ぼっちがひとりでゼロから始めた企画が、宇宙を超えた時。
わたしが『ぼっち企画』(※ぼっちがひとりでゼロから始めた企画)を始めた夜のことを、正直に話す。
あれは、夜中の十二時を回った頃だった。この日のコーヒーが三杯目になっていて、iPadの画面だけが光っていて、わたしはひとりぼっちで、no+eを見ていた。見ていた、というか、眺めていた。正確に言うと、他の人の記事のスキの数を、数えていた。多分、目はギンギンに血走っていたとおもう。やばいやつだ。
ふむ、あの記事、100スキか。
ふむふむ、あちらは300スキ、すご。
ふむふむふむ、こちらは1000スキ超えとな⁉︎
…………おら、どうしたらええんや。
誰もいない部屋で、声に出してしまった。ちょっと、やばいやつだ。臨床心理士なんていう、もっともらしい肩書きを持ってはいるけれど、画面の前に座ったわたしは「書けない、読まれない、スキされない」の「3ない」の孤独な人間だった。トラウマケアだとか、子どもの心理発達だとか、そんな知識は役に立たなかった。「3ない」人間の心の空洞を埋めてくれる専門書なぞ、この世に存在するはずもなく、わたしはひとり孤独の穴に落ちていた。ちなみに心理学では、孤独と孤立を分けて考える。
孤立は、物理的に他者との繋がりが絶たれている状態。
孤独は、主観的に、自分がひとりであると感じている状態。
わたしはその夜、両方の、深い深い穴の底にいた。プールや海に潜りすぎて、耳の奥がトゥンッとなるような、あの感覚。水面は遥か彼方で、光は届かない。そこでわたしは、自分の無価値感と、コンテンポラリーなダンスを踊っていた。かなり、やばいやつだ。だが、その時、空を覆った雲の隙間から光が射した。気がした。幻覚かもしれない。なぜなら、酷く寝不足だったから。しかし、
「盛りあがっていないのなら、盛りあげたらいいじゃない!」
突然、頭の中に、誰のものともつかない声が響いた。いや、自分の声だったのだけれど。それは、わたしの心の奥底にいた、わずかな抵抗の意志だったのかもしれない。『ぼっち』のままで終わるのか。それとも、この『ぼっち』の旗を振って、『ぼっち』を貫くか。どちらも選べないわたしに残されたせめてもの抵抗の。多分、目はギンギンに血走っていたとおもう。限りなくやベーに近いやばいやつだ。時間だけが無為に過ぎた。わたしは、震える指で、no+eの投稿ボタンを押した。それが、すべての始まりになるとは知る由もなかった。
『ぼっち・ざ・れびゅー!』
という、あまりにも身も蓋もない名前の企画が産声をあげた瞬間だった。さすがに「おぎゃー!」とは呟かなかったが、始まったことだけは確かだった。
0から1、宇宙一遠い距離
「0から1は、宇宙一遠い」
これは、わたしがこの企画を通じて得た、もっとも大切な宇宙的哲学だ。ちょっとだけ格好つけているが許して欲しい。
1を2にするのは、技術。
2を10にするのは、努力。
10を100にするのは、戦略。
こういう格好いい言葉をよく目にするからだ。キャッチーさに身悶えする。でも、0を1にすることだけは別次元のものだと感じる。これは祈りにも似た何かだと思う。奇跡寄りの偶然に近い何か。努力しても、待っていても、生まれない類のものだと。
企画を立ち上げた夜。わたしは、一晩中、画面を更新し続けた。その姿はシンバル・モンキーさながらのクリック・モンキーだったことだろう。間違いなく、目はギンギンに血走っていたと思う。しかし、来ない。誰も来ない。来る気配がない。奇跡が起きる時のシックス・センス的なものはどこへ行ったか。当然だ。わたしにはフォロワーもいなければ、影響力もない。「3ない」どころか「5ない」人間なのだ。強いて言うなら「夜中に叫んでいるヤバ……妙な心理士」でしかない。そんなところに誰が来る気なるだろう。ならん。時計の針が二時を回り、三時を過ぎる。窓の外が少しずつ白んでくる。青みがかった空が、わたしの焦燥感を嘲笑っているようだった。その時、通知が鳴った。気がした。実際は、そんな夢を見ていたのかもしれない。寝ぼけ眼をこすって眺めた記事のコメント欄には、
『参加します』
