想】『この夏の星を見る』はなぜコロナ禍青春物語の最高傑作なのか

なんだろう、この気持ち。ひと言で表現しようとすれば、「いい映画だったなあ」なんだけど、その“いい映画”という言葉では捉えきれないような“なにか”がこの映画にはあって、あるいはこの映画を観たあとの僕の心にはあって。細かいところでいえば気になる箇所が決して少ないわけではない。けれど、それにも増して、この時代を生きた僕たち私たちの感情に優しく触れようとする“まなざし”に感動せずにはいられない。

2020年の1月、突如としてやってきた新型コロナウイルスという未曾有の脅威。中国武漢と海の向こうの話だと思っていたところ、それはクルーズ船・ダイヤモンドプリンセス号という象徴的なカタチで日本にもやってきて、いつのまにか学校は休校になり、外出自粛、不要不急の日常が始まって、気がつけば誰しもがマスクを手放せなくなった。

これは、今の時代を生きるすべての人の心に共通してわだかまる“記憶”。知り合いや仲間内だけじゃない、同世代だけじゃない、日本だけじゃない、世界中の人々の心に刻まれ、今後背負っていく“記憶”だ。

印象的な台詞があった。

「コロナってなんなんだろうね」

きっと私たちは、この問いを忘れてはいけず、その答えを探し続けなければいけないのではないか。あのとき、なにを恐れ、なにを考え、なにをしたのか。『この夏の星を見る』は、そうした大風呂敷を広げられるような問題を孕みながら、とても美しくみずみずしい青春映画へと昇華させてしまった。

僕はこの作品こそ、”この夏に見る”べき映画だと思う。

コメディーでありホラーである“コロナ”

東映映画チャンネル(Youtube)より

2020年から2021年にかけて、コロナに奔走されたあの時間を今振り返るとき、私たちはどのような印象を受けるだろうか。ある人は悲しい思い出として、ある人は呆れるような笑い話として、またある人は「そういえばコロナってあったよね」くらいの朧げなむかし話として。

本作の冒頭は2019年を舞台に、コロナ以前に過ごされていた「いつもの青春」から始まる。誰もマスクをつけていないし、憚りもせずに握手を交わす。これから待ち受けるキラキラの高校生活に向けて、役者たちの演技がはじけ、エモい音楽も高鳴り、希望に満ち溢れるワクワクが伝わってきたところで、タイトルが入る。

が、私たちは知っている。そのワクワクが続かないことを。

タイトルから降りるや否や、けたたましいニュース速報が観客の耳をつんざき、私たちを2020年に引き戻す。日々一喜一憂させられていた感染者数、あれよあれよと課せられる行動制限、そして唐突に告げられる「全国一斉休校」や「オリンピックの延期」といった前代未聞の重大決定。

東映映画チャンネル(Youtube)より

嫌気がさすほどに押し寄せるニュース音声の波に揉まれながらも耳を傾けていると、あきらかに安倍首相や小池都知事を真似たと思われる声がふっと浮かび上がってくる。

「3密回避、ステイホーム、ソーシャルディスタンス」

きっとあのときは真剣に語り聞いていたであろうこれらのキーワードが、どうしてだろう、馬鹿馬鹿しいような響きを伴って笑わせてくる。あえて“モノマネ”で際立たせた演出からか、どうしてもコメディの感が拭えず、やっぱりコロナはパニックだったんだなと思わされるような気がする。演出過剰なパニック映画がコメディになるように。

しかしそれはきっと、あの出来事を客観視できる立場にあった者だけの視点なのだろう。大切な人を亡くした人、職を失った人、そして一生に一度の青春を奪われた人にとって、それはコメディではあり得ない。そう思わせるかのように再びニュース音声が氾濫し、主人公の溪本亜紗(桜田ひより)はまるでホラーのようにベッドの上で両耳を懸命に塞ぐ。そこで僕は真面目に「この夏」と向き合おうと決めた。

