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翠恋譚《すいれんたん》21

さいはての国 4

◇◆◇

 九月くげつ達と共に二人の帰りを待ち続けた。
 誰も一言も喋らず、静まり返った室内に重苦しい空気が流れていた。部屋の中央の卓を囲んで座り、みな、無言のまま、二人が戻るのをひたすら待った。
 どれほどの時が過ぎたか分からぬ中、やがて、も暮れ始めた頃、扉を叩く音がした。
 入ってきたのは、大空たいくうでも海京かいきょうでもない男。かしらつかいの若い男だった。
 「かしらがお呼びです。今宵、宴の用意をしております。どうぞお越し下さいませ」
 「大空たいくうは…かしらと、連れの女はどうしました?」
 九月くげつが急いでつかいの男に確認する。
 男は、礼儀正しく頭を下げた。
 「先に、宴の席にお越し頂いておりますゆえ、皆様もどうぞこちらへ」
 九月くげつを先頭にして男のあとについて歩く。
 眼下に外の景色が見渡せる見晴らしの良い廊下を進み行く。沈みゆく夕陽で真っ赤に染まっていた廊下が、少しづつ薄暗くなっていく。消え行く夕陽の色彩から、幾つも吊るされた洒落た灯篭とうろうに灯された、ろうそくの明かりへと移ろいゆく。
 柔らかく仄かな明かりに照らされ、廊下に床に周囲の壁に、灯篭とうろうの表面に彫られている美しい彫刻の影絵が映り始める。宵闇に揺れるろうそくの灯りが繊細な影絵の芸術を生み出し、幻想空間をそこに広げる。
 やがて、いくつか廊下を曲がった先にある大きな部屋に辿り着いた。楽しげなざわめきがあふれている。
 開け放たれた幾つもの窓から涼しい夜風が流れ込む。
 入口から奥に向かい、互いに向き合う形で置かれた幾つもの卓が並んでいた。室内にはえんの国の者達が、すでに大勢集まっていた。
 部屋の奥の中央に、全てを見渡せる形で長い卓が置かれており、その中央に大空たいくうえんかしらが座っていた。
 大空たいくうの隣に海京かいきょうが座り、えんかしらの隣には元頭もとかしら四樹よんじゅが座り、その隣にかしら代理だいりと二人の護衛が座っていた。
 海京かいきょうの隣に数席の空席が続いている。そこが大高おおたか達に用意された席だろう。つかいの男に海京かいきょうの隣へ案内された。
 「よお。随分待たせちまったな」
 思ったよりも明るい笑顔で大空たいくう大高おおたかを見上げてくるも、海京かいきょうは無表情に大高おおたかを見上げる。何思うのか分からぬ顔。
 九月くげつ大高おおたかを先に行かせ、自然に海京かいきょうの隣に立つ。海京かいきょうの隣はかしら代理だいりが座るもの。九月くげつに譲るべきだと思い、一歩下がり道を作る。九月くげつが気づき、上品に笑う。
 「あら。これから彼女の隣に座るのは、私ではありませんよ。大空たいくうおっしゃいましたでしょう? こう様、どうぞ、その席へ」
 「え、いや。そういうわけには…」
 「ほらほら、どうぞお座り下さい。代理だいりだとか護衛だとか…大空たいくうがそんな事、気にしますか?あなたは彼の友人であり対等な仲間という立場。私はそうはいきませんが、あなたと私は違います。お気になさらず、その席へ」
 九月くげつが笑顔で大高おおたかに席を譲ってくる。
 「おーい、何やってるこう。早く座れ。何だよ、海京かいきょうの隣じゃ嫌なのか?海京かいきょう泣くぞ」
 「ち、違う。そんなわけない!」
 大空たいくうの冗談に焦って本気で返してしまう。大空たいくうは、にっと笑って海京かいきょうを見る。
 「良かったなあ、海京かいきょう。喜んで隣に座ってくれる危篤な男がそこにいて。貴重だぞ、大事にしてやれ。滅多にいねえ変わり種だ。変なモン同士仲良くやれるぞ」
 「まあ!」
 無表情だった海京かいきょうが、大空たいくうの冗談で笑顔を見せる。ほっとしてその顔を見下ろした。
 許しを得て、大高おおたかは堂々と海京かいきょうの隣の席に着く。
 「くう~。おれらあ、心配したんだぞお~。何やってたあ~」
 大鷹おおたかが大きく荻の体越しに大空たいくうを覗き、心配もあらわな声をかける。
 「わりわりぃ。心配かけたな。悪かった大鷹おおたか。今宵はおまえ、呑んでいいぞ。この国は安全だ。酔ってへべれけになってもいい。誰も命脅かさねえ」
 大鷹おおたかが嬉しそうに目を輝かせる。
 「うっはあ~!ほんとかよお~!なあ~、じゃあ…じゃあ、女はあ~?!いいのかあ~?」
 大空たいくうが途端、笑顔を消し、殺気に満ちた目を向けた。
 「てんめえ……。まさか…死にてえのか……。落とすぞ、その首、切り離す!死んで土に還りてえか!」
 「うっ…へぇ~~~!悪かったあ~!悪かったよお~!殺さないでくれ~っ!」
 当然の如き忠告に大鷹おおたかは慌てて巨体を縮める。
 「これ以上ねえくれえ丁重にもてなし、こんなにも尽くしてくれてる国で…女にほんの少しでも、変な真似を、してみやがれ…。てめえの命、もうねえからなっ。来世の命も枯らしてやる!」
 「ひゃわわぁ~…あわゎ…悪かったあ~。もう言わねえ──っ!」
 巨体が何とかおぎの陰に隠れようと一生懸命身を縮める。
 「おまえ…ほんとにアホだな。その頭、脳みそ少しも詰まってねえのか?」
 身を隠そうとする必死な姿におぎが呆れた目を向けた。その目を次に大空たいくうに向けた。
 「でえ…おかしらあ~。おかしらはここで、酒樽さかだる幾つ空けるんだあ?」
 「うっせえ!たる空ける程呑むわけあるか!」
 おぎは、やはり、心配していた様子など少しも顔に出すことなく、開口一番、悪態ついた。
 「アホにアホと、言われても…説得力ねえ、おかしらよ~」
