旅の収穫の話
「ふたりとも、本当にごめんね……」
飲食コーナーの一角にあるテーブルで、両手で顔を覆いながら司書さんが項垂れた。
猿が放った豪速球(林檎の芯)が側頭部に直撃し猿山で倒れた司書さんは、園内の救護室へ運ばれた。駆け付けた飼育員さんに案内され、紅治と俺も付き添った。
幸い、司書さんは救護室のベッドですぐに意識を取り戻した。
紅治と救護室のスタッフさんから自身がここへ運ばれてきた経緯を聞かされ、司書さんは明らかに動揺していた。そして「ぼ、ぼぼぼ僕はもう平気です! ほらっ、もうこんなに動けますから!」とベッドから飛び降りてその場で駆け足を始めようとしたので、スタッフさんが大慌てで止めに入った。
そんな調子だったこともあり、もう少し休んでいくように勧められたが、何故か司書さんは必死にかぶりを振って断った。そこで機転を利かせたスタッフさんから「ではせめてここで休んでいってください」と渡されたのが、人数分のドリンク引換券。飲食コーナーで使えるものだ。
屋内に設けられているという飲食コーナーに早速移動してみると、4人掛けのテーブルがフードコートのように並べられている広い座席スペースがあった。グループや家族で座ってひと休みするのに丁度よい場所だ。紅治はオレンジジュースと、司書さんと俺はアイス烏龍茶と引き換えてもらい、テーブルについてひと息ついたところで。司書さんが重たいオーラを放ちながら項垂れたのだった。
「本当にごめんね……僕のせいで楽しめないよね……せっかくの動物園なのに……」
紅治が本当に気にしていない様子で首を横に振った。
「雄太とおれなら大丈夫です! でも司書さん、すぐ起きちゃって大丈夫だったんですか? 頭打ったのに」
「人から本気で心配されるのがなんだか久しぶりな気がしてね……何故か反射的に取り繕っちゃったんだ……。家でも学校でも『またお前かよ』みたいな扱いを受けているからかなあ……優しくしてもらっちゃいけない気がして、とにかく早くここから出なきゃって思ったんだよ……」
両手で顔を覆ったまま、めそめそと司書さんが語る。救護室に残ることを必死に拒んでいた理由はこれだったのか。……気の毒だ。
完全に負のスイッチが入ってしまった司書さんの話は止まらない。
「そもそも水族館で味を占めて『ひょっとして僕、動物園もいけちゃうんじゃないかな?』なんて思ったのが全ての間違いだったんだ……。水族館は魚が水槽を突き破って襲ってきたりしないけど、やっぱり動物園はダメだよ……。僕いつも鳥につつかれたりヤギに服を咬まれたり猪にタックルされそうになったりするんだ……」
その話を聞いて今朝の出来事を思い出した。
カラスにつつかれていた司書さん。一度唐揚げを奪われてしまったことがきっかけで継続して狙われるようになったそうだが、もしやカラスに限らず、動物に狙われやすい人なのか……?
