ある少女の笑顔
私は心理職をしている。
二十年程前に臨床心理士という資格を取得した。資格を取得するには、指定された大学院の修士課程を修める必要があった。
楽なことではなかった。
当時の私は、デザイン関係の仕事に就き多忙を極めていたし、理系出身だったため心理学などまったくの門外漢だったからだ。大学院受験のための予備校に通う余裕など、金銭的にも、時間的にも、(これが最も重要なのだが)精神的にもなかった。にも関わらず、この道を選んだきっかけがある。
養護施設でのボランティアだ。
養護施設には様々な事情により親元を離れて暮らす子どもたちがいる。ボランティアの活動は、子どもたちの勉強をみたり、話を聞いたり、遊び相手をすることだ。
ある少女がいた。
三、四歳ほどになるその少女は、ひとり異彩を放っていた。異彩というよりも、異様であった。何が異様だったか。他の子どもにあるはずのものがなかったのだ。なかったもの、それは、
言葉と表情であった。
能面のような顔。真っ正面を見据えたまま微動だにしない目。上下の唇は溶接された檻のように固く閉ざされ、自発的に動くことは皆無であった。
知的障害を伴う自閉症、
それが少女に下された診断名であった。
初めて少女に会った日、私は少女に近づけなかった。私のなかの何かが少女に近づくことを禁じた。今にして思えば、少女の発する無言の声を、私の心の耳が聴いていたからなのかもしれない。
その日は施設内で散髪をする日であった。子どもたちは二つ並べられた椅子の周りで散髪されるのを待っていた。私は順番を待つ子どもの相手をして過ごした。
少女の番となる。
私は、何時ものように、少女を刺激しないよう自分の気配を消した。
少女の散髪が終わる。
私は静かに、ゆっくりと、少女の方に目を向ける。散髪し終えたばかりの少女を見た途端に、私はおもわず言葉を発する。
「わぁ、かわいいね、お姫さまみたいだね」
理由も、
意図も、
計算も、
遠慮も、
憐憫も、
思惑など何もない言葉を発した次の瞬間、
少女は笑った。
一瞬の出来事だった。すぐにその笑顔は消えた。しかし、少女は確かに笑ったのだ。わたしに向けて。
_この子には、生きる力が、ある。
火花が飛んだ。
今の今まで湿気って着火しなかったマッチに火が着いた。少女の小さな笑顔を見た瞬間、私の身体のなかに火が灯った。その火は、燃える燐の匂いとともに、私の冷え切った心のなかを照らした。一本の棒マッチが発する光は、陽の光の届かぬ心の闇の奥で何よりも眩しく輝きを放った。
この笑顔を守ろうと思った。私にもできることがある。その道を目指すことを決めた。その道を極めることを決めた。
❇︎
目を閉じる。
瞼の裏では、少女の小さな笑顔が、今も弱まることなく輝いている。その笑顔を胸に、私は今日も相談室で心というものに向き合い続けている。
少女に貰った小さな灯に照らされながら。