 「てめえっ…このやろう!」
 「ちょっと、おやめ下さい。お二人さん、またですか。皆様こちらを見ておられます。子供ですね、お二人とも。いい加減、大人になって下さい」
 二人の間に割って入り、九月くげつがまるで姉のように二人の男を叱りつける。
 「おーい…。何なんだ、おまえら。おまえなんてよお、かしらのくせに代理だいりに叱られ…それってどういうかしらなんだあ?そいつ一応、護衛だろ?言いたい放題言わせていいのか。威厳ねえなあ。おまえはぁ…」
 「うるせえ。あんなの護衛なわけあるか!おれが護ってやってんのに!」
 「おーい。そばかすの小男こおとこの〝おふれしょ″さんよー。何かほざいておりますかあ?」
 「何だと…今、そばかすの小男こおとこって言ったかよっ?!てんめえ殺すっ!」
 「だからお二人とも、おやめ下さいっていうんです。二人揃うといつもこう…」
 「無駄だ~九月くげつ~。いいから放っといて酒呑もうぜえ~。おーい、見ろ~!上等の酒に上等の飯ぃ~。早く呑みてえ~。うめえぞきっと~。久しぶりの酒ぇ~。うっは、最高~~!酒~酒~~、飯〜飯~っ!」
 久しぶりの豪華な食事のもてなしに、大鷹おおたかはすっかり舞い上がり、興奮しきって喜び騒ぐ。
 「何…なんだ…。このアホなご一行いっこうは……」
 えんかしらの呆れたぼやきを海京かいきょうと笑って聞いていた。結局いつものように何事もなかったことになる。この面白い旅の仲間が大高おおたかは心底好きだった。
 故郷こきょう涼風香りょうふこう大陸では、ついぞ得られなかった友に仲間。心許せる信頼に足る大切な者達と心から思う。
 死がいつも、間近にある旅。秘密だらけの仲間と友。それでも決して、誰一人、互いの命を軽んじる事なく助け合ってここまで来た。
 この先、さらに待っているだろう危険な旅路も、この仲間達と行くのなら、生きて帰れるのではと本気で思うことができた。
 その途中に、あるのだろうか。
 元頭もとかしら大空たいくうに告げた『あの都』という場所が――。
 遠くて近く、近くて遠い。そう告げていた意味ありげな場所。
 それとも――弦星げんせいの都がその場所なのか。
 大空たいくうは、本当はどこを目指しているのか。故郷の村を旅立つ者、みな弦星げんせいの都を目指して行く――。
 大空たいくうはそう言っていたが、本当はどこを目指しているのか。もしかして弦星げんせいを目指す途中、誰も知らない都があるのか。
 大空たいくうが決して超えられないと言った、父や兄達も生きて帰る事が出来なかった旅。
 思いにふけ大高おおたかの腕に優しく触れる手を感じる。振り向くと海京かいきょうが微笑みながら見上げていた。
 笑みを返す。
 いつの間にか、宴の挨拶も終わっていた。みなすっかり盛り上がり、宴席は騒がしくなっていた。
 「大丈夫?こう?ぼんやりしていたみたいだけれど」
 「何でもない。大丈夫だ」
 心配げな瞳に微笑んだ。
 気づけば自分の盃には、いつの間にか酒が注《そそ》がれている。手に取り、久しぶりに酒を口に含む。口の中に広がる香り、味。大鷹おおたかの言う通り、確かに上等の酒だった。厳しい現実を今は忘れ、みな、夜の宴を楽しんだ。
 宴のあと大空たいくうと共に、久しぶりの酒に酔い潰れた大鷹おおたかおぎを部屋まで運び、外で風に当たっていた。
 海京かいきょう九月くげつと共に部屋に残してきた。
 二人並んで土手に腰掛け、夜の田園を見下ろす。酒はあまり飲まないようにしたものの、久しぶりの酒に頬が火照り、夜風が冷たく心地良かった。
 大空たいくうは、宴の席でやはり、えんかしらや手下達に面白がって勧められるまま余裕の顔で酒を飲み、結局、酒樽さかだるを二つ空にした。最後まで酔いも知らぬ涼しい顔で、えんかしらや手下達を心底驚かせ面白がらせた。豪快過ぎる大空たいくうの様子にさすがは彼らの身内だと四樹よんじゅは目を丸くして言っていた。それでも大空たいくうの兄や父親はこれほど酒は飲まなかったとも言っていた。
 海京かいきょうは、酒を飲んだ事がないと言い、興味を持って盃を口に運んだものの匂いを嗅ぐなり顔をしかめ、結局一口も飲まなかった。海京かいきょうの酒は代わりに、そそがれる度、大高おおたかが飲んだ。九月くげつは、ほんの少しだけ、たしなむ程度に飲んだくらい。
 酒を飲んでも安全と言ってはいたものの、大空たいくうは念の為、海京かいきょうの部屋はまた男達との続き部屋を希望した。
 えんかしらは悪態つきつつ大空たいくうの事を気に入った様子で自分の屋敷に泊まるようにと申し出た。そんなわけで一行いっこうは、えんの国にいる間はかしらの家で世話になる事となった。 
 大きく豪華な屋敷は、前頭ぜんかしらも共に暮らしているという事だった。若いかしらは宴の席で自分の生い立ちを語ってくれた。
 幼くして両親を亡くし、蘭秋らんしゅうで物乞いをしていた所を通りかかった四樹よんじゅに助けられ、えんの国へ連れて来られた。数年後、正式に養子として迎えられ、実の息子のごとく大切に育てられた事、そして、母四樹よんじゅの正体と生業なりわいを知ったのは、成人を迎えた十五の頃。以来ずっと、母の右腕として裏の世界で生きてきた事を若いかしらは、隣に座る元頭もとかしらを気遣いつつさり気なく話して聞かせてくれた。
 「人生みな、色々ですね」
 九月くげつの静かな呟きを、みな、無言で受けとめた。
 その九月くげつ海京かいきょうの事を頼み、二人は今、屋敷から少し離れた場所にある人気のない土手に座り、風にそよぐ稲穂の音を聞いていた。
 九月くげつは、いつもそうであるように何も聞かず微笑み、海京かいきょうの事は任せていれば大丈夫と言ってくれた。
