見出し画像

鈴木龍之さん - 60年間の欧州現代史の片鱗を垣間見て来た人(5/5) - 最終回

現役会員で最年長の、鈴木龍之さん。様々な欧州の歴史的転換点に隣り合わせてきたその貴重な寄稿文を5回に分けてご紹介します。最終回・5回目は、1999年からの英国暮らしの記録です。


V.コンサルタントとして(2003〜現在)


英国人は、会社等を首になるなど暇になるとConsultantと称するようだ。私も習って、そう称することにした。(これで、立派な英国人に近づいた積り!)

V-1.Bellwoods International Ltd.設立といろいろの試み

英国人は会社をやめて暇になると、コンサルタントと称するようなので、私もそれに倣うことにした。(これで、立派な英国人に近づいたつもり!)
まずは活動の足場を整えようと、資本金£100で個人会社を設立した。Suzukiの名前にしようかとも思ったが、鈴木自動車UKが少々渋ったので、Bellwoods International Ltd.という屋号にした。仕事としては以下のような例を試みた。

  1. 欧州の会社に特殊樹脂の技術的コンサルティングを5年ほど続けた。(汎欧州の会社であり、5,6か国の工場、支店を訪問しつつのコンサルであった。

  2. アスベストの健康問題がかしましい時期であり、代替品技術で欧州が先行していた分野もあり、日本への売り込を検討したが、うまく行かず。日本での販売体制ができなかった。

  3. 米国のシェールオイルが勃興し始めていた時期である。生産量が増えるに従い、長年の米国の炭化水素輸出禁止の時代が終わり、徐々に輸出が増え始めた時代でもある。(現在は世界一の生産量を誇る。)英及び米で石油を扱うTraderと一緒に、三菱化学に石油化学原料を供給することを検討したが、話が大き過ぎたか、日本の汎用石油化学事業が停滞期入ってしまった頃でもあるので、うまく行かなかった。

会社設立は税金の節約になるとの期待があったが、結果的にはたいして利益も出なかったので余り役立ったとは言えない。

V-2.SCI活動の継続(Society of Chemical Industry)

引退とともに時間の自由を得たので、SCI(Society of Chemical Industry)、または物理関係の同様な組織IOP(Institute of Physics)の講演会に時々出席し、この分野にキャッチアップしようと努力した。講演会後はネットワーキングと称してワインと軽いつまみも出るので、よもやま話に時間をつぶした。

このように出入りしているうち、ある時、SCIの専務理事に呼ばれ、日本支部を設立したいが可能だろうかと質問された。実はSCIの設立(1880年ごろ)の暫く後に米国支部が設立されている。活動は小規模ながら、毎年、本部と同様に国際会議を開き、全世界の化学会社の首脳が集まる。そこでシカゴに移住していた高峰譲吉がかなり貢献していたという歴史を踏まえての打診であった。

三菱化学の会長に相談し、ある大化学会社の会長宛が良いだろうと、シェルの会長(当時SCIの会長でもあった)から手紙を出してもらったが、残念ながら、通産省化学課などにたらい回しになり、結局実らなかった。

その後、SCIは中国・インドに支部を作った。近年の国際情勢を見るとSCIは良い選択をした事になるのだろう。現在SCIの日本人会員はごく少ない。この20年程で日本の化学企業の欧州事務所がほとんどデュセルドルフに移ったこともあるが、私のほかに日本人会員はいるのだろうか?

対照的に、30年前は見なかった中国人の会員が、最近は100人以上いると聞く。中国のすさまじい国際進出の小さな例であろう。

V-3. 長州ファイブの150周年記念行事

UCL(University College London)の化学部には時々出入りしていたが、ある講演会に出席したところで、かつて伊藤博文・井上薫・山尾庸三等の長州藩士5人が英留学したときに受け入れたのが同部のウィリアムソン教授(Prof. Williamson)だったと聞いて驚いた。

昔々、NHK大河ドラマで見て5人が英国に渡ったことは知っていたが、UCLの化学の教授が世話をしていたとは!彼らの日本近代化への貢献はUCL化学部の歴史の中でも重要な1ページになっているらしい。

それから暫くして、長州ファイブの受け入れから150周年の記念行事をするので準備を手伝ってほしいと言われ、喜んで応じた。そして、この行事の取りまとめをしているUCL化学部の大沼教授に紹介された。

彼によると、東北大学(大沼教授の母校)と山口大学(長州地元の大学としてでしょう)からは代表者が出席することになっているが、東大からは出席の返事がないと。

若干調べると、伊藤博文・山尾庸三らにより、時の工部省に、主に英国人やスコットランド人を教授に招いて設立された工部学校は、東京大学工学部の前身なのである。(前述の高峰譲吉はこれを首席で卒業しGlasgow 大学に留学。その最中にSCIに入会した)

