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短編小説『未熟の果実』

 ファーストキスの味なんて、もう覚えていない。触れ合った時の彼の吐息と唇を強引に押し付けて当たる前歯の感触が、ただぼんやりと口元に残っているだけだった。

 私は、異性に対して好意を抱いてこなかった。きっと、両親のせいだ。喧嘩三昧とかそういうことではない。むしろ、そっちの方が良かったかもしれない。

 同じ屋根の下に住む私たち家族は、他人同士のようであった。私の前で会話のない両親、時折父の愚痴を漏らす陰湿な母、娘に対して何か教育を施すわけでもなくただお金を稼いでくるだけのおじさんと化した父。

 あぁ、愛なんてこんな粗末なものなのかと私は年若しにして、理想を打ち砕いた。そのくせ母は「あんたも人並みに恋愛をやって家族を作りなさい」なんて言うのが、これまた滑稽だった。「娘である私に、あんな家族像を見せておいて何を言ってるんだ」と吐き捨てたいと思ったが、根っからの臆病のせいで、それはできなかった。

 そんな私にも彼氏はこれまでに二度出来た。一人目は中学生の頃、何となくの雰囲気で「付き合ってみる?」くらいの軽いノリで始まったことなのだが、早々に「別に好きじゃなかった」と切り捨てられた。何か人生が変わる予感がして浮かれていた私が馬鹿らしく思えてきた。それ以来、元来の引っ込み思案も相まって、私は人との関わりを恐れるようになった。

 高校に入って以来、私はクラスの輪に入ることはなかった。中学からの友達のいる別クラスに入り浸り、体育祭や学外行事は積極的に休んだ。そんな私を見かねた担任から何度も面談の場を持ちかけられ、私をクラスの一員にさせてやろうと尽力してくれた。でも、私はそれを拒んだ。どうせ誰も私を受け入れてくれない。根拠の無い確信があった。

 三年生になっても、私のクラスでのスタンスは変わらなかった。人との時間を削り、自由な時間を過ごしてきたおかげで、私は学力もそこそこに付き、現役は安泰と言えるところまで来ていた。

 私が二人目の彼氏になる男と出会ったのは、その年の夏のことだった。あいにく塾が休みの日で、学校で勉強しようと普段の教室に来たところ、クラスメイトの男女数名が大きな木版を前に何か作業をしているところだった。そういえば、夏休み明けの文化祭に向けてクラス制作の展示品を作ると言っていたな。受験生にとって最も大切な夏休みをそんなものに費やすなんてご苦労なものだと思った。

「あのー、大川さんだよね?勉強してるところ申し訳ないんだけど、こっち人手が足りなくてさー。少し手伝ってくれない?」

 突然、一人の男子が私に声をかけてきた。確か名前は本村とか言ったはず。「勉強するんで」と一言断ろうと思ったが、対人慣れしていない私には、そんなことは言えなかった。

 本村くんはよく話す人だった。私だけでなく他の人にも話を振って、ちゃんとそれに耳を傾けてリアクションする姿は嫌いじゃなかった。帰り際、そそくさと教室を後にしようとする私に本村くんは一言、

「明日からもここでやってるからさ、勉強の息抜きついでに来てよ」

と笑いながら私に伝えた。その時、胸に残った感触の正体が私には分からなかった。

 次の日、教室に入るとクラスメイトは本村くん含め3人しかいなかった。

「あっ、大川さん来てくれたんだ!ありがとう、人が集まらなくて困ってたんだよね」

 そんなこと言われたら、断ることもできないじゃないかと思ったが、クラスの人たちに迎え入れられる状況に喜びを覚えていることも否定できなかった。

 それから、私は毎日教室に通い続けた。本村くんたち三人はいつもいるメンバーになって、他のクラスメイトは代わる代わる顔を出すくらいになった。だから私たち四人はそこだけで独自のグループを作るようになった。制作だけじゃなく勉強もみんなでしたし、雑談もしたりした。後から知ったことだが、本村くんは普段私の斜め後ろの席だったらしい。ここで会って話すまで、そのことにすら気づけなかったなんて、いかに自分が人との関わりを絶っていたかがよく分かった。

 その日は私と本村くんだけだった。他の二人は用事があって来れないらしく、作業は休みにして勉強だけをすることにした。ふとした流れで恋バナが始まった。

「俺、前付き合ってた彼女がいてね……」

何気なく過去を振り返る本村くんの隣で、心がギュッと締め付けられる感覚があった。別に他人の、もう終わった恋なのだから、どうでもいい話なのだ。なのに、そんな話を聞くのが辛かった。それが嫉妬や焦りであるということを、私はその時気づいていなかった。