 時折、虫の声が聞こえる中、大空たいくうがようやく静かに、息つくように笑った。
 「こう。おまえは、本当によくやってる。色々と…よくやって、よく耐えてる。海京かいきょうの奴、おそろしいくらい口ベタで、笑っちまうくらい愛想がなく、呆れるほど常識ない上、時々何言ってんのか分からなくて、おまえ、困る時あるだろ?」
 大高おおたかは大いに苦笑した。
 「そこまで、ひどくないかな…」
 大空たいくうが面白そうに振り向く。
 「そーかあ?ま、愛想はちょっとマシになった。おまえのお陰か、よく笑うようになったよな」
 「いや。おれじゃなく…それはくうのお陰だよ。旅の始めからくうは、よく海京かいきょうを笑わせた。他の誰にもそうじゃないのに、大空たいくうと話す時はよく笑う」
 「そぉかあ?笑うようなはなしした覚えねえ。笑わせた覚えもねえんだが?」
 「はは…。さすがだな。何もしてないのに笑わせる…ある意味すごいよ」
 「バカにしてんのかあ?」
 「え?いや…。いや…そうなのかな…」
 「おまえなー!」
 無言で笑って大空たいくうを見る。
 引きつった顔で苦笑を返し、大空たいくうが小さく一息ついた。
 「言ってたぜ、海京かいきょうがよお。おまえはいつも優しく自分の話を聞いてくれると。泣いてたなあ。おまえの事を好きだとよ。本当に好きだと泣いてたぞ。こう。だから、おまえには、話してやる。話してやるよ。お前を信じて」
 虫の声がしばし止む。
 風に揺れる稲穂の音が、一際ひときわ大きく暗闇を流れた。
 「海京かいきょうの為に。おまえの為にも。まだ全ては話せねえが、おれのこと話してやる。たが、約束しろ。誰にも言うな。おぎ達にはもちろん、九月くげつにも。誰にも話さねえと約束しろ。いいか?」
 真っ暗な田園を見下ろす大空たいくうの横顔を見やる。
 「約束するよ。誰にも言わないと約束する」
 大空たいくうの微笑が柔らかい月明かりで確認出来た。
 「こう…おまえ、もう何となく分かっているだろう。おれと海京かいきょう…おれ達はそれぞれ古くから続く、ある部族の末裔まつえいだ。海京かいきょうは、すいじんと呼ばれる大自然を統べる神を崇める部族であるすいぞく末裔まつえいだ。おれは、虎神こしんと呼ばれる、生きとし生けるものをまもる神を崇める虎族こぞくと呼ばれる部族の末裔まつえい。この二つの神の事、聞いているよな?知ってるだろ?海京かいきょうに、聞いたはずだ」
 「ああ。簡単にだが、聞いている。虎神こしんという神の話も聞いている。虎神こしんは智恵に長けた神で、人間を愛した神だと聞いた。くうの部族の人達みなくうみたいに智恵に長けてて賢いのか?」
 大空たいくうが途端、面白そうに笑いを落とす。
 「おれが賢いかどうかは疑問だが…。確かに智恵と勇気と武のたみ…と、言われてはいる部族だなあ。おれの部族は、太古の昔、二つに分かれた。おれがいる部族は、今では<正しき虎族こぞく>と呼ばれ、元は一つだった同族は…<しき虎族こぞく>と呼ばれている。おれの村がどこにあるかは言えねえが、言ったとしても、おまえも誰も辿り着けねえ。村は太古の祖先のまもりによって、ずっと隠されて存在している。そこにあるのに不思議と見えず、よほどの事でもない限り、誰も辿り着けねえ村だ。知っているのは、昔からの近隣の村の者達、よほど親しい者達数人。だが、彼らは、おれ達が<正しき虎族こぞく>と呼ばれる太古から続く部族とは知らねえ。知られるとマズイ。まもりが解かれる恐れがある。敵対する<しき虎族こぞく>に討たれる危険があるからな。困った事に、今は黒き部族へと堕ちたたみも、おれ達と同じ血を持つ部族。武に長け知恵のある手強い奴ら。失われてしまったのは、虎神こしんの心と勇気だろう。あいつらは、太古の昔、自らの手でそれを捨てた」
 静かな声で淡々と話し続ける大空たいくうの横顔。大空たいくう海京かいきょうと同じだろうか。直接その身に神の血を引くたみなのか。
 大空たいくうが横顔に笑みを浮かべる。
 「おれに神の血は流れてねえよ。おれ達は虎神こしんという神をあがめるだけの普通の人間の集まりだ。海京かいきょうとは違う」
 「え?」
 大空たいくうがこの思考を正確に読み取った事に驚く。
 「なん…で…?何も言ってない、けど…」
 大空たいくうが大きな笑顔を向けた。
 「そう言いたげなおかしな気を…大いに醸し出していたあ。おまえは、本当に分かりやすい奴だあ」
 つくづく思う。明らかに大空たいくうがただ者ではないだけだと。
 「くう。<しき虎族こぞく>は、今もくう達と同じ神をまつっているのか?」
 何となく頭に浮かんだ疑問。大空たいくうが一瞬沈黙しつつ話そうと決心するのが伝わる。
 「……あいつらは…神をまつっているんじゃねえ。あいつらは、神の力を自分達の手で操っているんだ」
 「え!?神の、力を…人間が、操るのか?そんな事出来るのか?」
 大空たいくうの横顔が険しくなる。
 稲穂ざわめく暗闇を見つめ、どこまで話すべきか思案する様子。大空たいくうが再び口を開くのをそのまま静かに信じて待つ。
 「虎神こしんは太古の昔、一度だけ、人の体で生きたことがある」
 険しいままの横顔を見つめる。その視線は真っ暗な田園に向けられたまま。
 「大昔…虎族こぞくの祖先の一部の者らが、『欲』に目覚めて反乱を起こした」
 大空たいくう大高おおたかを信じて話し始める。心を傾け真剣に聞く。
 「彼らは、人の体を纏った神を力づくで襲って殺した上、二度と再生できぬよう、その体を八つ裂きにし、宝珠を奪い、力を盗んだ。そして……」
 思いもよらなかった話に緊張が浮かび唾を飲む。