これはきっと“瞳”の映画

東映映画チャンネル(Youtube)より

その予感は冒頭からあった。映画のファーストカット、それはドキリとするような、亜紗(桜田ひより)の瞳のアップから始まる。宇宙飛行士・花井うみか(堀田茜)の講演をまなざすその瞳にうつるのは、興味や好奇心、憧れや希望、夢であり未来。いまだコロナに曇らされる前の純粋な瞳だ。

本当に恥ずかしいことに、そして自分の想像力のなさを悔いるべきところだが、映画を見るまでどうして「天文部」が舞台なのか理解していなかった。いわゆる王道の部活とは違うという逆張りか、コロナ禍でも密を避けて活動できる現実的な落とし所か、あるいはたしかに「なんとなくエモい」よね、というような感じだった。すみません。でもそれらは当然正しくなくて、「天文部」でなくてはいけない理由がたしかにあった。

それは“瞳”だ。

「天文部」は望遠鏡を覗く、その“瞳”こそ主役の部活ではなかったか。コロナ禍の人々がマスクで顔を覆い、唯一自由を許されたのが“瞳”であったことと呼応する美しいほど巧みな設定に気がついたとき、心臓を鷲掴みにされた。おそらくその関係性自体は原作ですでに仕込まれたものであるだろうが、映画『この夏の星を見る』はその美しさを見事に映像として表現したのだと思う。

東映映画チャンネル(Youtube)より

映画の前半、おそらく多くの観客が「ああマスクしてるなあ、コロナだもんなあ」と昔日を思い出してついマスクに目が行き、隠された表情に想いを馳せてしまうのではないか。出演者のほとんどをまさしく今売り出し中の若手俳優が占め、必ずしも全出演者の顔を正確に覚えている観客は多くはないだろう。だからつい想像してしまう。この役者さんってどんな顔してるんだろう。と。

が次第にその考えは薄らいでいく。役者たちが「瞳を見てくれ」と、懸命にそして丁寧に目の演技を重ねていくからだ。どれだけ難しい演技だっただろうと思う。そして監督がカメラマンが、彼ら彼女たちの“小さな演技”を大切に撮影していくのが、どんどんと伝わってくる。ああ、なんと真摯な映画なんだろうと心に沁みる。

山元監督が映画の公式ホームページに次のような言葉を寄せていた。

表現においても色々な挑戦をしましたが、特に“マスクで表情が隠れてしまう制限を恐れないで描く”ことが挑戦でした。マスクは表情の60%以上を隠し、どうしても人の情報量を減らしてしまいます。マスクを外さないということを徹底した結果、マスクは透明になり、更にマスクを外すことでシーンの鮮度はまた変わります。この映画は、感情がマスクを飛び越えて、普通では味わえない楽しみがある映画に仕上がっています。

映画『この夏の星を見る』公式HPより

できることは少ない、でもそれはできないってことじゃない。もしかしたら、できることが少ないから、できることだってあるかもしれない。

瞳だけで表現されるキャラクターの表情や感情の懸命な叫びは、そのままコロナ禍で窮屈な想いを宿命づけられた彼ら彼女たちの叫びのようにさえ思えてくるほどで、コロナ禍の青春はそのまま“瞳の青春”だったのかもしれないな、などと思ったりして、『この夏の星を見る』がコロナ禍青春物語の最高傑作に違いないという確信に至る。

東映映画チャンネル(Youtube)より

その“瞳”でなにを見るのか

では、彼ら彼女たちはその“瞳”でなにを見るのか。あるいは、なにを見ようとしているのか。ここにこの映画のもう1つの美しさがある。

正確に台詞を覚えていないのが残念でならないが、『この夏の星を見る』のなかで繰り返される言葉(というより概念かもしれない)があった。それは、例えば東京の空を思い浮かべて、「見えなくても、たしかにそこに星がある」ということだ。

あるときは街の明るさで見えないかもしれないし、またあるときは曇っていて見えないのかもしれない。けれど、見えない=存在しない、ではない。だから天文部のみんなは必死に望遠鏡を向ける。肉眼では見えない星を求めて、何度も何度もその”瞳”で望遠鏡をのぞき続ける。まるで、BUMP OF CHICKENが『天体観測』で歌ったように「見えないものを見ようとして、望遠鏡を覗き込んだ」なのだ。