一言だけのコメント。しかも、一つじゃない。わたしはウキッて心臓が止まるかと思った。呼吸を忘れた。もしかしたら、一瞬だけ、あの世に行っていたのかもしれない。危ないところであった。
「あ……」
声にならない声が出た。表情を失くした白い面の何某の声のようであった。その人たちが、なぜ参加してくれたのか、今でも本当のところはわからない。主催者のわたしがあまりに悲惨に見えて、同情したのかもしれない。あるいは、誤タップだったのかもしれない。誤タップ……あると思います。
でも、その「1」が生まれた瞬間、わたしの世界は変わった。海流が変わった。水底に光が差し込んだ。その第一回に参加してくれたひとりが、k氏。のちに、わたしの無謀な航海を最初から最後まで支え続けてくれることになる、かけがえのない『ヨキナー』(※良き航海仲間)第一号兼応援隊長だ。
わたしはキーボードを叩いた。
返信を書く指が止まらなかった。気がつけば、一通の返信の下書きに千字も費やしていた。「重い。あまりにも重い」自分でもそう思った。でも、抑えられなかった。暗闇の中で、ようやく見つけた「1」という存在を、手放したくなかったのだ。わたしの中の、救われたいという思いが、その人への熱量として溢れ出していた。わたしの中にはない、と思っていた情熱が、あった。
仲間が13人になるまでの航海
1人目の参加者は、わたしに「勇気」をくれた。
2人目の参加者は、わたしに「継続」を教えてくれた。
3人目の参加者は、わたしに「ユーモア」を思い出させてくれた。
そんな風にして仲間が少しずつ、本当に少しずつ増えていった。それは、凪いでいた海に、小さな波紋が広がっていくような光景だった。最初はわたしの叫びだけだった場所に、誰かの声が重なり、また別の誰かの声が重なる。『ぼっち』という言葉が、いつの間にか『共有される孤独』という名前に変わっていった。
仲間の数は、いつしか12人になった。この「12」という数字は、西洋では一つの完結を意味する数だ。時計の文字盤、一年の月、星座の数。「ああ、わたしの企画も、ここまで来たんだな」そんな満足感と、けれどどこか「まだ何かが足りない」という、わずかな渇きを感じていた。そして、その瞬間は訪れた。
13人目の、参加希望。
画面に表示されたその名前を見た時、わたしは自分の目を疑った。その人は、1人目の参加者であるk氏の母親だった。『MITCHAN』と、仲間たちから三つ星レストランのように親しまれることになるその女性。彼女こそが、わたしの『ぼっち号』に加わった、最新で、最後の13人目のメンバーだった。
始まりと終わりが繋がった日
わたしは震えた。1人目と13人目が、親子。これを奇跡と呼ばずして、何を奇跡と呼ぶのだろうか。臨床心理士として、わたしは「世代間伝達」という言葉をよく使う。親から子へ、傷やトラウマが受け継がれていく負の連鎖を指すことが多い。でも、目の前で起きていたのは、その真逆だった。子が踏み出した「0から1」の一歩が、時間を超え、12人の仲間という層を潜り抜け、最後に親という「13番目の糸」を連れてきたのだ。
それは、ひとつの美しい円環だった。わたしが深夜に流した一通のボトルメールを、子が拾い、その背中を見ていた親が、最後に同じ旗の下に集った。「新宿の母ならぬ、TALESのおかんができた」と、わたしは画面の前で、不覚にも目頭が熱くなった。13という不吉とされる数字は、わたしたちの物語においては、完全に救済を意味する数字へと鮮やかに上書きされたのだ。
ジョン・ボウルビィが提唱した愛着理論では、子どもが外の世界を探索するためには、帰ってこられる「安全な基地」が必要だとされる。わたしは、この『ぼっち・ざ・れびゅー!』を、デジタル空間に散らばったぼっちな大人たちのための安全な基地にしたいと願った。1人目(子)が冒険を始め、13人目(親)がそれを見守る。この親子が同じ場所を「家(ホーム)」と呼び、言葉を交わしている。ファルセットがきれい男性ボーカリストに歌われたら涙するだろう。間違いない。その光景は、心理士としてのわたしの理想『一人ひとりがあるがままで安心して繋がれる安全な場所』が結実した瞬間でもあった。
生配信、号泣事件