 「神の魂をある場所に、たまと共に封じ込めた。その瞬間、この世に、<しき虎族こぞく>が誕生した。以来、数千年、神はこの世のどこかに今も呪縛されたまま、その力を<しき虎族こぞく>に悪用され続け、今に至る。おれの村、<正しき虎族こぞく>の祖先達は、<しき虎族こぞく>が密かに続けるその悪行を終わらせるため、呪縛された神を救うため、大昔からずっと、ある都へ戦士を送り出し続けてきた。<しき虎族こぞく>が支配する都……弦星げんせいの…都だ」
 「弦星げんせいの、都?!大空たいくう…!」
 大空たいくうが暗闇から大高おおたかへ静かな眼差しを向けてきた。
「そうだ。こう。何となく気づき始めていたろ?世界中の旅人が目指す場所、弦星げんせいの都─幻の都は、確かにあると」
 幻と言われつつ、その都は確かにあると本気で思い始めていた。それが、確信に変わった瞬間だった。
 「どこにあるかも知っている。だが、そこは、夢を叶える美しい希望の都じゃねえ。そんないいもんじゃねえんだよ。神殺しの末裔まつえいが支配する忌まわしいしき黒い都だ。おれと同じ血を持った…太古の部族の末裔まつえいの地。おれ達<正しき虎族こぞく>の始まりの地であり本当の故郷こきょう。すっかり黒く汚れちまった、血にまみれた故郷ふるさとだ」
 『神の故郷ふるさと、見てくるがいい』。
 えん元頭もとかしらの言葉がよぎる。
 ――都の心、正して必ず、生きて戻れ
 占者せんじゃの男だった散髪師の言葉。
 「希望の都とは名ばかりの地を…夢幻ゆめまぼろしの希望の地だと思わせたのも、元を辿れば奴らだろう。あそこは、ただのデケえ盗賊のアジト。大陸中の黒き心が集まる地だ。おれが手にした元締もとじしょうもこの存在も、奴らと関わりあるかもしれねえ」
 大空たいくうが苦痛の表情を浮かべる。
 「正しき虎族こぞくの村の仲間…旅立った者達…誰一人……誰も故郷に帰ってこねえ。最後に死んだのがさんあにぃと仲間達だ。あの都が消えねえ限り<正しき虎族こぞく>の血はこうして、これから先も流され続ける。この旅が終わらねえ限り、これからも、おれの村からは若い男が旅立ち続ける。でも、先に散った者達みな、無駄死にしてるわけじゃねえ。先に逝った仲間達、少しづつ、しき都を正す方法、虎神こしんの封印を解く方法、重要な情報を死してのちも夢を通じて村にもたらし続けている」
 大空たいくうが拳を握るのが見える。
 「そして…最も重要な仕事を成し遂げ、重要な情報をもたらしてくれた…おれの父様ちちさまあにぃ達。共に旅立ったにい達…みんなの為にも、おれはその”死″に報いなきゃならねえ身になった。もう金輪際、弱音は吐けねえ。後戻り出来ねえ。おれは鼻から都正みやこただしなんざ無理に決まってると思っていた。ここであにぃ達の話を聞くまで、そんな大それた事なんか…成し遂げる気全くなかった。ただ骨拾って、故郷の連中に、おばば達の手に…息子達をもう一度、抱かせてやりたかっただけだった。母様ははさまの腕にもう一度、父様ちちさま達を抱かせてやりたかっただけだった。みんなを国に、連れて帰りたかっただけだった。ただ、それだけだった…」
 話を聞きながら涙が浮かぶ自分を尻目に大空たいくうは笑うように息を吐いて俯く。
 「でも、心のどこかに…もしも、もしも運が良ければ、もしかしたら…<しき虎族こぞく>を討てるかもしれねえとも思った。だが、同時に、それを成し遂げる自信はなかった。そんな自信、今もねえ。あの誰よりもつえ父様ちちさまあにぃ達が…束になっても倒せなかった奴らだぞ。おれなんかに、倒せるわけねえ。おれはよお、こう…」
 大空たいくうが言葉を切って笑う。暗闇を見つめて笑う、何思うのか分からぬ横顔。
 「おれはなあ、始めから、死ぬ気だった」
 「大空たいくう!」
 笑って告げる横顔に驚きの目を向けた。
 大空たいくうが静かな顔で振り向いた。
 「生きて帰れるわけねえと、最初っから思っていた。迷惑はかけねえよう、おまえや大鷹おおたかと途中で別れるつもりだった。骨さえ見つけりゃ、それでいいと思っていた。死んでも夢を通じて、母様ははさま達に骨渡せりゃ、それでいいと思っていた。おれにだって出来るだろうと、そう思っていたからよお。みんな死んで、夢ん中で、遺品を渡す事出来たんなら、おれにだって出来るだろうと思ったから。ところがどうだ…。始めっから、誤算だらけの旅だった」
 真っ暗な田園を見下ろして諦めたように笑う姿を強い思いを込めて見る。
 「大空たいくう。おまえはもう、簡単には死ねないな。弦星げんせいの都がどんな地なのか分かったところで、おれの気持ちは変わらない。おれは最後まで一緒だし、九月くげつもきっとそうだろう。九月くげつは、おまえの為なら惜しみもせずに命を投げ出す男だろうし、海京かいきょうやおれ達の為にも、くうは簡単には死ねないな。みんなの命を守らなきゃならない、責任あるかしらだものなあ」
 大空たいくうが諦めた顔を向ける。
 「ああ…困った事に、そうなんだあ。まったくよー、こう…おまえらのせいで、父様ちちさま達のおかげでよー、おれは死ぬに死ねなくなった」
 大空たいくうが困ったようにため息つく。
 「”ならばやるまで。やらねばならぬならやるまで″。…そう言って、もう生きて帰れねえと知りながら、おれの為に、後から来る父様ちちさまらの為に、先に逝った先人達の為に…命賭けて見事、みち作った、いちあにぃに報いる為、おれはやらなきゃならねえよ。今度はおれが、やらなきゃならねえ。海京かいきょうの為にも、何が何でもやらなきゃならねえ。この旅には、二つの部族とこの世の全ての旅人達、喪われた全ての命への弔いの思いがこめられてる。こう。おれ達は、やらなきゃならねえ。こんな筈じゃなかった旅だが、こんな事になっちまった旅だ。だから、こう。聞かせてもらいてえ。大事な事だ」