東映映画チャンネル(Youtube)より

このとき彼ら彼女たちはきっと星だけを見ているのではないだろう。少なくとも僕には、星が象徴する、興味や好奇心、憧れや希望、夢であり未来をまなざしているように思えてならない。そう、映画の冒頭で亜紗(桜田ひより)が宇宙飛行士・花井うみか(堀田茜)に投げかけた瞳のように。

だからこその結実として、物語は最後、夢の象徴である花井うみか=ISSへと望遠鏡を向けるのではないか。いつ終わるかわからないコロナという雲で隠された、彼ら彼女たちの未来。でもそれは、見えない=存在しないではない。その“瞳”で懸命に見ようとすることが、未来へと繋がっている。亜紗(桜田ひより)は祈る。頼むからISSが見えてくれ、と。それはきっと、頼むから未来を見せてくれ、という青春の祈りに他ならないのではないか。

宇宙は、星は、そしてきっと未来は、見えないからこそ見たくなるのだ。私たちは”瞳”をかっ開いて見続けるしかない。見たいと思い祈り続けるしかない。そこで映画の冒頭に掲げられた、宇宙飛行士・花井うみか(堀田茜)のメッセージへと帰着する。

「好きや興味、好奇心は手放さず、それらと一緒に大人になっていってください」

もう1つの“見えないもの”

そしてこの映画の恐ろしく素晴らしいところは、彼ら彼女たちが見えない星を懸命に見ようとしているのと同時に、画面のなかにもう1つ“見えないもの”が描き込まれているかもしれないということではないか。それはもちろん「コロナウイルス」である。

感染爆発当時、あらゆるメディアがコロナウイルスの可視化に挑み、感染経路の特定を急いだ。接触感染、飛沫感染、空気感染。正体のわからない未知のウイルスは、まさしく目に見えないからこそ、さまざまな恐怖を生んだ。星が目に見えない=存在しないではないのと全く同じ理由から、コロナウイルスも目に見えない=存在しないでは決してないのだ。

そのことに思い至ったとき、この2020年から2021年にかけてを舞台にした傑作『この夏の星を見る』はいまだかつてなく恐ろしいものを映像として描いているのではないかという戦慄にかられた。

それは一見すると常識的な範疇に収まる“映像”であるにもかかわらず(奇を衒ったエフェクトなどのない映像という意味)、その画面上にもしかしたら「コロナウイルス」が記録されているのではないかという奇妙な錯覚である。僕ら観客が意識的に目に見えている対象(役者や風景など)とはまったく別の「コロナウイルス」という存在が映り込んでいるような、あるいは「コロナウイルス」というフィルターがかかっているのではないかというような錯覚である。その視点に立つことであらためて僕らの瞳にあの時期の“パニック”が呼び覚まされる。たしかに僕らはすべての光景にコロナウイルスの存在を見出そうとしてしまっていたのではないか。

『この夏の星を見る』は、目に見えないものを懸命にその“瞳”でとらえようとする(=キャッチしようとする)ことを通じて、1つには未知の(だからこそ面白い)将来への希望や夢を託して描き、また1つには未知の(だからこそ怖い)ウイルスへの恐怖やパニックを描いたのではないか。

アンビバレントな“瞳”と“まなざし”の映画。
まさしく大傑作だと僕は思った。

「スターキャッチコンテスト」という新しい映像体験

これまで書いてきたような意味論的なあるいは感情論的な部分のみならず、この映画は本当に撮影と編集が素晴らしいとも思う。テンポよく繋ぎあわされる寄り引き混淆のカットが青春の勢いを体感させたかと思うと、風景を仮借した長回しでじんわりと心を整える時間もくれる。茨城、東京、長崎という土地がもつそれぞれの個性ある魅力にしっかりと浸れる感覚も心地いい。

なかでも圧巻なのが、言うまでもなく「スターキャッチコンテスト」だろう。“手作りの望遠鏡のレンズに指定された天体を素早く収める=キャッチすることを競う”この見たことも聞いたこともない競技が、これほどまでにダイナミックかつエネルギッシュな、駆け抜けたくなるような映像で表現されることに興奮を覚えずにはいられない。