 それは雨の日だった。普段自転車で通学している本村くんは、珍しく電車で帰ることにしたようで、私は初めて彼と帰ることになった。以来、特に何か言うでもなく、2人で帰ることが自然になっていった。2人とも駅前の別の塾に通っていたこともあって、そこまで本村くんが、自転車を押しながら二人で歩くようになった。本村くんは、相変わらず人の話をよく聞く人で、きっと私でない誰かとこうなっても同じ態度なはずだ。だけど、その帰りの時間だけは彼を自分だけのものにできるのが少し嬉しかった。

 夏休みも終わり、通常の学校生活が始まっても私たちは一緒にいることが多かった。教室で勉強をし、閉まる時間に帰り、一緒に歩いて帰る。半年前まではクラスの誰かとこうなるだなんて、想像もつかなかった。

 帰り道の途中、公園で休もうと本村くんが提案した。その日の彼はいつになくソワソワした様子だった。しばらくベンチで休んで、行こうかと立ち上がったときに彼は唐突にこちらを見ていった。

「俺、大川さんのことが、すっ、好きです」

それは、私が家族にも昔の恋人にも言われたことのなかった言葉だった。言い終わった本村くんは電灯の下で顔を赤らめていた。
 その時になってようやく気づいた。愛を冷笑する私が、本当は愛を求めていたことを。それを伝えてくれるのが本村くんで本当に良かった。私は静かに頷いた。

 退屈に思えた私の日々は、どんどん色がついていくようだった。私を肯定してくれる存在がいると分かっているだけで、私は朝起きるのが楽しくなった。長い付き合いの友達からも「光希みつき、明るくなったよね」と言われるようになった。

 付き合ってから分かったことだが、本村くんはスキンシップを好む人だった。初めのうちこそ緊張していたものの、徐々に頻度が増えるようになった。最初は頭を撫でるだけだったのが、徐々に身体中の触れ合いになっていた。私は別に嫌ではなかった。肌を介して伝わってくる彼の体温が心地良かった。

 ファーストキスは放課後の教室だった。他のクラスメイトが帰り、人気が無くなった場所で私たちは一つになった。私を抱擁する本村くんの腕の締まりが少し強くなった。それは一瞬にして永遠のような幸せな時間だった。口を離し見つめ合っていると、本村くんが恥ずかしそうに笑った。その笑顔を独り占めしたくて、私はもう一度彼の口に近づいた。

 それから私たちは毎日人目につかないところで一つになった。と言っても接吻と抱擁に留まるところだった。その先に進む勇気は私たちにはまだなかった。本村くんは以前にも増して、それを求めるようになった。彼のその気持ちは分かる。もう、触れてない時の方が不安で押しつぶされそうだった。

 しかし、同時に本村くんにとって、私はそういう肉欲の対象でしかないのではないかとも思い始めた。究極的に相手は誰でも良くて、たまたま気が合った私だったのではないかと思った。だが、本村くんのことをそういう疑念の目で見るのはとても心苦しいことだった。だから、そういう考えの柵から解放されるためにも、私も目先の欲に溺れることにした。

 ある時から、本村くんは人との関わりを避けるようになった。休み時間ごとにどこかに出ていき、放課後も真っ先に帰るようになった。私はそこに過去の自分が見えた。そうか、本村くんも一緒だったんだ。彼が人に見せる優しさは、自己防衛のためであったのだと思えてきた。

 それでも何とか彼を引き留めて、二人きりの時間を作るようにはした。しかし、彼はどことなく元気がないというか、出会う前くらいのよそよそしさを見せるようになった。

 その日も私たちは人目を憚って接吻をした。初めての頃の面影はない、ただの性欲のぶつけ合いのような触れ合いだった。私の下腹部に当たる、彼の硬くなった「それ」に私は戸惑いながらも無知な振りをした。触れた瞬間、何かが崩れるような気がした。その何かの正体を私は分かってしまった。

 数日後、私は本村くんに別れを切り出された。

「何かさ、もう分からなくなったんだ」

告白されたのと、同じ公園で私たちは向かい合っている。

「人を好きになることができなくなった」

本村くんは自分自身に言い聞かせるようにそう言ってきた。きっと、しばらく前から私に対する愛は冷めていたのだろう。十数年貯めてきた性欲の吐き出しだけで何とか繋ぎ留められていたのかもしれない。これが他の誰かなら、呼びとめる一言を出せたのかもしれないが、私の中の臆病は無情にもそれを妨げた。

 それから私たちは別の大学に進んだ。元々別の志望大学だったのが、めでたく二人ともそこに受かり、私たちは完全に離れ離れになった。彼は同窓会にも顔を出さなかった。もう私の人生に、彼が現れることがないのだと確信した。

 今はもう彼の顔も声も忘れかけている。脳裏に浮かぶ蜃気楼は、私の春の終わりと同時に消えかけているようだった。ただ、あの日交わした不器用なファーストキスの前歯の感触だけが、私の中に最後まで残っていた。

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