 「何だ?」
 どんな問いにも逃げずに答えるつもりだった。
 暗闇から真剣な眼差しが向けられる。
 「おまえは、こう海京かいきょうの為に、どこまでやれる奴だ?あいつの為に何をしたい?海京かいきょうへの思い、どこまで本気だ?」
 「大空たいくう…」
 「おまえ、揚燕ようえんの都で海京かいきょう抱きそうになったろ。そのの事を考えたか?真剣に考えて抱こうとしたか?それとも、その場限りの遊びのつもりか?どうだ?」
 激しい怒りが込み上げる。思わず拳を握っていた。
 「何、言うんだ?!遊びなんかじゃ…そんなつもりなんかじゃない!そんな、軽い気持ちじゃ…。おれは本気で海京かいきょうの事を…本気だ!」
 拳に力を込め、暗闇を見据える。
 ただ一つの、確かな思いが心にあった。その思いを噛み締める。
 「愛してる」
 苦しい胸の内を吐いていた。
 「愛してるんだ。彼女を本気で、愛してる。こんな気持ち、初めてだ」
 初めてと言いつつ不思議な感覚。戸惑う。初めてなどではない想い。同時に浮かぶ、そんなはずはないという思い。
 「愛してる、か…」
 大空たいくうの声で我に返る。今の思いに心を向ける。
 「愛してる…ああ、海京かいきょうを、愛してるよ」
 大空たいくうの呟きに力強く、心を込めて改めて答える。
 「おまえと、海京かいきょうの子…。もし生まれたら、どういう立場に置かれるか分かっているか?あの村には、海京かいきょうの故郷には…子供を育てる時、相談出来る女はいねえぞ。頼れる奴、一人もいねえ。何も知らねえ中、二人だけで育てていかなきゃならねえぞ。特殊な掟に縛られた村の右も左も分からねえ地で、おまえ、それ出来るか?海京かいきょう護って、子供護って…家族の為、おまえ、早死に出来ねえぞ。一生まもっていかなきゃならねえ。死ぬまでずっと…心ない部族のたみから海京かいきょう達をまもり続けなきゃならねえぞ」
 大空たいくうは、海京かいきょうが子供を産めないことを知らない。切ない問いかけに言葉がつまり、答えられない。
 「あいつは普通の人間としての平凡な人生は送れねえ。巫女として、たみの為、神の為、村外れの聖域で一生暮らさなきゃならねえ身だ。そんな人生、おまえに背負えるか?長生きしてずっと一生、誰にも頼れねえ冷たい地で、おまえ達だけで生きていかなきゃならねえぞ。おまえにそれ、出来んのか?その覚悟はあるのかよ?結婚したいほど愛しているか?自分の一生捧げられるか?それほどまでに、おまえは海京かいきょうを愛しているか?」
 「海京かいきょうと、おれの…子。…子供…か。いいなあ」
 真剣に考えた事もなかった事。だが、今、初めて実感する。心のどこかで、自分はいつも暖かい家庭を夢見ていた事。今、初めて実感したとも言える。
 海京かいきょうと過ごす一生にぼんやり思いを巡らせる。
 「子供、ほしいか?」
 大空たいくうが穏やかに聞いてくる。
 「……いや…」
 笑って俯く。海京かいきょうとの間に子供は生まれない。
 「欲しいけど…いなくてもいい。いてもいなくても、それでいい。彼女の側にいられれるなら、おれは、それだけでいい」
 風が止み、稲穂ぐ田園を見て微笑む。
 もしも海京かいきょうと夫婦になれても自分の血を継ぐ子は生まれない。それでも何も気にならなかった。
 「くうは…どうだ?もし、誰かと結婚して夫婦になったら…自分の子供を産んでほしいと思うものか?自分の血を継ぐ子供、ほしいと思うか?」
 そんな実感は特にないまま聞いていた。
 「さあなあ」
 大空たいくうが、夜の田園を眺め下ろし微笑んだ。
 「おれは多分、おまえと同じだ。思うんだが、家族ってのはよお、”血″が作るんじゃねえんだ。このえんかしら元頭もとかしら、血は繋がってねえのに親子じゃねえか。元頭もとかしら、今のかしらを立派に育てた。愛情込めて大切になあ。血なんて、ただの血だあ。人間はみんな流れてる。大事なのは、血をつなぐ事じゃねえ。こころざしを繋げていく事だ。夢蘭むらん代理だいり達、見たろ。あいつら、血の繋がった兄弟同士で殺し合いやった。おれは、体に流れる血にこだわり持たねえ。もしも子供が産めない女でも、おれは何て事ねえな。どうしてもほしけりゃ孤児引き取る。このえん元頭もとかしらみてえになあ」
 大空たいくうはいつも、何気ない淡々とした語り口で人の背中を優しく押し出す。いとも簡単に答えをくれる。
 「おれも、同じだ」
 大空たいくうの考えに心の底から同意する。
 「そうは、いってもよお、実際の所はどうなんだ?ちゃんと答えろ」
 大空たいくうの真剣な顔に笑顔を浮かべる。海京かいきょうへの想いが溢れ返る。眼下に広がる静かな田園を万感の思いで眺めて笑う。
 「一生を、捧げられる。おれの一生。おれなんかでよければ、命だって何だって…海京かいきょうの為に使えるよ。この命、おれの人生、海京かいきょうのために役立てたい。生涯ずっと側にいて、毎日、笑顔を見ていられたら、もうそれだけで幸せだろうな。二人だけでずっと仲良くいたい」
 「二人…だけ?あんまり海京かいきょうにそれ言うな。子供の存在、忘れるな。刺激して海京かいきょう泣かせるな」
 「…………?」
 大空たいくうに無言で視線を向け、何となくそのまま目で問いかける。大空たいくうが気づき、溜め息つく。
 「子供の事、気にしてたからよ。もしも子供が生まれたら、どうすればいいかと問われてよ。海京かいきょう、きっと迷うってよ。色々と…」
