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明治5年(1873)建築        152年の風雪に耐えた古農家が      原発事故で解体の危機に             人々の心をつないだ山村の民俗文化の中心        国県町は文化財として保存の英断を   

⚫️2017年から気になっていた古民家の住人に出会った


この古農家は、福島県浪江町の山間部・「津島」と呼ばれる地区にある。
阿武隈山地の東側の斜面。標高500mほどの高原だ。

目の前は、福島市と太平洋沿岸部を結ぶ国道114号線。このルートは、古くから、海岸部から内陸へ塩を運ぶ「富岡街道」として栄えた。

特にこの古農家のある地点は、東西南北に街道が三つ交差する、交通と輸送の要衝だった。福島市からは東へ約40キロ。車で1時間ほどかかる。

(Google Map より作成)

 不運なことに、この一帯は、2011年3月11日に始まる福島第一原発事故で、もっとも重篤な放射性物質の汚染を浴びた。同原発から北西方向に流れ出た高濃度の放射性物質の雲(プルーム)が、まず最初にぶつかったのが阿武隈山地の東側斜面だったのだ。

(日本地質学会HPより)

津島地区を含む山間部の集落(浪江町、川俣町、飯舘村にまたがる)は汚染のために丸ごと封鎖され、道路はゲートで遮断された。中に入ることすらできなくなった。

国道114号線だけが除染され、通れるようになったのは原発事故の6年半後、2017年9月のことだ。道路の両側は依然立ち入り禁止が続いた。

国道114号が通れるようになったと聞いて、私は東京から沿線の撮影に何度も出かけた。入ることはできないが、道路の両側には、住民を失った無人の民家や商店がひっそりと佇んでいるのが見えた。

その中でも、この古農家はすぐに目を引いた。一見して、他の民家とは違う、古い歴史を持った建物だということがわかったからだ。
(以下、写真は特記のない限り2025年4月16日撮影)。

2018年12月、烏賀陽撮影。

国道を挟んだ向かいには、白い漆喰塗りのお蔵があった。「石井」と名前の入った扇の家紋を正面に掲げる。

お蔵は明治32年(1900年)の建設。
正面には石井家の家紋。

京都という古い街で育った私には、ピンと来るものがあった。「蔵が立つほどの家」は裕福であり、地域の中心になっていることが多い。この家の歴史を辿れば、地域の民俗や風習、歴史がわかるのではないか(その読みは当たった)。

しかし、ここに住んでいた「石井」さんがどこに避難したのか、わからない。集落全体が無人だから、近所の人に尋ねることもできない。町役場に聞いても「個人情報だから」と教えてくれない。

家の住人を見つけられないまま、月日が流れた。

2024年12月になって、津島地区の住民が集団で国や東電を提訴した「ふるさとを返せ訴訟」の東京での学習会に参加するチャンスがあった。そこで出会った石井ひろみさん(1949年生まれ)と立ち話をしていて、偶然にも石井さんがこの家の住人であることを知った。その場で「中を見せてほしい」と頼み込み、実現したのが2025年4月16日だ。石井さんは原告団の副団長だった。

石井さん一家は福島市に避難移住。

⚫️「付喪神」が宿ったかのような道具たち

 石井さんが扉を開けた瞬間、私は室内にある「ものたち」に圧倒された。

明治5年(1873年)から使われている薪炊きのかまどと鉄鍋。

足を踏み入れたのは、台所だった。明治5年から使われていた、かまど。風雪を感じさせる鉄釜。かまどの土台が崩れているのは、避難で無人になったあとにイノシシが入り込んだせいらしい。