これは東大から誰も来ないのはおかしいと私の同級生の元東大教授に相談した結果、当時理学部化学課の主任教授の佃教授に来英願うことが出来た。

2013年の式典はなかなか華やかなものになった。在ロンドンの日本の仏教寺院の協力で雅楽の演奏もあり、駐英日本大使からは、当時の安倍首相(地元は長州)からの日本語の感謝状が手渡された。これは今もUCL化学部のメインエントランスに掲げられている。

V-4. EUの発展

私の欧州在住は3回に渡り、その間に欧州は通算約60年の時間を刻んだことになる。この間の欧州における重大な歴史的変化は、東欧共産圏の解体とEU(欧州共同体)の発展、そして英国の問題含みのブレグジット(Brexit)だろう。この後の2件について、私が見聞きし、強く感じたことを以下に記す。

過去60年間、EUは着実に拡大してきた。私の仏留学前の数十年間は加盟国は6国のみでなにをやっているかよく分からなかった。ストラスブールに欧州議会があることは知っていたが、仏に居ても、EUの存在をほとんど認識せずに過ごした。

1回目の英国駐在の頃(1986‐91年)は、経済統合の機構が整備される時期だった。この期間の準備を経て、1993年のマーストリヒト条約により、統合が強化されEUとなり、2002年には統合通貨ユーロも流通し始めた。。

加盟国数は徐々に増え、2004年には東欧10か国(ポーランド、チェコ等)大量参加もあった。EU内では人の移動が自由であったから、英国に対してもこれらの国(特にポーランド)からの流入が急増した。

私が英で家を買った頃には彼らのインターネット上の仕事探しの件数も多くなっていたが、彼らは安くて結構良い仕事をするので、頻繁に仕事を頼んだ。

「EU憲法」が完成したのも2004年である。それまでの数多くの加盟国間契約を纏めてEU組織構成とEU/加盟国の関係を明文化し、若干のEU連邦国的な条項(EU国旗、EU国歌等)も加わった。

全加盟国が調印したものの、批准段階で、フランスとオランダの国民投票では反対され、失敗であった。憲法の名や国旗などの制定から、自国主権が大幅に取り上げられそうと感じ拒絶感が出たのだろう。

私は、仏・蘭は極右派が強いので、これを機に強烈な反対宣伝が打ち出されてEUが失速するのではないかと心配したが、それは杞憂だった。

少し間をおいて2007年、内容はさして違はないが「憲法」の名前は使わず「国旗」も取り下げ、EU機構とEU加盟国関係を網羅したリスボン条約が打ち出された。今度は全加盟国が調印し、批准もそろった。英国でも、批准が議会で出来たため、憲法でもリスボン条約でも調印・批准が議論にもならず整った。(この段階では!)

各国首脳が集まる欧州理事会(サミット、EUの最高決定機関)は常任議長を置く。(当時正式名称としては避けられていたが、現在では大統領と呼ばれだしている。)執行機関はEU委員長とEU外務安全保障上級代表。立法は従来からの2院制のEU議会、司法は従来通りEU司法裁判所、の構成となった。これでEUの形が完成し現時点もその機構が継続している。

先日(2025年2月)、家族で南ポーランドのスキー場へ行ってきた。平坦なスロープで、高い山の景色もなく、アルプスとは大違いである。しかし、きれいな新しい山荘が数多く並んでおり、かつ、スイスなどより料金が大幅に安い!子供、初級者向けには悪くはないようで、相当混んでいた。

共産圏からの解放から35年、地元の産業が軌道に乗ってきているようだ。人々が西欧に出稼ぎに行く必要もなくなっているのだろう、英国への流入も大きく減少している。

20年程前、コンサルタントとしてワルシャワにある客の工場を訪れた時には、まだ周りは整備されていなかった記憶がある。世話になったポーランド人もいるので、人の国ながら、順調に発展していることをうれしく思った。

V-5. ブレグジット(Brexit)

英国は、第2次大戦後、技術革新の遅れ等から次第に経済状況が苦しくなり、伝統的な欧州大陸からの孤高を保つ事が難しくなってきて、1973年、EC(EUの前身)に加盟した。

サッチャー首相(任期:1979-1990年)は初期は「欧州の大きな成熟国が市場を統合するのは、経済発展からみて素晴しい」と言っていたそうだ。

しかし、私の一度目の英国駐在の頃には、ECの官僚主義や、英国主権の一部召し上げ等に対する反感を強め、舌鋒強く非難するようになっていた。この反EU派の感情は保守党の中で長く引き継がれ、党内分裂が続くことになる。

私の2回目のロンドン駐在は、トニー・ブレアー首相(任期:1997-2007年)時代であった。彼はEU賛成論者だった。

勿論、労働党内にもEU懐疑論者は多かったが、オプト・アウト(英国だけ主
権譲渡を免除してもらう手法)を何度か使いながらうまく操縦していて、党内分裂が余り目立つことはなかった。

さて、労働党に代わって、保守党カメロン首相(2010年‐2016年6月)が誕生する頃にはOpt-out項目がかなり多くなってきた。人権の(英にとっては)過度の尊重、労働者保護、企業経営への労働代表の参画等を、EUが、そのペースで規定しようとしてくると、レッセフェール主義の強いAnglo-Saxon流とは合わない訳で、Opt-outが多くなってしまう。EUサミットの場でも、英首相は白眼視されるようになってしまった。