 「………どういう意味だ?子供が、何だって?」
 大空たいくうが静かに肩で息つく。
 「もしもこうとそうなったら…それで子供身篭みごもったら…産んでもいいと思うか?…て、聞かれたからよ。産んでやれよって答えたら…自分の血を引く子が生まれたら、その子が不憫ふびんでたまらないって…。おまえにもきっと苦労をかけるって。あいつはその血のせいで、随分辛い思いしてきたからな」
 「ちょっと…待ってくれ!」
 大空たいくうの言葉を押し止め、何とか心を落ちつかせる。思考を整理しようとした。
 「ああ?何だ…どうしたあ?」
 大空たいくうが眉をひそめる。
 「……こ…子供……産めるのか?海京かいきょう、子供……」
 放心の声で聞いてしまう。
 「はあっ!?だろお?そんな話…してんだからよお。何言ってんだこう?」
 大空たいくうが呆れた顔を向けてくる。
 「……いや、何でもない。そうだな…。いきなりの話に、驚いた…だけだ…」
 誰にも言わないと約束した。口をつぐみ、ごまかすために目を逸らす。途端、大空たいくうが、それは大きく呆れたように息ついた。
 「何だよ、あいつ…。子供産めねえとか、言ったかよ。おまけに口止めまでしてよお。しょうがねえなあ、おまえら二人。ほんとに世話の焼ける二人だ。どうしようもねえ二人だなあ」
 大空たいくうがもうこれ以上、言いようがないという顔をする。
 咄嗟に声が出せず、大空たいくうを見たまま固まってしまう。視線に気づき、より一層、呆れた顔を浮かべられた。
 「まぁた…質問かよー」
 「え…?い…いや、おれは何も…」
 「分っかりやすい奴…。海京かいきょうが、おまえに嘘ついて、口止めした事、何で知ってる?って聞きたいんだろ?どうせそんなこったろー?」
 「な…なんで……!?」
 大空たいくうがとうとう、肩を落として俯いた。顔を上げ、呆れた視線を向けられた。
 「そりゃさすがに、分かるだろお?だからよお…分かりやすいんだ、こう、おまえは。何て分かりやすい奴だ。呆れるなあ、まったく。もっとうまく隠し事出来るようになれってんだ。何て隠し事が下手な奴!」
 返す言葉も見つからない。頭を掻いてごまかすしかない。
 「大空たいくう海京かいきょうは…」
 大空たいくうが笑いをこぼす。
 「ああ。産めるぞ。子供産める。言ってやれよ。頃合い見計らって言ってやれ。おまえの気持ち、ちゃんと伝えて安心させてやるといい。これから先、あいつは支えが必要だ。誰かが支えてやらねえと、あいつは旅を続けられねえ。この先、それはもう、おれの役目じゃねえ。おれは、あいつを男として愛して支えてやる事出来ねえ。おまえがいるし、それによお、おれは今、本当にまったく、女に興味持てねえんだ。これは多分…」
 大空たいくうが顎に手を当て夜空を見上げ、一人頷く。
 「いちあにぃのせいだろうな。うん。あにぃときたら、都中みやこじゅうの女が恋人だった。とんでもねえ…男だった。いや、もう一人…三《さん》のあにぃも同じだった。三《さん》のあにぃ、女の好みにもの凄《すげ》ぇうるせえ、ありえねえくれぇ細かいこだわりの男だった。毎回違う女だった。静かにクールに派手だった。もう…理解不能だ。いまだに全く理解できねえ。一生理解できんでいい。の兄ぃは、まともだった。いつも静かに上品に、女にも男にも優しかった。女がどんなに騒いでも、あにぃは、いつでもどこでも相手にもせず、ただひたすらクールだった。しかし!おれにはとことん、辛辣で乱暴で容赦なかった」
 大空たいくうは腕を組み、渋い顔でぼやき続ける。
 「困った兄貴達だったぜえ。いや、待てよ…女に関しては父様ちちさまも確か、わけぇ頃…いちあにぃと同じだったと…おばば達から聞いたなあ。困った男ら、だったなあ~。ああはなりたくねえもんだ。ま、おれは顔がイマイチだから心配ねえ。寄って来る女がいねえもんなあ。はっは」
 「……いや、だから…鏡見た事、ほんとにあるのか?」
 腕を組んで笑う大空たいくうに思わずまたもや言ってしまう。大空たいくうが一瞬で笑いを引っ込め、嫌そうな目をして振り向いた。
 「だから…。あるに、決まってらあ!喧嘩売ってんのか!嫌な野郎だあ!」
 返事する気持ちもなくしてしまう。
 目をらして溜め息ついた。
 大空たいくうが女性に興味を持たなくて良かったと、心底思い、安堵した。そうでなければ、海京かいきょう大空たいくうはもしかしたら、あっという間に相思相愛になったかもしれない。大空たいくうが自分の容姿に自覚あれば、女に興味ない男になど、なっていなかったかもしれない。今の大空たいくうのぼやきで、それが充分理解できた。
 どうやら、大空たいくうの父も兄達も、本当に、女性に人気があったらしい。もしかしたら、大空たいくうがこれほど自分の容姿を卑下するのは、父や兄達が関係しているかもしれない。何となくまた、溜め息ついた。
 「おまえは、溜め息の多い奴だなあ」
 笑う大空たいくうに苦笑を向けた。
 「くうみたいに生きられれば、溜め息、自然と減るかな。そうすれば、あっさり淡々と生きられそうだ」
 「それ、どういう意味だあ?!失敬な奴だっ」
 笑って目を逸らし、また溜め息つく。つくづく思う。
 「おれは海京かいきょうに、頼りない男と思われてたんだな」
 「何だよそれ。今は違うみてえな言い草だな」
 大空たいくうの笑顔に苦笑を返す。大空たいくうは笑い、夜風吹き抜ける田園の波を見下ろした。
 「言って、やれよ。ちゃんと。おまえの言葉で言ってやれ。おまえは頼りになる男だと、ちゃんと思わせてやればいい。あいつを、ちゃんとまもれる男になれ。おまえは、そうなれる。自信失うな。おまえは、いい男だ。こう、自信持ってあいつを愛せ。思いをちゃんと伝えろよ」