「……それで今日はその服装なんですか?」
思わず尋ねてしまうと、司書さんは顔を両手で覆うポーズを保ったまま頷いた。
「少しでも自然と同化して、目立たないようにと思って……」
迷彩柄のパーカーにパステルブラウンのカーゴパンツ。普段とはまるで違うコーディネートを選んだ理由も合点がいった。
「本当にごめんね。僕、今日はもう──」
「やっぱり司書さんってすごいですね!」
「えっ?」
司書さんの、驚きと困惑の混じった声。
俺も反射的に紅治へ目を向けていた。『司書さんはすごい』と言った紅治の瞳はキラキラと光に満ちている。
「な、中山くん、僕のどこがすごいっていうんだい?」
戸惑う司書さんに、紅治は眩しく無邪気な笑顔を向ける。
「だって、動物たちがみーんな司書さんに注目しちゃうってすごいじゃないですか! さっきだって、こんなに人がたくさんいるのにホシウメは司書さんしか見てなかったんですよ!」
全く本当に、紅治は。
司書さんに向けられた言葉なのに、俺が心を動かされてしまう。
司書さんの話を聞いて、俺は『動物から狙われやすい人なんだな』とネガティブに受け取った。しかし、紅治は違っていた。動物たちの注目を集めることを『すごいこと』と捉えて、こうして瞳を輝かせている。
司書さんに視線を戻すと、面食らった表情で口をぱくぱくさせていた。ずっと顔を覆っていた両手は、今は胸の前で震えている。
「ぼ、僕……動物に嫌われていて……」
「動物って嫌いな人からは逃げていくじゃないですか! 寄ってくるってことは、きっと司書さんと一緒に遊びたいんですよーっ」
「とてもそうは思えないよ……」
「ばあちゃんちによく来る野良猫は、ばあちゃん以外が撫でようとするとすぐ逃げていきますよ?」
「嫌いだと……逃げられる……」
「ばあちゃんめっちゃ優しいんで! 動物ってそういうのわかるんですね!」
「あーあ、おれも撫でたいのになー。優しさが足りないのかなー?」と零しながら紅治がオレンジジュースを啜る。俺も倣って烏龍茶のストローに口を付けた。
司書さんも烏龍茶の入った容器を手に取り、ひと口飲む。小さく息を吐いて、呟いた。
「そっか……僕は動物が怖いけど、嫌われているとは限らないんだ……」
それはきっと、決して小さくはない発見だ。
紅治もまた大発見をした顔になる。
「寧ろネツレツなラブコールかもしれませんよ! あっ、でもホシウメはオスかー」
「……ところでホシウメってなんだい?」
「司書さんにりんごでアピールしてた猿の名前です!」
「あの猿そんな名前だったのかい!?」
風が通って、澱んだ空気が新しく入れ替わるように。気付けば、司書さんが放っていた負のオーラは消え去っていた。ずっと青かった顔色も良くなっている。
渡すなら今かもしれない。
俺は鞄から、薄茶色のカラーケント紙で出来た封筒を取り出した。
「司書さん。司書さんが意識を失っている間に救護室で預かったものなんですが」
……予想はしていたが。
俺の手元を見た司書さんの顔から血色が失われていく。紅治も最近見たばかりのデザインの封筒にピンときた顔をしている。
「こ、これはまさか……」
「この動物園の招待券です。体調が回復したらまた改めてゆっくり遊びに来てほしいと」
「無理無理無理! ごめん、無理だよ! やっぱり動物は苦手だよ! 怖いよ! 吉川くん、お願いだからそのまま引き取って!」
「……分かりました」
流石にすぐに再挑戦とはいかないようだ。
今日はもう落ち着いて見て回れそうにない代わりに、と振替の意図も込めて用意されたものだと思うが、無理にリベンジすることもないだろう。俺は招待券の入った封筒を鞄の中へ引っ込めた。
司書さんが再び青い顔で項垂れる。
「ごめんね……ご厚意はありがたいんだけど、やっぱり怖いものは怖いんだ……」
「そこまで怖いなら無理に克服しなくてもいいと思いますよ」
「そうだね。動物に嫌われていないのかもって思えただけでも大収穫だよ」
この短時間で大収穫をもたらした紅治は、自分の偉業に全く気付いていない様子でにこにことオレンジジュースを啜っている。
少し肩の力が抜けたように司書さんが苦笑いを浮かべた。
「ああ、僕はおくのほそ道の旅からリタイアだなあ……。まだ誰も句を詠んでいないのに……」
それを聞いた紅治がジュースの容器をテーブルに置き、宿題を済ませてきた小学生のように元気に片手を挙げる。
「句なら詠みましたよ!」
「えっ、いつの間に!」
「俺も初耳だぞ、紅治」
「へへー、松尾芭蕉はリーダーだから! こっそり詠んでメモしておいたんだーっ」
「はい、曾良くん!」と得意げにスマホを渡され、俺はアプリのメモ機能が開かれている画面に視線を落とした。
『おじさんを あつめてはやし 救護室』
『猿山や 耳にしみいる 叫び声』
「……司書さんは見ないほうがいいです」
「どうしてだい? 気になるよ」
「季語があまりにも特殊なので」
「一体どんな句が詠まれているんだい!?」
底抜けに明るい松尾芭蕉と巡る動物園の旅はお供の心に新たな風を渡らせて、しかし紀行作品として発表するには不憫な句を生み出して、終わりを迎えたのだった。