カメロン首相は、仏大統領シャルコージに無視される姿がテレビで放映されたりして追い詰められたのだろう、EU加盟賛否の国民投票を決意した。

国民はEU賛成だろうと踏んで、賛成結果を持って懐疑派を黙らせようとしたのだろう。テレビ司会者かつロンドン市長等の経験があり国民に人気だった保守党議員ボリス・ジョンソンが新聞などでEU賛成を公言していたのも踏まえ、サポートが得られると期待したのだろう。

ところが、国民投票の選挙戦開始の寸前になって、突然ジョンソンはブレグジット派に豹変する。知将ゴーブ(Michael Gove)から、投票勝利の暁には首相に推すとの飴を与えられての変身であった。

ジョンソンはカメロンとオックスフォード大での同級生でもある。ノソノソしていると首相になる機を逸するとの焦りがあったのかもしれない。

それから選挙上手な(民衆への迎合傾向がある)ジョンソンによる、たくさんの嘘を盛り込んだ、猛烈なブレグジット・キャンペーンが始まった。たとえば、EUに残るとすぐにもトルコが加盟してきて、出稼ぎ者の大量流入で英人の職が奪われる。EU加盟費をNHSに充てれば医療問題は全て解決する、等々。

一時、EU内で「嘘つきジョンソン」の名前がはやった。選挙後にこのキャンぺーン中の「うそ」を裁判に持ち込もうという運動もあったが、残念ながら実現しなかった。

投票の結果はEU離脱が52%、残留が48%。

その後、かなりの期間、仏・蘭が一度は国民投票でEU憲法を否定したが後に若干修正で賛成に転じた前述の事例に鑑み、かなりの人が再投票を希望していたようだが、法的根拠はなかった。後を継いだ保守党首相メイは “ブレグジットはブレグジットだ!(Brexit is Brexit)”と言って頑なに再投票を受付けなかった。

投票から9年を経て現在2025年の世論調査では、ブレグジットが「正しかった」とする人は31%、「間違いだった」は56%。そして「誰が悪かったか」では、ジョンソン、メイ元首相が1, 2位に来るそうだ。更には、2022年の後半以降は、ずっと「正しかった」は35%以下に落ち込んでいると。

すなわち、いま国民投票をやれば、EU残留になる訳である。しかし、EUへの再加入の提案を言い出す人は皆無の様だ。6,7年かけて、ケンカ腰の交渉で、なんとか達したEU/UK間の合意である、今さらその合意はないことにして、再加入させてくれとは言えないだろう。今後、10年、20年を経た後にしか、その可能性が出てこないだろう。

私の私見は、ジョンソン、メイのために、英国は大いなる損失を被った、という事である。

国民投票の頃、ヘーゼルタイン(Michael Heseltine サッチャー政権で副首相だったが、長年の対立の末に彼女を追い出した張本人。
中道路線の保守党員)がテレビでジョンソンを評して、吐き捨てるように「あのchapは、保守党のためにも、英国のためにも何一つ良いことはしていない」と言っていた。同感!


結び; 同窓会に思うこと


最後に、英国赤門学友会について思うことについて。

私にとってこの会の最大のメリットは、若い会員とおしゃべり出来ることである。東京に居れば、学校・出身会社の同窓生、即ち同年代の仲間と会うことはあっても、50〜60歳もの年下の若者と話す機会はまずないだろう。

昔、40〜50年ほど前は、多くの日本の化学会社がロンドンに事務所を構えていた。私が関わってきた2社の駐在員の集まりはまだ続いている。思えば驚異的な40〜50年だ。(そのうち1つは40年ほど前に私が立ち上げたもので、東京に一時帰国した際に日にちが合えば、私も出席している。)

また、40年前ごろ、誰が集めたのかは調べなかったが、東京都立日比谷高校の同窓会があった。15人程度が一年に2,3回集まっていた。

UCL(University College London)にも、昔から日本人卒業生の同窓会があり、その会誌を見た事がある。小泉元首相の写真が載っていた。

東大の在英同窓会は、私の一度目の駐在の時(40〜35年前)にはなかった。自分が東大の同窓会を招集する年代にさしかかっているとは思いつつ、面倒なのが一つ、更には東大卒の習性として余りそれをあからさまに言いたくないという傾向もあって動かなかった。が、再度ロンドンに住まい始めた15年ほど前に会の存在を聞き及び、若干の驚きとともに参加させてもらうようになった。

現在在英会員が300名近くいてしっかりした運営体制が揃っていることに驚いている。しかも、日本への帰国組も入れると登録名簿は1000人を超え、定期的にパブ会などでつながっているようなので、そのうち、昔ロンドンにいて今東京で暇をしている東大卒の連中にも知らせようと思っている。

ロンドン近郊の自宅にて

(終)