ある時、音声配信プラットフォームで、ラジオの公開収録をしていた。『ぼっち・ざ・れでぃお!』という、これまた安直な名前の番組だ。その回には、件のMITCHAN氏と、その息子であるk氏をゲストに迎えていた。つまり、1人目と13人目が、同時に、そこにいたのだ。収録の後半、息子のk氏から寄せられた「ぼっち企画に対する想い」に、わたしが答えているときだった。おかんのMITCHAN氏が叫んだ。
「これってすごいことやと思うんです!」
「もうぼっちなんて言わんでください!」
「みんな居てはりますよ、みんな同じ気持ちやと思います‼︎」
そんな、あまりにも真っ直ぐな言葉たちが、わたしの耳から、心へと流れ込んできた。不可避な鉄砲水のように流れ込んで、そこでめためたに溢れ、心をずぶ濡れにした。
……ダメだった。
プロの心理士として、クライアントの前では決して崩さないはずの防波堤が、あっけなく決壊した。
「……っ、う、う、う……もうなんも喋れん……ぐぅ……うう……」
マイクの前で、わたしは涙した。しくしくと、ではない。号泣だ。それも大号泣。いくらTALESのおかんができたとはいえ退行しすぎだった。「放送事故だ、しかも赤ちゃんプレイ、バブー」と、頭の片隅で冷静な自分が言っていたが、身体は言うことを聞かなかった。10秒……20秒……無音の状況が続く。「なんも喋れん」と振り絞るわたしに、13人目が優しく声をかけてくれる。1人目が温かくフォローしてくれる。何やらコメント欄も賑わっているようだが、涙腺の防波堤が決壊した目では、文字が滲んで読むことができなかった。主催者のわたしが、ゲストの親子に慰められるという本末転倒な構図、前代未聞だ。でも、その時、わたしは心の底から救われたのだ。ぼっちだったわたしの孤独は、1人目と13人目が繋いだまあるい縁によって、完全に包み込まれた。
宇宙を超えて、円環が閉じた瞬間だった。
水底で一人、スキの数を数えていたあの夜のわたしに、「もう、いいんだ」と声をかけてあげることができた。
14番目のあなたへ
エッセイの冒頭で書いた「あの夜」から、半年以上が経った。今、わたしの手元には、三杯目のコーヒーがある。相変わらず、外は静かで、タブレットの画面だけが光っている。でも、あの夜と違うことが、一つだけある。
画面の向こうに、仲間の顔が見えるのだ。
1人目の彼も、13人目の彼女も、その間に連なるすべての「命」たちも。みんな、そこにいる。
0から1は、確かに一番遠い。広がり続ける宇宙の端と端ほどの距離がある。
でも、その1がいつか「親」を連れてきたり、誰かの「家」になったりする。そんな魔法のようなことが、この現実の世界でも起こりうるのだ。13人の仲間と出会った今も、わたしの根本にある孤独が完全に消えたわけではない。でも、その孤独を抱えたまま、この円環の中で、わたしは生きていく。
今、これを読んでいるあなた。
もし、あなたが「0」の地点で、動けなくなっているのなら。自分の書いた文字が、誰にも届かない空虚な記号に見えているのなら。どうか、思い出してほしい。
あなたの命は尊い、ということを。
あなたの放った一歩が、いつか巡り巡って、あなた自身を救う円環を作るかもしれない。本気の人間は、みんな、少しだけ、おかしい。あなたやわたしも含めて。しかし、そんな人間のことが、わたしは好きだ。大好きだ。
夜明けは、いつも静かに、だけど確実にやってくる。時には、雨が降り、雪が舞う朝かもしれない。しかし、それでも朝は朝なのだ。昨日の夜は、今日の朝に繋がっている。昨日とは違う、今日の夜明け。新しい朝が来る。あなたにも、朝は来る。きっと、来る。
「0から1」への、一番遠い、けれど、一番美しい旅。宇宙旅行。その14番目の仲間になるのは、あなたかもしれない。いや、あなたであって欲しい。そう願わずにはいられない。なぜなら、今のあなたはあの日のわたしなのだから。あなたがこの円環に加わったとき、きっと、また違う景色が見えるはずだ。なぜなら、あなただけの色がある。きっと、ある。あなたにしかない色が。だから、次は、あなた、いや、
君の色を、わたしに見せて欲しい。
待宵の月明かりの下、13人の仲間とともに、待っている。

✎_U|君色文庫
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