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鈴木龍之さん - 60年間の欧州現代史の片鱗を垣間見て来た人(4/5)

現役会員で最年長の、鈴木龍之さん。様々な欧州の歴史的転換点に隣り合わせてきたその貴重な寄稿文を5回に分けてご紹介します。4回目は、英国定住に至る前に携わっていた仕事についての記録です。[表題写真はSCIの書記名簿で高峰譲吉の名前を見つけるご本人]



Ⅳ.ロンドン事務所駐在時代、 (1986-1992&1999-2002)

IV-1.三菱油化からのロンドン駐在(1986-1991年)

1986夏‐1991秋の約5年間、私は三菱油化(現三菱化学)のロンドン事務所の所長を務めた。主な業務は、欧州の化学企業との情報交換。英国内のICI、Shell、BPだけでなく、ほとんど毎週のように飛行機で大陸に出むいてBASF、Hoechst等々、数多くの大化学会社を訪問した。

駐在のごく初期に存在を知って入会したのが、SCI(Society of Chemical Industry)である。化学関係の会社や大学などに所属する個人が集まり、定期的な講演会や議論会等を通じて化学人の交流、レベルアップ等を目指す組織である。Belgrave Squareに講演会場や会議室を備えた立派な本部ビルがある。日本人としてはおおいに羨ましい組織だったので、私は務めて議論に参加し、英国内での人脈作りにも使わせてもらった。

遡ること明治初期(1880年ごろ)の設立当初から、Glasgow大学に留学中の高峰譲吉もこの会に参加していた。(初期の名簿を見ると、他にも何人か、東大の先輩の教授方が名を連ねていた。)

高峰は当時の工部学校(後の東大工学部)卒業後にGlasgow大学に留学し、日本で初めて世界的に活躍した科学者である。タカジアスターゼ(米麴菌から分離した澱粉の消化薬)を三共薬品から発売し、同社の初代社長も務めた。この薬は米食の多い日本人だけでなく世界で受け入れられ、彼は百万長者になった。アメリカ人の奥さんと米国に渡り後にワシントンの桜並木の苗の共同寄贈者となった。

ご自宅に第一三共薬品の胃腸薬があれば、成分表示をご覧あれ。彼が生み出したタカジアスターゼは、今も現役の薬の成分として使われている。

SCIは1年に一度、大きな国際会議を欧州大陸の諸都市で開催している。欧州、米国の大化学会社の会長、社長が多数参加する。日本の化学企業のトップもかなりの頻度で参加している。化学を含めた英国産業が世界に君臨していた頃からの伝統であろう。最後の晩餐会はディナー・スーツ (タキシード)、イブニング・ドレスの正装。私も仕方なしに、似合いもしないタキシードを着こんで参加した。

英国には種々の業種に於いて、同様な個人参加が主体の団体がある。寺田虎彦(明治時代の物理学者)も高く評価しているところである。各種業界で個人が集まり英語で交流できる組織があるのはロンドンの大きなメリットなので、日本人もロンドン駐在になったらこういう団体を見つけて参加することが推奨される。

IV-2. IRAの騒擾

私の一回目のロンドン駐在期間(1986ー1991年)は、ちょうど、北アイルランドのUKからの分離と南のアイルランド共和国への統合を主張するIRA(Irish Republican Army、政治部門はシンフェイン党)のテロ活動が最も活発な時期だった。

シティの一角に爆弾を仕掛けたとか、駅のごみ箱に仕掛けたとかの通報があるたび、事務所からの避難、駅に入れないのでPubで待ってから帰宅する等があった。殆どがいたずら電話だが、実際に爆発して死傷者が出ることもあるので検査はおろそかにできない。皆あきらめ顔である。

サッチャー(Margaret Thatcher)首相の時代であった。鉄の女の評判を地で行く強硬発言をTV等で見た。ある時、保守党大会会場のビルに彼女の爆殺が目的で爆弾が仕掛けられたが、少々前に爆発してしまった。爆発の瓦礫に足を踏み入れた彼女は「私はテロを恐れない、テロは無駄だ!」と叫び、実際にIRAの徹底的な弾圧を試みた。そして投入した特殊部隊の非人道行為も聞かれた。公には、対話の態度は一切見せなかった。IRA側もそれに対抗してテロ行為をエスカレートさせていった。