「天文部」と聞くと、きっと多くの人はなんとなく地味で動きのない、静かにゆったりと望遠鏡を眺める、そんな姿を想像するのではないだろうか。登場人物の一人、元サッカー部の安藤真宙(黒川想矢)がきっとそう思っていたように。

その印象は驚きのカタチへと変貌させられることになる。『この夏の星を見る』の手にかかれば、「望遠鏡を眺める」がまるで血滾り汗ほとばしるスポーツのような躍動へと生まれ変わってしまう。

東映映画チャンネル(Youtube)より

教師が星の名前を叫ぶ。いっせいに望遠鏡を回す。ロック。わずかな視野で必死に対象の星を探す。それを見守る周囲の生徒たち。星が見つかった。ピントを合わせる。なかなか合わない。見えるか、見えるか、見えるか……見えた!。はい!と手をあげる。ジャッジ。息を呑む。

茨城、東京、長崎という3地点で展開されるこのスピード感ある青春の戦いを、本当に見事に演出し撮影し編集して見せてくれた。細かく刻まれるカットは、動き画角構図、すべてが変幻自在で毎秒フレーム単位でハッとさせられる。すげえ、望遠鏡ってこんなにかっこいいんだと思う。望遠鏡を覗くって、こんなに美しいんだって思う。

学生時代なにかのスポートや競技に打ち込んだ人なら誰しもがあの日の興奮を思い出すだろう。緊張と安堵。喜びと落胆。おそらく負けてしまった東京ひばり森中学校の安藤真宙(黒川想矢)が感じる心情も、それに対して「これは勝ち負けじゃないよ」と投げかける中井天音(星乃あんな)の心情も、とてもとても鮮烈で胸に迫り来る。

「スターキャッチコンテスト」のパートは映画としては10分ないくらいだろうか。もしかしたらもっと短いのかもしれない。けれど、このシーンを見るためにだけでも映画館に行ってほしいと思えるほどには大興奮できる。あまり見たことのない、まったく新しい映像体験だったような気さえするほど。

これからが楽しみな山元環監督

東映映画チャンネル(Youtube)より

この映画には本当にいろいろな感情がつまっていると思う。新型コロナウイルスを背景とした社会批判ともとれるようなどんよりとした暗い雰囲気(それはつまり、2020−2021年にかけて現実に漂っていた空気そのもの)。それを忘れるほどに眩しくて明るい青春の輝き。

ときにシリアスに、ときにコミカルに。それは脚本の巧みさはもちろんだけど、映像としても、クスりとできるような瞬間がいくつもあったような気がする。随所に差し込まれるそうした笑いが、自然と優しいまなざしに代わり、観客はいつの間にか『この夏の星を見る』を好きになっていく。彼ら彼女たちの青春と未来を応援したくなっている。

東映映画チャンネル(Youtube)より

あらためて、「いい映画だったなあ」とあえて淡白に考えながらエンドクレジットを見ているとその最後、監督として山元環という名前があらわれた。知っている。僕はこの人を知っている。記憶をたぐり寄せていくと、1つの作品に行き当たる。

『ゴロン、バタン、キュー』

僕が大学生だったころ、第27回東京学生映画祭で観た作品だった。大阪釜ヶ崎を舞台に、ホームレスとして暮らす若者とおじさんの日々を描いた物語。今思い返してみると、そこではたしかに厳しい社会での生きづらさが描かれつつも、それをなんとか笑い飛ばせないかという優しいまなざしがあったような気がする。

たしか当時の審査員であった大林宣彦監督が大絶賛していたなあと思い返しながら調べてみると、なんと今ではU-nextで配信されているらしい。すごい。『この夏の星を見る』で山元監督に出会った方々に、あまりに勝手ながらおすすめしたい作品です。

『この夏の星を見る』は、コロナ禍の青春を描いた大傑作ではなかったか。正直これ以上の物語が同じフレームから生まれることがあまり想像できない。私たちが共有するあの暗くて辛い苦しい記憶をどう優しくまなざすか。

山元監督の“瞳”はこれから先、どんな映画を生み出していくのだろうか。

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