台所道具にも年季を感じる。
包丁立て。
窓枠にも年季を感じる。
2011年3月のカレンダーがそのままに。

ここにある鍋釜や包丁といった道具と対面した時の感じを言葉にするのは、難しい。「神秘的」では言葉が足りない。

日本の民俗信仰では、長い年月を経た道具には精霊が宿り「付喪神」(つくもがみ)になるという。何か、そういった「カミ」のような威厳を感じるのだ。

 土間を通って24畳の大広間に行く。大きすぎて、カメラの画角に入りきらない。

右正面には神棚が。
松の一本木でできた梁が数本、広間をぶち抜いている。
マツの梁からは150年後の今も松脂が滴る。生きているのだ。
調度品の一つひとつが美しい。
障子越しにやわらかな光が差し込む。
2階へ上がる階段。
大広間の襖絵。
襖の引き手。

⚫️大広間は民俗文化の祝祭空間だった

この24畳の大広間は、単なる個人の贅沢ではない。毎年1月、五穀豊穣を祈る「田植踊」(たうえおどり)がこの大広間の神棚の前からスタートしたのだ。事前の稽古も広間で行われたという。こうした田植踊の世話役を「庭元」(にわもと)という。石井家はその庭元だった。

この「津島の田植踊」は、国の「選択無形民俗文化財」福島県の「無形民俗文化財」に指定されている。

石井ひろみさん提供。
同上。

↓2024年、福島県郡山市で録画された「南津島の田植踊」の動画。

結婚式や葬儀など、文字通り地域の「冠婚葬祭」にもこの大広間は使われた。津島に住む人々共有の「祝祭空間」がこの建物だったのだ。

⚫️2階はかつては養蚕に使われた

2階へ上がってみた。南向きにガラスの引き戸が続く。

建築学者の調査では、ガラスは大正時代のものらしい。
ガラス越しに国道の向かいの土蔵が見える。
2階には障子で区切られた小部屋が並んでいる。

2階では、かつては養蚕が行われた。絹糸を作るためである。家の裏には、蚕の餌である桑の畑があった。

はたと膝を打った。津島から峠を越えた西隣にある川俣町は、かつて絹糸産業で栄えた場所である。さぞや活発な商いが行われたに違いない。

おもしろいことを石井さんに教えてもらった。家の中央部分だけ欄干がないのだ。2階から直接下に蚕の繭を荷下ろししたり、餌の桑の葉を上げるためだ。

右側、2階の中央部は欄干がない。
外観。欄干のない部分から、戸を開けて荷を上げ降ろしした。
物置に使っていた小部屋。天井や床に年季を感じる。

前述のとおり、東西南北3つの街道が交差する交通と物流の要衝が津島である。こうした2階の部屋は、ここで日が暮れた旅人を泊める、旅籠としても使われた。

昭和になっても、自動車が普及する以前は、石井さんの家の近辺で、太平洋沿岸部から来たバスと、福島市など内陸部から来たバスが接続した。現代風に言えば、乗り換えターミナル駅前、といったところだろうか。付近は人で賑わい、家の向かいには映画館さえあったという。

⚫️アルバイト先で出会った夫と結婚

石井ひろみさんは、1971年に石井家に嫁いできた。

元々は北海道生まれ。東京都内や横浜市で育った。東京の帝国ホテルでアルバイトをしている時、夫の光雄さん(1948年生まれ)と出会った。石井家18代目の当主である。結婚したとき、ひろみさんは21歳。光雄さんは23歳だった。

田植踊の写真を掲げる石井ひろみさん。

都会育ちのひろみさんにとって、山村の名家での暮らしは驚きの連続だった。

田植えや稲刈りなどの農作業が忙しくなると、住民はお互いの田畑に行って手伝い合う。「結」(ゆい)と呼ばれる地域共同体である。そのお礼に、餅米や小豆を蒸して、柏餅を150〜200個作って配った。

「柏餅は店で買うものだと思っていました」とひろみさんは笑う。

葬儀があると、白小豆をいれた米を蒸して「おふかし」を作って配った。「香典返し」のようなものだ。一度に5斗(灯油缶5つ分)のコメを調理した。その時に活躍したのが冒頭の竈(かまど)と鉄鍋である。燃料は薪だ。