過去約800年に及ぶアイルランド人への非道や富の収奪等を考えると、もっと妥協的な態度に出られなかったのだろうかと思う。サッチャーの功罪の中でも罪の筆頭に上がると思う。次の保守党メージャー首相も努力はしたが、問題は労働党のブレアー首相の時代まで持ち越された。

1998年4月10日(イースターの前週の金曜日、Good Friday)にようやく、北アイルランド、UK、アイルランド共和国の3者の間に協定が成立した。米国の立ち合いのもとで、IRAの武装放棄、アイルランド共和国の憲法改訂(国民投票で北アイルランド地区の領有権放棄が決定)、北アイルランドの統治体制(英国教会派、カソリック派の共同統治)、等々について合意した。

米国がこのGood Friday Agreementの後ろ盾になっていたのは、過去に英国のアイルランド人への非道に耐えかねて米国に移住した人が、米国での一つの勢力になっていて、現地アイルランド人の権利を擁護したいとの思いがあったからだという。IRAテロ活動にも、米国からかなり資金が流れているとの話を聞いたが、そういう背景であった。IRA問題の収束は、10年近く継続したブレアー政権の最大の功績ではと、私は思う。

IV-3. 日本のバブルの余波

1880年代の終盤は日本ではバブル真っ盛りの時期であった。ロンドンへの余波は主に金融関係に見られ、日本企業が転換社債をロンドンで発行するのが流行のようになった。日本の証券会社の担当者が取り仕切って、社債の元受会社(三菱油化の場合は10社程度)が一流ホテルで発行儀式と夕食会を主催する。その後、日本から来たエライサンは日本人の経営するナイトクラブへ移行して打ち上げとなる。当時ロンドンには、東京銀座のママさんあたりが出て来て経営するクラブが数か所あった。(今はもうないのでは?)

その波に乗って野村、大和、日興証券等の日本人社員数が大人数に膨れ上がっていたと聞くが、中小の金融機関(地銀含む)もロンドンに支店を持つのも流行った。猫も杓子の事務所開設のレセプションが続き、日本酒と寿司などにありつけるのはありがたかったが行き過ぎと感じることもあった。

一つは、セントポール寺院の地下室でのレセプション。ここにはチャーチル、アラビアのローレンス等々の遺骸の石棺が安置されている。こんな所で酒を飲んでいいのかなと、飲みながら感じていた。二つ目はナショナル・ギャラリーを貸し切ったレセプション。参加者数は限られているので酒のグラスを片手に、とんでもなく高価な絵を、自分の所有物のような気分で見ることが出来た。絵に酒をひっかけられたらどうするのだろうとも思いながら。その後、こんなレセプションは絶えて聞かない。

日本の株式は暴騰していた。証券会社の人の言い分は「日本株の急上昇は土地の価格急上昇にある。日本の土地は限られているからだ。欧州人はそれが理解できないのでこの波に乗れない。」とうそぶいていた。

1988年12月、ある日本の証券会社の副社長の講演を聞いた。「来年もまだ株は上昇するだろう。小さな心配は一つ、金利の上昇である。」と言っていたが、年明け1月から金利上昇と共にバブルがはじけ、株は暴落した。バブル時とは、誰もが浮かれ気分に流され、といろいろな理屈を考え出すものなのだなと感じた。

IV-4. 西ベルリンでのSCI国際会議とベルリンの壁

1988年の秋、SCIの国際会議が西ベルリンで開かれた。この時は、日本の化学会社からの参加はなかったが、欧米の化学会社からは例年通り大勢の社長・会長が参加していた。

数々の講演の合間を縫って、東ベルリンを見学する半日バスツアーに参加した。西に比べ貧しい街並みを見ながら、たまたま隣り合わせたBPの化学部門のトップ(SCIの良い所で、かなりえらい人間とも平気で話せるのだった)と、やはり共産主義はダメなのかとささやき合った。

