補講2:ブルガリア史
ブルガール国家の建設

ブルガール人の移動
◎ブルガール人
→トルコ系遊牧民。6~7世紀ヴォルガ川下流域,アゾフ海周辺にクブラトをハンとする部族同盟を結成。
元々トラキア人→東ゴート人の順番で侵入していたところに来た
●ヴォルガ=ブルガール王国(7世紀~13世紀)
→ヴォルガ川中流域に建国。この国はその頃ルーシが建国した北西のノヴゴロド国と併存。10世紀初めにアッバース朝からイスラームを受容し、1236年にバトゥの率いるモンゴル軍に征服されてキプチャク=ハン国の支配下にはいると、そのもとで自治が認められ、毛皮貿易などに従事。


タタール人
→ブルガール人とモンゴル人の同化が進んでロシア人からこう呼ばれるように。14世紀末、ティムールに追われてヴォルガ右岸に逃れてカザンを根拠地とし、1438年に自立してカザン=ハン国となった。
カザン=ハン国は1552年にモスクワ公国のイヴァン4世(雷帝)に征服されて滅亡、以後はこの地域のロシア化が進む。
ブルガリア帝国
第一次ブルガリア帝国(681~1018)

◎アスパルフ=ハン(644~700)
→ブルガール人を率いてビザンツ帝国領のドナウ川南岸のバルカン半島北東部に侵入。その地のスラヴ系住民と結んでビザンツ軍を破り、681年にビザンツ皇帝と和平条約を締結して、建国した。


都①プリスカ ②プレスラフ ③タルノヴォ ④セルディカ(現ソフィア)
◎ブルガリア人
→ トルコ系のブルガール人と南スラヴ人が同化した。
●ボリス1世(位852〜889)
→ギリシア正教会の採用(870)
南はビザンツ帝国、北西はフランク王国と接していたことから、キリスト教徒の住民も増えていった。ボリス=ハンはキリスト教受容を決意し、まずローマ教会に接触した。しかし、ブルガリアがカトリック側で改宗することを警戒したビザンツ皇帝ミカエル3世は、ブルガリアの飢饉に乗じて出兵して、和平条件としてギリシア正教を受容させた。
しかし、ボリス1世はローマ教会にも使節を送り、ローマ教会の典礼の受容にも熱心だったので、ここにブルガリアのキリスト教受容を巡ってローマ教会とビザンツ帝国(ギリシア正教)の東西教会の対立が生じた。問題を解決するため、869年に公会議(第9回)をコンスタンティノープルで開催した。その結果、ブルガリア教会は東方教会に属し、コンスタンティノープル総主教の管轄下に入ることが大勢となった。
●シメオン1世(位893〜位927)
→バルカン半島の大半を占めるブルガリア帝国の最大版図を築き、一時期は東ローマ帝国を圧倒して、自らを「ローマ人とブルガリア人の皇帝にして専制君主」と称した。894年にはビザンツに攻め入り勝利。
このときビザンツ帝国はドナウ河口のデルタ地帯にいたマジャール人を味方にしてブルガリアを挟撃しようとしたが、シメオンはマジャール人の北にいたペチュネグ人を動かしてマジャールを挟撃したため、敗れたマジャール人は西方に逃れ、パンノニアに入り、後にハンガリー王国を建国することになる。
●第一帝国の併合
→ シメオン1世の死後、北方からのロシア人(ルーシ)の侵入を受け、帝国は急速に衰え、ビザンツの反撃を受けて一時滅亡。1014年には「ブルガリア人殺し」といわれる大虐殺を行って伴って征服し、1018年にはブルガリア王国を併合した。
◎キリル文字の発明
第二次ブルガリア王国(1185~1396)
→ビザンツ帝国がセルジューク朝の圧迫で弱体化。それに乗じて帝国を復興。
◎アドリアノープルの戦い(1205)
→ラテン帝国を破りバルカンの覇権を握る。
◎モンゴル帝国との抗争
→1237年からバトゥの率いるモンゴル帝国のロシア侵攻が始まり、ブルガリア王国もモンゴル軍に蹂躙され、キプチャク=ハン国に貢納を強制され、次第に衰える。
◎オスマン帝国との抗争
→14世紀後半には、アナトリアからバルカン半島に進出してきたオスマン帝国の脅威にさらされることとなった。
●シュシュマン王(位1371~1395)
→ムラト1世と抗争(1371)し敗れる。大半がオスマン領に。
●コソヴォの戦い(1389)
→セルビア・ボスニア・ブルガリア・ハンガリーなどのキリスト教連合軍がオスマン帝国と戦ったが、敗北。これによりバルカン半島はオスマン帝国の支配下に。
●ニコポリスの戦い(1396)
→ハンガリー王ジギスムントの率いるキリスト教軍(ニコポリス十字軍)vsバヤジット1世。
オスマン帝国が勝利しバルカン支配がより強まったが、は1402年、アンカラの戦いでティムールに敗れて事実上の崩壊に追いこまれ、バルカンでの領土拡大は一時後退、セルビアやハンガリーの領土も放棄せざるを得なくなった。その後、国力の回復に努め、コンスタンティノープルを占領してバルカン制圧を完成させるのは、ほぼ半世紀後、態勢を整えた後の1453年となる。
バルカン半島西部のアルバニアもオスマン帝国の宗主権を認めさせられた。
オスマン帝国からの自立
→19世紀にオスマン帝国の衰退に乗じてギリシア正教徒の宗教的な自立を掲げて独立運動が活発化。
自立に向けた流れ
◎露土戦争(1877)
→ロシア側に立って戦い、1878年の講和条約サン=ステファノ条約で自治国となり領土も拡張、黒海からエーゲ海に面する地域までを含む大ブルガリアを実現させた。
●ベルリン条約(1878)
→ロシアの拡大を恐れた英・墺の反発で領土を3分の1に縮小され、オスマン帝国を宗主国とする自治国(自治公国)とされることになった。

独立運動と周辺国事情
その後も完全独立を目指し、1885年には東ルメリア(ベルリン条約でオスマン帝国内の自治州とされた、ブルガリア東南部に隣接する地域)のキリスト教徒が反オスマン帝国の暴動が起こったのを機にそれを併合、反発したセルビアとの戦いにも勝った。
この問題でロシア・オーストリア対立が再燃して新三帝同盟が解消された。また、1908年に青年トルコ革命が起こったことでブルガリア王国として独立を宣言。
この後世界大戦絡みの話が始まる。二次大戦では日独伊三国同盟に加入し枢軸国の一員に。