⚫️150年の歳月を感じさせる「ものたち」

神棚のお札。
こちらも神棚。この前から「田植踊がスタートした。
ご先祖の鍼灸師の免許。1960〜61年の日付。
こちらはお仏壇。
この行李や道具箱は一体何歳ぐらいなのだろう。
ご先祖様の写真は避難先に運んだ。
山で山菜やキノコを採るための籠。
道具の一つ一つが地域の民俗史を物語る。
2011年3月15日で突然断ち切られた石井さん一家の生活の痕跡も残っている。

外へ出た。振り返ると、正面に大きな戸袋があるのがわかる。ガラスがなかった明治時代は、戸はすべて木戸だった。

木戸を納める戸袋。
風雪に耐えた木目には風格がある。
母屋に向かって右側のは厩舎があった。牝馬を4〜5頭飼っていたという。
「石井牧場」の名のとおり、放牧場もあった。
かつて馬がいた厩舎の内部。

⚫️明治時代に水車で自家発電していた

母屋に向かって左側に回った。かつては水車小屋があって、そばを流れる小川で水車を動かして発電機を回し、遅くとも昭和10年ごろまでには自家発電をしていたという。まだ町役場にすら電灯がなかったころである。

驚いた。日立製作所が発電機を売り出したのは1912年(明治45年・大正元年)である。大正時代には、石井家には電灯が灯っていたのではないか。

水車小屋のそばには今もせせらぎが流れる。

発電と電灯。ガラス戸。石井さん宅は、当時の最先端技術を使ったハイテクハウスだったのだ。私は、真っ暗な山村の夜に、煌々と電灯がともる石井さん宅の威容を想像した。さぞや街道を行く人々の憧憬を集めたにちがいない。

屋外の線量はまだ高い。毎時0.69マイクロSvは原発事故前の約17倍。
水車小屋の奥には、屋敷森の中に立派な氏神様のお社があった。
毎時1.43マイクロSvは原発事故前の約35倍。

お社の前で、突然線量計の警告音がピーピーと鳴った。時間あたり1マイクロSvを超えたのだ。一帯は除染してあるはずなのだが、屋敷森のスギが地中の放射性物質を吸い上げ、葉や枝になって落ちてくるために、除染後も空間線量が高くなるのだ。

建築材一つ一つに美しい意匠がある。
組み木で大屋根を支える。
建築に使われた木材はすべて石井家の所有する山林から切り出されたという。

⚫️14年間の避難による不在が招いた家の荒廃

そんな150年近い「生きた文化財」の営みは、2011年3月11日の福島第一原発事故によって、突然断ち切られた。

同3月12日から、太平洋沿岸部の人々が避難に押し寄せた。人口1400人の津島地区に8000〜1万人の避難者。学校やお寺はもちろん、民家や保育園も避難所に開放した。

ところが同3月15日になって、汚染の範囲が広がり、津島地区にも突然、国の避難命令が出た。同原発2号機から高濃度のプルームが大量に吹き出したのはこの日の早朝である。

家財道具を持ち出す間もない。津島地区一帯は原発事故被害地でももっとも重篤な汚染を浴びていたにもかかわらず、住民にはその具体的な数値は明かされないままだった。何が何だか訳がわからない。肩を寄せ合って暮らしていた集落の人々は散り散りになった。

一家で飼っていた熱帯魚も一緒には避難できず、全滅してしまった。
石井さん一家が暮らした痕跡はいたるところにある。
平和で穏やかな暮らしだったのだろう。

石井さん一家も、14年間に福島県二本松市→同白河市→千葉県我孫子市→福島県南相馬市→福島市と7回も転居を繰り返した。現在は福島市に住んでいる。

12年間無人の間に、タヌキ、ハクビシン、イタチ、イノシシ、シカなど様々な野生動物が家に棲みついた。一時帰宅したら、2階にいたタヌキと目が合ったことがある。地震による被害はほとんどなかったのに、動物が家の中を荒らした。冒頭のかまどが崩れているのはイノシシが掘り返した跡である。