バスからは降りられず、街並みを見るだけなので、1970年にライプツィヒで民家に泊まった時と比べることは出来なかったが、何となく低調な雰囲気に、18年間の発展のなさを感じた。よく言われるように、20年間のブレジネフ時代(アンドロポフ、チェルネンコを含め1964-1985)の共産圏の経済停滞の結果だったのか。

東から西に戻る時は、東側兵士によるバス点検が大変だった。バス内部の人間をパスポートとともに丁寧に点検したうえ、バスの下に鉄棒についた鏡を差し入れ、国境脱走者が隠れていないか時間をかけて点検していた。

過去2回(1968、1970年)のベルリン以外の地域での東独から西独の国境越えの時はこんなに厳しくなかった。経済停滞で東側に焦りが出ていたのか、ベルリンだからなのかは分からない。

最後の晩餐会は、西ベルリンのブランデンブルク門の近くで、東西の壁ぎわに建てられた市議会堂(?)で開催された。

当時、西ベルリンは第2次大戦後の復興に当たっていたが、東独の中に孤立しており将来が不明との理由で、ほとんどの建物はあまり金をかけないものになっていた。この市議会堂だけが4‐5階建ての立派なものであった。その最上階での晩餐会であったが、眼下にはベルリンの壁を越して東側が見下ろせ、そこを壁に沿って靴音そろえて哨戒するソ連兵(東独兵でない)が20人くらい見えた。

やおら西ベルリン市長が登壇し、「この壁により分断されたベルリンの実情をよくご覧になり、ご記憶ください。この状況は今後も10年、20年と続くのです。」と言った。その翌年、1989年11月にベルリンの壁は崩れた。

IV-5.二度目のロンドン駐在(1999‐2002年)

私の二度目のロンドン出向は、日本合成化学(三菱化学の関連会社)からであった。当社の特殊樹脂(スーパー等での肉の長期保存用の包装に不可欠な樹脂)の製造プラント建設の準備のための駐在であった。アメリカでは既に生産設備を有していたが、欧州拠点として、UK北東部にある化学コンビナートの一角に新たなプラントを建設することは、日本にいる時にほぼ決めていた。私の役割はEU内での種々の下準備を進めることだった。立地所有会社との折衝、UK政府DTIの化学課との連絡、必要に応じEU本部(ブラッセル)との接触、化学業界誌との接触等である。

英国政府DTI(Department of Trade and Industry 当時の名)、特にその内の化学課の担当官とはかなり頻繁に接触するようにした。そのうちに、DTI主催の英国競争力向上の助言の会議、DTIの大臣主催のレセプションへの招待などにも呼ばれるようになり少々戸惑った。

この特殊樹脂は英国での生産開始までは、日本or米国からの輸入に頼ることになるが、EU内の共通関税の予定では、生産開始の2,3年前から関税が上がることになっていた。これでは輸出元の負担がかなり大きくなる。2,3年後の生産予定国の英国政府の関税担当官を通して、生産開始前の関税上昇を低減してもらうよう申し入れていた。(英国はまだEU内だった時期。)EUにて、各国の関税担当官がブラッセルに集まり、EU共通関税を決定する会議に呼ばれ、種々説明し、相当の関税低減を獲得できた。また、EUの共通関税の決め方もかなり良く理解できた。

IV-6.退職


2002年三菱化学を退職することになった。

英国には、前回の滞在時に“Indefinite leave to stay in the UK”の永住権を取得していたので、英国に当分居残るか、日本に帰るか、の選択があった。

結論は、「当分は英国に残る」であった。「これをやる!」との確固たる目的がないのが残念だったが、「英国の方が日本人としてやることは多いだろう」と考えた。また、「日本より大きな家が持てそうだ」、「子たちも、日本より、英国に慣れてしまっている」等々も理由になった。

その後、在英が当分ではなく、相当の長期間になってしまった。


V.コンサルタントとして(2003〜現在) へつづく