 その言葉を噛み締める。
 眼下に広がる真っ暗な田園を眺めながら、知らず笑顔が浮かんでいた。
 「ああ、そうする。そうするよ。ありがとう。くう。今日の事、このさき一生、感謝する」
 大空たいくうが吹くように笑う。
 「おお、そうかよ。じゃあいつか、恩を返せ。その日が来るのを待ってるぜ」
 風が止み、しばし稲穂凪ぐ田園を見下ろす。また短く風が吹き、静かに稲穂が流れる音。
 「そうする。いつかきっと恩を返す。その日を待っていてくれよ」
 瞬間、大空たいくうが鼻で笑う。
 「いいがなあ。じじいになる前によろしくな」
 「はは…そうするよ」
 二人で笑い、風吹く田園を見下ろした。
 翌日、一行いっこうは話し合いの末、えんかしら達にあと数日程、この地に滞在したいと告げた。えんかしらは、この申し出を快く承諾してくれた。
 これから先のまだ続く旅の支度を兼ね、穏やかなこの地の風に触れ、これまでの旅の疲れを取る事にした。えんの若いかしらは、これまで出会った都の代理だいり達のように、大空たいくうという一風変わった豪快な男をかしらとして気に入った様子で、おぎのように悪態つきつつ大空たいくうに、そして、その仲間達にも敬意を払い、とても親切にもてなしてくれた。
 ここでは夜の見張りに立つことも、山賊や二つの元締もとじしょう大空たいくうの首を狙う物騒な輩の心配もなく、旅が始まって以来初めて、命の危険を感じる事なくのんびり過ごす事が出来た。
 夏真っ盛りの気候から、季節は涼しい初秋へと移り変わり始めていた。
 大空たいくうと話をして以来、海京かいきょうにいつ思いを伝えるか、その機会を探していたが、いつもうまくいかなかった。
 二人でえんの国を散歩しながら語り合い、海京かいきょうとの距離はさらに縮まり、今では旅の仲間の目も気にせず、海京かいきょうと寄り添うようになっていた。
 この日もまた、夜風涼しい草原で、大樹の下に並んで腰を降ろしていた。虫が賑やかに鳴いている。
 満月の明かりに照らされ、海京かいきょうの瞳と髪は、また緑の淡い光を帯びていた。いつかの夜に知って以来、海京かいきょうは、満月の夜はいつも、みんなの目を避け、大高おおたかと共に過ごしていた。
 きれいな髪にそろりと触れて前髪を揺らす。
 「あの夜、気づくまで、満月の夜はこんなじゃなかったと思うんだけど?」
 大高おおたかの疑問を受けて海京かいきょうが微笑む。
 「目を閉じて。こう
 「何だ?」
 答えつつ笑って目を閉じる。
 「開けて」
 ほんの二、三度瞬きするほどの瞬間だった。目を開けた瞬間の変化に驚く。
 「海京かいきょう、それ…」
 満月の光で見えていた柔らかい緑の輝きが、いつもの黒髪に戻っていた。瞳も黒く戻っている。
 「こうしていないと色々と面倒。いつもはこうして隠していた」
 「他にも、何か出来る事あるのか?」
 微笑する海京かいきょうの黒髪に触れる。触れた部分から緑の柔らかい光が戻る。光は淡く広がりゆき、やがて、黒い瞳も緑の双眸に変化する。
 「今は、あまり力は使えない。凄く疲れる。でも、この地では違う。力を使っても体が楽。ここは、故郷の空気に似ている」
 「そうか。この国の力か。いい所なんだな、ここ」
 「そう…」
 心なしか海京かいきょうが少し元気をなくす。
 「どうした?」
 海京かいきょうが微笑んで顔を上げる。
 「何でもない」
 風がそよぐ。海京かいきょうの額の髪が揺れる。指先で緑の髪に触れ、白い額にしるされた赤い花印かいんに口づける。
 「いつか聞きたいと思っていたんだが…このしるし、赤い花のしるし、これはどういう意味があるんだ?」
 親指で花の印を撫でて聞く。あんなに嫌悪していたはずの赤い花が、今では愛おしいと思える不思議。
 海京かいきょうが目を伏せ、微笑む。
 指を動かし、瞼の端に縁取られた赤い化粧に優しく触れた。海京かいきょうが顔を上げる。
 「深く考えた事はなかった。気づいたら、もうこの印はあった。巫女を護る印と教わった。けれど…本当かどうか…。こうは、どんな意味があると思う?」
 「はは。分からないな。何だろう」
 微笑み、唇を近づける。今度は額ではなく、微笑する柔らかい唇に軽く口づけた。海京かいきょうはいつもそうするように、静かに顔を動かし、優しく口づけを受け入れた。思わずそのまま白く細い首筋に唇を移し、片手を背中に回していた。唇に、首筋から胸元に、肩に口づけ、もう一度、唇に口づけと。
 顔を離し、体を離す。背中に回した腕を離し、地面に置く。拳を作って衝動を抑えた。何とか心に言い聞かせ、静かに目を閉じ、息を吐く。
 「こう。かまわない。私は…」
 「駄目だ。そんな簡単に許されると困る。本当に、何もしないでいられなくなる。ごめん。おれが悪かった」
 少し離れて座り直した。大切にしたい。その思いを忘れないでいたかった。
 「私はかまわないのに…こうは駄目なの、なぜ?どうして?」
 泣くようにか細く聞こえる声。目を閉じる。
 「子供が…」
 「こう…?」
 「もしそうなったら困る。今はまだ駄目だろう?もし、そうなったら困るのは、おれじゃなくて君だろう?君は、何かやらなきゃいけない事があり、この先も旅を続けるだろう?おれはいいよ。いつでも父親になれる気持ち、ちゃんと持ってる。海京かいきょう、君は?」
 今が言うべき時と知る。戸惑う目を真剣に見つめる。
 「海京かいきょう。おれと共に、暮らさないか?夫婦として、共に…」
 驚いた目が見つめ返す。緑の瞳が、驚きを隠さず見つめ返す。