特に建物に重篤な被害を残したのはイノシシである。イノシシは土中の餌(ミミズなど)を探して土を掘り返す。母屋の裏手も、イノシシが掘り返した。そこから雨や雪解け水が入り、屋内の土間が洪水の後のようになったのだ。

母屋の裏。イノシシが掘り返した跡。
土間は今も濡れたままである。
土間から室内への蹴上(けあげ)も腐食して落ちてしまった。

⚫️国、県、町は貴重な民俗文化遺構の保存に英断を

 津島地区は広い。東京・山手線の内側の約1.5倍の面積がある。そのうちのわずか面積1.5%を除染して、そこだけの封鎖を解除したのは2023年3月のことだ。石井さん宅も、その封鎖解除された地域にある。

幸い、室内の線量は低かった。私の手元の線量計で毎時0.1~0.2 マイクロSvである。

環境省は住民が解体を急がざるをえない仕組みを作った。封鎖解除後、1年以内に解体・建て替えの申請をしないと、国費での工事が許可されない。自腹になる。石井さんはやむなく、申請だけした。あとはただ解体工事開始の連絡が環境省から来るのを待つしかない。

「先祖代々受け継いできた家を、自分の代で壊してしまっていいのか」。18代目当主である光雄さんは苦悶しているという。

私は思う。この石井家の建物はただのプレハブ住宅ではない。150年に及ぶ、山村の民俗文化と歴史が詰まった「生きた文化財」なのだ。建物そのものが民俗文化の歴史の証人なのだ。

しかも、ここで行われた「津島の田植踊」は、国の「選択無形民俗文化財」福島県の「無形民俗文化財」に指定されているというではないか。その「舞台」「器」を破壊してしまって、どうするというのか。一度壊してしまったら、取り返しがつかない。150年かけて蓄積した歴史が消えてしまう。馬鹿げているという他ない。

地元である浪江町役場に電話取材をした。担当は「生涯学習課」だった。石井家宅を保存しようという考えはないのですか、と私は聞いた。対応した男性職員の話をまとめる。

・津島地区にそうした古民家があることは承知している。
・外観調査ぐらいはしたことがある。
・しかしどこかの建築を保存しようという具体的な動きはない。
・保存する場合、県の指定にするか、町の指定にするか、行政間の調整が必     要である。
・指定のための評価調査には、住人の方の自己負担も発生する。
・そのことを含めてよくお考えいただきたい。

 何とももどかしい話である。石井さんが環境省に取り壊しの申請をした以上、解体工事がいつ始まってもおかしくない。この建築と道具の歴史的・文化的価値を知った私は、どうしても「待った」と言いたい。そして国や福島県、浪江町に英断を促したい。石井家と内部の民俗具は、歴史と文化の遺産として公費で保存すべきだ。

読者のみなさんの意見を聞きたい。


<追記>
①この石井家宅の内部を撮影した動画を2025年5月18日にYouTubeで公開する。石井ひろみさんのインタビューも後編として公開予定。


②もし石井家宅の保存をすべきだと読者が思うなら、福島県庁や浪江町役場に電話かメールしてその旨を伝えて欲しい。

浪江町役場と福島県庁のHPは次のとおり:


③ふだん私はこの「福島第一原発事故・被害地からの報告」を有料で公開している。が、今回は事態の緊急性と公共性を考えて、無料で公開することにした。私の被害地取材はすべて自腹である。読者の寄付・カンパを伏してお願いする。

<カンパ受付口座>
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(2025年4月24日記)








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烏賀陽(うがや)弘道/Hiro Ugaya 私は読者のみなさんの購入と寄付でフクシマ取材の旅費など経費をまかないます。サポートしてくだると取材にさらに出かけることができます。どうぞサポートしてください。