 「おれじゃ、駄目か?おれは君に相応しくないか?この旅が終わって、全て終わって…きっと生きて戻って…。そして…そうしたら、おれと一緒になってほしい。共に暮らしたい。同じ時を共に過ごしていきたい。毎日君の側にいて、ずっと君を見ていたい。ずっと側にいてほしい。ずっと、いつも側にいたいひとだ。おれは生涯、君と日々を共にしたい。駄目か?おれはそうしたいけど、君がもし、おれじゃ嫌だと言ったら…」
 苦笑をこぼす。
 「どうしようかな。もし、断られたら…かなり辛いな。もう他のひと好きになれそうにないからなあ。君以外のひと考えられない。もう無理みたいだからなあ。君じゃなきゃ、駄目みたいだから、できれば断ってほしくないな」
 笑って伝え、海京かいきょうの戸惑う緑の瞳を真剣に見つめ返す。
 「おれと、君の子供なら…きっと、真っ直ぐに育つ。例えその血の半分が人のものではないとしても、その血は恐れるものでも、恥じるものでもないということ、おれがちゃんと教える」
 「どうして──…」
 驚く海京かいきょうの目が即座に否定の色を宿す。
 「こう。私は…子供は産めないと…」
 「知ってるよ、海京かいきょう。もう全部知ってる」
 海京かいきょうが疑いの目を向ける。
 「くうに聞いた。くうは本当に君を気遣ってくれてる。君は子供を産めないんじゃなくて、生むのを恐れているだけだと、それを知った時、悲しかった。おれが頼りない男すぎて…おれが君にそう言わせているんだと気づいて…自分を、情けない男だと思った。君を不安な気持ちにさせたまま、何一つ、気づきもせず、本当に、ごめん。心細い思いさせて、本当にごめん。もう、そんな思いはさせない」
 海京かいきょうが涙を溜めた目を逸らす。
 「あなたの夢は、平穏な家庭を持つ事。叶うはずの夢を私の為に捨てないで」
 「その夢を叶える為、君が必要なんだ。どんなに平穏な家庭を持ったとしても、そのひとが、生涯かけて愛せるひとじゃなきゃ意味がない」
 「きっと後悔する」
 海京かいきょうは無表情に遠くを見据えて答える。
 「しないよ」
 「なぜ、そう言える?!」
 海京かいきょうがとうとう大声で叫び、振り返る。
 「後悔なんてしないからだ」
 静かに笑って答えた。
 「どうして?どうしてそんな風に思う?!」
 「そんな風にしか思えないからだ」
 静かな思いのまま答える。
 「どうして?!先の事など分からない!」
 海京かいきょうは苛立って立ち上がる。草地に座ったまま見上げた。
 「分かる事も、あるよ」
 海京かいきょうは怒りを含んだ目で、無言のまま背を向けた。一瞬だけ迷うも意を決し立ち去ろうと動くのを見る。
 「海京かいきょう!」
 立ち上がり、手首を掴んで引き止めた。
 海京かいきょうは少しだけ振り返るも、決して自分を見ようとしない。
 「こうは、何も分かっていない。きっとすぐに後悔する。私の事が重荷になる」
 「海京かいきょう
 海京かいきょうは今にも走り去って行きそうだった。
 「馬鹿なのは、君だ…。おれの心もおれの事も、少しも分かろうとせずそうやって、背を向けて行こうとする。おれを遠ざけようとする君の方だ。それでおれが、君の側を離れていくと思っている。そうしたら君は、泣くんだろう?一人になって泣くんだろう?一人になって泣くくせに…海京かいきょう、何で分からない?おれには、君でなくては駄目なんだ!」
 背を向けたままのか細い背中に万感の思いで告げていた。
 「人も竜人りゅうじんも関係ない。それで君の何が変わる?君の体にどんな血が流れていようとも、君は、君だ。ここにいるのは、ただの女人にょにんだ。人と同じ思いを持ち、人と同じ迷いを持って悩み傷つく…人と同じ存在だ!」
 片手で肩を掴んで振り向かせる。緑の双眸から溢れる涙。親指でそっと頬を流れる涙を拭う。
 逸らされていた緑の瞳が静かに大高おおたかを見上げる。
 「おれの、側にいてくれ。海京かいきょう
 細い肩を腕で包むように抱きしめた。海京かいきょうがぎこちなく、大高おおたかの胸に顔をうずめる。
 「……こう…。側に、いてほしい…。少しでも長く…いつも側に──」
 腕の中の儚い声。その思いに強く応える。寂しげな肩を抱きしめた。
 「生きて、帰ろう。きっとだ。生きて帰って…そして、共に暮らそう。一緒に…。君と一緒に、この先の世を生きていきたい」
 腕の中か細い存在。その耳元に囁いた。海京かいきょうが声もなく小さく頷く。
 微笑んで髪を撫でた。
 「いつか子供が生まれたら…名前は大空たいくうにつけてもらおう。くうと出会うことがなければ、今のおれは、ここにはいない」
 海京かいきょうが綺麗な涙目で見上げてくる。目を合わせて微笑んだ。
 涙を一つ頬に落とし、緑の瞳が微笑んだ。
 美し過ぎる緑の双眸。思いを込めて見下ろした。
 「海京かいきょう。戻ったら…おれの妻に、なってくれるか?」
 海京かいきょうが白い顔に優しい微笑を浮かべてみせた。
 「喜んで。こう…」
 安堵のため息を一つ落とす。同じため息でこれほど違う意味がある。知らなかった違いを知り、思わず胸があたたかくなる。
 初めて知った嬉しいため息。
 愛おしさに満たされながら、形良い唇にそっと優しく、想いを込めて口づけた………。




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宇郷  伊織 お心のこもったサポートありがとうございます。 頂いたサポートをフルに活かし、無駄にせず、より一層、心の安らぎのお役に立てるよう、日々楽しんで精進します。 どうか、あなたの人生も安らぎと笑いにあふれた日々でありますように☆彡 心から感謝いたします。